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22. 白のおみやげ
しおりを挟む「ごめんね、いきなり来ちゃって」
ダイニングテーブルにグラスを置きながら私が放った言葉に、皓人さんは笑顔のまま首を振った。
「さっきも言ったけど、大丈夫だって。おれ、サプライズ好きだし。茉里ちゃんに会えて、嬉しいし」
話しながら、私の目の前に立った皓人さんは、そっと手を伸ばして私の右手を掴んだ。
「やっぱりさ、直接会えて、こうやって触れ合えるのって、いいよね」
皓人さんは自分の指を1本1本、私のそれに絡ませていく。ゆっくりと、まるで存在を確かめるみたいに。新しい指が絡めとられる度に、指先に甘い電流が走る。
この感触が、好き。
思わずそう口走りそうになったのを、ぎゅっと下唇を噛み締めて喉の奥に押し込んだ。
昨日、私たちは何を話したのか。今日、私は何を話しに来たのか。何を確かめに来たのか。それを忘れてはいけない気がした。
『本当に欲しいものを言ったときにそれを否定する恋人と一緒にいる意味って、どんぐらいあるんだろう?』
今日の休憩時間に聞いた、菊地さんの言葉が自然と頭に浮かんだ。
ちゃんと話をしないといけない。そう思いつつも、目の前の彼にどうしても惑わされてしまう。
5本全ての指を絡めとると、皓人さんはそのまま優しく私の手を握りしめる。先程まで作業をしていたせいか、心なしか冷たい彼の掌に私の体温が移っていく。
ゆっくりと視線を持ち上げれば、優しい彼の瞳とかち合って。まるでそれが合図だったかのように、彼の顔が近づいてくる。
そっと瞳を閉じて、彼の吐息を頼りにこちらからも唇を寄せれば、彼の柔らかなそれと重なった。呼吸を奪われて、心臓は大きな音を刻む。いつの間にか頬に添えられた彼の手に、思わず甘えるように擦り寄る。
「茉里ちゃんは、意外と寂しがり屋さん?」
口づけの合間に、静かにそう問いかけられたものの、私は何も答えなかった。
答えられなかった。
何も考えられなかった。
ただ彼が目の前にいること、それだけが私にとってのすべてだった。
ふわりと彼の体温が離れていくのを感じて、それに合わせて瞳を開く。視線の先には優しく微笑む皓人さんがいて、自然と私の口角も上がる。
「仕事終わってすぐに茉里ちゃんに会えたら、すごい癒されるだろうなあって思ってたけど、想像以上に効果抜群だわ。なんだか胸の奥がポカポカしてくる。これが幸せってやつなのかな?」
ゆっくりと私を抱き寄せながら、皓人さんはしみじみと語る。頭の上に感じる、彼の頭の重みに妙な安心感を覚える。
ポンポン、と背中を撫でられて。彼の頬に額を撫でられて。それだけで骨抜きにされてしまう私は、もう末期かもしれない。目の前の体温にすがり付くみたいに、私は彼の肩に腕を回した。
「それで? 茉里ちゃんの用事は?」
唐突に頭上から降ってきた皓人さんの言葉に、私の頭は一気に現実へと引き戻される。まるで、冷や水を頭から浴びたみたいな感覚だ。
ちゃんと、話さないといけない。
そのためにここへ来たはずなのに。
なぜだか、私の口は思うように動いてくれない。
「え?」
まだ頭が追い付かない私は、間抜けな音を口から発する。
「何か用事があってここに来たんじゃないの?」
私を抱きしめる体温は暖かいのに、彼の言葉はどこか冷たく感じて。そのギャップに私の心臓は嫌な音を立てる。
ちゃんと話そうと思っていたのに、いざとなると何もできない。
「昨日の電話のこと?」
彼の淡々とした問いかけに、私はぐっと唾を飲み込んだ。互いに表情が見えないのが良いことなのか悪いことなのか、それすらも分からなかった。
彼がいったいどんな表情でこの言葉を紡いでいるのだろう。自分が想像している以上に、普段の表情と変わらないのかもしれない。もしかしたら、いつもみたいに優しく微笑んでくれているかもしれない。
そんな想像をする反面、そうではなかったときのことをつい考えてしまう。彼の顔からいつもの温もりが消えた時、私はまともな精神状態を保っていられるのだろうか。
このまま話が進めば、もうあとには戻れない気がした。
一度壊れてしまったものは、元通りにならない。形があるものでも形がないものでも、同じことだ。
つい先ほどまで感じていた幸せも、悦びも、壊れてしまえばもう手の届かないものになってしまう。
名前のないこの関係が、終わってしまう。
彼が名前をつけてくれない、この関係が。
心のなかを恐怖と不安が駆け抜けていく。
それは、咄嗟の行動だった。防衛本能が働いたのかもしれない。私は彼の腕のなかから抜け出ると、ソファーの上にある袋を指差した。
「あれ、なに?」
彼の反応が怖くて、視線は彼の表情を避けてしまう。
「人のものジロジロ見るつもりはなかったんだけど、私の名前が見えたから、ちょっと気になっちゃって」
うつむき加減に無理矢理な笑顔を作って、まくしたてるようにして問いかける。大きな音を立て続ける心臓を必死で無視しながら、私はじっと皓人さんの答えを待った。
「あー、あれね」
言いながら皓人さんはゆっくりとソファに近づき、袋を手に取るとそのままそれを私に差し出した。
「茉里ちゃんにあげようと思ってたものなんだけど、開けてみる?」
ちらり、と視線を上げれば、いつもと変わらない柔らかい微笑みを浮かべた彼の顔が私を迎えた。ほっと胸を撫で下ろしながら、私は袋を受け取る。
ゆっくりと開くと、袋の中で布が折り畳まれていて。手を入れてゆっくり取り出すと、コロリ、と何かが転がり落ちた。
コロコロと転がっていく様を見つめていると、皓人さんがそれを拾い上げる。白地に細かいイラストと鮮やかなワインレッドが印象的なその箱は、どこか異国情緒に溢れている。すっぽりと皓人さんの手に収まる大きさのそれを、皓人さんは私に握らせた。
「ミラノのおみやげ。結構、女子に人気なんだって」
「へえ」
受け取りながら、私はパッケージをじっと見つめる。
DENTIFRISIO、DENTIFRICE、TOOTHPASTE、そこまで文字を追って、ようやくそれがなんだかを認識する。
「歯みがき粉?」
「そう。ちょっとスパイシーな感じなんだけど、オレンジのアクセントが効いてて、いい感じなんだ」
「へえ。ありがとう」
言いながら、私はそれを近場のテーブルに置いた。そして、袋から取り出した布へと視線を戻す。一番上に布から広げていく。淡いブルーで染め上げられたタオル地。
「それもミラノで見つけたんだ。茉里ちゃん用の、バスタオル。今までは新品の白いやつ使ってもらってたけど、あれじゃあ味気ないでしょ?」
かわいいやつの方がテンション上がるじゃん? と小首を傾げて問いかけられれば、ついつい笑顔で頷いてしまう。
「ありがとう」
答えながら、残りの布を広げていく。ふわりとしているのに、同時にさらりともしている、不思議な感触のそれは、どう見てもパジャマだ。
「いつ来ても大丈夫なように、茉里ちゃんのパジャマもこっちに置いておいた方が良いんじゃないかな、と思って。パジャマって、意外とかさ張るし地味に重いでしょ?」
皓人さんの声を遠くに聞きながら、私は広げたパジャマをじっと見つめた。
「それなら、部屋着としても使いやすそうだし、快眠効果もバッチリらしくて」
パジャマの素材を熱弁し始めた彼の話に空返事しながら、周囲を見渡す。
歯みがき粉にバスタオル、それにパジャマ。どれも、生活に必要なものばかりだ。それに、彼はこれらをここで使うことを念頭に置いている。
私との日常が続いていくことを、当たり前のことみたいに、想定してくれている。特別なことじゃなく、日常の些細なことを考えてくれている。
「あ、あと歯ブラシも新しいの買ってきたんだ。茉里ちゃんいっつも旅行用の持ってきてたじゃん?」
言いながら、先ほどまで私が持っていた袋に皓人さんは腕を突っ込んだ。
「歯ブラシ立ての空いてるところに差しちゃっていいから」
はい、と手渡された歯ブラシを、私は戸惑いつつも受け取る。
皓人さんの家で使う用の歯ブラシに、パジャマに、バスタオルに、歯みがき粉。皓人さんの空間に置かれる、私専用のもの。
彼の日常に、私が存在する未来。
そんな考えが私の頭を過る。
皓人さんは、言葉をくれないかもしれない。けれども、態度で示してくれている。そう思う私は、甘いのだろうか。
『言葉に拘らなくても良いんじゃないかな?』
いつかの、彩可の言葉が私の心にすっと入ってくる。皓人さんが私をきちんと思ってくれているのが分かれば、言葉にこだわる必要はない、よね?
皓人さんは照れ屋さんなんだから、言葉にするのに時間がかかっているだけかもしれないし。少なくとも、私とこれからも一緒にいてくれるつもりはあるみたいだし、それなら、別に今すぐ言葉を求めなくてもいい、よね?
心のなかでそう一人ごちながら、自分を納得させる。
「あの、ね、私がいつも使ってるヘアトリートメントも、ここにボトル置いていって良いかな?」
ゆっくりと、彼の顔色を窺いながら、私は訊ねた。皓人さんはちょっと拍子抜けしたみたいな表情をしながら、笑顔で頷いてくれた。
「もちろん。茉里ちゃんに必要なものは、なんでも持ち込んで置いてってくれていいから」
当たり前のことのようにそう話してくれるのが、なんだか嬉しくて。持っていたものを全部テーブルに置いてから、私は皓人さんの首に思い切り抱きついた。「うわ!」と彼が驚いた声を上げるのも気にせずに、彼の胸板に頬を擦り寄せた。
「ありがとう!」
くぐもった声でお礼を言う私を、皓人さんはそっと抱き締め返してくれる。
「あ、で、茉里ちゃんの用事は?」
改めて皓人さんに問いかけられるも、私は首を振った。
「もう、いいの。もう、大丈夫だから」
言葉なんてなくても、きっと大丈夫。皓人さんの行動を信じれば、きっと大丈夫。
だからもう、余計なことを考えるのはよそう。
ただ目の前の幸せを大切にしたい。
心のなかで、私は自分にそう言い聞かせた。
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