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無償の愛
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「お願いしまーす!!」
厨房から麻生くんの明朗な声が響いた。
接客を終えた私が厨房に向かうとカウンターにパスタが二皿置かれていた。
その二つを各々トレンチに乗せて厨房を後にする。
白い皿に収まった緑色のパスタと赤色のパスタを一瞥してホール内を歩く。
途中、走り回る幼い子供たちが目の前を走り抜けた為に一時停止した。
5番と書かれた席にはスマホをいじる制服姿の女子高生と母親と思われる中年女性が座っていた。
「お待たせ致しました。ジェノベーゼパスタのお客様。」
私が言うと中年女性が小さく挙手した。彼女の前に緑色のパスタを置く。
「ペスカトーレでございます。」
そう言って赤色のパスタを女子高生の前に置くと彼女はスマホいじりを止めて、中年女性が差し出すフォークを受け取った。
席に伝票を置いた私は親子に背を向けて呼び出し音が鳴り止まないホール内を動き回る。
壁に掛かった電光掲示板にはいくつもの数字が表示されていて、その中に私が担当している別席の数字が映っていた。
別席の料理が出来上がったことが判明して厨房に向かう。
途中、接客中の仲間の後ろを通り過ぎた。
昼時の日曜日、飲食店のホールと厨房は戦場と化す。
厨房内では時折、短気なアルバイト君の怒声が響き渡り、ホール内では料理を両手に乗せたベテランスタッフがまごつく新人スタッフを窘める。
鬼のように忙しいこの時間は私の何もかも全てを忘れさせて嵐のように過ぎ去っていく。
ピーク時が終わって席に空きが出来始めた頃、スタッフたちはようやく安堵のため息をついて和やかな雰囲気になった。
今からあと四時間後にここは再び戦場と化す。その前の小憩のような時間だ。
「秋谷さん、秋谷さん!!なんか今日、アイシャドウの色、濃くないっすか⁉︎」
厨房にいる山田君が私に絡んできた。
手の空いた私は山田君のそばに寄って冗談で返す。
「え、そう見える⁉︎良い女でしょう⁇」
はしゃいだ声を上げると山田君はニヤつきながら、
「いやー俺はなんとも言えないなぁ…近くに麻生さんがいますから…」と言って私と麻生くんを交互に眺めた。
何も気づいていない麻生くんは一人静かに冷凍ポテトのグラム数を測っていて、夜のピーク時に向けた前準備を行っていた。
「春になったら麻生さんも卒業っすね。」
「そうだね。ここはただでさえ人が足りてないのに…麻生くんがいなくなるなんて困っちゃう。」
「秋谷さん、麻生さんと親しいからめっちゃ寂しいんじゃないっすか⁉︎」
「そんなことないよ~私よりも麻生くんの方が寂しいに決まってる♡」
私の冗談に山田君は声を上げて笑った。すると山田君の笑い声が聞こえた麻生くんが顔を上げて私達を一瞥すると不機嫌そうに、
「山田!大島くんの皿洗い手伝ってあげて。」と言った。
山田君はニヤニヤしながら、はーい!と返事して私の目の前から消えていった。
麻生くんは一瞬だけ私と目を合わせると、すぐに逸らして下を向きながら何事もなかったかのようにポテトの計量を再開した。
大学生四年生の麻生君は数ヶ月後には社会人になってここからいなくなる。
私よりも五つ下の麻生くんは大学入学の為に上京したのを機にここでアルバイトを始めたと聞いた。
二年前に入った私が話しかけるたびに照れ隠しで素っ気なくしていた彼のあの頃の初々しさが懐かしい。
私はここでさらに暦と年を重ねていき、彼は新社会人として新たに出発する。
当たり前だった存在は姿を消して私達は別々の人生を歩むのだ。
彼との別れを寂しいと思う反面、私のドライな部分が冷静に割り切っていた。
別れに対する寂しさなんて一瞬だ。また忙しくなって新しく入ってくる新人たちとコミュニケーションを取っていくうちにきっと彼の存在は小さくなっていく。
遠い過去の存在となっていくのだ。
どんなに親しくしたって、いなくなれば振り返った時に、こんな人がいたなぁってぼんやりと思い出すだけだ。
「美久琉ちゃん、今のうちに休憩入っちゃっていいよ。」
ベテランパートさんに声を掛けられた私は休憩に入ることにした。
休憩室に入ると数人のスタッフが一服したり、スマホをいじったりしていて椅子は空いていなかった。
「おぉ!美久琉ちゃんじゃん‼︎ここ座る⁉︎」
タバコを吸った先輩が私の為に席を空けようとしたが、遠慮して更衣室の鞄からスマホを取り出した。
煙草のヤニで黄色くなった壁にもたれ掛かってスマホ画面を開く。
病院から一件の着信が入っていた。
目を見開いた私は慌てて折り返しの電話を掛ける。
不安でいっぱいになった私の心臓の鼓動が速まる。
数コールの後、電話に出た病院スタッフに着信が入っていたことと名前を告げると電話越しの相手は慌ただしく事情を説明した。
「清美さんの容態が急変して…」
事情を聞いた私は電話を切ると更衣室から鞄を取り出して休憩室を飛び出そうと勢いよく扉を開けた。
すると目の前で丁度、中に入ろうとしていた麻生君とかち合った。
私は彼を押し退けて、店長に事情を話すとすぐに店を出て前を通りかかったタクシーに飛び乗る。
母親の顔を浮かべながら藁にもすがるような気持ちで祈った。
お母さん、お母さん…
普段は神様なんて信じていないのにこういう時だけ都合良く祈るのだ。
それでも祈った。お母さんが死なないように。
走行するタクシーは立ち並ぶビルたちを横切って都立病院へと近づいていく。
その中で昔の元気な頃の母が私を呼び掛けた。
「美久琉!よくやったね!!あんた才能あるよ!!」
そう言って私の頭を撫でる母の満足げな笑顔。
母は滅多に私を褒めない為、本当に嬉しかった。
「帰りに美久琉の大好きなアニメのグッズ買ってあげる。ほら、あの金髪の男の子のキャラクター、好きでしょう?」
上機嫌な母が制服姿の私に褒美を提案した。
私は握りしめた数枚の一万円札を全て母に渡しながら微笑んで頷く。
すると母は急に申し訳なさそうな顔になって私を強く抱きしめた。
「美久琉、ごめんね。こんなことさせちゃって…あんた、まだ中学生なのに…おじさんに痛いことされなかった⁇」
母の優しい声に安堵して私は甘えるように首を横に振る。
母は私の髪を撫でながら私の耳元で囁いた。
「そう…なら良かった。美久琉にばっかり迷惑掛けちゃって悪いね。でもね、お母さんは美久琉にこうして貰わないと生きていけないの。おじさんには怪我だけはさせないでねって強く言ってあるから。お母さんが美久琉を守るからね。」
母が抱きしめてくれる。その瞬間は嫌なこと全てを忘れさせてくれた。
よく知らない親父とする行為も、学校での噂話も人間関係も、全て忘れさせてくれる。
誰がなんと言おうと私の母親は優しい。
普段は放ったらかしで都合の良い時だけ擦り寄ってきてもカッとなってすぐに手が出ても私は母を愛している。
どんなに怒りが込み上げても憎くても捨てられたくない。
お母さんに捨てられたくない。
私にとってたった一人のお母さんだもの。
タクシーが都立病院の前に停車した。
慌ててお金を払って院内に入る。
面会受付で看護師に事情を話すとすぐに病室へと案内された。
お母さん、お母さん…
病室に向かっている間に無数の涙が溢れた。
服の袖で目を擦り、霞む視界を元に戻す。
病室に到着して看護師が扉を開けるとその先でベッドに横たわる母が目に入った。
呼吸器をつけた母の心拍数は微弱で今にも止まってしまいそうだ。
私は母のそばに寄って手を握りしめた。
涙を溢れさせながら消え入りそうな声を出す。
「お母さん、行かないで。私を置いていかないで…」
一人にしないで。私はお母さんがそばにいればそれで十分だから。
私達、ずっと二人で生きてきたじゃない。
お母さんのいない未来なんて思い描けないの。
二年前、母が肺癌になったことが判明した時、私は母を絶対に死なせないって誓ったの。
母の為に私はアルバイトを始めて朝から晩まで働いて入院費を稼いだ。
母はその度に、男と寝て稼げばいいって言ったけれど二十代後半が近づいていた私にはもう年齢的に厳しかった。
それにもう精神的にも身体的にもきつかった。
学がなくても普通に働いてお金が欲しかった。
昔からずっと憧れていた普通の子になりたかった。
願わくは母と一緒にありふれた幸せを手にしたかった。
ペースメーカーの音が鳴り響く病室内で母はわずかに目を開けて天井を見つめている。
その横で私は涙を流しながら母の顔を見つめていた。
手を握る私に対して母の手は握り返してくることはなかった。
お母さん、死なないで。
母の目に訴えた瞬間、瞳がゆっくりと閉じて心拍数が零になった。
様子を見ていた医師が聴診器を持って母の側へと近寄る。
閉じていた母の瞳を開いてペンライトの光を当てていた。
母の顔をじっと眺めていると医師がゆっくりと振り返って言葉を掛けた。
「十五時二十八分、お亡くなりになりました。」
悼むような静かな声だった。
程なくして霊安室に連れていかれた母の遺体を眺めていると病院から連絡を受けた叔母と叔父夫妻が駆けつけて葬儀屋に連絡をしたりと慌ただしげだった。
私はその姿を横目に抜け殻にでもなったかのように天井を眺めていた。
ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴り響く。
ポケットに手を突っ込んで画面を覗くと’‘麻生くん,,と書かれた文字が並んでいた。
スマホ画面と母の横顔を交互に眺める。
ふと昔、母が私に掛けた言葉を思い出した。
高校生の時、好きな人が出来た私がその人とのデートを優先して母が取り付けたおじさんとの予定をすっぽかした時のことだった。
帰宅した私は凄まじい形相で待ち受けていた母に勢いよく張り倒された。
「何やってんだよ!このバカ娘が‼︎」
頬を抑える私に母は容赦なく腹に蹴りを入れて髪の毛を掴んできた。
私は泣き叫びながらされるがままの状態で母に許しを請う。
暴力をやめた母は息を荒げながら私に問いかけた。
「あんた、男といたんだろう?」
私は玄関の床に崩れ落ちながら下を向いたまま何も答えられなかった。
「私には分かるんだよ。親子だから、あんたの考えてることが手に取るように分かる。」
母は私の鞄からスマホを取り出そうとした。
私は抵抗したがそれも虚しくスマホは母の手元に渡った。
「美久琉、あんたは私の娘なんだよ。そんなあんたが普通の恋愛が出来るなんて思っちゃいけないよ。あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。」
好きな人からのライン通知を眺めながら母が私を言い聞かせる。
私はこの言葉を昔からうんざりするほど何度も聞かされていた。
耳にタコができるほどに聞かされて、私も十分に納得していた。
それでも私は彼を好きになってしまったから恋がしたかった。
でも無理だ。無理なのに、私が馬鹿だった。
’’あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。,,
着信音が鳴り響く中、母との記憶が蘇った私はそっとスマホ画面を閉じた。
’’麻生くん,,と書かれた文字が暗転して着信音が消えた。
スマホを握りしめたまま、母の遺体に近寄って目を閉じる母の顔を見つめる。
お母さん、私はこれからどうすればいいの?
お母さんがいないんじゃ生きている意味がないよ。
母は目を閉じたままで何も答えてくれなかった。
静かな母の横で私は迷子のように道を彷徨っていた。
厨房から麻生くんの明朗な声が響いた。
接客を終えた私が厨房に向かうとカウンターにパスタが二皿置かれていた。
その二つを各々トレンチに乗せて厨房を後にする。
白い皿に収まった緑色のパスタと赤色のパスタを一瞥してホール内を歩く。
途中、走り回る幼い子供たちが目の前を走り抜けた為に一時停止した。
5番と書かれた席にはスマホをいじる制服姿の女子高生と母親と思われる中年女性が座っていた。
「お待たせ致しました。ジェノベーゼパスタのお客様。」
私が言うと中年女性が小さく挙手した。彼女の前に緑色のパスタを置く。
「ペスカトーレでございます。」
そう言って赤色のパスタを女子高生の前に置くと彼女はスマホいじりを止めて、中年女性が差し出すフォークを受け取った。
席に伝票を置いた私は親子に背を向けて呼び出し音が鳴り止まないホール内を動き回る。
壁に掛かった電光掲示板にはいくつもの数字が表示されていて、その中に私が担当している別席の数字が映っていた。
別席の料理が出来上がったことが判明して厨房に向かう。
途中、接客中の仲間の後ろを通り過ぎた。
昼時の日曜日、飲食店のホールと厨房は戦場と化す。
厨房内では時折、短気なアルバイト君の怒声が響き渡り、ホール内では料理を両手に乗せたベテランスタッフがまごつく新人スタッフを窘める。
鬼のように忙しいこの時間は私の何もかも全てを忘れさせて嵐のように過ぎ去っていく。
ピーク時が終わって席に空きが出来始めた頃、スタッフたちはようやく安堵のため息をついて和やかな雰囲気になった。
今からあと四時間後にここは再び戦場と化す。その前の小憩のような時間だ。
「秋谷さん、秋谷さん!!なんか今日、アイシャドウの色、濃くないっすか⁉︎」
厨房にいる山田君が私に絡んできた。
手の空いた私は山田君のそばに寄って冗談で返す。
「え、そう見える⁉︎良い女でしょう⁇」
はしゃいだ声を上げると山田君はニヤつきながら、
「いやー俺はなんとも言えないなぁ…近くに麻生さんがいますから…」と言って私と麻生くんを交互に眺めた。
何も気づいていない麻生くんは一人静かに冷凍ポテトのグラム数を測っていて、夜のピーク時に向けた前準備を行っていた。
「春になったら麻生さんも卒業っすね。」
「そうだね。ここはただでさえ人が足りてないのに…麻生くんがいなくなるなんて困っちゃう。」
「秋谷さん、麻生さんと親しいからめっちゃ寂しいんじゃないっすか⁉︎」
「そんなことないよ~私よりも麻生くんの方が寂しいに決まってる♡」
私の冗談に山田君は声を上げて笑った。すると山田君の笑い声が聞こえた麻生くんが顔を上げて私達を一瞥すると不機嫌そうに、
「山田!大島くんの皿洗い手伝ってあげて。」と言った。
山田君はニヤニヤしながら、はーい!と返事して私の目の前から消えていった。
麻生くんは一瞬だけ私と目を合わせると、すぐに逸らして下を向きながら何事もなかったかのようにポテトの計量を再開した。
大学生四年生の麻生君は数ヶ月後には社会人になってここからいなくなる。
私よりも五つ下の麻生くんは大学入学の為に上京したのを機にここでアルバイトを始めたと聞いた。
二年前に入った私が話しかけるたびに照れ隠しで素っ気なくしていた彼のあの頃の初々しさが懐かしい。
私はここでさらに暦と年を重ねていき、彼は新社会人として新たに出発する。
当たり前だった存在は姿を消して私達は別々の人生を歩むのだ。
彼との別れを寂しいと思う反面、私のドライな部分が冷静に割り切っていた。
別れに対する寂しさなんて一瞬だ。また忙しくなって新しく入ってくる新人たちとコミュニケーションを取っていくうちにきっと彼の存在は小さくなっていく。
遠い過去の存在となっていくのだ。
どんなに親しくしたって、いなくなれば振り返った時に、こんな人がいたなぁってぼんやりと思い出すだけだ。
「美久琉ちゃん、今のうちに休憩入っちゃっていいよ。」
ベテランパートさんに声を掛けられた私は休憩に入ることにした。
休憩室に入ると数人のスタッフが一服したり、スマホをいじったりしていて椅子は空いていなかった。
「おぉ!美久琉ちゃんじゃん‼︎ここ座る⁉︎」
タバコを吸った先輩が私の為に席を空けようとしたが、遠慮して更衣室の鞄からスマホを取り出した。
煙草のヤニで黄色くなった壁にもたれ掛かってスマホ画面を開く。
病院から一件の着信が入っていた。
目を見開いた私は慌てて折り返しの電話を掛ける。
不安でいっぱいになった私の心臓の鼓動が速まる。
数コールの後、電話に出た病院スタッフに着信が入っていたことと名前を告げると電話越しの相手は慌ただしく事情を説明した。
「清美さんの容態が急変して…」
事情を聞いた私は電話を切ると更衣室から鞄を取り出して休憩室を飛び出そうと勢いよく扉を開けた。
すると目の前で丁度、中に入ろうとしていた麻生君とかち合った。
私は彼を押し退けて、店長に事情を話すとすぐに店を出て前を通りかかったタクシーに飛び乗る。
母親の顔を浮かべながら藁にもすがるような気持ちで祈った。
お母さん、お母さん…
普段は神様なんて信じていないのにこういう時だけ都合良く祈るのだ。
それでも祈った。お母さんが死なないように。
走行するタクシーは立ち並ぶビルたちを横切って都立病院へと近づいていく。
その中で昔の元気な頃の母が私を呼び掛けた。
「美久琉!よくやったね!!あんた才能あるよ!!」
そう言って私の頭を撫でる母の満足げな笑顔。
母は滅多に私を褒めない為、本当に嬉しかった。
「帰りに美久琉の大好きなアニメのグッズ買ってあげる。ほら、あの金髪の男の子のキャラクター、好きでしょう?」
上機嫌な母が制服姿の私に褒美を提案した。
私は握りしめた数枚の一万円札を全て母に渡しながら微笑んで頷く。
すると母は急に申し訳なさそうな顔になって私を強く抱きしめた。
「美久琉、ごめんね。こんなことさせちゃって…あんた、まだ中学生なのに…おじさんに痛いことされなかった⁇」
母の優しい声に安堵して私は甘えるように首を横に振る。
母は私の髪を撫でながら私の耳元で囁いた。
「そう…なら良かった。美久琉にばっかり迷惑掛けちゃって悪いね。でもね、お母さんは美久琉にこうして貰わないと生きていけないの。おじさんには怪我だけはさせないでねって強く言ってあるから。お母さんが美久琉を守るからね。」
母が抱きしめてくれる。その瞬間は嫌なこと全てを忘れさせてくれた。
よく知らない親父とする行為も、学校での噂話も人間関係も、全て忘れさせてくれる。
誰がなんと言おうと私の母親は優しい。
普段は放ったらかしで都合の良い時だけ擦り寄ってきてもカッとなってすぐに手が出ても私は母を愛している。
どんなに怒りが込み上げても憎くても捨てられたくない。
お母さんに捨てられたくない。
私にとってたった一人のお母さんだもの。
タクシーが都立病院の前に停車した。
慌ててお金を払って院内に入る。
面会受付で看護師に事情を話すとすぐに病室へと案内された。
お母さん、お母さん…
病室に向かっている間に無数の涙が溢れた。
服の袖で目を擦り、霞む視界を元に戻す。
病室に到着して看護師が扉を開けるとその先でベッドに横たわる母が目に入った。
呼吸器をつけた母の心拍数は微弱で今にも止まってしまいそうだ。
私は母のそばに寄って手を握りしめた。
涙を溢れさせながら消え入りそうな声を出す。
「お母さん、行かないで。私を置いていかないで…」
一人にしないで。私はお母さんがそばにいればそれで十分だから。
私達、ずっと二人で生きてきたじゃない。
お母さんのいない未来なんて思い描けないの。
二年前、母が肺癌になったことが判明した時、私は母を絶対に死なせないって誓ったの。
母の為に私はアルバイトを始めて朝から晩まで働いて入院費を稼いだ。
母はその度に、男と寝て稼げばいいって言ったけれど二十代後半が近づいていた私にはもう年齢的に厳しかった。
それにもう精神的にも身体的にもきつかった。
学がなくても普通に働いてお金が欲しかった。
昔からずっと憧れていた普通の子になりたかった。
願わくは母と一緒にありふれた幸せを手にしたかった。
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その横で私は涙を流しながら母の顔を見つめていた。
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お母さん、死なないで。
母の目に訴えた瞬間、瞳がゆっくりと閉じて心拍数が零になった。
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閉じていた母の瞳を開いてペンライトの光を当てていた。
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「十五時二十八分、お亡くなりになりました。」
悼むような静かな声だった。
程なくして霊安室に連れていかれた母の遺体を眺めていると病院から連絡を受けた叔母と叔父夫妻が駆けつけて葬儀屋に連絡をしたりと慌ただしげだった。
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ふと昔、母が私に掛けた言葉を思い出した。
高校生の時、好きな人が出来た私がその人とのデートを優先して母が取り付けたおじさんとの予定をすっぽかした時のことだった。
帰宅した私は凄まじい形相で待ち受けていた母に勢いよく張り倒された。
「何やってんだよ!このバカ娘が‼︎」
頬を抑える私に母は容赦なく腹に蹴りを入れて髪の毛を掴んできた。
私は泣き叫びながらされるがままの状態で母に許しを請う。
暴力をやめた母は息を荒げながら私に問いかけた。
「あんた、男といたんだろう?」
私は玄関の床に崩れ落ちながら下を向いたまま何も答えられなかった。
「私には分かるんだよ。親子だから、あんたの考えてることが手に取るように分かる。」
母は私の鞄からスマホを取り出そうとした。
私は抵抗したがそれも虚しくスマホは母の手元に渡った。
「美久琉、あんたは私の娘なんだよ。そんなあんたが普通の恋愛が出来るなんて思っちゃいけないよ。あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。」
好きな人からのライン通知を眺めながら母が私を言い聞かせる。
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それでも私は彼を好きになってしまったから恋がしたかった。
でも無理だ。無理なのに、私が馬鹿だった。
’’あんたはね、男と幸せになれる子じゃないんだよ。,,
着信音が鳴り響く中、母との記憶が蘇った私はそっとスマホ画面を閉じた。
’’麻生くん,,と書かれた文字が暗転して着信音が消えた。
スマホを握りしめたまま、母の遺体に近寄って目を閉じる母の顔を見つめる。
お母さん、私はこれからどうすればいいの?
お母さんがいないんじゃ生きている意味がないよ。
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“K”
七部(ななべ)
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