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プロローグ
それが始まり
しおりを挟む優しい笑顔の見送りを受けて、わたしは受付の前を通り、正面口から病院を出ました。
大通りに沿って少し歩き、横断歩道を渡って向こう側へ。来た方向へ少し道を戻ると、築十年の高層マンションがあります。
このマンションの五階がわたしの家です。
ゆかりさんのお家と病院とこのマンションは、ちょうど直線で繋がります。
高校から家までの通学路の近道にゆかりさんのお家があるわけで。あながち寄り道とは言えないじゃないでしょうか。
もっとも、たとえゆかりさんの家がとても遠くであったとしても、電車を乗り継いでゆかりさんに会いに行くのでしょうけれど。
「…………」
マンションに入る前、一度病院の方を振り返ります。
真っ白い大きな建物は日が暮れた後の闇の中で色が浮いていて、際立って見えます。
その陰に隠れてゆかりさんのお家があり、ゆかりさんは今日もひとりで夜を過ごすのでしょう。
けれど、ゆかりさんはきっとひとりが寂しくないのでしょう。
慣れているのです。もうずっと長い間、広くて真っ白な病室で過ごしていたせいで。
そう、それは、わたしと出会った十年前のあの時から既にそうでした。
生まれた直後に保育器に入れられ、いくつもの管を身体につけて、かろうじて命を繋いできた可愛そうな赤子が居ました。ゆかりさんです。
無菌室での入院を余儀なくされ、看護師である母親でさえ、医師である父親でさえ、用なく面会できる状態ではありませんでした。
そうです、ゆかりさんのお父さんもあの病院で先生をやっています。そして病院の医院長さんはそのお父さん。ゆかりさんのお祖父さんです。
つまり、ゆかりさんのお家は医者一家です。
これを幸運にも、と言ってしまっていいのか分かりませんが、幸運にも。
そんな家庭に生まれたゆかりさんは優れた医療の恩恵を受けることができ、幾度もの余命宣告の期日を乗り越え、深い眠りに就いてしまった今でも、その肉体は白いシーツの上で生かされ続けています。
もっとも、幼いゆかりさんにそんな境遇を受け入れることなどできはしません。
病室に閉じ込められた自分の運命をさぞかし嘆いたことでしょう。
自分を閉じ込める家族を、さぞかし恨んだことでしょう。
いつだったか、そんな話を彼女から教えてもらったことがありました。
すっきりとした口調、いえ、様子でした。
どうして他の子と同じように遊べないのか。
どうして幼稚園に通うことができないのか。
そんなことを考えながら眠れない夜を過ごしていた、とわたしに伝えてきました。
やがて長い検査の結果から対処の方法が分かってきて、夥しい投薬で症状が治まってきて、ようやく一般の病室に移ることができて、それでも彼女は寂しいままでした。
医院長の孫娘であるゆかりさんには、特別な個室があてがわれたのです。
特別な、というと語弊があるかも知れません。珍しい症例を患っていた彼女は、そうならざるを得なかったのではないかとわたしは思います。
それでも、そんなことを理解して納得できる子供などどこにもいません。今でこそ冷静沈着で大人っぽいゆかりさんも、例外ではありませんでした。
「友達が欲しい」
ゆかりさんはお母さんにそう言ったそうです。
頑張って、声に出して、そう伝えたそうです。
娘からの悲痛な願いを聞いたお母さんは、友達、知人、仕事の仲間、患者さん。あらゆる人に声をかけました。
「どうか、娘の話し相手になってくれませんか」
と。
ゆかりさんのお父さんも一緒に。
病弱な愛娘の心からの願いを聞いて、動かない親などどこにもいないのです。
そして、お母さんの高校時代の友人が近くに新しくできたマンションに越してきたことを聞き、娘と同い年の幼い子がいるということを知って、その人にも声をかけました。
翌日、その友人の子供はゆかりさんの個室へやってきて、白すぎるほど色白の肌と、伸ばしっぱなしの長い黒髪のゆかりさんを見て、開口一番、
「うわ。びょうきのひとみたい」
そう言ったそうです。
我ながら、それはどうなのかと今では思いますが、とにかく。
それがゆかりさんとわたしの出会い。それが始まり。
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