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67. 白の訪問
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PCの電源を落として、大きなため息をつく。
どうなることかと心配だった一日が、何とか無事に終わった。いそいそと帰り支度を始める私の背後に、誰かが近づいてきた気配がした。
「ねえ、良かったら今日はパーっと飲みに行かない?」
そう声をかけてくれたのは、仁科さんだった。今朝の会話の後だ。妙な気を使ってくれたのだろう。
「冴子ちゃんも誘ってさ、気晴らしに、どう?」
おそらく親切心で言ってくれているだろう提案に、私は微妙な笑顔を顔に張り付けた。仁科さんと一緒に飲みに行くだけでも疲れそうなのに、そこに五十嵐さんも加わるなんて、私には公卿でしかない。
「ありがたいんですけど、今は1人で静かに頭の中を整理したいというか」
消え入りそうな小声で言えば、仁科さんはあからさまに不服そうな表情を見せつつも、納得したようにうなずいてくれる。
「そうね。なかなか時間がかかると思うけど、頑張って」
憐れむような視線と共に肩を叩かれ、私はまたも微妙な笑顔を顔に張り付けることしかできなかった。
「お疲れさまでした」
そう挨拶をしながら席を立った。見てはいけないと分かっているのに、自然と視線が菊地さんの方へと向いてしまう。そのまま絡まる視線に、心臓が音を立てる。
すぐに視線を逸らしたはずなのに、切なげに揺れる瞳が頭から離れなくて。再び「お疲れさまでした」と呟きながら、私は執務室の出入り口へと足早に向かった。
傷つけられたのは、私の方なのに。
裏切ったのは、彼の方なのに。
一日中同じ考えが何度もぐるぐる、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。その考えに没頭しすぎて、私は周囲の様子に一切の注意を払っていなかった。
「茉里ちゃん!」
鼻にかかったあの甘い声で名前を呼ばれて、私はようやく、既に自宅前までたどりついていたことに気が付いた。いつかと同じように、マンションのエントランスで私を待つ皓人さんを見て、なぜだか冬の到来を感じた。
「帰って」
雑にそう一言だけを放って、彼の隣を横切ろうとした。けれども、彼の長い腕はいとも簡単に私の肘を掴んで、話してはくれなかった。
「いきなりそれはないんじゃない? なんか、最近は会うたびにおれへの態度が雑になってきてる気がするんだけど」
笑顔を浮かべて、皓人さんは言う。
どうしてこの状況で、笑顔になれるのだろうか。
私は怒っていて、泣いていて、菊地さんだって泣いていて、それなのに、どうして皓人さんは笑っていられるんだろう?
「この状況で普通に接するなんてできないでしょ」
静かに放ったつもりの言葉には、力がこもっていて。自分が怒っているんだと、ようやく実感できた。
「もしかして、玄也にもそんな態度だったの?」
「それは……」
私は視線を彷徨わせた後、どう答えたらよいのか分からずにそのまま俯いた。あたんの上から、小さなため息が聞こえる。
「まあ、いいや。少なくとも、おれには素直な感情をぶつけてくれてるってことでしょ?」
顔を上げなくても、彼が小首を傾げているだろうことが分かる。
これは、顔を上げたら負けなやつだ。
「話を聞くつもりはないから」
そう言って腕を振り払おうとしたものの、意外と力が強くて振り払えない。私は抵抗を諦めてその場にただ佇むことにした。
その間、皓人さんは何も言ってこなくて。
この人はいったい、何をしにここに来たんだろう?
そんな疑問が浮かんだ頃、私はあることを思いついた。
「あ、そうだ。ついでだから、菊地さんの荷物、持って帰ってよ。今からまとめるか」
「無理」
人間、感情的になったら負けなんだと、この時私は痛感した。
思いがけない即答にイラっとした私は、つい顔を上げてしまったのだ。皓人さんが満足げに口の端を上げたのが分かり、悔しくて心の中で歯ぎしりする。
「無理って、自分の家に持って帰るだけでしょ?」
「んー、でも今日は帰らないから」
飄々とした表情でそう言い放たれて、私の頭の中に疑問符が浮かぶ。
「一昨日からまた、スタジオで寝泊まりしてるんだ。茉里ちゃんも来たことのある、おれの自由空間」
そう言われても、ますます疑問が募るばかりで。私の困惑した様子を見かねたのか、皓人さんは続けて口を開いた。
「茉里ちゃんってさ、けがした時にばんそうこう貼ったら、いつ剝がそうか迷ってる間にけががすっかり治って、自然とばんそうこうが剥がれていくタイプでしょ?」
突拍子のない質問に、私は我慢できずに首を傾げた。
皓人さんの言っていることは、正しい。けれども、どうしてそんなことを今聞いてくるんだろう?
「玄也はさ、けがが治ってることをちゃんと確認してから、ばんそうこうを剥がすタイプなんだよね」
皓人さんの言葉に、私は無意識に頷いてしまった。
そう、菊地さんは大胆に見えて意外と慎重なところがある。だから、皓人さんの言った通りなんだろうことは容易に想像ができる。
「おれは、感覚的にだいじょうぶなんじゃないかなーって思ったら、一気に剥がしちゃうタイプなんだ。それでもしかさぶたのなりかけが取れて、またけがになっちゃっても、まあいっか、って思っちゃうんだ。どうせいつかは治るんだし、って」
彼の言っている様子がすぐに頭に浮かんできて、私はまたも自然と頷いてしまう。マイペースで意外と大胆な皓人さんらしい。けれども、ばんそうこうの剥がし方を今の状況で話す意味は、相変わらず分からない。
「だからさ、今回も一気に行っちゃえ! と思ったわけ。早く分かった方が、早く一緒になれるじゃんって。でも、失敗だったかも。ちょっと、荒療治すぎたのかな」
珍しく、皓人さんが乾いた笑いを漏らした。私はどう反応した良いのか、相変わらず分からない。
「あんな形で茉里ちゃんに伝えるつもりじゃなかったって、玄也が怒っちゃって。それで、一緒の部屋にはいられないっていうから、おれがスタジオに移ったってわけ」
そこまで言い終わると、皓人さんは私の様子を窺う。
同情なんてしない。自業自得というか、私には関係のない話だ。
そう決め込んで、私は無表情に皓人さんを見つめ返した。そんな私の様子に、皓人さんは深いため息を1つ落とす。
「……だから、ごめん。あれは、ちょっと強引だったと思う」
肩を落として頭を下げる皓人さんの姿に驚きつつも、私は自分の心が冷えていくのを感じた。
皓人さんが謝っているのは、あくまでもこの週末のことだけだ。それ以外の、私を騙していたことだとか、菊地さんとの関係を隠していたことだとか、そういったことについては謝るつもりがないことを、私は痛感した。
「靴は、ちゃんと返すから」
皓人さんがそう言うなり、私は小さく頭を振った。
「もう、菊地さんに返してもらった」
答えながら、私は彼の視線を避けるように俯いた。「そっか」という皓人さんの小さなつぶやきだけだ、私の耳に入ってきた。
「おれの話を聞きたくないのは分かったけどさ、アイツの話は聞いてやってくれない?」
ぽつり、と皓人さんの言葉が落とされる。
皓人さんが、誰かのために頼みごとをするのを始めてみた。いつも自分のペースなあの皓人さんが。皓人さんにとって菊地さんが大切な人なんだろうことを、私はようやく実感した。
「玄也は、おれたちの状況を茉里ちゃんにどう説明するか、ずっと悩んでたし考えてた。それがもどかしくて、おれが全部台無しにしちゃったけど、今回失敗したのはおれだけだからさ。だから、玄也の話は聞いてやって欲しいんだ」
誰かのために切実に何かを訴える皓人さんの声音を、初めて聞いたかもしれない。こんなに感情をあらわにする彼を見るのは、珍しい。彼がこんな風に感情を見せたのは、私の部屋を訪ねてきたあの雨の日以来ではないだろうか。
『茉里ちゃんと離れてみて気付いたんだ。茉里ちゃんには、おれのそばにいてほしい。いつだって、茉里ちゃんに会いたいたくなる。出会ったあの日からずっと、おれの気持ちは変わらない』
あの日の言葉は、どこまでが真実だったのだろうか。
あの日の言葉に、真実などあったのだろうか。
俯いたまま、私は下唇をぐっと噛み締めた。
もしもこの光景を菊地さんが見ていたら、「またやってるぞ」なんて言いながら、私の唇に自分の指を這わせたんだろう。でも、そんな彼は、ここにはいない。
そんな彼は、もうどこにもいない。
あれも全部、嘘だったんだから。
「話したくないって、もう菊地さんに伝えてあるから」
ようやく絞り出した声にははっきりと拒絶の色が見えた。一瞬だけ、私の腕を掴む皓人さんの力が弱まった気がした。
「菊地さんも、納得してくれたから。だから、もう話すことなんてない」
そう言い切って、私は皓人さんの手を振り払った。
もう話すことなんて、ない。
もう関わる必要なんて、ない。
もう関わりたくない。
そんな思いを込めて、皓人さんの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「なんで?」
納得いかない、という声音のくせに、皓人さんの表情は妙に空っぽだ。
「なんでそんな、それが、茉里ちゃんの出した答え?」
「そう」
「どうして? おれたち、だって、3人でいれば全部うまくいくのに。玄也は茉里ちゃんが好きで、茉里ちゃんも玄也が好きで、でも茉里ちゃんはおれのことも好きで、おれも茉里ちゃんのことが好きで、おれと玄也もお互いのことが好きで、全部、丸く収まってるじゃん」
まるで呪文のような皓人さんの言葉に、私は小さく首を振った。
これは、本当に呪文だ。
私の心と脳を惑わす呪文。
私から、正しい思考力を奪う呪文。
3人で、なんてありえないんだから。
「選ばなくていいんだよ。おれと玄也のどっちかを選ばなくていい。茉里ちゃんにとっては最高でしょ? 3人で幸せになれるのに、なんでおれたちを突き放すのさ」
皓人さんが再び私の方へと腕を伸ばそうとするのを、さっと身体を引いて避ける。
「何もわかってないからだよ」
ぽつり、と私はつぶやいた。
「皓人さんが、何も分かってないからだよ」
嘘をつかれて、騙されて。そんな状況で幸せになんて、なれるわけがないんだから。
私の言葉は、皓人さんの耳には届いただろう。
けれども、その意味を理解できていないのか、皓人さんは眉根を寄せてただじっと無言で私を見つめ返すことしかしなかった。
これ以上、ここにいても意味がない。
そう悟った私は、何も言わずにエントランスを抜けた。今度ばかりは皓人さんも、私を止めようとはしなかった。
どうなることかと心配だった一日が、何とか無事に終わった。いそいそと帰り支度を始める私の背後に、誰かが近づいてきた気配がした。
「ねえ、良かったら今日はパーっと飲みに行かない?」
そう声をかけてくれたのは、仁科さんだった。今朝の会話の後だ。妙な気を使ってくれたのだろう。
「冴子ちゃんも誘ってさ、気晴らしに、どう?」
おそらく親切心で言ってくれているだろう提案に、私は微妙な笑顔を顔に張り付けた。仁科さんと一緒に飲みに行くだけでも疲れそうなのに、そこに五十嵐さんも加わるなんて、私には公卿でしかない。
「ありがたいんですけど、今は1人で静かに頭の中を整理したいというか」
消え入りそうな小声で言えば、仁科さんはあからさまに不服そうな表情を見せつつも、納得したようにうなずいてくれる。
「そうね。なかなか時間がかかると思うけど、頑張って」
憐れむような視線と共に肩を叩かれ、私はまたも微妙な笑顔を顔に張り付けることしかできなかった。
「お疲れさまでした」
そう挨拶をしながら席を立った。見てはいけないと分かっているのに、自然と視線が菊地さんの方へと向いてしまう。そのまま絡まる視線に、心臓が音を立てる。
すぐに視線を逸らしたはずなのに、切なげに揺れる瞳が頭から離れなくて。再び「お疲れさまでした」と呟きながら、私は執務室の出入り口へと足早に向かった。
傷つけられたのは、私の方なのに。
裏切ったのは、彼の方なのに。
一日中同じ考えが何度もぐるぐる、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。その考えに没頭しすぎて、私は周囲の様子に一切の注意を払っていなかった。
「茉里ちゃん!」
鼻にかかったあの甘い声で名前を呼ばれて、私はようやく、既に自宅前までたどりついていたことに気が付いた。いつかと同じように、マンションのエントランスで私を待つ皓人さんを見て、なぜだか冬の到来を感じた。
「帰って」
雑にそう一言だけを放って、彼の隣を横切ろうとした。けれども、彼の長い腕はいとも簡単に私の肘を掴んで、話してはくれなかった。
「いきなりそれはないんじゃない? なんか、最近は会うたびにおれへの態度が雑になってきてる気がするんだけど」
笑顔を浮かべて、皓人さんは言う。
どうしてこの状況で、笑顔になれるのだろうか。
私は怒っていて、泣いていて、菊地さんだって泣いていて、それなのに、どうして皓人さんは笑っていられるんだろう?
「この状況で普通に接するなんてできないでしょ」
静かに放ったつもりの言葉には、力がこもっていて。自分が怒っているんだと、ようやく実感できた。
「もしかして、玄也にもそんな態度だったの?」
「それは……」
私は視線を彷徨わせた後、どう答えたらよいのか分からずにそのまま俯いた。あたんの上から、小さなため息が聞こえる。
「まあ、いいや。少なくとも、おれには素直な感情をぶつけてくれてるってことでしょ?」
顔を上げなくても、彼が小首を傾げているだろうことが分かる。
これは、顔を上げたら負けなやつだ。
「話を聞くつもりはないから」
そう言って腕を振り払おうとしたものの、意外と力が強くて振り払えない。私は抵抗を諦めてその場にただ佇むことにした。
その間、皓人さんは何も言ってこなくて。
この人はいったい、何をしにここに来たんだろう?
そんな疑問が浮かんだ頃、私はあることを思いついた。
「あ、そうだ。ついでだから、菊地さんの荷物、持って帰ってよ。今からまとめるか」
「無理」
人間、感情的になったら負けなんだと、この時私は痛感した。
思いがけない即答にイラっとした私は、つい顔を上げてしまったのだ。皓人さんが満足げに口の端を上げたのが分かり、悔しくて心の中で歯ぎしりする。
「無理って、自分の家に持って帰るだけでしょ?」
「んー、でも今日は帰らないから」
飄々とした表情でそう言い放たれて、私の頭の中に疑問符が浮かぶ。
「一昨日からまた、スタジオで寝泊まりしてるんだ。茉里ちゃんも来たことのある、おれの自由空間」
そう言われても、ますます疑問が募るばかりで。私の困惑した様子を見かねたのか、皓人さんは続けて口を開いた。
「茉里ちゃんってさ、けがした時にばんそうこう貼ったら、いつ剝がそうか迷ってる間にけががすっかり治って、自然とばんそうこうが剥がれていくタイプでしょ?」
突拍子のない質問に、私は我慢できずに首を傾げた。
皓人さんの言っていることは、正しい。けれども、どうしてそんなことを今聞いてくるんだろう?
「玄也はさ、けがが治ってることをちゃんと確認してから、ばんそうこうを剥がすタイプなんだよね」
皓人さんの言葉に、私は無意識に頷いてしまった。
そう、菊地さんは大胆に見えて意外と慎重なところがある。だから、皓人さんの言った通りなんだろうことは容易に想像ができる。
「おれは、感覚的にだいじょうぶなんじゃないかなーって思ったら、一気に剥がしちゃうタイプなんだ。それでもしかさぶたのなりかけが取れて、またけがになっちゃっても、まあいっか、って思っちゃうんだ。どうせいつかは治るんだし、って」
彼の言っている様子がすぐに頭に浮かんできて、私はまたも自然と頷いてしまう。マイペースで意外と大胆な皓人さんらしい。けれども、ばんそうこうの剥がし方を今の状況で話す意味は、相変わらず分からない。
「だからさ、今回も一気に行っちゃえ! と思ったわけ。早く分かった方が、早く一緒になれるじゃんって。でも、失敗だったかも。ちょっと、荒療治すぎたのかな」
珍しく、皓人さんが乾いた笑いを漏らした。私はどう反応した良いのか、相変わらず分からない。
「あんな形で茉里ちゃんに伝えるつもりじゃなかったって、玄也が怒っちゃって。それで、一緒の部屋にはいられないっていうから、おれがスタジオに移ったってわけ」
そこまで言い終わると、皓人さんは私の様子を窺う。
同情なんてしない。自業自得というか、私には関係のない話だ。
そう決め込んで、私は無表情に皓人さんを見つめ返した。そんな私の様子に、皓人さんは深いため息を1つ落とす。
「……だから、ごめん。あれは、ちょっと強引だったと思う」
肩を落として頭を下げる皓人さんの姿に驚きつつも、私は自分の心が冷えていくのを感じた。
皓人さんが謝っているのは、あくまでもこの週末のことだけだ。それ以外の、私を騙していたことだとか、菊地さんとの関係を隠していたことだとか、そういったことについては謝るつもりがないことを、私は痛感した。
「靴は、ちゃんと返すから」
皓人さんがそう言うなり、私は小さく頭を振った。
「もう、菊地さんに返してもらった」
答えながら、私は彼の視線を避けるように俯いた。「そっか」という皓人さんの小さなつぶやきだけだ、私の耳に入ってきた。
「おれの話を聞きたくないのは分かったけどさ、アイツの話は聞いてやってくれない?」
ぽつり、と皓人さんの言葉が落とされる。
皓人さんが、誰かのために頼みごとをするのを始めてみた。いつも自分のペースなあの皓人さんが。皓人さんにとって菊地さんが大切な人なんだろうことを、私はようやく実感した。
「玄也は、おれたちの状況を茉里ちゃんにどう説明するか、ずっと悩んでたし考えてた。それがもどかしくて、おれが全部台無しにしちゃったけど、今回失敗したのはおれだけだからさ。だから、玄也の話は聞いてやって欲しいんだ」
誰かのために切実に何かを訴える皓人さんの声音を、初めて聞いたかもしれない。こんなに感情をあらわにする彼を見るのは、珍しい。彼がこんな風に感情を見せたのは、私の部屋を訪ねてきたあの雨の日以来ではないだろうか。
『茉里ちゃんと離れてみて気付いたんだ。茉里ちゃんには、おれのそばにいてほしい。いつだって、茉里ちゃんに会いたいたくなる。出会ったあの日からずっと、おれの気持ちは変わらない』
あの日の言葉は、どこまでが真実だったのだろうか。
あの日の言葉に、真実などあったのだろうか。
俯いたまま、私は下唇をぐっと噛み締めた。
もしもこの光景を菊地さんが見ていたら、「またやってるぞ」なんて言いながら、私の唇に自分の指を這わせたんだろう。でも、そんな彼は、ここにはいない。
そんな彼は、もうどこにもいない。
あれも全部、嘘だったんだから。
「話したくないって、もう菊地さんに伝えてあるから」
ようやく絞り出した声にははっきりと拒絶の色が見えた。一瞬だけ、私の腕を掴む皓人さんの力が弱まった気がした。
「菊地さんも、納得してくれたから。だから、もう話すことなんてない」
そう言い切って、私は皓人さんの手を振り払った。
もう話すことなんて、ない。
もう関わる必要なんて、ない。
もう関わりたくない。
そんな思いを込めて、皓人さんの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「なんで?」
納得いかない、という声音のくせに、皓人さんの表情は妙に空っぽだ。
「なんでそんな、それが、茉里ちゃんの出した答え?」
「そう」
「どうして? おれたち、だって、3人でいれば全部うまくいくのに。玄也は茉里ちゃんが好きで、茉里ちゃんも玄也が好きで、でも茉里ちゃんはおれのことも好きで、おれも茉里ちゃんのことが好きで、おれと玄也もお互いのことが好きで、全部、丸く収まってるじゃん」
まるで呪文のような皓人さんの言葉に、私は小さく首を振った。
これは、本当に呪文だ。
私の心と脳を惑わす呪文。
私から、正しい思考力を奪う呪文。
3人で、なんてありえないんだから。
「選ばなくていいんだよ。おれと玄也のどっちかを選ばなくていい。茉里ちゃんにとっては最高でしょ? 3人で幸せになれるのに、なんでおれたちを突き放すのさ」
皓人さんが再び私の方へと腕を伸ばそうとするのを、さっと身体を引いて避ける。
「何もわかってないからだよ」
ぽつり、と私はつぶやいた。
「皓人さんが、何も分かってないからだよ」
嘘をつかれて、騙されて。そんな状況で幸せになんて、なれるわけがないんだから。
私の言葉は、皓人さんの耳には届いただろう。
けれども、その意味を理解できていないのか、皓人さんは眉根を寄せてただじっと無言で私を見つめ返すことしかしなかった。
これ以上、ここにいても意味がない。
そう悟った私は、何も言わずにエントランスを抜けた。今度ばかりは皓人さんも、私を止めようとはしなかった。
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