灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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37. 黒と歩く夜

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 ざわざわと人々の声が響く店内だったはずなのに、私の頭の中では菊地さんの言葉だけがぐるぐると巡っている。

「好きな子と2人きりは緊張するよな」

 お酒を飲んで少し酔っぱらっている彼の口から飛び出した一言を、私はどう捉えればよいのだろうか。
 彼が口にしたのは、私がずっと欲しかった言葉だった。それなのに、単純に喜べない。
 菊地さんならばこの言葉を言ってくれるんじゃないかと、期待していた。皓人さんが言ってくれない言葉を、菊地さんならば言ってくれるんじゃないかと。けれども、こんな状況は1度だって夢に見たことがなかった。

「ごめん」

 菊地さんの口からおもむろに発せられた謝罪の言葉に、再び私の胸は痛んだ。
 この謝罪は、どういう意味?
 心にもないことを言ってしまった、ということ?
 私はいつもみたいにからかわれた、ということ?
 もしそうなのだとしたら、今回ばかりは笑って受け止めることができない。だけど、菊地さんがそんな残酷なことをする人だとは、到底思えなかった。

「どうして謝るんですか?」

 震える唇の隙間から何とか絞り出した言葉は、蚊の鳴くようなか細い声だった。それでも、彼の耳にはきちんと届いたことが表情から分かって、少し安心する。

「どうしてって、まあ、理由はいろいろあるけど」

 ほんのわずかに視線をさまよわせてから、菊地さんは改めて私の瞳を見つめ返した。

「こんな状況で、酒に酔った状態で言うべき言葉じゃなかった、っていうのが1番かな。今は終業後だけど、ここにはそもそも出張できてたわけだし。それに、俺は中谷の職場の先輩で、こんな風に想いを押し付けるのは正しいと思えないし、ましてや中谷には彼氏がいるわけだし」

 そこまで言い切って、菊地さんは目を伏せた。
 彼の言っていることは、もっともだ。そうとしか言いようがないほどに。
 
「いつもみたいに、私のことからかってるんですか?」

 そうではないと、分かっていた。先ほどの菊地さんの言葉で、それは分かっていたのに、訊かずにはいられなかった。
 私の問いかけに、菊地さんは弾かれたように顔を上げた。

「違う。それは、違う。絶対に、違う」

 力強い否定の言葉が、私の心を安心させる。からかっているわけではない。ということは、つまり……。

「ガキみたいだよな。好きな子にちょっかい出して、からかって。本当に、俺ってどうしようもないやつなんだよ。ずっと言わないでいようと思っていたのに、結局こんな状況で好きだって、言っちゃうなんて」

 自嘲気味に笑いながら菊地さんの口から繰り返される「好き」の言葉に、だんだんと私の頬に熱が集まっていくのを感じる。自分の自惚れに染まりきった期待が現実のものになって、嬉しいと思わない人間がいるだろうか。
 
 菊地さんは、私のことが好き。
 私も、菊地さんのことが好き。
 
 少し前から自覚していた気持ちが、じんわりとせりあがってくる。
 理性でずっと押し込めていた想いが、ゆっくりと喉元まで上がってくる。

「けど、冗談だと思った方が楽なら、そう思ってくれて構わない」
「え?」

 思いもよらない菊地さんの言葉に、私は戸惑いの声を上げる。

「だって、気まずいだろ? こういうことって、振る方もかなり労力使うしさ。俺が勝手に中谷のこと好きになっただけなのに、中谷の負担になるのは本意じゃないから」

 誠実な菊地さんの言葉に、私の中での彼への敬意が跳ね上がる。それと同時に、どうして私が菊地さんを振ることが前提になっているんだろう? なんて疑問が浮かんですぐに、自分の愚かさに気づいた。
 菊地さんの言葉に浮かれるあまり、皓人さんの存在を勝手に過去のものにしてしまっていた自分がいた。みぞおちのあたりが一気にズーンと重くなる。あまりにも自分勝手な思考回路に、我ながら嫌気がさす。

「中谷には彼氏だっているのに、困らせるようなこと言って、本当にごめん」

 そう言って菊地さんが頭を下げた刹那、衝動的に私は先ほどまで菊地さんが握っていたおちょこに手を伸ばした。

「あ、おい!」
 
 自分が何をやっているのか、よく分かっていなかった。どうしてそんな突飛な行動に走ったのか、分からなかった。慌てたような菊地さんの声を無視して、気づけば私は、おちょこの中身を一気に口の中へと流し込んでいた。ヒリリと焼けるような喉の感覚に、それがアルコールであることを実感する。

「中谷?」

 心配そうに菊地さんは私の顔をのぞき込む。

「彼氏、なんですかね?」

 心なしかかすれた自分の声に驚きながら、私はおちょこを元あった位置に戻した。一気にアルコールを摂取したのに、頭は妙にすっきりと冴えわたっている。

「1度も好きだって言ってくれなくて、1度だって彼女って呼んでくれなくて、知り合いにも彼女だって紹介してくれなくて。本当に、彼氏なんですかね?」

 この場で菊地さんにするべきではない話だと、頭の片隅では分かっていた。しかし、どうやら脳みそと口は完全に回路が分かれてしまったらしい。話し続けるのを、私はやめられなかった。

「特殊な職業の人で、私とは住む世界が違っていて。だから、感覚も違うんですかね。同じものを見ていても、見えるものが違っていて。そんなところが、好きだったはずなのに」

 夢中になって話しているうちに、私はいつの間にか泣いていたらしい。そっと涙が頬を伝った感触で、ようやく気が付いた。

「ごめんなさい、こんな話して。菊地さんにする話じゃないって、分かってるんですけど」

 その瞬間だった。
 菊地さんの右手が、私の左頬に添えられた。
 聞こえたのは、ひゅっと私が息をのむ音と、ドクンと大きな音を立てた心臓の音だけだった。
 ゆっくりと、菊地さんの親指が私の涙を拭う。
 その温かい手の感触にどうしようもなく甘えたくなってしまって。遠慮気味に、私は彼の手に自分の頬を擦り寄らせた。瞼を閉じて、ただただ彼の掌の熱に頬を預ける。
 ああ、私に今必要なのは、この体温だったんだ。
 心の奥が温まっていくのを感じながら、私は思った。

 けれども、私にとっての至福の時間は、そう長くは続かなかった。それが触れたときと同じように、離れていくのも突然だった。
 熱が離れていくのを感じて、瞼を押し開く。私をまっすぐに見つめる菊地さんの瞳は、明らかな熱を孕んでいた。そのまま私の右頬にも手が伸びて、静かに涙を拭うと、また熱は去って行ってしまう。

「そろそろ出ようか」

 伏し目がちに、菊地さんは言った。まるで、何事もなかったかのような言葉に、私は黙って頷くことしかできなかった。

「出る前に化粧室、行くか?」

 暗に涙を拭ってくるように言われた気がして、私は彼の心遣いに感謝しながら席を立った。ちょうど空いていた化粧室に入ると、すぐに鏡をのぞき込む。あまり濃い化粧をしていなかったのが幸いして、涙による化粧崩れは最低限で済んでいた。問題は、明らかに泣いたとわかる鼻の頭と目の赤みだが、これはもうどうしようもない。諦めて化粧室を出ると、ジャケットを手に持った菊地さんが顎で店の外を指示した。

「あの、お会計」

 菊地さんについて店を出ながら、問いかける。

「もう払ったから」

 シンプルにそれだけ言って、彼は店の扉を開ける。

「でも私の分は」
「今日は俺のおごり」

 扉を閉めれば、寄る特有の涼しい風がフーっと身体の熱をさらっていく。先ほどまで火照っていた身体の温度が、一気に奪い取られていった。

「ありがとうございます」

 私が御礼の言葉を言い終わらない内に、菊地さんはジャケットを私の肩にかけた。まるで、当たり前のことみたいに。それが、あるべき姿かのように。
 もう1度お礼を言おうとしたところで、今度は私の右手を握る。先ほど触れたいと思っていた手は、いともたやすく私の手を包み込んだ。そのまま、何も言わずに菊地さんは歩き始めた。

 あたたかい。

 菊地さんのジャケットが。
 菊地さんの手が。
 菊地さんの心遣いが。
 菊地さんの瞳が。
 菊地さんのすべてが、あたたかい。

 人通りの少ない夜の金沢の市場を、無言で歩き続ける。菊地さんが何を考えているのか、分からない。時折、彼の親指が大切そうに私の手の甲を撫でてくれるのが、やたらと心地よい。

「もし中谷が」

 菊地さんの静かなつぶやきに、私はそっと彼の顔を見上げた。ゴクリ、と唾を飲み込むために、彼の喉仏がゆっくりと上下する。その姿から、私はどうしても目を離せなかった。

「もし、さ」

 なかなか続きを紡がない彼の唇を、もどかしい気持ちで見つめる。
 こうやって菊地さんが何かを言いよどむことが、最近は増えた気がする。言葉を途中で止めたり、伸ばそうとした手を引っ込めたり。
 けれども、今、彼は私の手を握っている。私たちの間にあった目に見えない線を、超えている。
 ならば、言葉でも同じようにしてくれればいいのに。それなのに、彼は未だに言い淀む。
 
 あと少し、なのに。
 あと一歩、なのに。
 
 もどかしさのあまり、私はついつい、せがむように彼につながれた右手をグイ、と引っ張った。
 私の予想外の行動に驚いた彼の瞳と、物欲しげな私のそれがかち合う。

「もし、なんですか?」

 どちらともなく、私たちは足を止めていた。
 静かな、見知らぬ夜の町で、私たちは2人きりだった。
 サーっと吹く風が、私たちの体温を奪っているはずなのに、どうしても身体から熱が抜けない。
 私を見つめる菊地さんの瞳は、明らかな熱を持っている。私が彼を見つめる瞳だって、きっと同じ熱を持っているに違いない。
 
 同じならば、もういっそ、混ぜてしまえばいいじゃないか。
 そんな思考が、頭をよぎる。
 職場のこととか、皓人さんのこととか、そんなものは全部忘れてしまえばいい。ここには、私たちしかいないんだから。

 もう1度ギュッと、私は右手に力を込めた。
 菊地さんの視線が、ゆっくりと私の瞳と唇の間を彷徨う。
 ゆらり、ゆらり。
 どれだけの間、そうしていただろうか。
 ただ揺れるだけの菊地さんの視線に、どうしたものかと考えあぐねていると、彼はようやく決意したかのように、視線を足元へと落とした。そのままそっと、スマートフォンを取り出すと、彼は何やら入力を始める。
 私の頭の中が疑問符で埋まった頃、彼は小さな微笑を漏らすと、スマートフォンをポケットにしまい、私の手を引いて再び歩き出した。

「今、俺の部屋番号、中谷に送った」

 菊地さんの心なしか緊張したような低い声が、私の耳にゆっくりと届く。

「もし中谷が俺と2人きりで過ごしたいと思ってくれたら」

 そこで言葉を1度切ると、私の手を握る菊地さんの手に、力がこもる。

「俺は、いつでも中谷を待ってるから」

 ドクン。
 真剣さの伝わる菊地さんの言葉に、私の心臓が大きく跳ねる。
 
 もう、このまま菊地さんの元へ飛び込んでしまえたらいいのに。
 そう思うのに私が飛び出せないのは、やはり頭の片隅に皓人さんの存在があるからなのだろう。
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