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29. 白との仕事終わり

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 頭の上に乗った掌の重みはそのままに、そっと親指が私の頭を撫でる。菊地さんの優しい手つきに、私はただただ彼の瞳を見つめた。私たちを包む空気は、職場にはおおよそ似つかわしくない、特有の緊張感を孕んでいた。
 じっと私を見下ろす菊地さんの優しい瞳が心地よいのに、同時に心の奥が温まる以上に熱を帯びてきて。それまできつく結んでいた私の唇が、ゆっくりとほどけて隙間を作った。その刹那、彼の視線が一瞬だけ私の唇を捉えたのを、私は見逃さなかった。
 
 ドキリ。
 
 胸の高鳴りと同時に、思わず息を吸い込む。それに合わせて上下した胸の奥で、これでもかというほどに大きな音を心臓が立てる。優しさに溢れていたはずの菊地さんの瞳の奥で、それとは違う色がギラリと光った気がした。

 何かを言おうとしたのか、菊地さんは口を開いたものの、何も言葉は出てこない。私も何か言わないければと思うのに、声が出せない。
 ここは職場なのに。
 菊地さんは、ただの職場の先輩なのに。
 それなのに、このまま瞳を閉じたら、何が起こるだろうかという疑問が、不意に頭の中を駆け巡る。
 ちらり、と視線を彼の唇に落としてしまう。
 菊地さんの形のよい唇には、どこか抗いがたい魔力のようなものが宿っているように思えた。
 
 それはダメだ、という警告音が鳴り響く。
 絶対に、ダメ。
 
 そう分かっているのに、その場から動くことが出来ない。視線を上げて菊地さんの瞳に戻す。先程よりも、温度が上がったようなその瞳に、心臓の音が大きくなる。

 その時、遠くで誰かの声が聞こえた。

 まるで一瞬で魔法が解けたみたいに、私たちはどちらともなく互いに距離をとった。
 今の時間は一体なんだったのだろうか。幻想か何かだったのだろうか。
 そう思えるほどに、空気が一変した。

 ガチャリ、と執務室の扉が開き、スマートフォンを耳に当てた課長が入ってくる。

「では明日、進捗が分かり次第、改めてこちらから折り返させていただきます。はい。はい。失礼いたします」

 そう言って電話を切ると、課長は顔を上げた。

「あれ? 中谷さん、もう上がったんじゃありませんでした?」

 少し驚いたような表情のまま、課長は自身のデスクへと歩いていく。

「あ、そうだったんですけど、菊地さんに少し差し入れを」

 私の言葉に合わせて、菊地さんもコーヒーを手にとって課長から見えやすいように振ってくれる。

「ああ。二人とも金沢の案件、頑張ってくれてるみたいですね。もちろん、期待はしていますが無理はしすぎないでくださいね」

 課長の言葉に、私たちは同時に「はい」と答える。それに満足したのか、課長が自身の業務に戻ったらしいのを確認してから、私たちはお互いに向き合った。

「差し入れ、本当にありがとう。帰り道、気をつけて」

 ぎこちない微笑みと共に、菊地さんは言った。

「菊地さんも、遅くならないようにしてくださいね。私で手伝えることがあれば、手伝うので」

 私の言葉に頷いて、菊地さんは小さく手を振る。

「課長、お先に失礼します」

 頭を下げれば、課長もまた小さく手を振ってくれた。
 課長が来なかったら私は、一体どうなっていただろうか? 私は一体、何をしようとしていたんだろう? 動機がする胸の辺りを抑えて、エレベーターホールへと早足で歩き続ける。
 エレベーターを待ちながらスマートフォンを開く。メッセージアプリを起動すれば、一番上に皓人さんの名前が浮かび上がる。

「今日は何時ぐらいに仕事終わりそう?」

 いつも通りのシンプルなメッセージに、胸の奥がズキンと痛んだ。これはきっと、罪悪感。

「いま仕事が終わって、これから帰るところ」

 そう打ち返して、エレベーターに乗り込む。

 皓人さんのことが、頭からすっかり抜け落ちていた。
 
 エレベーターの落ちていく感覚に身を委ねながら、今さら現実を見つめ返す。
 仕事の間であれば、それは正解な状態だと思う。皓人さんのことばかりに気を取られて仕事に身が入らない、なんてことがあってはいけないから。
 
 じゃあ、菊地さんと二人きりだったあの瞬間は?

 エレベーターを降りて駅に向かって歩き出しながら、キリリと胸の奥が痛むのを感じた。
 菊地さんと私は、単に仕事上の関係しかない。そのはずなのに、あの瞬間、私は仕事人ではなかった。ただ一人の女として、菊地さんのもとへと赴いたのだ。
 職場なのに、とか、先輩なのに、などという考えで自分を止めようとした。けれども、その時に皓人さんのことは、浮かばなかった。皓人さんのことを、私は考えていなかった。きっと、一番に考えるべきだったのに。

 でも、それはどうして?
 皓人さんは私のことを彼女だと言ってくれたこともないわけだし、好きだとも言ってくれない。そんな曖昧な関係なのに、彼に対して罪悪感を抱く必要はどこにあるの?

 邪な考えが心のなかで頭をもたげたとき、スマートフォンが光り始めて、通話の着信を知らせる。表示された皓人さんの名前に、ズクン、と胸が痛む。
 正直、今は皓人さんと話したくない。それなのに、私の指は勝手に通話ボタンを押してしまう。

「もしもし?」

 自分の声が、心なしか震えて聞こえた。

「あ、もしもし、茉里ちゃん? 今、どの辺?」
「えっと、会社出て駅に向かってる途中だけど、なんで?」
「なら良かった。おれ、駅の近くの駐車場にいるんだけど」
「え?」

 皓人さんの予想外の言葉に駅へと向かう足が、思わず止まった。

「夜ご飯まだでしょ? おいしい鉄板焼のお店、予約したから一緒に行かない?」

 無邪気な皓人さんの声に、私の心はざわついた。こんな気持ちのまま、顔を会わせたくない。そう思っているのに、口が勝手に了承の返事をしてしまう。気付けば足は彼の指定した場所に向かっていて、彼の姿を視界に捉えたとたん、心が歓んだ。
 車に寄りかかって待つ彼の立ち姿は、初めてのデートの日を彷彿とさせた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、気だるげに立っている、ただそれだけなのにサマになってしまうのは、一体どうしてなのだろう。こんなに素敵な人の待ち人が私だなんて、未だに信じられない。

「お疲れ様」

 近づけば少年のようなクシャリとした笑顔で迎えられて。そのままぎゅっと抱き締められると、胸がいっぱいになる。皓人さんの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、なんだか無性に泣きたくなった。それが良い涙なのか悪い涙なのか、私には分からなかった。

「なんでいきなり鉄板焼なの?」

 皓人さんが滑らせる車の助手席で、私は訊ねた。

「なんでって、鉄板焼の気分だから?」

 当たり前のことみたいに、彼は言った。こんな風に自由気まま、気分で動くのは、本当に皓人さんらしい。

「鉄板焼食べたいな、と思って、どうせ食べるなら良いところがいいじゃん? で、調べて、良さげな店見つけて、ダメもとで電話してみたら予約取れて。なら、折角だから茉里ちゃんと一緒に食べた方がおいしいかなって」

 そうやって、皓人さんは私のことを考えてくれている。それなのに、私は……。

「それに、おれ明日からパリだし、その前に茉里ちゃんに会っときたくて」
「え!?」

 皓人さんの言葉に、私は驚きの声をあげる。明日から、パリ?

「あれ? おれ言ってなかったっけ? 明日から5日間、パリ出張だよって」
「聞いてないよ」

 そう答えながら、スマートフォンのカレンダーアプリを確認する。皓人さんの出張スケジュールは、いつも欠かさずにメモしていたけれども、やはりパリ出張の件は記録されていない。確かに、皓人さんの海外出張はだいたい月に一度ぐらいだったから、そろそろあってもおかしくなかったけれども……。なんともいえないモヤモヤが胸に残る。

「ごめん、言い忘れてたかも。でも、出発前にちゃんと伝えられて良かった」

 ニコリ、と笑いかけられても、うまく笑顔を返せなかった。やっぱり、皓人さんの住む世界は、私の住む世界とは別世界だ。彼のペースに、私はなかなかついていけない。

「茉里ちゃん、マカロン好き?」
「あ、うん」
「じゃあ、お土産にマカロンいっぱい買ってくるね」

 皓人さんの頭のなかは、たぶんきっと、既にパリに行ってしまっている。戸惑ったまま、ここに突っ立って置き去りになった私の心には、気付かない。

「はい、到着」

 駐車場で車を停めると、皓人さんは意気揚々とシートベルトを外す。私も自分のベルトを外そうとすると、そっと、その手に皓人さんの手が重なった。

「外してあげる」

 鼻にかかった甘い声が、私の鼓膜を震わせる。吐息がかかるほどに至近距離に近づく彼の顔に、心拍数は自然と上昇する。触れそうで触れない距離に、もどかしさが募る。
 カチャリ、とベルトが外されて。スルスルともといた位置へと戻っていく。その間に何度か視線が交錯するものの、決してその距離がゼロになることはない。そのままゆっくりと、彼は自身の座席へと身体を戻していく。

「はい、外れたよ」

 そう告げる彼の表情は優しいのにどこか意地悪だ。じっと、彼の瞳を見つめれば、自然と二人の視線が絡み合う。無言のまま、車内には独特の緊張感が充満する。
 今日、この緊張感を味わうのは二度目だ。一度目は、今日のオフィスで、菊地さんと、とそこまで意識が向いたとき、理性でそれを引き留める。
 あの時には、できなかった。でも、今この瞬間、私を引き留めるものはない。私はゆっくりと、瞳を閉じた。それが、合図だった。

 耳に届く衣擦れの音と、身体で感じる熱の動き。そっと頬に手が添えられると、だんだんと熱源が近づいてくる。鼻が触れ合った頃にほんの少し唇を開けば、ちょうどのタイミングで皓人さんの唇が降ってきて、その柔らかな下唇をそっと自身の唇で挟み込んだ。探り合いも何もなく、彼のペースに合わせて、私も動く。
 皓人さんとの口づけに夢中に満足しながらも、私の意識は再び、今日のオフィスへと浮遊していく。あの瞬間、私が求めていたもの。期待していたものは、これだった。
 気付いてはいけないはずの事実に、私の胸はキリリと痛んだ。皓人さんへの罪悪感よりも、菊地さんへの申し訳なさよりも勝ったのは、私の心が私の皓人さんへの想いを裏切ったことへの痛みだった。
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