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49. 黒と紙詰まり
しおりを挟むガーガーとコピー機が唸り声を上げる。資料の印刷は単調な事務作業ではあるものの、嫌いではない。真っ白なキレイなピンとした紙に、黒いインクが文字を刻み、図を描く。そんな光景を見るのが、何となく好きだ。
少し首を伸ばせば、真剣な表情でPCと向き合う菊地さんが視界に入る。こうやって、仕事中の恋人の姿が見られるのも、仕事中に恋人の姿を見られれるのも、職場恋愛の特権だ。それだけで、なんてラッキーなのだろう、とつくづく感じる。
緩みそうになる頬にきちんと力を入れて、手元へと視線を戻す。書類は順調に刷り上がっている、と満足げな笑みが浮かび始めた瞬間、ビーッというけたたましい音がオフィスに響く。
紙詰まりだ。
大きなため息をつきながら、私は原因を探るべく紙の排出口を覗き込む。
「どうした? 紙詰まり?」
背後から声をかけられるのとほぼ同時に、ほんの一瞬だけ腰に手が添えらる。それだけで心臓がドキン、と大きな音を立てる。今や声だけでなく、私への触れ方でも菊地さんだと認識できてしまう。
菊地さんはそのまま、私越しに紙の排出口を覗き込んだ。お互いの身体の熱が感じられるほどの距離の近さを、どうしても意識してしまう。
「そうなんですけど、ここじゃないみたいです」
答えながら少し距離を取ろうと、私は数歩脇にずれた。菊地さんの唇の端が少しだけ上がっているのが見えて、私の反応を面白がっているのが分かる。赤くなりそうな顔を隠しながら、コピー機のサイドカバーを外そうとするものの、力が足りないのかなかなか上手くいかない。
「ちょっと退いて」
菊地さんにそう言われて、私はまた数歩、脇へとずれた。ガシャリ、と意図も容易くサイドカバーが外れれば、妙なところに引っかかった紙が見つかった。菊地さんは当たり前のように、無言でシャツの袖のボタンを外し、そのまま腕まくりをする。
「ここは俺がやっとくから、中谷は他の業務を進めといて」
菊地さんの言葉に頷きつつも、私の視線は彼の腕に釘付けだった。腕をまくる仕草もなんだか色っぽかったけれども、腕に浮かんだ血管の筋が妙に男らしく見えて、思わず手を伸ばしたくなる衝動を必死で抑える。
「分かりました、ありがとうございます」
どこか気もそぞろに私は答えながら、自分の席へと戻る。PCの画面に向き合いながらも、頭に浮かぶのは菊地さんの腕のことばかりで、つい、チラチラとコピー機を直す彼へと視線を送ってしまう。
それから10分ほどが経った頃にはコピー機はすっかり元通りになっていて、再び軽快な音と共に資料を排出し始めた。
*************************
「カッコ良すぎて、つらい」
そう呟いて大きなため息をつけば、正面からもっと大きなため息が返ってきた。
いつものカフェに、いつもと同じように親友と二人。平和な空間に思わず惚気を垂れ流してしまう。
「まあ、分かるよ。1回、遠くから見ただけでも、なかなかの破壊力だったし」
苦笑しながら、彩可は言った。相変わらず、彩可は菊地さん贔屓だ。皓人さんとの惚気話をした時と、菊地さんとの惚気話をした時では、食いつき方が違う。皓人さんも、彩可にはちっとも興味がなさそうだったし、お互い様だったのだろう。
対して、菊地さんは彩可のことをきちんと尊重してくれている。彩可個人に興味がある、という素振りはなく、あくまでも私の友人として、興味を持ってくれている印象だ。
親友が認めてくれる彼氏。
そして、親友を尊重してくれる彼氏。
これが一番平和で、誰も不幸にならない選択だったのだろう。
「なんかさー、菊地さんの欠点とかないの?」
「欠点?」
彩可の質問への答えを考えながら、ズズッとストローを勢いよく吸う。
欠点、は難しい。人によっては欠点だと思われることも、美徳と捉えられることもあるわけだし。私の基準だと菊地さんに欠点はないように思えるけれども、それは恋人という贔屓目だからであって、普通の人からすると違うのかもしれないし。普通、の基準もまた難しい問題だけれども。
「欠点、ねえ」
呟きながら、考える。
「欠点というか、弱点は、料理かな」
先日の話を思い出しながら、私は言った。
この間、実家から送られてきた梨をお裾分けしに、菊地さんが我が家にやってきた。そこで梨の剥き方を菊地さんに教えようとしたものの、身を削りすぎてやたらと分厚い皮になってしまって。1cmはありそうな皮を、勿体ない、と切なそうに見つめる背中が愛おしくて、思わず抱き締めてしまった。会社ではあんなに頼り甲斐があるのに、料理に関してはまったくで、そのギャップに私は、ときめいてしまっている。
「へえ、意外。じゃあ、菊地さんの家に突撃して、手料理振る舞ってあげたら? 胃袋掴んだ者勝ちだし、彩可は料理が上手だし!」
「んー、菊地さん家はルームメイトがいて難しそうかな。その代わり、私の家でもう何回か一緒にごはん食べてるんだけどね。なんか料理できるようになりたいみたいで、ちょっとずつ教えたり」
そこまで話したところで、私は彩可が微妙な表情のまま固まっていることに気がついた。どこかバツが悪そうで、どこか納得していないような表情。長年の付き合いでも、表情だけで完全な気持ちを汲み取ることは難しい。
「えっと、何?」
恐る恐る問いかければ、彩可は無理やり笑顔で取り繕おうとしたけれども、完全に失敗していた。
「いや、その、ルームメイトって、どういうこと?」
珍しく遠慮気味に彩可は訊ねた。
「どういうって、菊地さん、ルームシェアしてるんだって」
私の答えに、彩可は大きなため息をついた。先ほどまでの呆れたようなため息ではなく、何かに失望したときのようなため息だ。胃の奥がなんだかゾワゾワするのを感じながら、私は彩可が口を開くのを待った。
「茉里はそのルームメイトに会ったことあるの?」
咎めるような彩可の口調に驚きつつ、私は口を開いた。
「ないけど、どういう人かは聞いてるよ。高校の頃からの同級生で、大学の頃からルームシェアしてて、あ、あと、男の人だって」
そう話しながらも、彩可が私の答えに納得していないのは火を見るよりも明らかだった。
「茉里はそれ、信じてるの?」
深刻な表情で、彩可が訊ねてくる。
「信じるも何も、それが事実なんだか」
「甘いよ」
私の言葉にかぶせるように、彩可は言い放った。クイ、とアイスのカフェラテを一口飲む彩可を、私はただ茫然と見つめることしかできなかった。親友が何を言おうとしているのか、私には見当もつかなかった。
「ルームシェアしてるなんて男の言い分、よっぽどのことがない限り信じちゃだめだよ。大体はうそなんだから」
「うそ?」
彩可が何を言っているのか、私はよく分からなかった。先ほどまで菊地さんのことを褒めていたくせに、いきなり彼を嘘つき呼ばわりする難んて、私には信じられなかった。
「男友達じゃなくて、女だよ」
なぜだか確信を持っているらしい彩可の言葉に、私はただ眉をひそめた。
「違うよ、男性だって菊地さん言ってたもん」
「だから、それがうそなんだって。ルームシェアしてるって言う男は大抵、彼女と同棲してるの。長く付き合ってて、たぶん結婚も考えるぐらいの彼女がいるくせに、マンネリ化なんだか結婚がプレッシャーになったんだかで浮気相手を探すもんなのよ」
まるで言い聞かせるみたいな彩可の口調に、私は心の奥がふつふつと煮えたぎっていくのを感じた。彩可に対してこんな感情を抱くのは、初めてだった。
「菊地さんはそんな人じゃないよ」
そう答えながら、私はまるで他人を見るような目つきで彩可を見つめ返した。あんなに散々私と菊地さんをくっつけようとしていたくせに、たった1つのことで一気に菊地さんを嘘つきの浮気者呼ばわりする。彩可のその変わり身の早さに、呆れを通り越して怒りを覚えた。
「なら、そのルームシェアしてるっていう彼の家に行ってみなよ。ルームメイトに会ってみなよ。やましいことがないなら、向こうだって隠さないはずでしょ? それでスッキリするって」
彩可は諭すように私に言った。けれどもその言葉に聞く耳を持ちたいとは思えなかった。
スッキリするって、誰が?
それでスッキリするのは、私じゃなくて彩可でしょ?
そう言ってやりたかった。けれども、それを言ったら私たちの関係にひびが入るような気がして、言えなかった。どれだけ長い間一緒にいても、その関係にひびが入るのはほんの一瞬の、ささいな出来事だったりするから。だから、言えなかった。
彩可と別れてから一人、最寄り駅から自宅まで歩きながら、今日の会話のことを思い返した。あの気まずい会話の後、すぐにいつも通りの空気に戻って残りの半日を過ごせたのは、やはり付き合いが長いからだろう。
それにしても、ようやく彩可も認めてくれる彼氏ができたと思ったのに、いきなりあんなことを言い出すなんて。思い出すだけで、やはり心の奥がざわつく。
菊地さんは嘘をつくような人じゃない。いつだって誠実に私と向き合ってくれた。私は菊地さんの言葉を信じたい。
それでも、親友に植え付けられた疑念の種はなかなか簡単には消えてくれない。
もしも私が、ルームメイトについて菊地さんに訊ねたとしたら、彼はいったいどんな反応をするだろう? 性格を考えれば、きっと頷いてくれるとは思う。でも、その質問をしただけで彼を疑っているということになる。それは、私たちの信頼関係に亀裂が入る可能性があるということだ。
嫌だな。
そんな疑うみたいな真似、したくない。
歩きながら、ついついため息が漏れてしまう。
せっかく幸せな毎日だったのに。何も心配しないで良い、何も疑わないで良い、幸せな毎日だったのに。また、皓人さんと付き合っていたころの不安な日々に逆戻りしてしまいそうだ。
嫌だな。
またもため息をつきながら、不意にスマートフォンを取り出した。新しいメッセージの受信を知らせるランプが光る。メッセージアプリを立ち上げれば、一番上に表示された人物の名前に驚いて私は目を見開いた。
どうして?
半ばパニックに陥りながら、私はその名前を見つめた。
どうしてこのタイミングでこの人なんだろう?
どうしてこのタイミングで、彼は連絡してきたの?
いつの間にか立ち止まっていた私は、ただ茫然とメッセージアプリに表示された「末田皓人」の文字を見つめた。
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