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1巻
1-2
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異世界原始人生活も十日くらい続けていると慣れてくる。
洞窟の入口は引き戸もどきになった。
引き戸なのは、実用に値する蝶番を作れなかったからだ。何回か試してみたが、木製では数度の使用で壊れてしまう。
だから引き戸に方針を変更した。これはなんとか作れたから。
ただ、木枠の組み合わせ方法や戸部分のサイズ調整が難しかった。結果、大量に出た失敗作は加工しなおして床材に転用している。
トイレも風呂も作った。
トイレは専用の横穴を掘って部屋を作り、そこにボットン用の穴を掘ってその上に板を渡しただけ。
しかし、ボットン部分の穴は深くしたし、中に臭い消し用の葉っぱも敷いた。
換気用の横穴も三カ所開けてある。
なので私一人で使う分には臭わない。
風呂も部屋と浴槽だけだ。洗い場は今のところなし。
こちらはかなり手間取った。
浴槽は木で作るつもりだった。でも、浴槽を丸ごと作れるような巨大な樹木が付近になかった。
板や角材を組んで水が漏れないような構造を作るのは不可能だ。私には知識も工具もない。
考えた末、土で作ることにした。土を成形して浴槽を作り、魔法で乾燥させて、さらに魔法を使い素焼き状態にする。そこに釉薬を塗って、高温で表面処理するという方法だ。
釉薬は、草の灰を水で溶いたもので代用可能と、ネットで見た覚えがある。だから、そこら辺のススキっぽい草を集めて焼いて作った。
この浴槽は私がゆったり横になって足を伸ばせるサイズになっている。
頭を浴槽の片側につけ、肘を浴槽の両側に置いて身体を思い切り伸ばせば、もう最高。
「草津よいとこ一度は~♪」
鼻歌が出てしまうくらいの気持ちよさだ。
寝場所だって少しましになった。木の板で作った大きな箱に、少し離れたところにあった草原の草を乾燥させて敷き詰めて作った藁の寝床だ。
できれば、布団やシーツで寝たいが、所持している布は服とハンカチだけ。そして布を作る方法は思いつかない。
だから、現状はこれで我慢するしかない。これでも、木の床よりは遥かにましだし。
食料は充分に確保した。雨で外出できない日が十日くらい続いても大丈夫なくらいには。
植物は、食べられる草とか、吸うと蜜の味がする花などを確保している。キイチゴっぽいのも採りまくった。
大事典で見て一度覚えたら、あとは見つけて収納すればいいだけ。収納すればいつまでも新鮮だし、虫なんかがついていても死ぬし。
肉は、当分食べ切れないほどのストックがある。
この世界に来て三日目の昼過ぎ、鹿二頭が歩いているのを発見した。すぐに鹿の足元の土を三メートルくらい収納して穴を開け、鹿が下に落ちた直後に上から土をかぶせて埋める。
窒息死したら上にかぶせた土を収納して取り除いて、埋まっている鹿を別に収納しなおす。
これで肉を含む鹿二頭をまるごと確保だ。
二頭の鹿は解体済み。肉は食べまくったけれど、まだ私の体重分くらい残っている。内臓は猛獣狩りの餌として活用した。骨は今のところ用途がなく収納したままだ。毛皮は現在、頑張ってなめしている。
こんな感じで衣食住の最低限が揃いはじめた。そうなると欲も出てくる。
ご飯やパンを食べたいとか、調味料が欲しいとか、服の替えが欲しいとか。布団も欲しいとか、ナイフとか包丁とか鍋とかも欲しいなとか。
ただその辺を入手するには、人里に出なければならない。でも人に会うのは怖い。
言葉は一応通じるはず。しかし私は極度の対人恐怖症。相手が女性でも怖い。男性の大人なんて前にしたらダッシュで逃げてしまう。いや、しゃがみ込んで動けなくなるだろうか。それくらい私は他人が苦手だった。
この辺はいわゆるPTSDというやつだ。魔法で治療できないか大事典で調べたが、無理なようだ。
だが、治療できなくともなんとかできる可能性がある。恐怖滅却という魔法が大事典にあった。これを発動中は恐怖を感じないで済むそうだ。
しかし練習したのだが、習得できていなかった。
実際に恐怖して、それを克服しようと強く念じる機会がなければ無理のようだ。夜が怖い程度の恐怖では足りないらしい。
そんな恐怖なんて味わいたくない。
これは、私じゃなくても同じだと思う。結果、習得できていないままだ。
そんなわけで、人里に出る計画はずるずると延期している。
早く行った方がいいのはわかっているのだけれども。
第一話 服が破れそう
この世界に来てかなり経った気がする。
一応壁に毎日マーキングしている。でも数えてはいない。だから何日か正確には不明だけれども、一ヶ月くらいだろうか。
そして私は決意した。
「明日こそは、街か村を探しに行くぞ」
風呂でゆったりお湯に浸かりながら、そう口に出して宣言する。
ただ、ひょっとしたら、街も村も遠くてたどり着けないかもしれない。だから追加でこう宣言。
「せめて街や村へ出る手がかりくらいは掴むぞ」
決意した理由は単純で、ブラウスがそろそろ破けそうだからだ。
大事典によると、この世界は原始時代ではない。服はそれなりに普及している。
だから、もし唯一の服が古びて破けて半裸状態になってしまったら、私は二度と人里へと行くことができないだろう。物理的にではなく精神的に。
ゆえに、絶対に数日中に人里へ行く必要がある。
一応人里に出て、貨幣なんかと交換できそうなものは、ある程度溜めている。
例えば魔獣の死骸だ。
現在大物としては灰色魔狼十匹、白魔狼二匹、魔猪三匹、魔熊一匹を収納している。
穴に落として埋めたり、そのまま土をかぶせて埋めたりして倒したものだ。
魔物も倒している。ゴブリン十五匹、アークゴブリン一匹。
どれも穴に落としたあと、火魔法でこんがり焼いて倒して、魔石を取り出した。
魔石を取り出したのは、倒した証拠になるからだ。大事典にはそう書いてあった。
魔石とは魔物や魔獣の体内にある魔素の結晶で、魔物や魔獣の力の源らしい。色や形が魔物や魔獣の種類や成長によって異なるため、これがあれば倒した魔物や魔獣の種類がわかるそうだ。
こういった魔物や魔獣、害獣関係は、冒険者ギルドへ持っていくと買い取ってくれるらしい。
これも、大事典に書いてあった知識だ。
ついでに冒険者登録をしておけば、身分証明書も発行してくれる。これがあると、どこの街でも概ね入ることができるそうだ。
ただ問題は、冒険者ギルドなどという怖そうな人が多いであろう場所へ、私が行くことができるか。この対人恐怖症の私が。
とはいえ、うまく行けばこのときの恐怖で、恐怖滅却魔法を習得できるかもしれない。そうすればもう、この世界でもある程度はなんとかなるだろう。
採取した薬草類もかなりある。これは、冒険者ギルドだけでなく、商業ギルドでも買い取りをしてくれるらしい。
冒険者ギルドより商業ギルドの方が少しは怖くなさそうな気がする。あくまで雰囲気だけれど。
でも、大人の男の人が出てきたなら、どちらも同じかな。
やはり、恐怖滅却魔法が習得できることを期待しないと、無理な気もする。
しかし、無理だ無理だとあまり引き延ばしているわけにもいかない。
だから明日から段階を踏んで挑戦だ。
まずは道を探すところまで。次に街や村を見つけるところまで。そして近づいて、そして……
ああ怖い、怖すぎる。きっと入口には衛兵が立っているだろう。怖そうな男性の衛兵が。
もうそれだけで近づけない自信がある。
でも行かないと服が破れる。
人前に出られる服がなくなったら、二度と人里へ近づくことができない。
ああ怖い、怖すぎる。
だがこの程度の怖さでは、恐怖滅却魔法は習得できないようだ。なので仕方ない。
明日から少しずつ頑張ろう。その過程で恐怖滅却魔法を習得することを期待して。
よし、怖いことを考えるのは終わりだ。あとは風呂を楽しもう。
私はゆっくり足を伸ばす。
この洞窟拠点で一番快適なのがここ浴槽の中。これだけは前の世界でもなかったほど快適だ……
翌朝、いやいやながら私は拠点を出る。
今までの所持品は板だの土だの含め、全てアイテムボックスに入れておいた。
しかしギルドでものを出す際、何もない場所から出したら、アイテムボックス持ちとバレてしまう。
アイテムボックス持ちはかなり貴重な存在らしい。攫われる可能性もある。
だから学校指定のデイパックも持っていく。何か出すときは、これから出すそぶりをする。
アイテムボックスのスキルと似たもので、自在袋という道具があるらしい。
この自在袋は、高価ながらある程度流通している。機能はほぼ同じで、違いは容量制限があることと、アイテムボックスほど思いのままの形で自由に収納できないことだけ。
なので、このデイパックを自在袋ということにすれば、色々取り出しても怪しく思われないだろう。
さて、どちら方面に向かえばいいだろう。
空属性のレベル2魔法、偵察を発動させる。これは、監視の上位魔法で、違いは視点をある程度自由に動かせることだ。
動かせる範囲は概ね、半径百メートル、この世界の単位では五十腕以内の範囲で、地上だろうと空中だろうと地中であろうとも視点を移動させることができる。
なお『腕』とはこの世界の長さの単位だ。『成人男性が両腕を思い切り広げた長さ』と大事典には書いてあった。それにしては長い気がするけれど、単位なのだから深く考えても仕方ないだろう。
今は視点を思い切り高くして地上を見る。前後左右じっくり見る。
おっと、かなり先だけれどもこれは。
「道らしいもの、発見!」
道なら通行中の他人に出会う可能性がある。正直怖い。とりあえず道が発見できたから、今日の課題は終了ということにしたい。拠点に帰るとか狩りとか、他人と出会わない作業をしたい。
しかし、まだ外に出たばかりだ。そしてブラウスはかなり危険な状態で、布が薄くなった場所が何ヶ所もある。もう限界、一刻も早く替えの服の購入が望まれる事態だ。
仕方ない。私は道の方向へゆっくりと歩きはじめる。
ふと思い出した。
最後に人が通る道路を歩いたのは前の世界、それもこの世界に来る直前だった。
学校帰り、急な雨に降られて走った道路。その途中で今まで意識していなかった神社を見つけ、雨宿りをさせてもらおうと思って、境内に入ったんだった。
雨宿りをする前に一応ということでお参りをする。二礼二拍手して、お金はなかったのでお賽銭はなしで、『どうかもう少し幸せにしてください』と祈ったあと一礼した。
その結果、神様にあの頃の環境を同情され、この世界にやってきたのだ。
そんなことを思い出しながらも、空属性魔法の監視を使って、常に魔物や魔獣、猛獣の気配に注意している。
この辺はかなり慣れてきた。今では森の中でも五十腕先でも発見できる。
今のところ残念ながら私の進路に障害はない。
行きたくないと思いつつも、一歩ずつ進んでしまう。
歩くこと半時間(三十分)程度。私はついに道路に出てしまった。
石と焼き土で舗装された赤っぽい色の道路だ。幅は二腕くらいだろうか。
路肩部分は雑草に浸食されているし、路面も少し荒れ気味で、整備状況は今ひとつだ。
さてこの道は、右と左どちらが正解だろう。人がいない方……ではなく、街の近い方はどちらか。
偵察を使おうか、そう思ったときだった。監視の魔法が何かを捉えた。
そこそこ速く動く人間五人と二頭の大型動物の反応――馬車のようだ。
もう遭遇か。しかしまだ私の心の準備ができていない。
そのとき、馬車の後方からついてきている他の気配にも気づいた。
こちらはもう何度も遭遇して知っている気配だ。
魔狼だ。白魔狼二匹と灰色魔狼十二匹、そこそこの大きさの群れだ。
馬車は魔狼の群れから逃げているようだ。
しかし今の私なら問題ない。魔狼はアイテムボックスで何度も倒している。
助けるか。助ければ友好的に接してくれるかもしれない。うまく行けば、こちらが会話できずともなんとかしてくれるかもしれない。そんな期待がわいてくる。
でも向こうが全員男性だったらどうしよう。
絶対逃げたくなる。向こうから見た私の挙動不審率は百パーセントだ。
なんとかなるだろうか。土壇場で恐怖滅却魔法が習得できるだろうか。
それさえ修得できれば、ある程度はなんとかなると信じたい。一応イメトレは何回もやっているし。
音が聞こえる距離まで近づいてきた。
「とにかく魔狼を退治しよう」
口に出して、自分の頭を切り替える。馬車や馬車に乗っている人間はとりあえず意識の外へ置いて、魔狼退治に集中する。
馬車と魔狼の間はそこそこある。私のところに来るまでに、馬車が魔狼に追いつかれることはない。
馬車が私のそばを通りすぎると同時に巨大な穴を作ってしまおう。
土を収納する範囲をある程度目測で決めておく。この方法で既に何匹もの魔獣を屠ってきた。もはや慣れた作業だ。
さあ馬車よ、通りすぎろ! そのまま去れ! そうすれば話をしないで済むから楽でいい。
しかし立ち止まってくれた方が今後のためになるのは確かだ。破れそうなブラウスの代替はもはや喫緊の課題だから。
それでも、他人と話をするなんて想像するだけで怖い、怖すぎる。
そんなことを考えつつ、私は待ち構える。
馬車が近づいてきた。もう目視で確認できる。二頭立ての箱型馬車だ。御者は大人の男の人。
見た瞬間、心臓がぎゅっと縮む感覚。怖い。
しゃがみ込みそうになるのをなんとか堪える。これでは会話するのは無理だ。
馬車は私の横を通りすぎる。これで会話しなくていい、そう思った瞬間――
馬車の後ろの扉から、何かがどさっと投げ落とされた。私の後方二腕くらいのところへ転がる。
なんだあれは。魔法では人の反応だけれども、確かめないと。
しかし魔狼が迫っている。まずはこちらの退治が先だ。
前方の道路を舗装部分ごと収納する。道路いっぱいの巨大な穴が開いた。先頭の魔狼が対処できず突っ込む。
そのまま五匹ほど穴の底に落下するが、それ以外はなんとか踏みとどまった。
残念。そう思いつつ、落ちた五匹は別の土をかぶせて動けなくしておく。
次は踏みとどまった狼たちの下の道路を舗装ごと収納する。
三匹落下した。だが残りはさっと向こう側に引き返す。
なら、さらに収納して退治だ。そう思ったものの、狼の残りは左側の森へ入ってしまう。どうやら、いつもの魔狼より数段頭がいいし、統率もとれているようだ。
森からこちらに来られると面倒だ。森の木よりも深く穴を穿つしかないだろうが、それは土の量が莫大になる。土に含まれる微生物の量とかも馬鹿にならない。
私の魔力が思い切り消費されてしまうので、それは避けたい。
しかし、魔狼の群れは私の方へ近づかなかった。監視で見ると迂回している。
どうやら、私との勝負は避けるつもりのようだ。
ならいい。それに気になることがある。
私は回れ右をして、馬車から放り出された何かを確認する。
監視の魔法では人間の反応だ。しかも生きている。近づくどころか見るのも怖い。心臓が痛い。
でも、見ないとどういう状況かわからない。おそるおそるそちらを見る。
人間だ。サイズと服装的に子供か女の子だろう。頭に袋をかぶせられ、ぐるぐる巻きに縛られている。横倒しになっていて動く様子はない。怪我をしているのか出血もしている。
ステータスを確認してみた。職業はメイド(見習い)で、盗賊でも詐欺師でも、その他犯罪者でもない。
助けて危険な目に遭うことも、害になることもなさそうだ。なら助けなくては。
出血しているし、急いだ方がいい。怖いけれど勇気を振り絞る。まずは怪我の治療だ。
水属性のレベル2魔法、治療を発動させる。レベルが低い魔法だから外傷の治療程度しかできないけれど、かけないよりはずっとましだろう。
効いた。出血が止まったようだ。
ヒヒヒヒーン! ヒヒッ!
遠くで何か聞こえた。馬のいななきだろうか。監視を使って確認する。
どうやら、迂回した魔狼が先程の馬車を襲ったらしい。
助けに行こうかと一瞬考える。でも、もう間に合わない。私は移動系の魔法を持っていないのだ。
だいたい、私には近接戦闘の能力もない。つまり、近づいて戦うのは無理だ。
残念ながら、あちらは諦めるしかないだろう。だから、対処するべきはこちらの女の子の方だ。
怖くて仕方ないが、一歩ずつ近づく。それから火の魔法で縛っていた縄を焼き切る。袋も口部分が首に引っかかるよう結んであったので、焼き切って外す。
顔が見えた。確かに女の子だ。
しかし顔が見えたことで、思わず私は凍りついてしまう。
怖い、動けない。大丈夫だと必死に思うのだが、怖さで思考が塗りつぶされていく。
駄目か、これでは……
そのときだった。ふっと恐怖が少しだけ遠のいた。
なんだろう。とっさにステータスを確認する。
スキルに恐怖耐性(1)が追加されていた。恐怖滅却魔法ではない。
それでもありがたい。これなら、なんとかなるかもしれないから。
彼女は動かない。落ちたときに頭を打ってしまったのだろうか。
恐怖耐性(1)の余裕で、今度は彼女のステータスを詳細に確認する。
麻痺状態となっていた。この程度の麻痺なら私の習得済みの魔法で治療が可能だ。
水属性のレベル2、障害除去を発動させる。よし、麻痺が消えた。他に異常はない。大丈夫そうだ。
さて、今度はどうだ。彼女の方を見る。ゆっくり目を開けた。周囲を見回し、そして私の方を見る。
やばい、怖い。心臓が悲鳴を上げる。とっさに二歩下がってしまった。恐怖耐性(1)のスキルも、この辺で限界のようだ。
彼女はゆっくり立ち上がり、もう一度あたりを見回し、また私の方を向いた。口が開かれる。
「魔狼は退治されたのでしょうか」
視線と声にさらに二歩下がってしまう。膝が震える。でも、しゃがみ込むのはなんとか我慢する。
彼女の問いに、とりあえず頷く。
「縄や袋を解いたり麻痺をなおしてくれたりしたのも、あなたですか」
今度はなんとか後退せずに頷いた。頑張れ自分。
以前は、相手が女の子なら会話できた。保健室の養護教諭相手とも会話した。女性店員相手なら、無言だけれどコンビニで買い物もできた。だからこのくらいは大丈夫なはずだ。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「怪我、大丈夫?」
なんとか言えた。偉いぞ私。
「ええ、大丈夫です。さすがに麻痺魔法をかけられたときは、もう駄目かと思いましたけれど」
麻痺魔法をかけられた? 意味が分からない。
「どういう、こと?」
「魔狼に襲われて、このままでは逃げられない状況だったんです。だから、馬車に乗っていた連中は私をおとりにして、自分たちは助かろうとしたんです。ここに落としたのは、あなたも一緒に魔狼のおとりとして使うつもりだったから。あなたが強かったので、なんとか助かりましたけれど。いくらなんでも酷すぎます。戻ったら、文句を言ってやろうと思ってます」
なるほど、そういうことか。ようやく私は一連の状況を理解した。
なお、馬車の方は既に人と馬の反応がない。魔狼に襲われて全滅だ。
しかし、私もあの馬車を助けられなかったという罪悪感を抱かなくていいようだ。
向こうは私も犠牲にして助かろうとしたのだから、むしろざまあみろと思わないでもない。
ただこの子には、馬車側が全滅した事実を告げる必要があるだろう。
恐怖に必死に耐えつつ、私は口を動かす。
「文句を言うの、無理」
「なんで?」
そう聞かれて、また私は一歩下がってしまう。
でも大丈夫、相手は私よりやや年下くらいの女の子だ。これくらいの距離があれば大丈夫、そう大丈夫。自分に言い聞かせる。
「馬車、ここから逃げた魔狼に襲われた。もう反応がない。死んでる」
「えっ、そうなの? どの辺?」
「ここから二百腕くらい先」
「なら行かなきゃ。あの馬車には、私の私物もあるんです」
すぐにでも行きそうな勢いだが、向こうの状況を考えるとまだまだ行くべきではない。
「魔狼がいる。行くならもう少しあと」
魔狼の反応はまだ六匹とも残っている。おそらく馬や人間の死骸を食べているのだろう。
「そうですか。わかりました」
一度深呼吸して私自身を落ち着かせる。そして言い聞かせる。この子相手なら、なんとか話せる。私よりやや年下くらいだし。
馬車から突き落とされた被害者というのも、私の心証的にプラス材料だ。
ただこの子、少し感情が出やすそうだ。その辺がちょっと苦手だと感じる。
さて、それでは私の本来の目的について、彼女に聞いてみよう。
洞窟の入口は引き戸もどきになった。
引き戸なのは、実用に値する蝶番を作れなかったからだ。何回か試してみたが、木製では数度の使用で壊れてしまう。
だから引き戸に方針を変更した。これはなんとか作れたから。
ただ、木枠の組み合わせ方法や戸部分のサイズ調整が難しかった。結果、大量に出た失敗作は加工しなおして床材に転用している。
トイレも風呂も作った。
トイレは専用の横穴を掘って部屋を作り、そこにボットン用の穴を掘ってその上に板を渡しただけ。
しかし、ボットン部分の穴は深くしたし、中に臭い消し用の葉っぱも敷いた。
換気用の横穴も三カ所開けてある。
なので私一人で使う分には臭わない。
風呂も部屋と浴槽だけだ。洗い場は今のところなし。
こちらはかなり手間取った。
浴槽は木で作るつもりだった。でも、浴槽を丸ごと作れるような巨大な樹木が付近になかった。
板や角材を組んで水が漏れないような構造を作るのは不可能だ。私には知識も工具もない。
考えた末、土で作ることにした。土を成形して浴槽を作り、魔法で乾燥させて、さらに魔法を使い素焼き状態にする。そこに釉薬を塗って、高温で表面処理するという方法だ。
釉薬は、草の灰を水で溶いたもので代用可能と、ネットで見た覚えがある。だから、そこら辺のススキっぽい草を集めて焼いて作った。
この浴槽は私がゆったり横になって足を伸ばせるサイズになっている。
頭を浴槽の片側につけ、肘を浴槽の両側に置いて身体を思い切り伸ばせば、もう最高。
「草津よいとこ一度は~♪」
鼻歌が出てしまうくらいの気持ちよさだ。
寝場所だって少しましになった。木の板で作った大きな箱に、少し離れたところにあった草原の草を乾燥させて敷き詰めて作った藁の寝床だ。
できれば、布団やシーツで寝たいが、所持している布は服とハンカチだけ。そして布を作る方法は思いつかない。
だから、現状はこれで我慢するしかない。これでも、木の床よりは遥かにましだし。
食料は充分に確保した。雨で外出できない日が十日くらい続いても大丈夫なくらいには。
植物は、食べられる草とか、吸うと蜜の味がする花などを確保している。キイチゴっぽいのも採りまくった。
大事典で見て一度覚えたら、あとは見つけて収納すればいいだけ。収納すればいつまでも新鮮だし、虫なんかがついていても死ぬし。
肉は、当分食べ切れないほどのストックがある。
この世界に来て三日目の昼過ぎ、鹿二頭が歩いているのを発見した。すぐに鹿の足元の土を三メートルくらい収納して穴を開け、鹿が下に落ちた直後に上から土をかぶせて埋める。
窒息死したら上にかぶせた土を収納して取り除いて、埋まっている鹿を別に収納しなおす。
これで肉を含む鹿二頭をまるごと確保だ。
二頭の鹿は解体済み。肉は食べまくったけれど、まだ私の体重分くらい残っている。内臓は猛獣狩りの餌として活用した。骨は今のところ用途がなく収納したままだ。毛皮は現在、頑張ってなめしている。
こんな感じで衣食住の最低限が揃いはじめた。そうなると欲も出てくる。
ご飯やパンを食べたいとか、調味料が欲しいとか、服の替えが欲しいとか。布団も欲しいとか、ナイフとか包丁とか鍋とかも欲しいなとか。
ただその辺を入手するには、人里に出なければならない。でも人に会うのは怖い。
言葉は一応通じるはず。しかし私は極度の対人恐怖症。相手が女性でも怖い。男性の大人なんて前にしたらダッシュで逃げてしまう。いや、しゃがみ込んで動けなくなるだろうか。それくらい私は他人が苦手だった。
この辺はいわゆるPTSDというやつだ。魔法で治療できないか大事典で調べたが、無理なようだ。
だが、治療できなくともなんとかできる可能性がある。恐怖滅却という魔法が大事典にあった。これを発動中は恐怖を感じないで済むそうだ。
しかし練習したのだが、習得できていなかった。
実際に恐怖して、それを克服しようと強く念じる機会がなければ無理のようだ。夜が怖い程度の恐怖では足りないらしい。
そんな恐怖なんて味わいたくない。
これは、私じゃなくても同じだと思う。結果、習得できていないままだ。
そんなわけで、人里に出る計画はずるずると延期している。
早く行った方がいいのはわかっているのだけれども。
第一話 服が破れそう
この世界に来てかなり経った気がする。
一応壁に毎日マーキングしている。でも数えてはいない。だから何日か正確には不明だけれども、一ヶ月くらいだろうか。
そして私は決意した。
「明日こそは、街か村を探しに行くぞ」
風呂でゆったりお湯に浸かりながら、そう口に出して宣言する。
ただ、ひょっとしたら、街も村も遠くてたどり着けないかもしれない。だから追加でこう宣言。
「せめて街や村へ出る手がかりくらいは掴むぞ」
決意した理由は単純で、ブラウスがそろそろ破けそうだからだ。
大事典によると、この世界は原始時代ではない。服はそれなりに普及している。
だから、もし唯一の服が古びて破けて半裸状態になってしまったら、私は二度と人里へと行くことができないだろう。物理的にではなく精神的に。
ゆえに、絶対に数日中に人里へ行く必要がある。
一応人里に出て、貨幣なんかと交換できそうなものは、ある程度溜めている。
例えば魔獣の死骸だ。
現在大物としては灰色魔狼十匹、白魔狼二匹、魔猪三匹、魔熊一匹を収納している。
穴に落として埋めたり、そのまま土をかぶせて埋めたりして倒したものだ。
魔物も倒している。ゴブリン十五匹、アークゴブリン一匹。
どれも穴に落としたあと、火魔法でこんがり焼いて倒して、魔石を取り出した。
魔石を取り出したのは、倒した証拠になるからだ。大事典にはそう書いてあった。
魔石とは魔物や魔獣の体内にある魔素の結晶で、魔物や魔獣の力の源らしい。色や形が魔物や魔獣の種類や成長によって異なるため、これがあれば倒した魔物や魔獣の種類がわかるそうだ。
こういった魔物や魔獣、害獣関係は、冒険者ギルドへ持っていくと買い取ってくれるらしい。
これも、大事典に書いてあった知識だ。
ついでに冒険者登録をしておけば、身分証明書も発行してくれる。これがあると、どこの街でも概ね入ることができるそうだ。
ただ問題は、冒険者ギルドなどという怖そうな人が多いであろう場所へ、私が行くことができるか。この対人恐怖症の私が。
とはいえ、うまく行けばこのときの恐怖で、恐怖滅却魔法を習得できるかもしれない。そうすればもう、この世界でもある程度はなんとかなるだろう。
採取した薬草類もかなりある。これは、冒険者ギルドだけでなく、商業ギルドでも買い取りをしてくれるらしい。
冒険者ギルドより商業ギルドの方が少しは怖くなさそうな気がする。あくまで雰囲気だけれど。
でも、大人の男の人が出てきたなら、どちらも同じかな。
やはり、恐怖滅却魔法が習得できることを期待しないと、無理な気もする。
しかし、無理だ無理だとあまり引き延ばしているわけにもいかない。
だから明日から段階を踏んで挑戦だ。
まずは道を探すところまで。次に街や村を見つけるところまで。そして近づいて、そして……
ああ怖い、怖すぎる。きっと入口には衛兵が立っているだろう。怖そうな男性の衛兵が。
もうそれだけで近づけない自信がある。
でも行かないと服が破れる。
人前に出られる服がなくなったら、二度と人里へ近づくことができない。
ああ怖い、怖すぎる。
だがこの程度の怖さでは、恐怖滅却魔法は習得できないようだ。なので仕方ない。
明日から少しずつ頑張ろう。その過程で恐怖滅却魔法を習得することを期待して。
よし、怖いことを考えるのは終わりだ。あとは風呂を楽しもう。
私はゆっくり足を伸ばす。
この洞窟拠点で一番快適なのがここ浴槽の中。これだけは前の世界でもなかったほど快適だ……
翌朝、いやいやながら私は拠点を出る。
今までの所持品は板だの土だの含め、全てアイテムボックスに入れておいた。
しかしギルドでものを出す際、何もない場所から出したら、アイテムボックス持ちとバレてしまう。
アイテムボックス持ちはかなり貴重な存在らしい。攫われる可能性もある。
だから学校指定のデイパックも持っていく。何か出すときは、これから出すそぶりをする。
アイテムボックスのスキルと似たもので、自在袋という道具があるらしい。
この自在袋は、高価ながらある程度流通している。機能はほぼ同じで、違いは容量制限があることと、アイテムボックスほど思いのままの形で自由に収納できないことだけ。
なので、このデイパックを自在袋ということにすれば、色々取り出しても怪しく思われないだろう。
さて、どちら方面に向かえばいいだろう。
空属性のレベル2魔法、偵察を発動させる。これは、監視の上位魔法で、違いは視点をある程度自由に動かせることだ。
動かせる範囲は概ね、半径百メートル、この世界の単位では五十腕以内の範囲で、地上だろうと空中だろうと地中であろうとも視点を移動させることができる。
なお『腕』とはこの世界の長さの単位だ。『成人男性が両腕を思い切り広げた長さ』と大事典には書いてあった。それにしては長い気がするけれど、単位なのだから深く考えても仕方ないだろう。
今は視点を思い切り高くして地上を見る。前後左右じっくり見る。
おっと、かなり先だけれどもこれは。
「道らしいもの、発見!」
道なら通行中の他人に出会う可能性がある。正直怖い。とりあえず道が発見できたから、今日の課題は終了ということにしたい。拠点に帰るとか狩りとか、他人と出会わない作業をしたい。
しかし、まだ外に出たばかりだ。そしてブラウスはかなり危険な状態で、布が薄くなった場所が何ヶ所もある。もう限界、一刻も早く替えの服の購入が望まれる事態だ。
仕方ない。私は道の方向へゆっくりと歩きはじめる。
ふと思い出した。
最後に人が通る道路を歩いたのは前の世界、それもこの世界に来る直前だった。
学校帰り、急な雨に降られて走った道路。その途中で今まで意識していなかった神社を見つけ、雨宿りをさせてもらおうと思って、境内に入ったんだった。
雨宿りをする前に一応ということでお参りをする。二礼二拍手して、お金はなかったのでお賽銭はなしで、『どうかもう少し幸せにしてください』と祈ったあと一礼した。
その結果、神様にあの頃の環境を同情され、この世界にやってきたのだ。
そんなことを思い出しながらも、空属性魔法の監視を使って、常に魔物や魔獣、猛獣の気配に注意している。
この辺はかなり慣れてきた。今では森の中でも五十腕先でも発見できる。
今のところ残念ながら私の進路に障害はない。
行きたくないと思いつつも、一歩ずつ進んでしまう。
歩くこと半時間(三十分)程度。私はついに道路に出てしまった。
石と焼き土で舗装された赤っぽい色の道路だ。幅は二腕くらいだろうか。
路肩部分は雑草に浸食されているし、路面も少し荒れ気味で、整備状況は今ひとつだ。
さてこの道は、右と左どちらが正解だろう。人がいない方……ではなく、街の近い方はどちらか。
偵察を使おうか、そう思ったときだった。監視の魔法が何かを捉えた。
そこそこ速く動く人間五人と二頭の大型動物の反応――馬車のようだ。
もう遭遇か。しかしまだ私の心の準備ができていない。
そのとき、馬車の後方からついてきている他の気配にも気づいた。
こちらはもう何度も遭遇して知っている気配だ。
魔狼だ。白魔狼二匹と灰色魔狼十二匹、そこそこの大きさの群れだ。
馬車は魔狼の群れから逃げているようだ。
しかし今の私なら問題ない。魔狼はアイテムボックスで何度も倒している。
助けるか。助ければ友好的に接してくれるかもしれない。うまく行けば、こちらが会話できずともなんとかしてくれるかもしれない。そんな期待がわいてくる。
でも向こうが全員男性だったらどうしよう。
絶対逃げたくなる。向こうから見た私の挙動不審率は百パーセントだ。
なんとかなるだろうか。土壇場で恐怖滅却魔法が習得できるだろうか。
それさえ修得できれば、ある程度はなんとかなると信じたい。一応イメトレは何回もやっているし。
音が聞こえる距離まで近づいてきた。
「とにかく魔狼を退治しよう」
口に出して、自分の頭を切り替える。馬車や馬車に乗っている人間はとりあえず意識の外へ置いて、魔狼退治に集中する。
馬車と魔狼の間はそこそこある。私のところに来るまでに、馬車が魔狼に追いつかれることはない。
馬車が私のそばを通りすぎると同時に巨大な穴を作ってしまおう。
土を収納する範囲をある程度目測で決めておく。この方法で既に何匹もの魔獣を屠ってきた。もはや慣れた作業だ。
さあ馬車よ、通りすぎろ! そのまま去れ! そうすれば話をしないで済むから楽でいい。
しかし立ち止まってくれた方が今後のためになるのは確かだ。破れそうなブラウスの代替はもはや喫緊の課題だから。
それでも、他人と話をするなんて想像するだけで怖い、怖すぎる。
そんなことを考えつつ、私は待ち構える。
馬車が近づいてきた。もう目視で確認できる。二頭立ての箱型馬車だ。御者は大人の男の人。
見た瞬間、心臓がぎゅっと縮む感覚。怖い。
しゃがみ込みそうになるのをなんとか堪える。これでは会話するのは無理だ。
馬車は私の横を通りすぎる。これで会話しなくていい、そう思った瞬間――
馬車の後ろの扉から、何かがどさっと投げ落とされた。私の後方二腕くらいのところへ転がる。
なんだあれは。魔法では人の反応だけれども、確かめないと。
しかし魔狼が迫っている。まずはこちらの退治が先だ。
前方の道路を舗装部分ごと収納する。道路いっぱいの巨大な穴が開いた。先頭の魔狼が対処できず突っ込む。
そのまま五匹ほど穴の底に落下するが、それ以外はなんとか踏みとどまった。
残念。そう思いつつ、落ちた五匹は別の土をかぶせて動けなくしておく。
次は踏みとどまった狼たちの下の道路を舗装ごと収納する。
三匹落下した。だが残りはさっと向こう側に引き返す。
なら、さらに収納して退治だ。そう思ったものの、狼の残りは左側の森へ入ってしまう。どうやら、いつもの魔狼より数段頭がいいし、統率もとれているようだ。
森からこちらに来られると面倒だ。森の木よりも深く穴を穿つしかないだろうが、それは土の量が莫大になる。土に含まれる微生物の量とかも馬鹿にならない。
私の魔力が思い切り消費されてしまうので、それは避けたい。
しかし、魔狼の群れは私の方へ近づかなかった。監視で見ると迂回している。
どうやら、私との勝負は避けるつもりのようだ。
ならいい。それに気になることがある。
私は回れ右をして、馬車から放り出された何かを確認する。
監視の魔法では人間の反応だ。しかも生きている。近づくどころか見るのも怖い。心臓が痛い。
でも、見ないとどういう状況かわからない。おそるおそるそちらを見る。
人間だ。サイズと服装的に子供か女の子だろう。頭に袋をかぶせられ、ぐるぐる巻きに縛られている。横倒しになっていて動く様子はない。怪我をしているのか出血もしている。
ステータスを確認してみた。職業はメイド(見習い)で、盗賊でも詐欺師でも、その他犯罪者でもない。
助けて危険な目に遭うことも、害になることもなさそうだ。なら助けなくては。
出血しているし、急いだ方がいい。怖いけれど勇気を振り絞る。まずは怪我の治療だ。
水属性のレベル2魔法、治療を発動させる。レベルが低い魔法だから外傷の治療程度しかできないけれど、かけないよりはずっとましだろう。
効いた。出血が止まったようだ。
ヒヒヒヒーン! ヒヒッ!
遠くで何か聞こえた。馬のいななきだろうか。監視を使って確認する。
どうやら、迂回した魔狼が先程の馬車を襲ったらしい。
助けに行こうかと一瞬考える。でも、もう間に合わない。私は移動系の魔法を持っていないのだ。
だいたい、私には近接戦闘の能力もない。つまり、近づいて戦うのは無理だ。
残念ながら、あちらは諦めるしかないだろう。だから、対処するべきはこちらの女の子の方だ。
怖くて仕方ないが、一歩ずつ近づく。それから火の魔法で縛っていた縄を焼き切る。袋も口部分が首に引っかかるよう結んであったので、焼き切って外す。
顔が見えた。確かに女の子だ。
しかし顔が見えたことで、思わず私は凍りついてしまう。
怖い、動けない。大丈夫だと必死に思うのだが、怖さで思考が塗りつぶされていく。
駄目か、これでは……
そのときだった。ふっと恐怖が少しだけ遠のいた。
なんだろう。とっさにステータスを確認する。
スキルに恐怖耐性(1)が追加されていた。恐怖滅却魔法ではない。
それでもありがたい。これなら、なんとかなるかもしれないから。
彼女は動かない。落ちたときに頭を打ってしまったのだろうか。
恐怖耐性(1)の余裕で、今度は彼女のステータスを詳細に確認する。
麻痺状態となっていた。この程度の麻痺なら私の習得済みの魔法で治療が可能だ。
水属性のレベル2、障害除去を発動させる。よし、麻痺が消えた。他に異常はない。大丈夫そうだ。
さて、今度はどうだ。彼女の方を見る。ゆっくり目を開けた。周囲を見回し、そして私の方を見る。
やばい、怖い。心臓が悲鳴を上げる。とっさに二歩下がってしまった。恐怖耐性(1)のスキルも、この辺で限界のようだ。
彼女はゆっくり立ち上がり、もう一度あたりを見回し、また私の方を向いた。口が開かれる。
「魔狼は退治されたのでしょうか」
視線と声にさらに二歩下がってしまう。膝が震える。でも、しゃがみ込むのはなんとか我慢する。
彼女の問いに、とりあえず頷く。
「縄や袋を解いたり麻痺をなおしてくれたりしたのも、あなたですか」
今度はなんとか後退せずに頷いた。頑張れ自分。
以前は、相手が女の子なら会話できた。保健室の養護教諭相手とも会話した。女性店員相手なら、無言だけれどコンビニで買い物もできた。だからこのくらいは大丈夫なはずだ。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「怪我、大丈夫?」
なんとか言えた。偉いぞ私。
「ええ、大丈夫です。さすがに麻痺魔法をかけられたときは、もう駄目かと思いましたけれど」
麻痺魔法をかけられた? 意味が分からない。
「どういう、こと?」
「魔狼に襲われて、このままでは逃げられない状況だったんです。だから、馬車に乗っていた連中は私をおとりにして、自分たちは助かろうとしたんです。ここに落としたのは、あなたも一緒に魔狼のおとりとして使うつもりだったから。あなたが強かったので、なんとか助かりましたけれど。いくらなんでも酷すぎます。戻ったら、文句を言ってやろうと思ってます」
なるほど、そういうことか。ようやく私は一連の状況を理解した。
なお、馬車の方は既に人と馬の反応がない。魔狼に襲われて全滅だ。
しかし、私もあの馬車を助けられなかったという罪悪感を抱かなくていいようだ。
向こうは私も犠牲にして助かろうとしたのだから、むしろざまあみろと思わないでもない。
ただこの子には、馬車側が全滅した事実を告げる必要があるだろう。
恐怖に必死に耐えつつ、私は口を動かす。
「文句を言うの、無理」
「なんで?」
そう聞かれて、また私は一歩下がってしまう。
でも大丈夫、相手は私よりやや年下くらいの女の子だ。これくらいの距離があれば大丈夫、そう大丈夫。自分に言い聞かせる。
「馬車、ここから逃げた魔狼に襲われた。もう反応がない。死んでる」
「えっ、そうなの? どの辺?」
「ここから二百腕くらい先」
「なら行かなきゃ。あの馬車には、私の私物もあるんです」
すぐにでも行きそうな勢いだが、向こうの状況を考えるとまだまだ行くべきではない。
「魔狼がいる。行くならもう少しあと」
魔狼の反応はまだ六匹とも残っている。おそらく馬や人間の死骸を食べているのだろう。
「そうですか。わかりました」
一度深呼吸して私自身を落ち着かせる。そして言い聞かせる。この子相手なら、なんとか話せる。私よりやや年下くらいだし。
馬車から突き落とされた被害者というのも、私の心証的にプラス材料だ。
ただこの子、少し感情が出やすそうだ。その辺がちょっと苦手だと感じる。
さて、それでは私の本来の目的について、彼女に聞いてみよう。
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