思い出さない方が幸せなこと

沙羅

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もうできることはなくなったと思った時には、既に時計は12時をまわっていた。そろそろ啓介を病院まで向かいに行かなければならない。啓介の自転車は事故で壊れてしまっているから、病院まではバスで行くのが妥当だろう。
ちょうど10分も経たないうちにバスが来て、スムーズに病院へと向かうことができた。
バスの揺れに身を委ねながら、今日の午後には僕たちの理想郷が完成することに心を躍らせた。

312号室に入ると、啓介が暇そうにテレビを眺めている姿が目に入ってきた。啓介はこっちに気付くと、耳にはめていたイヤホンを急いでとってこちらに向き直る。
「遥さん、来てくれたんですね」
「ほんとはもっと早く来るつもりだったんだけど、いろいろ準備してたら遅くなっちゃった。あんまり汚い部屋、啓介には見せたくなかったし」
「別に気にしないのに」
「そうかも。片付けたのほとんど啓介のものだったし」
「えー。俺、大学生になっても片付け下手なのか」
「なかなかそういうのは治るもんじゃないでしょ。まぁ、ゴミ屋敷!ってほどまでは酷くはないから大丈夫だよ」
「それならよかった」
昨日よりもリラックスした面持ちで会話をしてくれることにホッとする。冗談を交えて話せば、笑顔も見せてくれるようになっていた。

「あーでも、一緒に暮らしてるのが遥さんみたいな人でよかった。思い出せ!って怒ってくる怖い人だったらどうしようかと」
「事故でこうなっちゃってるんだしそんなこと言わないよ。それに、また啓介と仲良くなる過程が楽しめると思うと楽しいし」
「なにそのフォローの仕方。遥さんいい人すぎない?」
きっと本当にいい人だったら記憶喪失になったのを利用してこんなあくどいこと考えないんだろうなぁと思いながら、ニコニコと笑う。初めて会った時からほとんど警戒心がないことにびっくりしたが、そんな啓介の性格は健在らしかった。

「14時からの検査が終わって異常がなければ、もうそのまま退院していいんだって。遥さんと暮らすのなんか楽しみ」
「それならよかった。あんまり緊張するようだったら僕は友達の家に泊まった方がいいかな、とかまで考えてたから」
「配慮ありがと。でも大丈夫だから」

こんな調子で話していると、あっという間に診察時間の14時がやってきた。「いってきまーす」と言って出ていった啓介は元気そうだったから、おそらく検査も問題なく通るだろう。その予想は当たって、30分もしないうちに啓介が戻ってくる。晴れやかな笑顔で「検査問題なかった!」と言われ、病院を後にすることとなった。

1日ぶりに2人の家へと帰ってくる。まぁゆっくりしてよとソファに座らせてから数分、あまり遅くなっても不自然だからとすぐに本題へと入った。
「啓介、大事な話があるんだけど」
じっと目を見つめて真剣な雰囲気を作る。
「どしたの?」
彼は急に真面目になった雰囲気にとまどいつつも、同じように目を合わせ聞く体勢をつくった。

「本当は僕たち、兄弟じゃないんだ。……兄弟じゃなくて、本当は恋人だったの」
「え……?」
啓介の目が大きく見開かれる。まぁ本当はこっちが嘘なのだし、当然の反応だった。
「遥さんと俺が?恋人って付き合ってたってこと?」
「うん。病院では混乱させると思ったし、啓介は周りの目を気にしてて普段から兄弟って設定で通してたから、今回もそうしたんだ。でも、時間が経てば経つほど本当のことを打ち明けられなくなるかなって思って。僕はそれは嫌だから、今言っちゃった。ごめん」

先に謝ることによって責めづらくなると分かりながら、しゅんとした顔を啓介に向ける。啓介はフリーズという言葉がぴったり当てはまるくらい戸惑っていて、衝撃を受けているというのが見て取れた。1分くらいその状態が続いたあと、おそるおそる啓介が声を発する。

「えっと、うまく言えないけどそんな気はしてた。って言っても今朝病院で鏡見た時に、『俺全然遥さんみたいにかっこよくないじゃん。ほんとに兄弟なん?』って思ったくらいの違和感だけど。いや、再婚してるならそれは当たり前か……。でも、兄弟にしてはやけに優しいし。恋人とは思わなかったけど、めっちゃ仲の良い友達とかなのかなって思ってた」
「さすがにめっちゃ仲いい、ってくらいじゃ一緒に住むまでいかないでしょ」
「たしかに。そっか、俺ここに遥さんと住んでるんだもんな」

記憶があった頃は、「血は繋がってないけど兄弟なんだからそういう対象としては見れない」って言われ続けてきたのに、あまりにも平然と受け入れられて逆に僕の方がびっくりする。いや、まだ受け入れられたとまでは言えないけど。拒絶されなかったことがとても嬉しい。

「毎日マメに日記だけはつけてたみたいだから、負担にならないなら読んでみてほしい。苦しくなったりするようなら全然読まなくてもいいから」
そう言って手渡したのは、昨日僕が偽造した方の日記帳。僕との関係に対しての葛藤や悩みを全て、愛する言葉に書き換えた日記帳。パラパラとめくるだけで、僕と「恋人だった」と信じ込めるようなものになっている。

「ほんとだ。ほんとに付き合ってたんだなぁ、遥さんと」

書かれた数ページを読んだあと、そう彼が呟く。それが自分の書いたものだと疑うこともなく、その記録を記憶として受け入れてくれた。

「付き合ってたとはいえ今は初対面みたいなもんだから、だからどうしたいってわけじゃない。必要以上に触れないように我慢もする。でも、兄弟じゃなくて男として意識してくれたら嬉しいな」
「うん、わかった。でも遥さん、かっこいいし優しいからまたすぐに好きになっちゃうかも」
「もう……そんな期待させるような可愛いこと言わないでよ」
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