76 / 76
76. 黒の言葉
しおりを挟む「もしかしてさ、菊地さんと喧嘩でもした?」
恒例の、彩可との夜の長電話。しばらく話していると、不意に彩可からそう問いかけられた。
さすが親友だな、なんて呑気に考える。
今抱えているモヤモヤを彩可に話せたらどれだけ楽だろうか、と何度も思った。菊地さんと皓人さんとのこの複雑な状況、彩可なら一瞬で「やめとけ」と言って終わらせてくれるんだろう。
でも、それだと私が決めたことにならない。彩可に決定権を委ねて、彩可に責任を負わせることになる。
それじゃあ、いけない気がした。
「んー、喧嘩っていうか、ちょっと、ね」
なんとも歯切れの悪い答えだな、と自分でも思う。でも、それ以上のことが言えない。
「ちょっと、って、何? 私にも言えないようなことなの?」
探るような彩可の言い方に、私は苦笑いを漏らした。
「言えないっていうか、ちょっと複雑で、どう言葉にしたらいいのか分からなくて」
答えながら、自然と視線はクローゼットの一角へと向かう。いまだに菊地さんの服が、取り残されている。
まるで彼への気持ちが私の心から消えないみたいに、彼の荷物が私の部屋には残っている。これがある以上、彼が私の中から完全に消え去ることはないだろう。
同じことが、皓人さんにも言える。
皓人さんに買ってもらったあの靴を、後生大事に持ち続けているのだから。
「もし、さ、好きな人が、思っていたのと違う人だったら、どうする?」
不意に投げかけた問いは、私が悩んでいることからはだいぶかけ離れているような気がしたけれども、なぜだか訊かずにはいられなかった。
「えー? まあ、どう違うかにもよるけど、ある程度は当たり前じゃない? って思うかな。だって、他人が推測するその人と、本人が実際どうかってのには必ず差が出るものでしょう?」
「確かに、そうだよね」
彩可の言っていることは、正論だ。
でも、その差が受け入れがたいほど大きい時は、どうすれば良いのだろう。
「……私が余計な口出しするべきじゃないってのは分かってるけどさ」
珍しく、わざわざ前置きをして彩可は言う。
「茉里が思う通りにすればいいと思う、よ? 私、今までさんざん菊地さんはいい人だ、だの、ルームメイトがいるような男はダメだ、だの、好き勝手言ってきた。けど、私がどう思うかじゃなくて、茉里がどう思うかで決めればいいと思う。理屈とか、世間体とか、そういうのはいったんもう取っ払っちゃってさ、茉里が本当に好きで、一緒にいたいと思える人と一緒にいればいいと思うよ。茉里が私の結婚式に菊地さんを連れて来ようが、他の誰かを連れて来ようが、1人で来ようが、私は気にしない。茉里が幸せなら、それでいいと思う」
彩可の言葉を聞きながら、私の頬を静かに涙が伝った。
事情は何も知らないはずなのに、彩可がくれた言葉は、今まさに私が必要としていた言葉そのものだった。彼女のような親友に恵まれて、私は幸せ者だ。
「ありがとう」
そうつぶやいた声は、微かに涙で震えてしまったけれども、彩可は気づかないふりをして、他の話題に話を変えてくれた。
彩可との通話を終えて、改めて部屋を見渡す。
心に整理をつけるために、まずは部屋の整理から始めよう。
私はゆっくりと立ち上がった。
まずはクローゼットから、菊地さんの服を取り出し始める。
「mum.」が刻まれたタグの、ジャケットにワイシャツ、パンツを並べて、改めてその量に驚く。彼が身につけていた外着のほとんどは、やはり皓人さんが手掛けたもの。2人の絆の深さに改めて驚かされる。
一体いつから、菊地さんは皓人さんの作った服ばかりを着るようになったのだろうか。これらの服を、皓人さんは菊地さんのために作った。……私に、あのドレスを作ったみたいに。
そうならば、これらの服には2人のどんな物語が込められているのだろうか。知りたいような、でも知りたくないような、そんな複雑な気持ちに、ため息をつく。
自分の好きな人が、自分のことを好きでいてくれる。
でもその人は、自分以外の人のことも好き。
その状況を、私はどれだけ受け入れられるのだろうか。
2人の人間を同時に同じように愛することなんて、できるのだろうか。そもそも、2人の人間を本当に愛することなんて、可能なのだろうか。
少なくとも、お父さんには無理だった。
『どこで選択を間違えたんだろうな』
お父さんが本気で愛したのはお母さんだけだった。義母のことを、本当に愛することはできなかった。だから、お父さんは再婚を後悔していた。
お父さんにとって、再婚は間違った選択だった。
『茉里ちゃんも、同時に複数の人を好きになる人なんじゃないかなって』
皓人さんの言葉が、頭の中を駆け巡る。どうしてそんな事が可能だと、彼は確信できるのだろうか。
『だってさ、茉里ちゃんは今、玄也のことが好きだけど、おれのことも好きでしょ?』
頭の中では、何度も否定してきた。
そんなわけ無いって。そんなこと、起こりっこないって。
万が一、仮にそうだったとしても、2人が私を裏切っていたという事実は、百年の恋だって冷めるほどの事案だ。だから、皓人さんが言うみたいに、3人で付き合うなんて、そんなことはありえない。
頭ではそう分かっているのに。
どうして心はそれを分かってくれないんだろう?
嘘をつかれていたのに。
騙されていたのに。
裏で気持ちを操られていたようなものなのに。
許せないのに。
憎いのに。
それなのに、どうしても2人を求めてしまう心を否定できない。
再びこぼれ落ちた涙を手の甲で拭うと、私は立ち上がって旅行用のカバンを取り出す。感情の赴くままに、手当たり次第に菊地さんの残した荷物を詰め込んだ。
まるで私の思考のようにグシャグシャに詰め込まれた彼の服を見て、またため息がこぼれる。
こうじゃない。
こんなことがしたいわけじゃない。
一度大きく息を吸い込んで、吐き出す。自分の気持ちを、落ち着かせる。
部屋の隅からアイロンを引っ張り出して、ゆっくりと座る。カバンからシャツを1枚取り出すと、そっと、アイロン台に広げる。ハンカチを当てて、アイロンをゆっくりと布の上に滑らせていく。
『昔、休憩時間に自販機までコーヒー買いに行ったらさ、自販機の前で真剣な顔して商品を見つめてる女子社員がいたんだ』
いつだったか、菊地さんはそう話し始めた。私たちの、出会いの話。
『普通、知らない人間に勝手にボタン押されたら怒りそうなもんなのに、その子はお礼を言ったの。邪気の無い、純粋で真っ直ぐな笑顔で』
そう語る彼の表情は、この間、皓人さんとの馴れ初めを話してくれたのと同じ表情だった。
自惚れかもしれない。
また騙されているのかもしれない。
そう思う自分もいる。でも、彼のあの表情を、私は信じたいと思ってしまっている。
『だから言ってるだろ、どっちも好きだからだよ』
あの時は、こしあんと粒あんの話だった。でも、私と皓人さんのことをどこかで話していたような気もする。
『本当に欲しいものを言ったときにそれを否定する恋人と一緒にいる意味って、どんぐらいあるんだろう?』
あの言葉は、単に私を翻弄するために言った言葉だったのだろうか。
もしそうだったとしても、あの時の私にとっては必要な言葉だった。
菊地さんは、いつだって私の欲しい言葉をくれた。
『家族に限らず、人間関係って本当にそれぞれだし、正解も不正解も、普通も何もないから』
今、思い返してみれば、ヒントはいろんなところに転がっていた。この言葉だって、きっと皓人さんとの関係のことも指していた。その言葉の裏の意味をあの時の私は分かっていなかったけれども、でも、あの時の私は救われた。
『さすが俺の彼女』
そう言って菊地さんが笑ってくれた時、本当に嬉しかった。少しでも彼が誇ってくれる自分になりたいと、心から思えた。
『中谷が思ってる以上に、俺は情けなくて、意気地無しで、どうしようもないやつなんだよ』
この言葉を言われた時、私は信じられなかった。
でも、今ならわかる。
確かに、菊地さんは情けないし、意気地なしで、どうしようもない。
強気に見えて、私よりも優柔不断な時があるし、いつだってどっちもを味わおうとする、ちょっと欲張りなところもがる。肝心な時に素直な気持ちを言わずに飲み込んでしまうこともあるし、ずるずると引き延ばそうとする部分もある。皓人さんとのことを言わずに私と付き合って、騙していた。本当に、どうしようもない。
でも、だからって嫌いになれる?
真面目で、いつも私を気にかけてくれていて、時々茶目っ気にあふれていて、私が欲しい言葉をいつだってくれる菊地さんを、嫌いになれる?
そんなの、無理だ。
嵌められたと分かっても、それでも、私の心は菊地さんを求めてしまう。
菊地さんが、欲しい。
一通りアイロンをかけ終えて、一着ずつ丁寧に畳み、カバンの中に詰めていく。なるべくシワにならないように、注意を払いながら、カバンの中を埋めていく。それが終わると、小さな隙間ができた。
ここに何を詰めようか。
ほとんど考えることもなく、私は玄関に向かうと、1つの箱を手に取った。ふたを開ければ顔をのぞかせるのは、あの日皓人さんに買ってもらった靴だ。
『この靴、絶対に中谷さんにぴったりだと思います』
そう言って、跪いて私に靴を履かせてくれた皓人さんの姿は、まさに王子様のようだった。
『完璧。魔法みたいに』
あの時、皓人さんが見せてくれた笑顔は本当に、魔法のようだった。皓人さんのおかげで毎日が輝いていた。私が今まで見たことのなかった景色をたくさん見せてもらった。
『じゃあなんでおれがあげた靴、まだ大事に持ってるの?』
今まで、ずっと否定してきた。
そんなことあるはずないって。
でも、もう否定したくない。
私は、いまだに皓人さんを欲している。
王子が仕掛けた罠に、まんまとハマっただけなのかもしれない。まだ騙され続けようとする私は、大庭かものなんだろう。
でも、たまにはそんなバカなままでもいいんじゃないか。
皓人さんのことを考えれば考えるほど、そんな気持ちになってしまう。
それに、皓人さんがいまだに隠す本心が、共に過ごした時間のどこかにあるような気がして、彼を嫌いになりきれない。
『ねえ、茉里ちゃん、3人で幸せになろうよ』
その言葉に、頷きたい。
それが可能なのかどうかは、分からない。
正しい判断だとも、思えない。
でも、間違った選択だとしても、私はそれを選びたい。
そう思わせてくれるのは皓人さんの言葉なのに、同時に歯止めをかけるのも、彼の言葉だった。
『もう、選ばなくていいんだよ。おれたちのどっちかを、選ばなくていい』
彼のこの言葉には、どうも納得がいかない。
『中谷茉里は究極の優柔不断なんだって』
そう、菊地さんが言っていたように、私は究極の優柔不断だ。
だから、どちらかを選ばなくていいなんて、夢のような話のはずだ。私が選ばないのだから、その選択の失敗の責任も、私が負わなくていい。失敗したとしても、選ばなくていいと言った、皓人さんのせいにしていい。
でも、それでいいの?
心の中の私が、大きな声で疑問を投げかけてくる。
選ばなくていいから、あの2人の手を取るの? と。
それは、違う。
選ばなくていいから、菊地さんと皓人さんの手を取るんじゃない。
選ばなくていいから、2人と一緒に居たいんじゃない。
2人のことが好きだから。
2人のことを求めているから。
2人のことを欲しているから。
だから、私は2人と一緒に居たいんだ。
選ばなくていいからじゃない。
皓人さんとだから。
そして、菊地さんとだから。
『中谷の望むとおりにすればいい』
2人と一緒に居ることが、今の私の望みだ。
これから後悔することもあるかもしれない。
間違った選択だとしても、それを嘆いたりしない。私が私の心の声に従った結果だから。
『もしも許されるなら、俺たち2人を、選んでほしいと思ってる』
菊地さんの最後の言葉に、私は静かに頷いた。
中谷茉里は究極の優柔不断だった。
でも、私はもう、究極の優柔不断じゃない。
自分で、決める。
皓人さんからもらった靴の箱をカバンの隅に詰めてから、さらなる隙間に、皓人さんからもらったものを詰め込む。そうして荷造りを終えると、私はカバンを閉じた。
再び、大きく深呼吸をしてから、スマートフォンを手に取り、菊地さんあてのメッセージを送る。2人がルームシェアしている家に行きたい、と。すぐさま返ってきた私の予定を尋ねるメッセージに、彼らしさを感じて少しばかり心が和んだ。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
NOISE
セラム
青春
ある1つのライブに魅せられた結城光。
そのライブは幼い彼女の心に深く刻み込まれ、ピアニストになることを決意する。
そして彼女と共に育った幼馴染みのベース弾き・明里。
唯一無二の"音"を求めて光と明里はピアノとベース、そして音楽に向き合う。
奏でられた音はただの模倣か、それとも新たな世界か––––。
女子高生2人を中心に音を紡ぐ本格音楽小説!
CODE:HEXA
青出 風太
キャラ文芸
舞台は近未来の日本。
AI技術の発展によってAIを搭載したロボットの社会進出が進む中、発展の陰に隠された事故は多くの孤児を生んでいた。
孤児である主人公の吹雪六花はAIの暴走を阻止する組織の一員として暗躍する。
※「小説家になろう」「カクヨム」の方にも投稿しています。
※毎週金曜日の投稿を予定しています。変更の可能性があります。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる