灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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25. 白とハンバーグ

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 トン、トン、トン。
 無心で玉ねぎに包丁を下ろす。
 階下では、皓人さんが数人のスタッフと共にまだ仕事をしている。ミシンの音のすき間に聞こえる笑い声が、時折私の心を虚しく通り抜けていく。
 
 トン、トン、トン。
 こうやって、皓人さんの家で料理を作るのは初めてのことではない。だからこそ、彼もこうしてキッチンを任せてくれているのだろう。けれども、これが当たり前になるほど、私たちはまだ時間を共にしていないはずだ。
 そのわりには、皓人さんはこの状況に慣れすぎてはいないだろうか?

 トン、トン、トン。
 倦怠期、というやつなのだろうか。
 まあ、ありがちな時期ではあるかもしれないけれども。皓人さんはそういうタイプの人じゃないと思ったんだけどな。

 フライパンにサラダ油を引き、刻んだ玉ねぎを加えていく。淵にくっついた玉ねぎをヘラで落としながら、深いため息を付く。

 誰かのために料理を作るのは、私にとっては容易いことだ。ランドセルを背負っている頃から、続けてきたことだったから。
 学校が終わって、友達と遊ぶことなく、スーパーに直行して。小さな身体には不釣り合いな大きさの買い物かごを手に、陳列棚を覗き込む毎日。決してお金に余裕があったわけではなかったから、いかに効率良く割引の品を探すかが、いつものノルマだった。宝探しをして遊ぶみたいに、割引のシールを探していた。
 
 家に帰っても、手伝ってくれる人なんていなかった。そもそも、人がいなかった。ただいまの声が、空虚に響くだけの日々に耐えられず、いつの間にか帰宅しても何も言わなくなった。
 リビングにも洗面所にも、台所にも、私が居て欲しい人はいなかった。そっとランドセルを降ろして、手を洗って、買ってきたものを冷蔵庫に詰める。掃除機をかけて、洗濯物を干して、夕飯の準備を始める。それが、私の放課後の過ごし方だった。

 あめ色になった玉ねぎのあら熱がとれたところで、挽き肉と合わせてからパン粉や牛乳、調味料を加える。どの材料も、あの頃とは違う一級品ばかりだ。
 初めて来たときは飲み物ばかりだった冷蔵庫の中身も、ここに通ううちに少しずつ食材が充実し始めてきた。とはいえ、毎日通っているわけではないし、基本的にはその日のメニューに合わせた最低限のものしか、増えてはいかないのだけれども。

「お疲れ様でした!」

 遠くでそんな声が響いた気がした。それからすぐに、階段を上る小気味良い足音の後、皓人さんが顔を出す。

「今日の仕事、終わり? お疲れ様」

 笑顔を作って声をかけても、皓人さんの眉間には皺がよったままだ。ソファの前にしゃがみこむと、マガジンラックに鼻を突っ込まんばかりの勢いで何かを探す。

「探し物?」
「うーん。ちょっと、昔のスケッチブックをさー」

 手伝おうか? と訊きながら、布巾で手を拭う。

「だいじょうぶ、すぐ見つかるからー」

 そう言うなり、「あった!」と嬉しそうな皓人さんの声が響く。スケッチブックを片手に、骨を見つけた子犬みたいな笑顔を向けられて、自然と私の頬も緩む。

「今日は何つくってるの?」

 キッチンに近寄りながら、皓人さんが訊ねる。

「ハンバーグ。皓人さん、好きでしょ?」
「うん。やった!」

 少年みたいな無邪気な笑顔を向けられると、嬉しい気持ちが広がっていく。
 やっぱり、好きだな。
 いつの間にか心のなかでつぶやくのに慣れてしまった言葉を、私は今日も心のなかで独り言ちる。

「あ、そうだ、外池さんも食べていくかな?」

 ぽつり、とつぶやいた皓人さんの言葉を、私の耳はしっかりと拾ってしまった。

「え?」

 私の戸惑いの言葉に、皓人さんは気付かない。
 そのまま階段の方へと駆け寄ると、手すり越しに下の階に向かって言葉を投げ掛ける。

「外池さんも夕飯食べていく?」

 珍しく大きな声を出す皓人さんを眺めながら、挽き肉の入ったボウルに手を突っ込み、ぎゅっと握り潰した。
 なんで外池さん?
 疑問を握り潰すように、挽き肉に籠める力が増していく。

「やっぱ外池さん、いらないって。じゃあ、おれ、これだけ渡してきちゃうわ」
 
 涼やかな顔でそう告げた皓人さんは、私の言葉なんて待たずに階段をかけ降りていく。

  ふーん、他の人たちはもう帰っただろうに、外池さんはまだ残ってるんだ。
 心のなかで、明らかに悪意のあるつぶやきが響く。自分が醜くなっていくような気がして嫌なのに、止めることができない。
 皓人さんにとって、私はもはや女中かお手伝いさんみたいな存在になってしまったのだろうか。ハンバーグのタネをくるくるとまとめながら、意識は記憶の向こう側を引き寄せる。

 夕飯が出来上がる頃に帰ってくる義理の姉たち。放課後に遊んだ帰りのこともあれば、塾の帰りだったこともある。面倒くさそうに私に差し出される弁当箱を受け取り、2人が部屋着に着替える間に、配膳を済ませる。
  2人が夕飯を食べ始めたのを合図に弁当箱を洗い、お風呂を洗ってからお湯を入れ、洗濯機を回す。お風呂が沸く頃には2人は夕飯を済ませていて、テレビを見ながら笑い声をあげている。その声を聴きながら、台所の狭いスペースでようやく自分の夕飯を食べる。
 一緒にリビングですごそう、と姉たちには何度も誘われた。最初の頃は応じていたが、テレビを見ながら浴びせられる2人の無遠慮な言葉のナイフを避けるのが嫌で、次第に断るようになっていった。
 それに、1人になる時間が欲しかった。1人で座って、物事を考えたり、ただボーッとしたりする時間が欲しかった。その時間は、姉たちがお風呂に入り終えるまでの、束の間の贅沢な私だけの時間だった。

 ハンバーグのタネを成型し、空気を抜き終わった頃、皓人さんが戻ってきた。いつもと変わらない笑顔を見ても、なぜだか私の心は晴れなかった。

「お待たせ」

 そう言って微笑まれても、なんて答えれば良いのか分からなかった。どんな反応をすれば良いのか、分からなかった。

「これから焼くところ? おれ、ハンバーグがフライパンに乗った瞬間のあのジュワーって感じ、好きなんだよね」

 無邪気な表情も、カラカラという笑い声も、なぜだか今の私にはなんの効果もなくなっていた。大好きなはずの彼の表情も、笑い声も、仕草も、すべてがなんだか虚しく感じられた。
 フライパンにタネをのせる瞬間を食い入るように見つめる皓人さんを横目に、気付かれないようにため息を吐く。ジュージューと音を立てる肉の塊を、私はただじっと見つめた。

 義母が帰宅するのは、大抵は姉たちが風呂を上がって、就寝の支度をしている頃だった。いつも疲れた表情を浮かべた彼女の荷物や上着を、玄関先で受け取る。彼女が食事を取るタイミングに合わせて温め直した夕食も、義母の目には特段喜ばしいものには思えなかったようだ。
 私になんの言葉をかけるでもなく、ただ黙々と食事を口に運んでいく。姉たちの会話に返事をしながら、どこか遠い目で相槌を打つ。そんな彼女の隣で家計簿をつけるのが私の日課だった。時折レシートに目を落とし、気に入らない点があればため息をついて私に突き出す。大抵は、もっと節約しろ、という意味だった。
 夕食を済ませた義母が風呂を上がってから、ようやく私は風呂に入ることができた。私はいつだって、最後だった。どんなに義母が遅く帰ってきても、私は彼女の帰りを待ち、夕食を出し、そして彼女の後に風呂に入った。そんな私に、義母が感謝を示したことなどなかった。それがあの家のルールであり、日常だった。

「おれ、お皿出すね」

 皓人さんの声にはっと意識を現実に引き戻す。すっかり存在を忘れきってしまっていたハンバーグは、焦げることなく美味しそうな色で食欲を掻き立てる匂いを放っている。
 無意識に完成させられるほど、染み付いているということか。
 皓人さんが差し出してくれた皿にハンバーグを載せながら、私は胸を撫で下ろした。冷蔵庫から取り出したケチャップとソース、醤油をフライパンに垂らし、火をつける。

「茉里ちゃんが作ってくれるハンバーグソースって、絶妙で美味しいよね」

 カトラリーを運びながら、皓人さんは言った。

「この味、好き?」

 何も考えずに、言葉が口から飛び出した。それが耳に届いたときにはもう手遅れで、恐る恐る皓人さんの反応を窺う。

「うん、おれのお気に入り」

 笑顔で返される言葉に、安堵のため息をつく。良かった、気にしていないみたい。そう安心しながらも、なんとなく心の奥にはモヤモヤが残る。

「いただきます!」

 嬉しそうな皓人さんの声を合図に、2人きりの夕食が始まる。

「んー、美味しい!」

 キラキラと瞳を輝かせる彼の様子に、思わず満足気な表情を浮かべてしまう。
 今この瞬間、彼のこの表情を引き出したのは、私だ。
 そんな独占欲の塊みたいな言葉が不意に浮かんだ。

「明日のデートは、水族館ね。おれ、クラゲ見たいんだよね、クラゲ」

 ハンバーグを口に運びながら、皓人さんは言った。水族館、かあ。子供の頃以来行っていないかもしれない。自然と笑顔が浮かんでくる。

「なんでクラゲなの?」
「んー、あの軽やかさをトップスで表現したくてさ」

 そう語る表情は仄かに仕事モードを感じさせた。たまにしかお目にかかれないレアな表情に、少しばかりのときめきが胸を通りすぎる。

「それに、茉里ちゃんの癒しにもなるかなあって思って」
「え?」
「なんか、ちょっと機嫌悪そうだからさ」

 皓人さんの言葉に、またも心の中にモヤモヤが広がっていく。先ほどまで晴れていた心が、一気に曇っていく。

「仕事、大変だよね」

 理解を示しているかのような皓人さんの口調に、思わず眉間に皺が寄る。何も分かっていないくせに、すべてを分かっているみたいな彼の態度は、火に油を注ぐようなものだった。

「別に、仕事はいつもと変わりないけど」

 ついつい拗ねたような口調で答えれば、皓人さんは小さくため息をこぼす。

「じゃあ、何が問題なの?」

 珍しく皓人さんがイラついているのが分かり、こちらも咄嗟に警戒してしまう。

「問題ってほどのことはないけど」
「けど?」

 言葉尻を拾われて、今度は私がため息をつく番だった。
 言うべきか、言わざるべきか。
 心のなかの天秤が、微かに揺れる。
 素直な気持ちが、天秤の中央にドシン、と音を立てて鎮座する。これを言ったときの皓人さんの反応が、私には予想できない。
 どうしよう。どっちの答えが、彼の機嫌を損ねないですむんだろう? どっちが正解なんだろう?
 決断を下せずに私が悩んでいると、皓人さんのため息が耳に届いた。

「まさか、外池さんのこと?」

 まさかね、という彼の声音に、私はしぶしぶ頷いた。

「なんであのタイミングで彼女を誘う必要があったのかな、って」

 おずおずと、彼の反応を窺いながら、私はつぶやいた。

「なんでって、最近、外池さんは卒業制作に行き詰まってて悩んでたみたいだから、茉里ちゃんのおいしいご飯食べたら、気分上がるかなって思って」

 その分、私の気分が下がるのに? 口に出したいのに出せない疑問を、私はハンバーグと共に飲み込んだ。

「スケッチブックだけで充分だって、断られたけど」

 ああ、スケッチブックも彼女のためだったのね。心のなかでつぶやきながら、自嘲気味に笑う。
 皓人さんは優しいのかもしれないけれども、こういうところは優しくない。外池さんには優しいのかもしれないけど、少なくとも、今この瞬間、私には優しくない。

「何? 妬いてるの?」

 ちょっと呆れたような声に、自然と皓人さんの瞳を見上げてしまう。めんどくさそうで気だるげな視線と強ばって上がった頬の筋肉が、私の心を重くした。気付かないふりをしたくなるほど、ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
 比べたくないのに。比べてはいけないのに。それなのに、脳裏には一瞬、菊地さんの姿が浮かんだ。
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