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73. 白の目論見

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「つまり、煮え切らない菊地さんを焚きつけるために私に近づいて騙したってこと?」

 マグカップを握りしめたまま、私は問いかけた。

「騙す?」

 私の言葉が分からないとでも言いたげに、皓人さんは言葉を繰り返した。今さら白々しいと思いながらも、私はあくまでも冷静に話し続けようとした。

「だって、そうでしょ? 偶然を装って私と出会って、そのまま……」

 そこまで言って、どう言葉を繋げばよいのか分からなくなった。皓人さんの前で、私たちのあの関係をどう形容すれば良いのか、私には分からない。

「とにかく、2人は裏で共謀して私を騙してたわけで、その間に私は感情ごと振り回されて……そんな私を、2人は影で笑って楽しんでたんでしょ?」

 問いかけながら、「それは違う」と頭の中の声が自分の言葉を否定した。2人はそんな人たちじゃないと、私の心が言っているみたいだった。でも、ここまでさんざん騙されたんだ。何が本当なのかなんて、分からないじゃない。
 そう思うのに、目の前の皓人さんの顔に広がる失望の色に、胸が痛んだ。

「なんかさ、そんな風に言われると、おれたちがものすごい悪いことしたみたいじゃん」

 はあ、と大きなため息をつきながら皓人さんは言った。

「確かに、おれは色々と計算して動いてた部分あるよ。それは否定しない。そのせいで茉里ちゃんのことも、玄也のことも傷つけたかもしれない。でも、それは全ておれたち3人のためだったんだよ」

 じっと真っ直ぐな瞳で見つめられて、私は思わず視線を逸らした。そのまま見つめ返していたら、また彼の術中にはまってしまうような気がした。

「3人のためって、勝手に決められても」
「だって茉里ちゃん、決めるの苦手じゃん」

 私の言葉に被せられた皓人さんの言葉は、まるでナイフで切りつけられたみたいな痛みを、私の心にもたらした。彼の言っていることは事実だ。でも、このタイミングにこんな形で私の弱点を突いてくるなんて。思わずぐっと下唇を噛み締めた。

「……ごめん。言い方が悪かった」

 私が何も言わないのを見てか、珍しく皓人さんがすぐに謝罪の言葉を発した。けれども、その言葉に私は何も反応せず、微動だにせず俯き続けた。

「玄也にも、怒られた。何回も」

 ぽつり、ぽつり、と皓人さんが話し始める。

「おれたちが出会った夜も、玄也には茉里ちゃんとはその場限りの会話しかしないって、約束してたんだ。デートの約束したって話したら、『どういうつもりだ』って、怒られた。茉里ちゃんと会い続けてるって知ったら、玄也は『おれたちはただの友達に戻ろう』って、言ってきた。『中谷の彼氏の浮気相手にはなりたくない』なんて、バカなこと言っちゃってさ。順番考えたら、逆なのにね」

 皓人さんの口調は淡々としているのに、どこか優しげがあった。なぜだか、皓人さんのことを語る菊地さんを思い起こした。

「それから本当に、玄也はおれと恋人らしいことをしなくなった。おれはおれで、茉里ちゃんとの関係が順調に進んで、気づいたらそれが心地よくなっちゃって、ちょっと嵌りすぎてた。そんな頃、玄也が俺に怒ったんだよ。『中谷にきちんと言葉で伝えろ』って。正直、驚いた。茉里ちゃんとは問題なくうまく言ってると思ってたから。でも、言われてみたら思い当たる節もあって」

 皓人さんはそこまで言うと、一呼吸おいて、半ば忘れ去られていたマグカップに手を伸ばした。口の中を潤すようにカップを傾けると、満足そうに眼を閉じる。そんな彼を、私は俯いたまま、視界の隅に捉えていた。

「それと同時に、なんで玄也がそんな話をするんだろう? って疑問にも思った」

 マグカップを置きながら、皓人さんは話し続ける。

「よくよく話を聞いたらさ、なんか玄也と茉里ちゃんの距離が縮まってるっぽいじゃん。ちょっと、衝撃経ったよね。ようやくか! って思いつつも、ちょっと妬けるな、とも思ったり。でも、もともとの計画はおれと玄也と茉里ちゃんの3人で付き合うことなわけだから、2人がさっさとくっついてくれた方がいいんだよね。それで、茉里ちゃんを突き放すことにした」

 ゆっくりと、皓人さんが重心を前にずらして、テーブルに寄りかかる気配を感じた。でも、私には目の前の彼に気を配る余裕がなかった。

『ただの、知り合いです』

 スマートフォン越しに聞こえた彼の冷たい声が、頭の中で再生される。

『彼女なんていませんし』

 あの時の無機質な言葉は、何度思い出しても胸がえぐられる。
 確かに、嘘はついていないのかもしれない。菊地さんは、彼氏だもんね。そんな自嘲的な考えが浮かんで、心の中で小さく笑う。そうでもしないと、やりきれなかった。

「あそこまで言う必要、あったんですかね?」

 膝を見つめたまま、自然と言葉が口を突いて出た。
 まだ、皓人さんの顔は見られない。

「何? そんなに傷ついた?」

 彼の軽い口調に、さらに胸が押しつぶされそうになる。小さく頷けば、「ふーん」という気のない返事が返ってきて、その皓人さんらしい反応に、心がざわつく。

「でもさ、おれだって傷ついたよ」
 
 あっさりとした口調で、皓人さんは言い放った。
 思いもよらない言葉に、私は無意識のうちに顔を上げてしまった。皓人さんの丸い瞳が、私の瞳とかち合った。
 ああ、失敗した。
 そう思った時には、もう手遅れだった。
 もう、目を逸らせない。

「茉里ちゃんと玄也の関係が進展すればいいな、とは思ってたけど、まさか振られるとはね」

 フット鼻で笑うように、皓人さんは最後の言葉を吐き捨てた。

「茉里ちゃんはなんだかんだおれのことが好きだし、玄也とは高校の頃からの仲だし。なのに、おれ抜きで2人きりで付き合い始めるんだもん。おれがキューピッドみたいなもんなのにさ。あり得ないよね」

 念押しするように、コクン、と小首を傾げられる。微笑んでいるのに、瞳の奥が笑っていないように見えた。

「ま、おれもちょっと仕事忙しかったりしたし、2人もようやくくっついたわけだし、しばらくは邪魔しないで上げようと思って、我慢したよ。でも、いつまでもってわけにはいかないから。まずは茉里ちゃんに会いに行って、おれにまだ気持ちがあることを確かめてから、玄也を言いくるめて茉里ちゃんをうちに呼んで、で、おれたちの関係を暴露したってわけ。玄也は順を追って説明しようとしてたけど、おれはそういうタイプじゃないから」

 そこまで言い切ると、皓人さんは満足げに口角を上げた。

 これで、パズルのピースはそろった。
 私と、皓人さんと菊地さんのこの奇妙な関係の時系列が、明らかになった。空白期間はない。そのはずなのに、いまだにモヤモヤが残るのはどうしてだろうか。
 私はただ黙って、皓人さんを見つめ返した。

「だからさ、騙したとかじゃない。おれがしたことは、3人で過ごす未来のためのこと。おれは、茉里ちゃんが好き。茉里ちゃんは、おれが好き。でも茉里ちゃんは、玄也も好き。玄也も茉里ちゃんが好き。そして、おれと玄也もお互いを想い合ってる。全員が相思相愛。全員が勝ちで、全員が幸せ。それでいいじゃん」

 皓人さんの話を聞いていると、だんだんとそれが正しいことのように思えてくる。

「茉里ちゃんは、おれと玄也のどっちかを選ばなくていいんだよ」

 まるで魔法の呪文のような皓人さんの言葉に、頷きたくなってしまう。
 それなのにそうできないのは、私の理性がなせる業なのだろうか。それとも、世間体を気にする私の気持ち? 既成概念にとらわれた私の思考?
 何が良くて、何が悪いのか。
 何が正しくて、何が間違っているのか。
 私にはもう、訳が分からなかった。
 
「ねえ、茉里ちゃん、3人で幸せになろうよ」

 そう言いながらそっと、皓人さんの手が私の頬に伸びてきた。
 皓人さんのほっそりとした、真っ白な手。
 冷たくて固い陶器のような見た目なのに、柔らかくて暖かい手。
 繊細そうに見えるのに、骨ばっていて力強い手。
 親指でそっと唇を撫でられれば、思わず瞳をつぶってしまう。彼の指の感触を唇で感じて、心臓が早くなっていくのを感じる。

 皓人さんの体温が、少しずつ私に近づいてくる。
 閉じた瞼の向こうで、ゆっくりと彼が動くのを感じた。
 頬にただ添えられていただけの手が、だんだんと意志を持ち始めて、私の唇を彼の元へと運んでいく。
 気づけば重なっていた唇に、無意識に声が漏れた。

 優しくて、柔らくて、甘い口づけ。

 数カ月ぶりに、皓人さんと唇を重ねた。
 数カ月ぶりなのに、彼のリズムを身体はちゃんと覚えていて。ゆっくりと彼の動きに合わせて、私も動く。何度も重ねては離れを繰り返し、ゆっくりと離れていく熱を、私は追いかけなかった。

「私のこと、好き?」

 彼の手の感触を頬に感じながら、至近距離の瞳を見つめて、問いかける。

「好きだよ」

 きっぱりとした口調で言い切る彼の瞳から、感情は読み取れない。彼の真意が、分からない。

「どこが?」

 じっと、彼を見つめる。すると、彼の瞳が左右に揺れ動く。

「いいじゃん、どこでも」

 面倒くさそうに、彼は言った。その言葉に、気持ちが沈む。
 こんな時でも、やはり彼は言ってくれない。

 魔法が、解けた。

 私は無言で彼から離れると、そのまま立ち上がって荷物をひっつかむ。何も言わずに階段の方に歩き始めると、私を止めようとする声と同時に、手首を掴まれる。
 それを私は、咄嗟に払いのけた。
 そのまま一目散に階段を駆け下りる私は、さながら0時の鐘の音を聞いた、シンデレラだ。でも、私はもう振り返らない。今度こそ、逃げ切る。
 そう思ったのに。
 階段の下にたどり着いた瞬間、偶然視界の隅に映った1着のドレスに私の足は止まってしまった。トラディショナルなスーツを着たマネキンの隣に並んだ、ドレス姿のマネキン。
 私はまた、王子の罠にとらわれてしまった。
 気づいたときには、私はマネキンの方へと足を進めていた。
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