灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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43. 白のいない世界

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 カチリ。
 自宅に戻り、真っ暗な部屋の電気を点ける。当たり前のことが、妙に虚しく感じるのは何故だろう。好きな人と別れるのって、こんなにも体力と精神力を浪費する行為なのか。動きの鈍い足を引きずりながら、ノロノロと洗面所に向かう。
 
 オムライスを食べ終わってお会計をしようとしたら、店員さんから既に支払い済みであることを告げられた。あんな状況でも、皓人さんは私の分のお勘定まで済ませたのか、と驚いてしまった。無関心なのか関心があるのか、はっきりして欲しいな、なんて勝手な考えが浮かんだ。きっと皓人さんの優しさなんだろうとは思うものの、やはり皓人さんはよく分からない。
 お礼のメッセージぐらい送るべきだろうか、と電車のなかで散々迷って、結局送らないことにした。そこで送ってしまったら、別れた意味がないように思えたから。

 部屋着に着替えてベッドに腰掛け、グーッと伸びをする。今日はなんだか疲れきってしまった。部屋を見渡してみて、ふと、この部屋には皓人さんの痕跡が何も無いことに気がついた。
 思い返せば、皓人さんと過ごした数ヵ月の間、彼がこの部屋を訪れたことは一度だってなかった。何度か誘おうとは思ったものの、断られるのが怖くて直接的に誘ったことはなかったかもしれない。送り迎えのときに、コーヒーでも飲んでいかないか、と提案したことは何度もあったが、彼は一度も首を縦に振らなかった。そのまま結局、彼は一度もこの部屋に上がらずじまいだった。
 彼の私物だって、この部屋には何1つない。彼との思い出の品も、ここにはない。皓人さんがお土産でくれた歯磨き粉もパジャマもタオルも、全部、彼の家だ。2人で買ったお土産だって、彼の家に置いたまま。私の私物も、多くはないが彼の家にある。私たちが過ごした時間も思い出も、すべてが、彼の空間に閉じ込められている。

 結局のところ、彼とのことはすべて夢だったのだろうか。もしかしたら、そう思う方が良いのかもしれない。
 皓人さんと過ごした日々は、私からすると別世界で、非現実的だった。
 だから、存在しないものだと考えた方が、幸せなのかもしれない。この世のものとは違う、魔法の時間。時計の針が12時を指した途端に、消えてしまうような、そんな時間。

 我ながらなんともファンタジックな考えだな、と自嘲気味に笑いながら、不意にあることを思い出した。
 おもむろに立ち上がった私の足は、自然と玄関に向かう。小さな玄関に並んだ靴の中で独特の輝きを放つパンプス。初めてのデートで皓人さんが買ってくれたものだ。
 
 これだけ、残ってしまったのか。
 
 部屋の中にある唯一の皓人さんの痕跡を見つめていると、気付かないうちにはらはらと涙がこぼれ始めた。

 ドキドキした、初めての待ち合わせ。私を見つけた途端、子犬のように無邪気な笑顔を見せてくれた。手を繋げなくて、勝手に少しがっかりしてしまった私と、やたらとパンプスにこだわりを持って熱弁していた皓人さん。最初は理由が分からなかったけれども、ランチを食べながら彼の職業を知った。
 妙なところで照れて赤面するくせに、妙なところは大胆で。人を期待させるくせに、私には分からないタイミングで落ち込ませる。優しいのに冷たくて、つかみどころがなくて。それでも、そんな彼が好きだった。
 皓人さんの残した魔法の痕跡を目の前に、私は玄関にペタリ、と座り込む。
 
 私はもう、この靴を履けない。

*************************

 朝、エレベーターを待つ私のとなりに、誰かが並ぶ。ちらりと隣に視線を寄越してから、心の中で小さくため息をついた。神様は意地悪だ。どうしてこういう時ばかり、この人と一緒になるんだろう?
 早く誰か来てくれないかな、という私の期待も虚しく、鉄の箱は目の前で容赦なく口を横に広げた。

「別れたんですか?」

 2人きりの空間で、ぶっきらぼうに五十嵐さんは訊ねてきた。挨拶もなしに失礼だな、と思いつつも私はポーカーフェイスを保つことにした。

「たかだか靴を変えたぐらいで」
「どうでもいい男が貢いだ、たかだかレベルの靴なら、関係が切れたからってわざわざ古くてサイズの合ってない靴に履き替えたりしないでしょ」

 図星を突かれて、私は何も言えなかった。言いたいことだけ言って自分のフロアで降りていく五十嵐さんの背中を、ただ無言で見つめた。
 五十嵐さんの観察力の高さは、すごい。そう感じつつも、どうして彼女が私にあれだけ突っかかってくるのか、理由がまったく分からなかった。人事との接点なんてほとんどないし、個人的な関わりがあるわけでもないし。あの噂のせいだとは分かってはいるものの、彼女が私をここまで敵視する理由にはならない気がした。

 エレベーターを降りて廊下を歩き、執務室の扉を開く。五十嵐さんの言葉は、間違っていない。玄関に放置されていたこのパンプスは、サイズが合っていないから、すぐに靴擦れが出来てしまう。それを予防するために、ストッキングを履く前に、踵に絆創膏を貼っておいた。このパンプスに不便を感じる度に、皓人さんが選んでくれた靴がどれだけ私に馴染んでしまったのかが分かる。
 慣れるべきじゃなかったのに。
 一時の夢だったんだから、馴染むべきじゃなかったのに。
 週末になったら、新しいパンプスを買いに行こう。

「おはよう」

 自分のデスクに座った途端、頭の上から聞こえた低い声に、心の緊張が一瞬でほどける。たったの一言で、こんなにも幸せな気持ちを感じさせてくれる人物は、1人しかいない。

「おはようございます」

 私が笑顔で返せば、菊地さんも満足げな笑みを浮かべる。
 いつも通りの距離感。
 近すぎず、遠すぎず。
 この距離感が嬉しくもあり、もどかしくもある。

 皓人さんとの関係を終わらせた今、菊地さんとの関係を始めることを躊躇する必要はない。けれども、まだその事を菊地さんには伝えられていなかった。どのタイミングで、どんな風に伝えれば良いのか分からなかったし、まだ気持ちの整理がついていなかったから。
 いっそのこと、菊地さんの方から気付いてくれないかな、なんて甘えた思考が頭を過る。どこまでも他人任せな自分に、思わずため息がこぼれた。

「何、朝からどうしたの?」

 ちょうど近くを通りかかった仁科さんから、声をかけられた。

「あ、別に、大したことじゃ」
「大したことじゃないことのせいで幸せ逃すのって、なんだかバカらしくない?」

 仁科さんの最もな言葉に、私は苦笑しながら頷いた。

「仕事の悩み? それとも、プライベート?」

 適当に近場の椅子を引き寄せて座ると、仁科さんはズイッと顔を近づけてくる。これは、なかなか話してもらえそうにない。悪い人じゃないことは分かっているけれども、こういうところは少し面倒くさい。

「えっと、仕事」
「プライベートね」

 私の言葉を遮り、したり顔で瞳を輝かせる仁科さんに、私は小さく頭を抱えた。こういう妙に鋭いところも、少し面倒くさい。

「友達? 恋愛? それとも、家族?」

 身を乗り出して問いかける仁科さんから身体を話しながら、私は小さく首を振った。諦めてくれそうな様子を見せない仁科さんを、どうすれば良いのだろうか? 私が困り果てていたところ、唐突に目の前が真っ青になった。

「はい、一旦終了」

 菊地さんの声に、彼が私と仁科さんとの間にバインダーを差し込んで壁を作ってくれたことに気付いた。

「人にさんざん忠告しておきながら、お前がセクハラしてるぞ」

 そう言いながら、菊地さんはバインダーで仁科さんの頭を叩くふりをする。でも決して、本当に叩くことはしない。バインダーは仁科さんの頭の手前でピタリと制止する。それが、菊地さんの優しさだ。

「セクハラって、私たちは女同士だからいいのよ」
「そんな言い訳、通用しないっての」

 菊地さんはそう言うと、仁科さんのを椅子ごと私から引き離した。文句を言う仁科さんをやり込める彼の後ろ姿に、思わず口角が上がってしまう。
 菊地さんは、私が困っているとこうやっていつも助け船を出してくれる。私には勿体ない人だ。そんな人と釣り合う人間に近づくには、とにかく日々の努力を積み重ねるしかない。

 データの整理と資料の修正を終えると、私はひと息いれようと、自販機へと向かった。ミルクティーのボタンを押す前に後ろから見慣れた指が伸びてくるのが視界に入り、私は小さく微笑んだ。
 菊地さんが近くにいることは、気配で分かっていた。期待していなかった訳じゃない。わざわざ、菊地さんが席を立ったタイミングを見計らってきたのだから。
 ガコン、という音が響くのを聞いて、私はしゃがみこみ取り出し口へと手を伸ばした。ブラックコーヒーの缶を取り出すと、そのまま一歩左に避けて、菊地さんが小銭を入れるのを眺める。

「金沢のお客さんの資料、整理しといてくれたの中谷だろ?」

 問いかけながら、菊地さんは迷うことなくミルクティーのボタンを押す。

「はい」

 私が答えるのとほぼ同時に、ガコン、という音が再び響く。しゃがみこんで取り出し口からペットボトルを取り出すと、菊地さんはそのまま私にそれを差し出した。

「サンキュ」

 その言葉と同時に浮かんだ、純粋な微笑みが私の心をときめかせる。菊地さんの珍しい上目遣いのせいもあるかもしれない。こんな風に彼を見下ろすことは、そう多くない。例えば、パンプスのヒールが壊れた、あの日とか。
 ああ、今なのかもしれない。
 心が、自然とそう思った。
 今が、その時なのだと。

「パンプスのお礼、決まりましたか?」

 そう問いかける私の言葉は、どことなく震えていた。

「大体はね。でも、急いでないし、俺、待つって言ったし」

 立ち上がろうとする菊地さんに、私はコーヒーの缶を差し出した。一瞬だけ触れた菊地さんの熱い指先と私のそれの間に、電流が走る。

「もう待たなくて良いって言ったら、どうしますか?」

 すっかり立ち上がった菊地さんの瞳を見上げる。彼の瞳が一瞬、不安げに揺れる。私の瞳を探って、答えを見つけようとしているのが分かる。私の次の言葉が、彼の望むものと同じなのか、確かめようとしているのが。

「区切り、つけました」

 震える唇の奥から、私は声を絞り出した。菊地さんの喉仏が、上下にゆっくりと動く。まるで、私の言葉をごくりと飲み込むかのように。そしてゆっくりと、顔の筋肉が緩み、いつものように唇の方端が徐々に上がっていく。
 私たちは、大丈夫。
 私たちなら、大丈夫。
 彼の表情を見ながら、私はそう心の中で何度も唱えた。

「あとで、連絡しますね」

 菊地さんの瞳をまっすぐに見据えながら、私は言った。彼が満足げにうなずいたのを確認してから、背を向けて執務室へと歩き始めた。扉の取っ手に手をかけたころには、古いパンプスのせいで感じていた足の不快さなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。
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