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26. 黒の優しさ

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「仕事の後輩っていうか、部下っていうかが悩んでたり調子悪かったりしたら、そりゃ心配するでしょ?」

 当たり前のことを言い聞かせるような皓人さんの口調に、私は黙ったまま俯いた。
 彼が言っていることは、正しい。
 実際に、私だって今までそうされてきたし、そうしてきた。
 けれども、こんなにもモヤモヤしてしまうのは一体どうしてなんだろう?

「単に仕事上の関係だってば」

 面倒くさそうな表情でそう言い放つ皓人さんに、きっと嘘はないだろう。そう思うけれども。

「皓人さんはそう思っていても、外池さんはどうかな?」

 負け惜しみのような、中身のない言葉がつい口を突いて出た。

「別に向こうだって何とも思ってないよ。茉里ちゃんだって、会社の先輩にちょっと優しくされたぐらいで好きになったりしないでしょ?」

 皓人さんの言葉に、必要以上にドキリ、と心臓が大きな音を立てた。
 どうして、図星を突かれたみたいな気持ちになっているんだろう? 動揺が表情に出ていないことを必死で祈りながら、私はあくまでも冷静を装って口を開いた。

「当たり前じゃない」
 
 いつもより声が上ずっていないだろうか?
 必死で作った笑顔のせいで、頬が不自然にひきつっていないだろうか?
 声が震えていやしないだろうか?
 探るように皓人さんの目をじっと見つめるが、特に、私の様子を疑っているようには見えない。心のなかでこっそりと安堵のため息を漏らす。

「でしょ? だから、だいじょうぶだって」

 そう言いながら、ハンバーグをまた一切れ、皓人さんは口に運んだ。その晩、私たちはこの話題をそれ以上追求することはなかった。

*************************

「あれ、菊地君、ちょっといいかな」

 週明け、業務中に課長の呼び出しで席を立つ菊地さんを、なんとなく眺める。

「会社の先輩にちょっと優しくされたぐらいで好きになったりしないでしょ?」

 皓人さんの言葉が、頭のなかを何度も何度も、ぐるぐると巡っている。
 別にちょっと優しくされたぐらいで好きになるほど、私は惚れっぽい性格ではない、はずだ。こっそりと課長と菊地さんの会話に聞き耳を立てながら、私は心のなかでひとりごちた。

「つまり、来月で金沢の案件はクローズってことですよね?」
「はい、何も問題が発生しなければ、その予定です」

 課長と菊地さんの言葉が、ぼんやりと耳に届く。

「じゃあ、ちょっと人増やしましょうか。そうだな、あ、中谷さん! ちょっと来てもらえますか?」

 唐突に課長に名前を呼ばれて、私はビクリ、と肩を震わせた。突然の出来事に背筋が一瞬で伸びる。

「はい!」

 返事をしながら、課長の手招きに合わせて立ち上がる。
 聞き耳を立ててたって、バレてないよね? 心の中でどぎまぎしながら、私は課長のデスクへと向かった。途中、目が合った菊地さんの口角がわずかに上がったするのは気のせい、だろうか。

「中谷さん、まだ案件のクロージングに立ち会ったことはないですよね?」
「はい」

 菊地さんの左横に並びながら、課長の言葉にうなずく。左に立つ彼のことを意識しないようにと思っているのに、視界の隅に映るその存在へと、どうしても意識が向かってしまう。
 
「なら、ちょうど良かった。菊地君に担当してもらっている案件で、来月クローズのものがあるんです。そのサポートに入ってください。初めての作業も多いかと思いますが、菊地君とうまく連携して、新しいことを学んでいきましょう」
「分かりました」

 そう答えて課長に頭を下げてから、菊地さんを見上げる。まるで大丈夫だ、と言ってくれているかのような力強い頷きに、安心感が広がる。

「とりあえず、案件フォルダ見て概要を把握して、分かんないところあったら俺にきいて」
「はい」

 菊地さんの表情が、心なしか機嫌が良さそうに見えるのは私の思い込み、なのだろうか。自分に都合の良い疑問を抱きながら、自分のデスクに戻る。ちらり、と菊地さんの背中を眺めていると、再び皓人さんの言葉が頭のなかを巡る。

「会社の先輩にちょっと優しくされたぐらいで好きになったりしないでしょ?」

 別に、ちょっと優しくされたぐらいでは、好きにはならない。ただの仕事上の関係なんだから。ちょっと優しくされたぐらいなら、心は揺らがない。
 そこまで考えて、たどり着いてはいけない答えに近づいてしまった気がして、私は思考を停止させる。これ以上考えたところで、行きつく先は間違っているような、嫌な予感がする。一瞬脳裏をよぎったあり得ない考えを振り払いながら、私は目の前の仕事に集中しようとした。
 
 気合を入れ直して、先ほど課長に任された案件のフォルダを開く。
 菊地さんが何年も担当しているクライアントの案件だ。うまく関係を構築できているからか、ひとつの案件が終わればすぐに追加の新規案件に繋がっていて、絶えず案件があるような状況だ。今回の案件フォルダに紐付けられた過去の案件フォルダの数を見ても、その良好な関係が窺われる。
 数字を利用して見事なまでに工程順に整理されたフォルダに感嘆のため息をつきながら、「0」で始まるフォルダを開く。最初の提案資料やメールの履歴、アプローチ方法をブレインストーミングした際のメモなど、どうやって菊地さんがこの案件を獲得したかが、手に取るようにして分かる。提案資料の末尾の数字から、熟考を重ねて何度も改稿したのであろうことが推察できる。

 なんでも簡単にこなすことができてしまう、器用なタイプ。昔は菊地さんのことをそんな風に思っていた。前の部署に所属していたとき、この部署に訪れる度に涼やかな表情で業務をこなしていた姿が、印象的だったから。
 けれども、同じ部署で一緒に働いている今なら分かる。彼がどれだけの努力家で、必死に食らいついて仕事をしているのか、私は知っている。器用なように見えて、実は不器用だってことも、知っている。あの涼やかな表情の下に、必死な顔を隠していることを、私は知っている。
 だからこそ、足を引っ張りたくない。

「もうそこまで進んだのか」

 そう後ろから声をかけられて、私は振り返ることなく頷いた。振り返らなくても、その声の主が誰かは明白だ。

「分かりづらいところとか、なかった?」
「大丈夫です。菊地さんが丁寧にまとめてくださってるので」
「そっか」

 その答えの声のトーンから、彼が満足げに微笑んでいることが分かる。顔を見なくても、分かる。

「私、頑張るんで」

 ゆっくりと答えながら、私は後ろに立つ菊地さんの方へと向き直る。

「菊地さんがここまで丁寧に積み上げてきた仕事、台無しにしないように頑張らせてください」

 そう話しながら見上げた表情は、やはり想像していた通りの満足げな笑顔で。その表情に、胸がじわっと温かくなる。

「そう言ってくれるのはすごい嬉しいけど、他の業務もあるから、無理しすぎないように」

 言いながら、菊地さんが何かを私に差し出した。受け取ってから、それが自販機でいつも買うミルクティーのペットボトルなことに気付く。その優しさと気遣いが、より私の心を温める。
 
 菊地さんは、優しい。
 ちょっと、じゃない。
 ずっと、優しい。

「ありがとうございます」

 お礼を言いながら笑顔で見上げれば、優しい眼差しとかち合う。その眼差しの温もりに、なにかを勘違いしそうになる。なにかを、期待しそうになる。

「あんまり根詰めすぎるなよ」

 菊地さんの手が、言葉と同時に私の頭に伸びた、と思ったら、そのまま彼は自分の鼻の辺りを掻いてから、ズボンのポケットへと突っ込む。その仕草の意味を邪推したくなるなんて、私は一体どうしてしまったのだろう。

 不意に、ふわり、ふわりと水中を漂うクラゲを思い出した。
 一昨日の皓人さんと行った水族館で、私たちは二人でクラゲを眺めた。最初は手を繋いでいたのだけれども、スマートフォンを取り出そうとして、どちらともなくお互いに手を放した。ただ純粋に水中を舞うクラゲを楽しんでいた私とは違って、皓人さんの表情は真剣そのものだった。
 様々な角度からクラゲを撮影する彼の表情は、まさに仕事人そのもので。見慣れないその真剣な表情にときめくと同時に、少しの寂しさが胸を過った。

 ファッションデザイナーという職業は、私にとって未知の世界だ。
 そりゃあ、ファッションデザイナーがどんな仕事なのか、なんとなくは分かっている。ファッションに興味がないわけでも、嫌いなわけでもない。けれども、平凡な私の世界とは、全く異なる世界だ。そんな世界を、彼は生きている。
 
 仕事人としての彼を見る度に、どこか遠くに行ってしまうのではないか、という不安が過る。
 仕事人としての彼を見る度に、住む世界が違うのだ、と言われているような気がする。

 ふわり、ふわり、と水中を漂うクラゲを見つめながら、私の心は切ない音を奏でた。
 掴み所がない皓人さんは、いつかふわり、と私の世界から居なくなってしまうのではないか、と不安に駆られる。

 離れていく不安に怯え続けるよりも、同じ世界を生きる人と一緒にいる方が、幸せなのかな。
 
 クラゲを見つめながら、そんな考えがぼんやりと浮かんだ。それと同時に、ふわりと微笑む、菊地さんの顔が浮かんだ。浮かぶなりすぐに打ち消したはずなのに、心に何かが引っ掛かっているような気持ちになるのは、どうしてなんだろう。
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