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16. 白との関係

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 チラリ、チラリ、と業務の合間に時計の針が進むのを盗み見る。
 PCを目の前にしているわけだから、右下に表示される時計を見れば他の人にバレる心配はない。それなのに、時間が早く進んでほしい時や締め切りが迫っているときには、ついついアナログの時計に頼りたくなってしまう。秒針が進んでいく様が、時を刻んでいる実感を与えてくれるからなのだろうか。

「デート?」

 唐突に耳元で発せられた言葉に驚き、思わず大きな声を出してしまいそうだったところを、なんとか口を押さえることで未然に防いだ。
 なんだか感心したように小さく手を叩く声の主、仁科さんに抗議の視線を送る。

「いやあ、中谷さんがそんな風に時間を気にしてるの、珍しいからさ、つい」

 はい、これ確認したらサインしておいて、と書類を手渡される。

「デートじゃなくて、友達と待ち合わせしてるんです」

 書類を受け取りながら、私は答えた。

 これは、本当の話だ。
 彩可が「久しぶりに女子会をしよう」と誘ってくれたので、今日の仕事終わりに待ち合わせしているのだ。折角だから、と話題の店に予約を入れたのだけれども、早い時間の枠しか空いていなかったので、仕方なくその時間にした。幸い、近頃は急ぎの業務もなく、定時に退勤できる日が続いていたため、今日もそうなるだろうと予想していた。事実、今日も業務はスムーズに進んでいて、この調子ならば定時に退勤できそうだ。

 しかし、仁科さんは私の言葉を信じていなさそうだ。
 
「友達ねぇ。分かってる、そういうことにしておいて上げるわ」

 とウィンクまでされてしまった。
 やれやれ、とため息をつきながら、PCへと向き直る前にこっそりと視界の隅に菊地さんを捉える。
 仁科さんとの会話、聞こえていただろうか。
 そっと様子をうかがうも、特に反応はなさそうで、恐らく聞こえていないだろう、と踏んだ。ふう、と安心のため息を漏らしながら、体制を整えてから我に返る。
 そもそも私は何を心配していたんだろう?
 安心したって、どうして?
 ちらり、ともう一度だけ菊地さんの様子を窺う。特に変化はなさそうだ。
 
 北野さんの件やその後の会話以降も、菊地さんの私への接し方は何の変化もなかった。いたって、通常運転だ。ただの面倒見の良い先輩。本当に、それ以上でもそれ以下でもない。それが一番だとわかっているのに、ほんの少しのモヤモヤが時折胸をよぎる。
 でも、どうして?
 少なくとも、恋愛に現を抜かして仕事を疎かにしている後輩、とは思われたくない。だから、頑張らないと。自分の中でそう結論付けて、私は中断していた業務を再開した。

*************************

 定時を回ってすぐ、業務も予定どおりに終わり、清々しい気持ちでPCの電源を落とす。他の人々に終業の挨拶をしてから、お手洗いで少しばかり化粧直しをして、エレベーターホールに向かう。ちょうど閉まりかけた扉が視界に入り、ついていないな、とがっかりしていると「どうぞ」という声に顔を上げた。
 閉まりかけていたはずの扉は開かれていて、思わず神様に感謝したくなる。

「ありがとうございます!」

 とお礼を言いながら乗り込んだエレベーターには、菊地さんしか乗っていなくて。声の主も、エレベーターの扉を空けておいてくれたのも、全て菊地さんだったんだと知る。
 この人はどうしてこうも、いつも私のことを救ってくれるのだろうか。
 小さく笑顔を見せる彼に、笑顔で頭を下げた。

「待ち合わせ、間に合いそうで良かったな」

 扉の閉まったエレベーターが動き始めると、菊地さんが言った。

「え?」

 思わす聞き返せば、菊地さんは少し気まずそうに口許を手で押さえた。

「仁科さんとの会話、聞こえてたんですか?」

 私がそう質問すれば、数秒の沈黙の後、諦めたように彼は頷いた。

「別に耳をそばだててたとかじゃなくて、聞こえただけっていうか、確かに中谷が今日はやたらと時計気にしてるな、ってもともと気にはなってたというか」

 なんか、悪い、と謝る菊地さんに、いえいえ、と首を振った。

「あの、本当に友達なんで、待ち合わせの相手」

 頭で考えるより先に、自然と口が動いた。なぜだか私はどうしてもそこをはっきりとさせておきたかった。

「中谷が嘘ついたとは思ってないよ。まあ、相手が友達でも彼氏でも、俺には関係ない話で。中谷が楽しい時間を過ごせれば、それでいいよ」

 優しいはずなのにどこか突き放すような物言いに、心の中のモヤモヤが大きくなっていく。

 エレベーターを降りて最寄駅の方へと歩き出すと、菊地さんも行き先は同じようで。図らずとも並んで歩くこととなった。

「あれから経理に嫌がらせとか、されてないか?」

 手が触れそうで、触れない。そんな微妙な距離を意識してしまって、菊地さんの言葉を聞き逃してしまった。

「中谷?」

 名前を呼ばれて、じっと見つめられて。一瞬、どこにいるのかを忘れかけた。決して大きくはない菊地さんの瞳の奥に、とらわれてしまいそうだ。
 何とか自力で意識を取り戻すと、私は曖昧な笑みを浮かべてごまかした。

「あ、大丈夫です。菊地さんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いいよ、お礼はあの時散々言ってもらったし。気にすんな」

 そう言って浮かべる笑顔は、皓人さんのそれとは違う優しさを持っていて。まっすぐ見ていられなくて、思わず俯いた。
 皓人さんの買ってくれたパンプスと目が合う。彼は、今頃ミラノで何をしているだろうか。

「お友達さんとは、駅で待ち合わせ?」
「そうですけど?」

 他愛もない会話からの唐突な問いかけに、疑問符をつけて答える。

「なんかさ、さっきからずっとこっちを見てる人がいるんだよね」

 菊地さんの言葉に、彼が指差す先を見つめる。そこにいたのは紛れもなく彩可で。
 距離が離れているからだろうか。見られている側からすれば無遠慮とも思えるような視線をこちらに浴びせている。

「うわ、彩可ってば」

 思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまった。
 そんな私の様子に、菊地さんはクツクツと喉仏を揺らす。その笑い声で、なんだかいろんなことがどうでもよく思えてきた。

「あんまり羽目はずしすぎるなよ。明日の業務に支障がでない程度に、ほどほどにな」

 じゃあ、お疲れ様、と言って私の肩をポン、と叩くと、軽く手を振る。そのまま彩可に向かってわざわざ一礼をして、菊地さんは改札の向こうへと消えていった。

「何あの雰囲気イケメン。ヤバ」

 彩可に駆け寄るなり、挨拶ではなくそんな言葉を掛けられる。

「さっきの人が、菊地さん。てか彩可、ガン見しすぎ!」
「菊地さんって、あの、菊地さん?」

 後半の注意なんて彼女の耳には届かなかったらしい。

「私の周りに菊地って名前の人は一人しかいないよ」

 そう答えれば、「なるほどねー」なんて含みのある視線を投げ掛けられる。その視線が居心地悪くて、私は彩可の腕を掴んで改札まで引きずることにした。

*************************

「関係性のステータスが変わると、やっぱり見えてくる価値観も変わってくるもんなんだなって、ちょっと悲しいっていうか、がっかりっていうか」

 サラダに入っているクルトンをつつきながら、彩可は語る。

「やっぱり、恋人と婚約者だと全然違う?」

 レタスのかけらを何とかフォークの背に載せながら、私は問いかけた。
 
「うん、全然違う。恋人同士の時は、一緒にいるその瞬間のことだけ考えていれば良いって感覚がどこかにあったんだけど、結婚、ってなると先のことを考えないといけないでしょ? 前は気にならなかったことが急に気になっちゃって」

 そういうもんなんだ、と呟きながら、今度はフォークの先で必死にケールだかクレソンだかを追いかけ回す。

「まあ、誰かさんはまだ付き合いはじめの一番良い時期の真っ最中ですから、そんなことどこ吹く風だろうけど」

 羨ましい、なんて呟く彩可の言葉に、不意にフォークを持つ手が止まる。

「付き合いはじめの一番良い時期、か」

 復唱しながら、ふと私と皓人さんの関係性を思い返す。
 付き合いはじめ。付き合いたて。付き合い。
 付き合ってる?
 よくよく思い返してみると、今まで一度も私たちの関係性を定義しようとしたことはなかった。

「私たちって、付き合ってるのかな?」

 不意に頭に浮かんだ疑問が、そのまま口からこぼれ落ちた。

「え?」

 彩可も手を止めて私の言葉に耳を傾けた。

「私と皓人さんって、付き合ってる、のかな?」

 急に顔を出した不安を隠すことなく、私は訊ねた。
 
「かな? って、自分で分かんないの?」
「分かんない。っていうか、どうやったら分かるの?」

 記憶をたどってみても、そんな会話を交わしたことまなく、話題にしようとしたこともないことに気付く。
 皓人さんのことを彼氏と呼んだことも恋人と呼んだこともないし、反対も同じだ。私たちの関係って、いったい何なんだろう?

「そりゃあ、人によるけど、一番分かりやすいのは、付き合ってください、みたいな告白から始まるパターン?」
「彩可はそうだった?」
「まあね。でも、私と亘さんは学生だったから。大人になったらそういう告白とかなくても、自然に始まるパターンもあるよね」
「自然に」

 復唱しながらも私の頭の中は疑問符でいっぱいだ。
 自然にって、何?
 よくよく考えてみれば、北野さんとの交際も、脇田さんとの交際も、そんな明確な告白めいたことは起こらなかった。食事に誘われて、それに応じて、を繰り返すと、いつの間にか彼らは私のことを恋人と呼んでいた。これが自然に始まるパターンってやつ? 

「自然に始まるパターンの時は、どうやったら始まってるって分かるの?」
「え? なんか、お互いに雰囲気で分かるもんじゃないの?」
「雰囲気?」

 雰囲気って、何?
 考えれば考えるほど、分からない。私は何か、大事なことを見落としているのだろうか?

「やってることは、恋人同士のやることだと思うの」

 おずおずと、私は口を開いた。
 
「やってることは」
「そう」

 ぎゅっとフォークを握りしめて、彩可と思わず頷き合う。
 少し間をおいてから、彩可が問いかける。

「……ヤってる?」
「…………ヤってる。……複数回」
「……そっか」
「……うん」

 なんとも言えない空気になり、お互いに無言でグラスに手をかけ中身を煽る。
 再びの沈黙の後、彩可は小さく「あ」とつぶやいてから、再び私の方へと視線をよこす。

「……セフレ、とかじゃないよね?」
「違う!」

 恐る恐るな彩可の問いに、思わず大きな声で返事をしてしまう。
 一瞬静まり返った店内に、居たたまれなくなってその場で縮こまる。
 ひそひそ話をするみたいに、手を顔の横にあてて私は続きを話した。

「違う、と思う。だって、その、それ以外のこともしてるもん」
「分かった」

 そう言って、今度は互いに無言でサラダを口に運ぶ。
 セロリでも入っていたのだろうか。なんだか突然、口の中が苦くなる。

「皓人さんとは、お互いに好き同士なんだよね?」
「そりゃあ、」

 そうに決まってるじゃない、と言いかけて、ピタリ、と口が止まった。
 好き?
 私は皓人さんが好き?
 それはもちろん、イエス、だ。
 じゃあ、皓人さんは私が好き?
 それは、たぶん? だって、皓人さんはそんなこと、一度も……。
 
 無言な私の状況を察してか、彩可が再び恐る恐るといった様子で口を開いた。

「好きって言われたこと、ない?」

 彩可の言葉に、私は首を縦に振ることも横に振ることも出来なかった。
 記憶を必死に掘り返して、気付いてしまった事実を、まだうまく吞み込めない。

「好きって、言われたことない」
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