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56. 白の影
しおりを挟む「ただいま」
すっかりなじんだ声の、すっかりなじんだセリフが自分の家の中に響く。その響きを、台所で聴く。少しくすぐったくなる現象に、思わず笑みがこぼれる。
「おかえりなさい」
この言葉を使って笑顔で誰かを迎えられる日常が来るなんて、お父さんが死んでからは想像できていなかった。
この幸せが、いい。
この幸せを、壊したくない。
「仕事、落ち着きましたか?」
ジャケットの上着を脱いで洗面所に向かう菊地さんの背中に向かって、私は問いかけた。
「んー、まあ、今日のところはね。でも、明日もまた残業になるかも」
そう言うなり、水の音が響く。こんな些細なやり取りも、に事情っぽさがあって私は好きだ。何より、安心する。
「その新しい彼氏は、茉里ちゃんを安心させてくれるの?」
不意に、先ほどの皓人さんの言葉が脳裏をよぎる。
うん、そうだよ。菊地さんはいつだって私を安心させてくれるんだよ。
心の中で、そう答える。
これが自分の出した答え。そのはずなのに、最後に見た皓人さんの表情に、どうしても胸が締め付けられてしまう。
「あれ? これ、どっか買い物行ったの?」
菊地さんの声に、私は振り向いて彼の指が指し示すものを確認する。部屋の隅に置いていた皓人さんからもらった紙袋を、目ざとく発見したらしい。隠すのも違うし、かといって正直に言うのも違う、と迷って結局紙袋の所在を決めらず、部屋の隅に置いたままにしていた。
どう答えるべきか、私は頭の中の答えを必死に探す。
「ううん、そうじゃなくて」
言いながら、私は気まずそうに視線をあちらこちらに泳がせた。こういう時、すぐに言葉が出てこない。
正直に言うべきか、それとも適当にごまかすべきか、どちらを選ぶのが正しいんだろう?
「もしかして、前の彼氏関連?」
静かに、ズバリ図星を突かれて、私は思わず目を見開いて黙ってしまった。私の表情を見て、菊地さんは答えを察したようだった。ほんの少しの気まずい微笑と共に、彼は紙袋の方へと視線を再び落とした。
「当たり、か」
乾いた笑い声が、部屋に響く。
「か、帰ってきたらね、マンションのエントランスのところにいて。本当に急で驚いたんだけど、驚いてたら、そのまま、紙袋を受け取ってて」
自分の言葉なのに、事実を話しているはずなのに、すべてが妙に嘘っぽく聞こえるのはどうしてなんだろう。
コンロの火を消して、私は菊地さんの方へと駆け寄った。
「ごめんなさい。軽々しく受け取るべきじゃ、ないですよね」
そう話しながらも、彼の隣で正座をしてしまうのは、自分の中にやましい気持ちがあるからなのだろうか。
「中谷」
優しく声をかけられても、私は罪悪感のせいなのか、すぐには顔を上げられなかった。
「中谷、俺は気にしてないから」
菊地さんの優しい声音がすっと、私の耳に入ってくる。
「え?」
私が顔を上げれば、菊地さんは本当に気にしていなさそうな、優しい笑顔を浮かべていた。
「別れた恋人のものを返すのって、まあ、そこそこあることだし。別れた直後じゃなくて、ちょっと相手からってことも、ざらだし。そういうもんだって、分かってるからさ。別に中谷が必要以上に気にすることじゃないよ」
そう言いながら、菊地さんは優しく私の頭を撫でてくれる。その手に、その心遣いに、その言葉に、つい甘えてしまう。
「本当に、急だったんです」
彼の肩にそっと頭をもたれかからせながら、私はつぶやいた。
「まあ、そりゃあ連絡とってなかったらそうなるよな」
ポン、ポン、とゆったりしたリズムで、菊地さんが私の背中を叩く。まるで、子供をあやすみたいに。それが妙に心地よくて、思わず目を閉じてしまいそうになった。その瞬間、グー、という音がして閉じかけていた瞳がパチッと開いた。
「あ、ごめん、お腹、鳴っちゃった」
珍しく少し間抜けな、ばつの悪そうな表情の菊地さんに、私は思わず吹き出してしまった。
「なんか、今のタイミング、絶対違ったよな」
ワタワタと慌てる彼に、クスリ、と笑みをこぼしながら、私はゆっくりと立ち上がった。
「ごはん、食べましょう。今日は鮭のみぞれ煮です」
つぶやきながら、私はキッチンへと向かう。
あんな風にお腹が鳴って、それにあんな風に反応するなんて、菊地さんって時々かわいらしいところがあるんだよな。ちょっと抜けているというか、そういうところも、愛おしいのだけれども。そんな風に考えながら、私は食器棚に手を伸ばした。
そういえば、皓人さんも最初のデートの時、お腹鳴らしていたな。あの時は私には音が聞こえなかったけれども、皓人さんはすっかり恥ずかしそうにしていて。男の人って、案外お腹の音を聞かれるの、恥ずかしい者なんだな。そこまで考えてようやく、無意識に皓人さんのことを考えている自分に気が付いた。
たった1回。
たった1回、ほんの少しの時間を一緒に過ごしただけなのに。
もうすでに、頭の中に皓人さんが戻ってきてしまっている。
私は驚いて、必死に頭の中の考えを一旦すべて掃いて捨てる。こんなの、間違っている。私は菊地さんを選んだのに、それなのに。
全部、皓人さんのせいだ。
皓人さんが、あんな表情を見せるから。
私は自分にそう言い聞かせながら、手を動かし続けた。
*************************
「菊地さんって、なんでそんなにいつもばっちりきまってるんですか?」
不意に、笹山さんの言葉が耳に届く。私は目の前のPC画面に意識を集中させつつも、ついつい耳では彼らの会話を捉えようとしてしまう。
「別に、普通だよ、普通」
そう笑いながら彼はごまかす。
「普通じゃないですよ。髪形だっていつもきまってますし」
笹山さんの言葉に、つい頭の中では様々な菊地さんの映像が再生されてしまう。お風呂上り、少し湿った髪を下ろしている菊地さんに、朝、ほんのり寝ぐせの着いた菊地さん、それから、乱れた髪を汗で額に張り付かせた菊地さん、が浮かんだところで私は必死に脳内イメージを振り払った。
私は職場で一体何を想像しているんだか。
「指先まで、もう完璧じゃないですか。うわ、爪までちゃんときれいに切りそろえてるし」
少しオーバーに驚いたリアクションをする笹山さんが、なんだかおもしろくてついつい笑いそうになるのを必死でこらえた。
「まあ、爪は、男としてのエチケットというか」
ふーん、と何の気なしに話を受け流しつつ、何の気なしに彼らの方へと視線を移した。不敵な笑みを浮かべた菊地さんが視界に入って、その表情に引っ掛かりを覚える。今の会話に、あんな表情をする要素があっただろうか。別に、一般論の話をしていただけだろうに。
疑問に思いつつもPC画面に視線を戻して数秒後、唐突に彼の意味するところが理解できて、首筋に熱が集まる。そういえば、確かに彼は爪を切っていた。そのタイミングは、いつも決まって……。
どうにか自分の心を落ち着かせようと、必死に今朝の満員電車の情景を頭に思い起こす。深呼吸を繰り返し、あくまでも冷静を装った。
「スーツは何かこだわりとかあるんですか?」
もはやインタビューと化した笹山さんからの質問に、菊地さんはまじめに答え続ける。
「俺のこだわりというか、知り合いのところで買うことが多いから、その知り合いのこだわり、だな」
「なんなんですか、そのかっこよすぎる答えは」
妙に興奮して笹山さんは声を上げる。その興奮具合が微笑ましくて、ついつい顔を上げたところで笹山さんと目が合ってしまった。
「中谷さん、知ってます? 菊地さんってファッション関係の知り合いがいるんですって。かっこよくないですか?」
満面の笑みでの質問に、私は笑顔で頷いた。合法的に彼氏が格好いいとオフィスの中心で言える機会はそうそうないので、ここは乗るが吉だ。
「ファッション関係の友達とか、なかなかいませんよね? 中谷さん、います?」
唐突に矛先にされてしまった私が「いない」と答えようとした瞬間、頭の中に皓人さんの姿が浮かんだ。
「います、ね」
動揺を悟られないように、あくまでも普通の調子を心がけて私は言った。
「えー、そういうもんですか? もしかして、僕がいないだけ? 僕の交友関係が地味ってことですか?」
一人で騒ぐ笹山さんに愛想笑いを返しながら、私は再びPCへと視線を戻した。
今の私の微かな動揺は、菊地さんに悟られてしまっただろうか。
気にし過ぎだとわかっているのに、なぜだか菊地さんの方へと視線を挙げられない。やましい気持ちはないのに。ないはずなのに。ただ皓人さんがファッションデザイナーだった、それだけなのに。偶然、笹山さんに訊かれた答えが彼だった、それだけのことなのに。
どうして私は、動揺してしまっているんだろう?
「笹山、そろそろ口じゃなくて手を動かした方がいいぞ。残業になって中谷に迷惑かけるのだけはやめろよ」
そんな言葉が、どこか遠くで聞こえた。
こんな風に菊地さんはいつだって優しいのに。いつだって私を気にかけてくれているのに。それなのに、私は……。
思わず、下唇をぐっと噛み締めてしまう。
「すみません。ついつい話に夢中になっちゃって。あ、中谷さんには迷惑かけないから安心して」
笹山さんの言葉に私は曖昧な笑顔だけを返した。菊地さんの視線を避けるようにPCを見つめていると、遠くから仁科さんがこちらを見つめているのが分かった。その表情の意味がなんなのか、私にはわからない。けれども、私たちのやり取りを観察しているようだ。
居心地の悪さに、私は深いため息をついた。
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