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34. 黒とサブレ

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 じっと、私の答えを待つ菊地さんが私を見下ろす。
 新幹線は止まっていて、いつ動き始めるか分からない。動き始めたとしても、これだけの人数が駅に押し寄せていることを考えれば、帰りの切符すらまだ持っていない私たちが、今日中に新幹線に乗れる保証なんてない。課長の許可も出ているのだから、このまま今夜はここに泊まって、明日の新幹線で帰るのが無難な選択だ。それは分かっている。けれども、私の邪な気持ちが、その答えの邪魔をする。
 ここにいる人たちも、一部はこれから宿泊先の確保に動くだろう。ならば、なおのことすぐに決断しないといけないのに。答えを告げないといけないのに。私は、なかなか口を開くことができない。

 今、ここで一泊することに、何も特別な意味はない。ただ新幹線が動かなくなったから、仕方なく泊まるだけ。それも仕事で、だ。なのに、妙に意識してしまって、何も言えない。
 困り果てて菊地さんを見上げたって、彼が代わりに決めてくれないことは分かりきっている。彼が求めているのは、私の答えだから。
 たった一言、言えばいいだけなのに。「泊まっていきましょう」その言葉だけで済むのに、なかなか口に出すことができない。

「どうする?」

 再度、菊地さんが私に問いかける。これ以上押し黙っていたら、かえって不自然だ。あくまでも、仕事の一貫なんだから。そう自分に言い聞かせながら、私は意を決して口を開いた。

「この状況で一晩中、運転再開を待つのは現実的ではないと思うので、明日にしましょう」

 遠回しな言い方になってしまったが、きっと意味は通じたはず。菊地さんの反応をじっと待つ。

「分かった。なら、今日の宿を探すか」

 そう言うと、菊地さんは私に先ほどの紙を突き返してきた。

「今回は急で経理への事前申請できてないから、自分で予約サイトでホテル予約して、自腹で払って、週明けに申請書と領収書提出すれば、会社から払い戻される。そこに書いてある上限額、越えた分は返ってこないから気を付けろよ」

 話しながら、菊地さんは出張費の上限のうち、宿泊費の項目を指差した。私が頷くと、菊地さんは自分の社用スマートフォンを取り出して、操作し始める。おそらく、自分の宿泊先を確保しているんだろう。
 
 そうか、各自で、だから、自分で自分の分だけ予約をするのか。戸惑いつつ、私は手元の紙に視線を落とした。この条件に当てはまれば、どこに泊まってもいい。つまり、菊地さんとはホテルも別々。帰りの新幹線も、別々。
 勝手に意識していた自分が、バカらしい。仕事なんだから、当たり前のことなのに。
 ズン、と気落ちした胃とは反対に、ゾワゾワと足元から不安な気持ちがせり上がってくる。

 知らない町で、一人きり。

 大人の女性であれば当たり前に経験するだろう、普通のことなはずなのに。みんな、そんなこと普通に経験できているはずなのに。ひとり旅なんてしたことがない私は、とてつもない不安に襲われる。スマートフォンで予約サイトを開くものの、不安からか思わず下唇を噛み締めてしまう。

「大丈夫か?」

 私を気遣う、菊地さんの優しい声が降ってくる。
 この声に甘えてしまいたい。
 この声を頼れば、すべてなんとかなる気がする。
 そんな思いが頭を駆け巡る。
 けれども、そんな甘えは許されるのだろうか。私は今まで数え切れないくらい、菊地さんに助けられてきた。そんな彼の優しさに、また甘えてしまっても良いのだろうか。
 顔を上げれば、想像通りの優しい眼差しが降りてきて、すぐさま擦り寄りたくなるのを理性で抑え込んだ。ここで菊地さんに甘えるのは、やっぱり違う。

「大丈夫です。急なことで、ちょっと戸惑っただけです」

 笑顔を作ってそう答えてから、私は再びスマートフォンに視線を落とした。自分で利用はしていないけれども、前の部署にいた時は、出張時の宿の手配だって業務でやっていたんだから。
 できる。
 予約サイトの比較や口コミを見ながら、候補を絞っていく。高くないけど、安すぎず。駅からはなるべく近くて、必要最低限のプラン。持ち物が少ないから、アメニティーもしっかり確認して……。
 持ち前の優柔不断さを発揮しながらも、なんとか予約を終え、清々しい気持ちで顔を上げた。すると、興味深そうに私を見下ろしていた菊地さんの視線とかち合う。一体、いつから見られていたのだろうか。気恥ずかしくて、思わず頬を染めてしまう。

「予約できた?」
「はい」

 素直に笑顔で答えれば、優しく頭を撫でられる。それだけで、身体がふわりと浮かんだような高揚感を覚える。

「どこにした?」

 何てことの無いように訊ねる菊地さんに、ホテルの予約画面を見せた。ふんふん、と頷くと、彼の視線はすぐに手の中のスマートフォンへと降ろされた。スイスイと指を動かし始めたと思えば、数分後に同じく予約完了の画面を突きつけられた。

「女性一人で知らない町ってのはやっぱり心配だからさ、ウザいだろうけど、同じホテル予約したわ」

 菊地さんの言葉に、思わず心臓が跳ねる。

「あくまでも建物が同じってだけで、中谷が何か困ったときに駆けつけられるような備えというか、不純な動機ではないというか」

 慌てたように付け加える菊地さんに、思わず笑みが洩れる。
 この人は、いつもこうだ。私が彼を頼らなくても、結局のところいつだって私を助けてくれるし、安心させてくれる。私に決断を委ねて、それを支えてくれる。菊地さんには、いつだって敵わない。

「ありがとうございます。心強いです」

 心からの言葉を舌にのせて微笑めば、菊地さんも安心したように微笑み返してくれる。
 これで、いい。
 これが、いい。

「じゃあ、着替えとか必要なもの、買いに行くか? あっちに商業施設があるんだけど、中谷、行きたいところとかある?」

 当たり前のように、菊地さんは私の意思を訊いてくれる。前の私なら、戸惑うだけだったかもしれない。いや、今でも正直、少し戸惑う。けれども、私も少しずつ変われているのではないだろうか。

「お土産とかも、少し見ていきたいです。会社に買って帰りたいですし」
「そうだな。じゃあ、そこのお土産エリアを通り抜けて、あっちに行くか」

 菊地さんの言葉に頷いてから、彼の背中を追って歩き始める。初めての町で、見たことのないお土産を眺めるのは、なんだか楽しい。
 不意に、視界に見覚えのある猫の後ろ姿が飛び込んでくる。それは洋菓子屋さんで、猫の後ろ姿を型どったサブレらしかった。どうやら地域限定品のようだけれども、ならどうして、見覚えがあるんだろう?
 歩きながら、どうしてもモヤモヤが残り、考え続けてしまう。記憶をたどり続けて、そして、ようやく思い出した。
 
「貰い物で悪いけど、甘いもの食べて一旦落ち着こっか」

 そう言って、仁科さんが笑顔であのサブレを差し出してくれたんだった。確かあの日はミスをしまくった日で……。

「なんか、気になるものあったか?」

 出口に辿り着いたとき、振り返った菊地さんは私にそう訊ねた。

「あ、猫のサブレが」

 思わず、今の今まで考えていたものを口に出してしまった。

「ああ、あれ。旨かっただろ?」
「はい」

 そう答えてから、はた、と足が止まった。
 あの時、仁科さんは貰い物だと言って私にあのサブレをくれた。

「私、あのサブレは仁科さんからもらったんですけど」

 私の呟きに、菊地さんの足も止まった。それと同時に、ギクリ、と音がしそうなほどに彼の肩がびく付く。
 菊地さんはただ、私が仁科さんからもらったサブレを食べているところを見ただけかもしれない。それか、仁科さんからもらった瞬間を見ていただけかもしれない。たった、それだけのことかもしれないのに。
 もしかして、という気持ちを、私は心から拭い去ることができない。

「あれって、もしかして」

 ゆっくりと、この言葉を口に出す間も心臓はドクドクと世話しなく音を立てている。馬鹿げていると分かっていても、期待せずにはいられない。
 あれは、もしかしたら……。

「中谷がさ、珍しくソワソワしてて、らしくないミスしてて、なんか、こう、励ましたかった、みたいな」

 まるでなにか悪いことがバレた時の言い訳のように、菊地さんは語る。こんな風に、少ししどろもどろになりながら話す菊地さんを、なんだか今日はよく見かける。
 ここが、会社から離れた場所だからだろうか。同僚がいないからだろうか。仕事とプライベートの境目が、曖昧な気がする。取り繕おうとしてきた何かが、だんだんと剥がれ落ちていくような錯覚を覚える。

「なら直接渡せよ、って話なんだけど、中谷は彼氏いるって言ってたし、その日もデートなんじゃないか、って思ってたから、なんかどういう顔して渡したらいいのか分かんなくて、仁科に渡したら中谷にも渡るかなって」

 珍しく、菊地さんの声がだんだんと小さくなっていく。頼りになるイメージの強い菊地さんとは正反対の様子に、なぜだか胸がキュンとときめいた。これが、俗にいうギャップ萌えというなのだろうか。

「なんか、めちゃくちゃ気色悪いことしてたんだなって、今、話しながら思った」

 苦い顔で笑おうとする菊地さんに、どうすればこの感謝の気持ちを伝えることができるんだろう。きっと、私の想像を越えたもっとたくさんのところで、菊地さんは私のことを支え続けてくれていた。そんな彼を思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。想いが、溢れだしそうになる。

「気色悪いだなんて、思うわけないじゃないですか」

 ゆっくりと絞り出した言葉は、心なしか震えている。
 あくまでも、仕事仲間として。
 それ以上の感情は、出さないように。

「菊地さんには、本当にいつも救われてばっかりで。感謝しかありません」

 見上げた視線は、珍しく揺れる菊地さんのそれとかち合う。トクトク、と心臓が早い音を立てる。

「ありがとうございます」

 精一杯の笑顔で、そう伝える。思わず一緒に口をついて出そうになった言葉を、無理矢理に心の奥底へと沈める。
 ドクン。
 口に出せない言葉を飲み込んだみたいに、心臓かひとつ、大きく跳ねた。

 菊地さんの口許がゆっくりと弧を描くのを確認すると、私はすぐさま視線を逸らした。これ以上、あの言葉を抑えられる自信がなかったから。菊地さんの笑顔なんて見たら、溢れてしまうのが目に見えていたから。

「うん」

 そんなシンプルな言葉とともに、菊地さんはそっと歩き始めた。その背中を、私は再び追う。
 本当は、この背中に後ろから飛び付いてしまいたい。ぎゅっと、抱き締めたい。そして、好きだと言ってしまいたい。そんな衝動を、私は一生懸命に押さえつける。
 少しでも気を逸らそうと、時間を確認するべく、スマートフォンを取り出した。電源ボタンを押せば、画面中央の時計の下に、メッセージアプリの通知が並ぶ。

「今日、何時に帰る?」

 通知欄の小さなスペースで事足りてしまうほどのシンプルなメッセージに、ぎゅっと胃が締め付けられた。皓人さんの言葉は、浮き足だった私を一瞬にして現実へと引き戻した。
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