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昼下がり、公園のベンチで小花柄のワンピースを着て横たわる
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なんでもないこの感じ。
平和な日常は変わらずに存在している。
痛くない、痛くない。日常はいつも通り大丈夫だから、痛くない、痛くないって言い聞かせる。
でもあの子がいつも隣にいるから気になって、ずっと頭にもやがかかっている。
作業場でもロッカーでもいつも隣にいるから気になって見てしまう。見るといつも胸が切り裂かれたような痛みが走る。痛くないって一生懸命、言い聞かせているのに隣に存在しているから、あまりにも痛々しくて家に帰っても時折、あの腕を思い出してしまうのだ。
思い出したくもないのに平然とあんな腕を晒して着替えるから、あの子が着替える度に目がいってしまう。私は無関係なのに…
真っ白な作業着を着て結った髪を前髪ごと隠してマスクをすると見える地肌は目元と手のひらだけ。そのわずかに見える真っ白で子供のように幼い手を使ってうさぎに模した白餡に着色料を使って赤い目を二つ、点々と繊細に描くと隣では優花ちゃんが赤い花に模した餡に緑色の葉形に形どられた羊羹を一枚、一枚、丁寧に並べていた。
和菓子工場の一角で作業台には大量の練り切りが並んでいて私は白うさぎの目を描く係、優花ちゃんは椿に葉を乗せる係を行っていた。
練り切り餡は毎月、デザインが変わってその度に見本を参考にしながらお手本通りのものを作る。
作業中は私語厳禁で私達は昼休憩を除くと六時間近くをこの作業に費やしている。
たまたま求人サイトで見つけたこのパートを始めてから一年が経過した。
月給は少ないけれど前職の飲食店に比べれば単純作業の繰り返しで動き回ることも頭を使うこともないから効率の悪い私からしたら遥かに楽で貯金が許す限りはしばらくここにいようと思っている。
飲食店の前は自動車学校の受付事務をやっていて、その前はピアノ教室でピアノ講師をしていたが生徒にその場で言葉をつかって上手く伝えるのが苦手で親御さんからのクレームにも耐えきれず四年間、頑張って働いたが辞めてしまった。
もう二度とピアノには触れたくない。
講師を辞めた後、実家を出てそう固く誓ってから本当にピアスには一度も触れていない。
”講師を辞めて無職になるのは怠惰だから実家を出なさい“
母にそう言われて実家を出て一人暮らしを始めてから六年が経過した。
三十歳になった私は実家を出ても過保護に育てられた為か幼子のように頼りなくて未熟者で、洗濯機やスマホを買い換えるのも一人で半泣きになりながら右往左往している。
私が思い描いていた三十歳はこんなんじゃなかったのになぁ…
子供の頃、私は年齢を重ねれば人は自然と大人になっていって何でも経験していくのだと思っていた。でも実際は女子校でテストが近づくたびに憂鬱になっていた頃と何にも変わっていなくて人は自力で変わろうとしないと変われないのだと今更、痛感する。
変わろうと思っていた時もあった。でも変わるのが恐くて逃げていたらこんな歳になってしまった。
私は一生、こんな状態で生涯を終えるのかもしれない。
「お疲れ様です。」
作業を終えて更衣室で着替えていると優花ちゃんがそう言って靴を脱ぎ、隣のロッカーを開けて着替え出した。私は、お疲れ様です。と返して何食わぬ顔で着替えながらも彼女の様子を横目でチラリと覗く。
長袖の作業着を脱いで白いキャミソール一枚になった優花ちゃんの真っ白で今にも折れそうな細い腕が露わになる。ハンガーに掛かった白いレースの長袖トップスに手を伸ばす彼女の腕には無数の赤い切り傷の痕が線を描くように何本も刻まれていた。
夏なのに彼女はいつも半袖を着ない。着るとしても腕に日焼け防止のアームカバーをつけていて腕を晒すことは決してない。その腕が職場で唯一、晒されるのは私の隣で着替えている時だけだった。
「もうすごいんだから‼︎腕にびっしり刻まれているの‼︎リストカットっていうやつ?なんか事情を抱えているのかもしんないけど恐いよね。あんま近づかない方がいいよ。」
入ったばかりの頃、一緒に働くパートのおばさんが彼女についてそう言っていた。
私はそれを聞いて彼女を警戒すると同時に好奇心が芽生えて隣のロッカーであることをいいことに彼女の腕を盗み見るようになった。
細い右腕に何本も刻まれた赤い線を初めて目の当たりにした時、体中に鋭い痛みが走ってシンパシーを感じた。リストカットなんて生まれてこの方したことがないのに弱々しい彼女の姿と切り傷が私の弱さと共鳴して胸が痛くなった。
彼女の腕を見ると幼い頃の記憶が誘引されて蘇る。
まだ小学生になったばかりの頃、上手く弾けない度に私の手の甲を叩いて叱ったピアノ教室の先生。茶髪のセミロングヘアでパーマが掛かっていてマゼンタのグロスをいつもテカテカに塗っていた。
先生は私がミスをする度に綺麗に描かれた眉を釣り上げてピンク色の分厚い唇を大きく開いて私をきつく叱った。私は叱られる度に、ミスをしてはいけない…‼︎と焦ったが指先は反対に緊張と恐怖でもつれてさらにミスを誘発する悪循環に陥った。
叩かれた手の甲は大した力で叩かれたわけでもないのにジンジンと痛んで、家に帰っても痛みが抜けずに部屋でひっそりと涙を流した。
母に入れられて三歳から始めたピアノ教室だったが私の才能は芽を出すこともなく、コンクールで入選はおろか受験した音大も落ちて滑り止めの専門学校に入学してパッとしないまま卒業した。
就職してもピアノへの情熱は何一つ芽生えず、私はクラシック鑑賞が趣味のピアノが弾けない母から熱心にピアノの道について熱弁されるも最後まで音楽を愛せないまま家を出ていった。
何の相談もせずにピアノ講師の退職届を出してひっそりと辞めた時の母の絶望と落胆の混ざった目を未だに忘れられない。私を音楽の道へと開かせるために母は私に沢山のお金を掛けただろう。私はそれを全て蔑ろにした訳だからそんな人間と一緒に暮らしたいと思うはずがない。
私は母に見捨てられたのだ。退職金は手切れ金のようなもの。家を出た私は年末年始の時だけひっそりと帰省する。
毎年、帰省すると結婚して実家の隣に家を建てた兄が妻と子供たちを連れておせちを突いている。
兄は私と違って幼い時からしっかり者で要領がよく、小学生から始めたサッカーでは県大会まで進出した。大学を卒業後は地方公務員になって三十歳を目前にして同じ職場の二個下の奥さんと結婚、長男と長女を二人儲けている。
兄は誰もが理想とする安泰でありふれた幸せを難なく手にして穏やかに暮らしている逞しくて強い男だ。それに対して私は小さい頃からひ弱で泣き虫で不器用で恋愛すらままならなかった。
”やさしい人間は人を傷つけない代わりに自分を傷つける“
“何があっても人のせいにしない代わりに無意識に自分自身を傷つけて自傷行為に走る“
“私がいけない…と誰のせいでもないことを自分のせいにして他人を責めない代わりに自分を責めて傷つけることで安心を得ようとする“
蛍光灯の光る家内でスマホ画面に映った文字を必死に読み漁りながら私は何度も強く頷くと同時に頭を悩ませた。
どうしたら優花ちゃんを救える?
読んでいるブログ記事は私が数年前に生きるのが辛くて検索した時にヒットした顔も知らない一般人が書いた記事だ。
素性も知らない人が書いた得体の知れない文章な訳だが読んだ時、水が血流を流れるようにすっと胸の中に入って私に生きる希望を与えてくれた。それ以来、私は生きるのが辛くなるとこの人のブログ記事を読んで、人や人生について理解して精神を落ち着かせるようになった。
名もなきブロガーは私の精神安定剤となっている。読んでいる人がどれほどいるのかなんて知らない。コメントはいつも0件だが私は性別も分からないこの人の文章に救われて生かされていると言っても過言ではない。
この人が私を救っているように私も優花ちゃんを救ってあげたい…
思い立った私は名もなきブロガーの最新記事に衝動的にコメントを書き入れた。
“いつもブログ拝見させて頂いています。一つ相談があります。私の職場に二つ下の二十八歳の女性がいるのですが彼女の右腕には無数のリストカットされた傷跡が見えます。職場の人たちはみんな気づいているけどそのことに触れないようにしているのですが私は彼女の傷跡が気になって何とか助けてあげたい…と悩んでいます。私と彼女は特別、親しい間柄ではなくて彼女の抱えている事情やプライベートなことは何一つ知りません。それでも彼女を救うことは可能でしょうか?“
スマホのフリック入力で勢いよく打ち込むと送信ボタンを押す。
名もなきブロガーの最新記事の下に私の文章が映し出された。その瞬間、いつも見ているブロガーの領域に踏み込んで認知されたような感覚になってわずかに高揚した。
胸の奥でぷくぷくと膨れ上がる期待感。まだ何も反応がないのにブロガーが私のコメントを読み上げるのを想像すると自分の存在が認められたような感覚になる。
この人は私のコメントにどんな反応を示すだろうか。
優花ちゃんを救うことが目的なのに気づけば頭の中は名もなきブロガーに認知される期待感に支配されていた。
色を成さない私の日常を彩る何かを求めている。だけど自分で彩る方法が分からないから他人にそれを求めてしまう。
他人が私に色を与えてくれるのを待っていたら三十歳になってしまった。その間に色は自分で彩らないと色づかないことに気がついた。でも今更、どうやって自分を彩ればいいのかなんて分からない。
キッチンにある赤いココットでほうれん草のキッシュでも作れば彩れるだろうか?
でも冷蔵庫にはほうれん草も牛乳もないから作れない。諦めよう。
もう頑張りたくない。あのピアノと向き合い続けた日々を思い出す度に傷が疼いてそう思う。
私のエナジーはあの日々に吸い取られて今は臆病な抜け殻となった。
「堂本さん。」
仕事を終えて更衣室までの道のりを歩いていると後ろから名前を呼ばれて振り向いた。すると優花ちゃんがマスク越しでもわかるくらいの優しげな笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
私は優花ちゃんから話しかけられるなんて初めてで驚きながらも、はい。と返事して立ち止まる。
すると優花ちゃんは照れくさそうな声で、一緒に行きましょう。と言った。
私達はいつも作業を終えると各々で更衣室に向かうため優花ちゃんと更衣室まで向かうのは初めてで私は妙な緊張感を覚えて心拍数が上がった。まるでクラスの可愛い女子に一緒に帰ろうと誘われた男子生徒のような気分だ。
優花ちゃんはどうして急にそんなことを…
ドキドキしながら頭の中は疑問でいっぱいになった。名もなきブロガーにコメントを入れてから二週間が経ったが未だに返事は来ず、記事の更新もなかった為、私は優花ちゃんに対していつもと変わらず何もしていなかった。それなのに優花ちゃんから話しかけられるなんて…私は緊張と期待で高揚して自然と口角が上がった。
ひょっとして私達、これから友達になれる…?
ふくふくと膨れ上がる期待を必死に抑えてもどんどんと膨らんでいき、笑みが溢れる。それを誤魔化すように口を開こうとすると優花ちゃんの方が先に口を開いた。
「実は私、今日でここを辞めるんです。結婚することになって…それで最後だからロッカーが隣の堂本さんにだけは挨拶したいなぁって思って。」
優花ちゃんの言葉に吐息が漏れるように、えっ?と声を出して彼女の方を見る。
彼女は目尻を下げて今にも飛び立つ天使のように幸福に満ちた満面の笑みを浮かべていた。
「…そう…なんだ。…おめでとう。」
呆気に取られながら祝言を述べると優花ちゃんは、ふふっと笑ってロッカーに着くと私に雑貨屋で売っているギフト用のハンカチを渡した。
「これ…よかったら。」
そう言って“お世話になりました“と書かれた短冊の巻かれた薄桃色の花柄のハンカチを差し出す彼女の右腕には相変わらず無数の赤い線が模様となって切り刻まれている。
彼女と結婚する人は一体、どんな人なのだろう。
結婚相手は彼女のこの腕を受け入れているのか…それとも彼女の腕をこんな風にするような人なのだろうか…
私は勝手に彼女がまともに交際できる相手もいなくて孤独と寂しさに飢えてリストカットをしているのだと思っていた。だけどその推測が外れた今、新たな推測と疑問が頭の中を駆け巡っていた。
彼女本人に真相を聞きたい。だけどあまりにも繊細でタブーな気がして今まで聞けなかった。最後なら聞けるだろうか…いや、でも…
「私、堂本さんとあまり話せなかったけど隣のロッカーが堂本さんでよかった。なんか堂本さんって私に似ている気がして不思議と安心感があったの。」
彼女に訊こうか躊躇っていると彼女はそう言って私に向かって柔和な笑みを浮かべた。
私と優花ちゃんが似ている…?
彼女の言葉に呆気に取られていると優花ちゃんは私から目線を外して着替え出した。作業着を脱いで白いブラウスを着た後に白いアームカバーを付けて、いつも通り傷だらけの腕を隠すとかごバッグを肩に掛けて私に短いお辞儀をして去っていく。
これで終わりだなんて…退職者なんてこんなものだとわかっているのにあまりにもあっさりとしたお別れで寂しさを感じる余裕もなかった。
あんなにも腕の傷が私の頭から離れずシンパシーを感じた相手だったのに…私がどれだけ情を感じても所詮、私達は他人のままだった。それは互いに似たものを感じながらも踏み込まなかったせいだ。
最後の最後まで私は受け身な臆病者のままだった。
平日の昼下がり、有給休暇を取った私は太陽が燦々と光る下を自転車に跨って近所の公園へと向かった。
小学生の頃、習い事が休みの日はよく実家近くにあった公園に一人で向かい、ブランコを揺らしたり滑り台を滑ったりした。そして遊び疲れると誰も座っていないベンチで横になってボーッとしていた。
大人になった今、普段は中に入らず通り過ぎるだけの公園に向かって折りたたみ自転車を入り口に停めると誰もいないシーンとした公園に足を踏み入れてベンチに腰を下ろした。
ベンチの上で二本の太ももを隠す黒地にピンクの小花柄が咲いたワンピースが柔らかく揺れる。
スマホと小銭入れしか入っていない小さなショルダーバッグからスマホを取り出すと名もなきブロガーの最新記事を読んだ。
“人を助けるのに偽善や押し付けは効かない“
“足を踏み入れる勇気のない人間に人助けは出来ない“
“誰かを100%理解するなんて不可能なこと“
“このブログを読んでいる人はまず自分を助けることに専念すべきだと僕は思います“
最後の文章を読んで私は思わず、えっ⁉︎と声を上げる。
名もなきブロガーが男であることが初めて判明したのだ。
性別は分からないけれど頭の中で何となく年上の女性をイメージしていた為、意外な事実に驚いてポカンとする。ただ、ネット上ではいくらでも性別を装える為、本当に男性かなんて分からない。だけどこのブログから初めて見た「僕」という一人称…
記事を開いたままスマホをバッグに閉まって魂が抜けたように遠くを見つめる。
やがて静かにベンチ上で横たわるといつも縦で見える景色が全て横になって見えた。
誰も乗っていないブランコに滑り台、小さな砂場…普段は正面から見えている景色が全て横になる。その瞬間、見慣れた景色が異世界のようにグニャンとなって歪んだように見えた。
同じ場所なのに、同じ世界なのに、不思議だね。
誰に語りかけるわけでもなく私自身に優しくそう呼びかける。
孤独の中にある柔らかさと優しさ。そして寂しさと弱さ…私はきっとこれからも弱いまま生きるだろう。
優花ちゃんのように繊細でか弱いまま生きる。
だけどいつか弱いまま強くなれるといいね。優花ちゃんのように誰かと愛を誓い合いたいね。
その日まで私は私を大切にしたいね。
ベンチの後ろでは小鳥の囀りと軽自動車の走行音がやさしいBGMとなって時折、耳元を燻った。
平和な日常は変わらずに存在している。
痛くない、痛くない。日常はいつも通り大丈夫だから、痛くない、痛くないって言い聞かせる。
でもあの子がいつも隣にいるから気になって、ずっと頭にもやがかかっている。
作業場でもロッカーでもいつも隣にいるから気になって見てしまう。見るといつも胸が切り裂かれたような痛みが走る。痛くないって一生懸命、言い聞かせているのに隣に存在しているから、あまりにも痛々しくて家に帰っても時折、あの腕を思い出してしまうのだ。
思い出したくもないのに平然とあんな腕を晒して着替えるから、あの子が着替える度に目がいってしまう。私は無関係なのに…
真っ白な作業着を着て結った髪を前髪ごと隠してマスクをすると見える地肌は目元と手のひらだけ。そのわずかに見える真っ白で子供のように幼い手を使ってうさぎに模した白餡に着色料を使って赤い目を二つ、点々と繊細に描くと隣では優花ちゃんが赤い花に模した餡に緑色の葉形に形どられた羊羹を一枚、一枚、丁寧に並べていた。
和菓子工場の一角で作業台には大量の練り切りが並んでいて私は白うさぎの目を描く係、優花ちゃんは椿に葉を乗せる係を行っていた。
練り切り餡は毎月、デザインが変わってその度に見本を参考にしながらお手本通りのものを作る。
作業中は私語厳禁で私達は昼休憩を除くと六時間近くをこの作業に費やしている。
たまたま求人サイトで見つけたこのパートを始めてから一年が経過した。
月給は少ないけれど前職の飲食店に比べれば単純作業の繰り返しで動き回ることも頭を使うこともないから効率の悪い私からしたら遥かに楽で貯金が許す限りはしばらくここにいようと思っている。
飲食店の前は自動車学校の受付事務をやっていて、その前はピアノ教室でピアノ講師をしていたが生徒にその場で言葉をつかって上手く伝えるのが苦手で親御さんからのクレームにも耐えきれず四年間、頑張って働いたが辞めてしまった。
もう二度とピアノには触れたくない。
講師を辞めた後、実家を出てそう固く誓ってから本当にピアスには一度も触れていない。
”講師を辞めて無職になるのは怠惰だから実家を出なさい“
母にそう言われて実家を出て一人暮らしを始めてから六年が経過した。
三十歳になった私は実家を出ても過保護に育てられた為か幼子のように頼りなくて未熟者で、洗濯機やスマホを買い換えるのも一人で半泣きになりながら右往左往している。
私が思い描いていた三十歳はこんなんじゃなかったのになぁ…
子供の頃、私は年齢を重ねれば人は自然と大人になっていって何でも経験していくのだと思っていた。でも実際は女子校でテストが近づくたびに憂鬱になっていた頃と何にも変わっていなくて人は自力で変わろうとしないと変われないのだと今更、痛感する。
変わろうと思っていた時もあった。でも変わるのが恐くて逃げていたらこんな歳になってしまった。
私は一生、こんな状態で生涯を終えるのかもしれない。
「お疲れ様です。」
作業を終えて更衣室で着替えていると優花ちゃんがそう言って靴を脱ぎ、隣のロッカーを開けて着替え出した。私は、お疲れ様です。と返して何食わぬ顔で着替えながらも彼女の様子を横目でチラリと覗く。
長袖の作業着を脱いで白いキャミソール一枚になった優花ちゃんの真っ白で今にも折れそうな細い腕が露わになる。ハンガーに掛かった白いレースの長袖トップスに手を伸ばす彼女の腕には無数の赤い切り傷の痕が線を描くように何本も刻まれていた。
夏なのに彼女はいつも半袖を着ない。着るとしても腕に日焼け防止のアームカバーをつけていて腕を晒すことは決してない。その腕が職場で唯一、晒されるのは私の隣で着替えている時だけだった。
「もうすごいんだから‼︎腕にびっしり刻まれているの‼︎リストカットっていうやつ?なんか事情を抱えているのかもしんないけど恐いよね。あんま近づかない方がいいよ。」
入ったばかりの頃、一緒に働くパートのおばさんが彼女についてそう言っていた。
私はそれを聞いて彼女を警戒すると同時に好奇心が芽生えて隣のロッカーであることをいいことに彼女の腕を盗み見るようになった。
細い右腕に何本も刻まれた赤い線を初めて目の当たりにした時、体中に鋭い痛みが走ってシンパシーを感じた。リストカットなんて生まれてこの方したことがないのに弱々しい彼女の姿と切り傷が私の弱さと共鳴して胸が痛くなった。
彼女の腕を見ると幼い頃の記憶が誘引されて蘇る。
まだ小学生になったばかりの頃、上手く弾けない度に私の手の甲を叩いて叱ったピアノ教室の先生。茶髪のセミロングヘアでパーマが掛かっていてマゼンタのグロスをいつもテカテカに塗っていた。
先生は私がミスをする度に綺麗に描かれた眉を釣り上げてピンク色の分厚い唇を大きく開いて私をきつく叱った。私は叱られる度に、ミスをしてはいけない…‼︎と焦ったが指先は反対に緊張と恐怖でもつれてさらにミスを誘発する悪循環に陥った。
叩かれた手の甲は大した力で叩かれたわけでもないのにジンジンと痛んで、家に帰っても痛みが抜けずに部屋でひっそりと涙を流した。
母に入れられて三歳から始めたピアノ教室だったが私の才能は芽を出すこともなく、コンクールで入選はおろか受験した音大も落ちて滑り止めの専門学校に入学してパッとしないまま卒業した。
就職してもピアノへの情熱は何一つ芽生えず、私はクラシック鑑賞が趣味のピアノが弾けない母から熱心にピアノの道について熱弁されるも最後まで音楽を愛せないまま家を出ていった。
何の相談もせずにピアノ講師の退職届を出してひっそりと辞めた時の母の絶望と落胆の混ざった目を未だに忘れられない。私を音楽の道へと開かせるために母は私に沢山のお金を掛けただろう。私はそれを全て蔑ろにした訳だからそんな人間と一緒に暮らしたいと思うはずがない。
私は母に見捨てられたのだ。退職金は手切れ金のようなもの。家を出た私は年末年始の時だけひっそりと帰省する。
毎年、帰省すると結婚して実家の隣に家を建てた兄が妻と子供たちを連れておせちを突いている。
兄は私と違って幼い時からしっかり者で要領がよく、小学生から始めたサッカーでは県大会まで進出した。大学を卒業後は地方公務員になって三十歳を目前にして同じ職場の二個下の奥さんと結婚、長男と長女を二人儲けている。
兄は誰もが理想とする安泰でありふれた幸せを難なく手にして穏やかに暮らしている逞しくて強い男だ。それに対して私は小さい頃からひ弱で泣き虫で不器用で恋愛すらままならなかった。
”やさしい人間は人を傷つけない代わりに自分を傷つける“
“何があっても人のせいにしない代わりに無意識に自分自身を傷つけて自傷行為に走る“
“私がいけない…と誰のせいでもないことを自分のせいにして他人を責めない代わりに自分を責めて傷つけることで安心を得ようとする“
蛍光灯の光る家内でスマホ画面に映った文字を必死に読み漁りながら私は何度も強く頷くと同時に頭を悩ませた。
どうしたら優花ちゃんを救える?
読んでいるブログ記事は私が数年前に生きるのが辛くて検索した時にヒットした顔も知らない一般人が書いた記事だ。
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この人が私を救っているように私も優花ちゃんを救ってあげたい…
思い立った私は名もなきブロガーの最新記事に衝動的にコメントを書き入れた。
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スマホのフリック入力で勢いよく打ち込むと送信ボタンを押す。
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胸の奥でぷくぷくと膨れ上がる期待感。まだ何も反応がないのにブロガーが私のコメントを読み上げるのを想像すると自分の存在が認められたような感覚になる。
この人は私のコメントにどんな反応を示すだろうか。
優花ちゃんを救うことが目的なのに気づけば頭の中は名もなきブロガーに認知される期待感に支配されていた。
色を成さない私の日常を彩る何かを求めている。だけど自分で彩る方法が分からないから他人にそれを求めてしまう。
他人が私に色を与えてくれるのを待っていたら三十歳になってしまった。その間に色は自分で彩らないと色づかないことに気がついた。でも今更、どうやって自分を彩ればいいのかなんて分からない。
キッチンにある赤いココットでほうれん草のキッシュでも作れば彩れるだろうか?
でも冷蔵庫にはほうれん草も牛乳もないから作れない。諦めよう。
もう頑張りたくない。あのピアノと向き合い続けた日々を思い出す度に傷が疼いてそう思う。
私のエナジーはあの日々に吸い取られて今は臆病な抜け殻となった。
「堂本さん。」
仕事を終えて更衣室までの道のりを歩いていると後ろから名前を呼ばれて振り向いた。すると優花ちゃんがマスク越しでもわかるくらいの優しげな笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
私は優花ちゃんから話しかけられるなんて初めてで驚きながらも、はい。と返事して立ち止まる。
すると優花ちゃんは照れくさそうな声で、一緒に行きましょう。と言った。
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ドキドキしながら頭の中は疑問でいっぱいになった。名もなきブロガーにコメントを入れてから二週間が経ったが未だに返事は来ず、記事の更新もなかった為、私は優花ちゃんに対していつもと変わらず何もしていなかった。それなのに優花ちゃんから話しかけられるなんて…私は緊張と期待で高揚して自然と口角が上がった。
ひょっとして私達、これから友達になれる…?
ふくふくと膨れ上がる期待を必死に抑えてもどんどんと膨らんでいき、笑みが溢れる。それを誤魔化すように口を開こうとすると優花ちゃんの方が先に口を開いた。
「実は私、今日でここを辞めるんです。結婚することになって…それで最後だからロッカーが隣の堂本さんにだけは挨拶したいなぁって思って。」
優花ちゃんの言葉に吐息が漏れるように、えっ?と声を出して彼女の方を見る。
彼女は目尻を下げて今にも飛び立つ天使のように幸福に満ちた満面の笑みを浮かべていた。
「…そう…なんだ。…おめでとう。」
呆気に取られながら祝言を述べると優花ちゃんは、ふふっと笑ってロッカーに着くと私に雑貨屋で売っているギフト用のハンカチを渡した。
「これ…よかったら。」
そう言って“お世話になりました“と書かれた短冊の巻かれた薄桃色の花柄のハンカチを差し出す彼女の右腕には相変わらず無数の赤い線が模様となって切り刻まれている。
彼女と結婚する人は一体、どんな人なのだろう。
結婚相手は彼女のこの腕を受け入れているのか…それとも彼女の腕をこんな風にするような人なのだろうか…
私は勝手に彼女がまともに交際できる相手もいなくて孤独と寂しさに飢えてリストカットをしているのだと思っていた。だけどその推測が外れた今、新たな推測と疑問が頭の中を駆け巡っていた。
彼女本人に真相を聞きたい。だけどあまりにも繊細でタブーな気がして今まで聞けなかった。最後なら聞けるだろうか…いや、でも…
「私、堂本さんとあまり話せなかったけど隣のロッカーが堂本さんでよかった。なんか堂本さんって私に似ている気がして不思議と安心感があったの。」
彼女に訊こうか躊躇っていると彼女はそう言って私に向かって柔和な笑みを浮かべた。
私と優花ちゃんが似ている…?
彼女の言葉に呆気に取られていると優花ちゃんは私から目線を外して着替え出した。作業着を脱いで白いブラウスを着た後に白いアームカバーを付けて、いつも通り傷だらけの腕を隠すとかごバッグを肩に掛けて私に短いお辞儀をして去っていく。
これで終わりだなんて…退職者なんてこんなものだとわかっているのにあまりにもあっさりとしたお別れで寂しさを感じる余裕もなかった。
あんなにも腕の傷が私の頭から離れずシンパシーを感じた相手だったのに…私がどれだけ情を感じても所詮、私達は他人のままだった。それは互いに似たものを感じながらも踏み込まなかったせいだ。
最後の最後まで私は受け身な臆病者のままだった。
平日の昼下がり、有給休暇を取った私は太陽が燦々と光る下を自転車に跨って近所の公園へと向かった。
小学生の頃、習い事が休みの日はよく実家近くにあった公園に一人で向かい、ブランコを揺らしたり滑り台を滑ったりした。そして遊び疲れると誰も座っていないベンチで横になってボーッとしていた。
大人になった今、普段は中に入らず通り過ぎるだけの公園に向かって折りたたみ自転車を入り口に停めると誰もいないシーンとした公園に足を踏み入れてベンチに腰を下ろした。
ベンチの上で二本の太ももを隠す黒地にピンクの小花柄が咲いたワンピースが柔らかく揺れる。
スマホと小銭入れしか入っていない小さなショルダーバッグからスマホを取り出すと名もなきブロガーの最新記事を読んだ。
“人を助けるのに偽善や押し付けは効かない“
“足を踏み入れる勇気のない人間に人助けは出来ない“
“誰かを100%理解するなんて不可能なこと“
“このブログを読んでいる人はまず自分を助けることに専念すべきだと僕は思います“
最後の文章を読んで私は思わず、えっ⁉︎と声を上げる。
名もなきブロガーが男であることが初めて判明したのだ。
性別は分からないけれど頭の中で何となく年上の女性をイメージしていた為、意外な事実に驚いてポカンとする。ただ、ネット上ではいくらでも性別を装える為、本当に男性かなんて分からない。だけどこのブログから初めて見た「僕」という一人称…
記事を開いたままスマホをバッグに閉まって魂が抜けたように遠くを見つめる。
やがて静かにベンチ上で横たわるといつも縦で見える景色が全て横になって見えた。
誰も乗っていないブランコに滑り台、小さな砂場…普段は正面から見えている景色が全て横になる。その瞬間、見慣れた景色が異世界のようにグニャンとなって歪んだように見えた。
同じ場所なのに、同じ世界なのに、不思議だね。
誰に語りかけるわけでもなく私自身に優しくそう呼びかける。
孤独の中にある柔らかさと優しさ。そして寂しさと弱さ…私はきっとこれからも弱いまま生きるだろう。
優花ちゃんのように繊細でか弱いまま生きる。
だけどいつか弱いまま強くなれるといいね。優花ちゃんのように誰かと愛を誓い合いたいね。
その日まで私は私を大切にしたいね。
ベンチの後ろでは小鳥の囀りと軽自動車の走行音がやさしいBGMとなって時折、耳元を燻った。
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クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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