灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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50. 黒と信頼

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 テーブルの上に置いたスマートフォンを見つめ、唸ること約30分。一体どうしたものか。
 唐突に届いた、皓人さんからのメッセージ。
 あの別れ方でひと月以上連絡を取り合っていない状況からの、唐突のメッセージ。しかも厄介なことに、小さな枠に表示されるハイライトは画像を受信したことしか教えてくれない。
 つまり、内容を知るにはトーク画面を開かないといけない。気にならないと言ったらウソになる。けれども、今トーク画面を開くのは、なんだか違う気がする。

 迷っている最中、突然スマートフォンが光始めて、驚いてその場で飛び上がってしまう。画面に表示された菊地さんの名前に安心しつつも、今日の彩可との会話を思い出してなんとなくモヤモヤが残る。

「もしもし? 今、大丈夫だった?」

 私を気遣ってくれるいつもの優しい声に、つい安心して笑みが洩れる。

「はい。大丈夫です。いきなり電話なんて、どうしたんですか?」

 付き合い始めてから、菊地さんはまめに連絡をくれる。その手段にはもちろん電話も含まれていたけれども、いつもは電話する前に一言メッセージをくれていた。それが、今日は珍しく事前の連絡がなかった。

「うん、ちょっと、中谷の声を聴きたいなって思って」

 そう話す菊地さんの声は、いつもよりリラックスしているというか、雰囲気が緩い。

「もしかして、酔ってます?」
「あ、バレた?」

 私の質問にそう答えれば、クツクツと菊地さんは笑う。それがなんだか微笑ましくて、自然と頬も緩む。

「今日、久々に大学の時のサークル仲間と集まってさ、ちょっと飲んできた。中谷は? 彩可さんとのんびりできた?」

 菊地さんの口から語られる彩可の名前に、私は再び親友の思いがけない言葉を思い出した。

『男友達じゃなくて、女だよ』

 妙な確信を持った彩可の言葉は、呪いのように頭のなかをグルグル回る。長い付き合いの親友の言葉を、そう簡単に無視することはできない。でも……。

「彩可には、ちょっと呆れられちゃったかもしれません」

 ウソにならないように、言葉を選びながら私は答える。

「なんで?」
「菊地さんのこと、話しすぎたから?」

 私の答えに、菊地さんがまたクツクツと、今度は満足げに笑っているのが分かった。
 うん、これでいい。
 変な疑いの種は、蒔かないのがきっと一番だ。

「何、中谷ってそんなに俺のこと好きなの?」

 いつものちょっと意地悪な言葉に、スマートフォンをテーブルに置いてスピーカーモードで話していたことを、初めて後悔した。これは、耳元で聴きたかった。絶対に、本人には言わないけれども。

「まあ、俺も似たようなもんだよ。彼女できたって話したら、盛り上がっちゃって飲みに連れてかれて。30過ぎの男だけで額付き合わせて、恋バナ。なかなかな光景だよ」

 機嫌良さそうに笑いながら話す菊地さんの姿が、声を聞いただけで容易に浮かんできた。私の好きな笑い声に、私の好きな笑顔。どうしてもっと早く素直にならなかったんだろう、と思うほどに遠回りした自分が少し恨めしい。

「ルームメイトさんも一緒だったんですか?」

 決して試すつもりはなかった。彩可の言葉を気にしていたわけでも、ないつもりだった。ただ自然と口からその言葉が飛び出して、自分で少し戸惑ってしまう。

「いや、アイツとは大学バラバラだし、そもそもああいう集まりには参加しないタイプだからさ。俺が入ってたのバスケサークルで、卒業してからも定期的に公園とかで集まって汗流すんだけど、アイツは汗かいてるところをむしろ想像できないタイプっていうか」

 菊地さんの話を聞きながら、私は適度に相槌を打つ。
 ウソっぽくは聞こえないな。
 そう考えている自分に気づいて、私は必死にその考えを頭から振り払った。やはり彩可の言葉を気にしてしまっている。菊地さんを信じたいと思っているくせに、彼の言葉から真偽を確かめようとしてしまっている。そんなこと、したくないのに。

 それから、話題はそれぞれの大学時代の話へと逸れていったので、私が疑心暗鬼になり続けるようなことはなかった。
 
 通話を終えて一息ついてから、私は再びメッセージアプリを立ち上げた。菊地さんの名前の下に浮かぶ皓人さんの名前をじっと見つめる。
 
皓人さんとの関係にきれいな区切りをつける前から、私と菊地さんとの間には既に何か存在していた。それでも、彼は待っていてくれた。強引に、先へと進めることもしなかった。まずは皓人さんとの関係に区切りをつけたいという私の希望を尊重してくれた。を嫌がる素振りも、面倒くさがるそぶりも見せずに。
 菊地さんが私を信じてくれていたからこそ、できたことだと思う。
 一方で私は、彩可の言葉に踊らされて、菊地さんの周りに他の女性の影がないかどうか、勘ぐろうとしてしまっている。それは、菊地さんを信頼できていないということ。でも、私は菊地さんを信じたい。
 彩可の言葉は無下にはできない。
 けれども、ルームシェアのことは、菊地さんの言葉を信じよう。
 私はその場で大きく頷いた。
 
 じゃあ、皓人さんのことは?
 再び、私はスマートフォンに視線を落とす。
 まず、メッセージを確認するのはやめておこう。既読は、つけない。連絡先を消す、のは、なんだか憚られる。いきなりそこまで極端な行動に出る必要はない、はず。
 なら、ブロックするべきだろうか?
 それはそれで、なんだか皓人さんのことを意識しすぎているような気もする。でも、何もしないでずっとこの画面に名前があるのも気になるというか、なんだかまだ関係を断てていないような気がして、菊地さんにも失礼な気がする。
 名前を見ただけで気持ちが揺らぐことはない。けれども、やはり未読があると気になってしまう。
 考えに考えた末、私は皓人さんとのトーク画面が目に入らないよう、非表示にすることにした。

*************************

「キスしたいって、会社で思う時ない?」

 ちょうどミーティングが終わったばかりの会議室。後片付けのために私と菊地さんの2人きり。そんなシチュエーションで、菊地さんが唐突に爆弾を投下する。
 会社内での突然の発言に、私は大慌てで周囲を見回して2人きりであることを再度確認する。ガラス張りの会議室なので、通りすがりの人から私たちが見えてはいるが、さすがに話は聞こえていないだろう。
 再び菊地さんの方へと向き直れば、いつもの意地悪な笑みを浮かべていて、思わず顔周りの温度が上昇する。
 
「そういう話、会社ではあまりしないでください」

 余った資料で顔を仰ぎながら、私は言った。

「誰も聞いてないのに?」

 唇の方端を上げながら、菊地さんは続けた。おそらく真っ赤になっているだろう私とは対照的に、涼しそうな顔をしている。

「危機感は持つに越したことがないかと」

 答えながら、欠席者の座席に残った資料を1つずつ回収していく。

「ま、珍しく2人きりなんだし、雑談の延長だって」

 くるくると器用にケーブルを巻き付けながら、菊地さんは言った。料理は苦手だけれども、なんだかんだ手先を使うのはうまいんだよな、なんて考えてから、あの指が頬を撫でる感触を勝手に思い出して私は自爆した。彼に悟られないよう、背中を向けて平然を装う。

「単純にキスするだけならさ、チャンスはいくらでもあるわけよ。死角とかさ、タイミングを考えれば、いけなくないと思うんだよね」

 ベリリとマジックテープを引きはがす独特の音が、2人きりの会議室ではやたらと大きく響いた。

「やっぱり問題は、リップなんだよな」

 思いもよらない言葉に、私はついつい勢いよく彼の方へと振り返ってしまった。

「中谷が会社で使ってる口紅? って、結構すぐに色落ちするじゃん? 下唇噛んだ時とか、飲み物飲んだ後とか、落ちてるな、って思うわけ」
「よく見てますね」
「うん、中谷の唇はよく見てる。唇だけで中谷を当てろって言われたら、外さない自信がある」

 唐突な謎の力説に、ついついクスリと笑いが漏れてしまった。

「中谷はさ、口紅を塗り直せばいいけど、俺はどうすればいいのかなって。さすがに中谷の口紅を口の周りにつけたまま歩いてたら、バレるだろうし。携帯用のメイク落とし的なのを持ち歩くとか? それもなんか変だよな?」

 至極まじめな真剣な表情で、菊地さんは問いかける。話題と表情のギャップがあまりにもおかしくて、またも私の口から笑いが漏れた。

「笑うなよ。俺は真剣に話してるんだからさ」

 資料を集め終わった私は、ノートパソコンと筆記用具をまとめて、腕に抱えた。菊地さんも片づけが終わったらしく、私の準備が整ったことを確認すると、そのまま会議室の扉を開けて私が先に出るように促す。

「前の彼女の時はどうしてたんですか?」

 通路を歩きながら、何の気なしに私は訊ねた。自分で尋ねたくせに、ここで経験談が語られたらちょっとしんどいな、と思った。というか、相手が誰だったのか気になってしまう。

「いや、社内の人とは付き合ったことないからさ。逆に中谷の前の彼氏は?」

 問いかけながら、菊地さんはエレベーターのボタンを押す。その仕草のどこにも、嫉妬している様子は見られない。菊地さんの昔の恋人が車内にいないことに安堵しつつも、反対に菊地さんが私の昔の恋人のことには無反応なことに、少しばかり拗ねてしまう。我ながら、面倒な女だ。

「あの人たちとは、そういう感じじゃなかったので」

 話しながら、私の頭の中と菊地さんの頭の中には同じ2人の人物が浮かんでいるんだろうな、と思った。特に接点がないとはいえ、なんだか変な気分だ。
 タイミングよくエレベーターがやって来たので、話を中断して2人で乗り込む。偶然、他に乗っている人は誰もいなくて、図らずも再び密室に2人きりとなった。

 何かがあるわけでもないのに、なんだかドキドキしてしまうのは、不埒な私が何かが起きることを期待しているのだろうか。扉が閉まったのを確認してから、ちらり、と菊地さんの方を見上げると、彼はまっすぐに正面を向いていて私など眼中に入っていなさそうだった。
 場違いにもちょっぴりがっかりして正面を向けば、こらえきれなかったような笑いが菊地さんの口から洩れた。
 慌てて顔を上げれば、そのタイミングを待っていたかのように、菊地さんの顔が一気に近づいてきて、一瞬触れるだけの小さな口づけが私の唇に落とされた。状況をすぐには理解できず、驚いたまま目を見開いて固まる私を見て、菊地さんはまたも笑みをこぼす。

「拗ねてるのがかわいかったから」

 そう言いながら、彼は無造作に自分の唇を親指で拭う。その仕草が妙に色っぽくて、思わず身体の芯が疼く。ここは会社なのに、私ってば何考えているんだろう。恥ずかしさで再び顔に熱が集まるのを感じた。

「やっぱ、色、つくね。中谷の方は見た感じ大丈夫そうだけど」

 菊地さんが笑いながらそう言い終わった時、ポーン、とエレベーターの扉が開かれる。開かれた扉の向こうには、仁科さんが立っていて、中に私たちが乗っているのを見て、少し驚いたような表情をしたまま、中に乗り込んできた。

「お疲れ様です」

 そうあいさつすると、仁科さんは曖昧な笑顔のまま、私に小さく頭を下げた。エレベーターの中を微妙な空気が充満する。

「仁科、たかだか2階分のためにエレベーター使うなよ」

 微妙な空気に気づかないのか、はたまた気づいたから敢えてなのか、いつもの軽い調子で菊地さんが声をかける。

「別にいいじゃん、私の勝手でしょ? アンタにとやかく言われる筋合いないわよ」

 そう言いながら、仁科さんは菊地さんを小突いた。
 いつもと、変わらない?
 目的階についても、2人の小競り合いは終わらなくて、私はただボーっと2人のやり取りを後ろから眺めていた。執務室の扉の前までたどりつくと、当たり前のように菊地さんが扉を開けて、手ぶらの仁科さんを先に中へ通す。それからすぐに、菊地さんは私に目線で先に入るように伝える。小さく頭を下げてから中に入った私を、なぜだか仁科さんは奇妙な表情で見つめていた。
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