Le Gouffre Noir~深淵の闇

奈古七映

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Le Gouffre Noir~深淵の闇

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 僕は深淵を覗き込んでいる。

 そこには濃密な闇しかなく、静寂で、何かがうごめく気配や苦痛にうめく声なども一切ない。

 生温かく仄かに血の匂いがする空気を感じながら、僕は君を想いながら深淵の闇を見つめ続けているいつか深淵に堕ちることができたら。

 その底にあるものは僕を楽にしてくれるだろうか。 





 いつものように、何食わぬ顔をして表通りに出る。

 駅から吐き出された人々の群れが速やかに僕を隠してくれる。
 周囲に溶け込むように気配を消して歩きながら、フレームの細い黒縁眼鏡をかける。
 誰一人として僕に注意を払いはしない。
 反対方向から接近してきた黒い影が、すれ違いざまに僕からモノを受け取って消える。

 任務完了。

 最初の頃と違って、もうドキドキすることもホッとすることもない。
 すべて仕事として割り切る。
 僕はそのために育てられたのだから。


「おはよう」
 昇降口で上履きに履き替えていると、同じクラスの女子に声をかけられた。
「おはよう」
 僕は小さく挨拶を返して背を向ける。
「ね、もしかしてコミュ障なの?」
 女子は追いかけてきて無遠慮な質問をした。
 僕は無視して足を速める。
「逃げなくたっていいじゃん」
 女子はしつこかった。
「あたし友達になってあげるからさ、ちゃんとお話できるように練習しようよ」

 こいつは何を言っている?

 僕は立ち止まり、まじまじと女子を見た。自分の申し出を親切と信じて疑わない傲慢さの裏に、邪まな下心が見え隠れしている。だらしなくゆるんだ口元が不潔そうで思わず眉をひそめてしまう。
「いらない」
 冷たい声ではっきり告げた。
「そういうの必要ないから」

 女子の顔色が変わり、醜く歪む。僕は目を背けた。

「はいはい、そこまで」
 後頭部を叩かれたのと同時に、聞き慣れた大地の声が降ってきた。
「海斗、女の子にそんな言い方しちゃだめだろーが」
 大地は僕の髪の毛をもみくちゃにした。この男とは幼馴染の腐れ縁、ということになっている。

「ごめんね、こいつ人嫌いなんだ」
 女子は大地に声をかけられて赤い顔になる。

 ほら、やっぱりそういう魂胆。僕は心の底からこの女子を軽蔑した。

 大地は何でもそつなくこなせてしまう優等生で、生徒会の役員を務めながらテニス部でも活躍していて、とにかく目立つ存在だ。当然よくモテる。こんな風に僕を大地への足掛かりに利用しようと近寄ってくる女子は、今まで何人もいた。

「余計なこと言っちゃって……ごめんね」
 女子は媚びを含んだ表情を作って僕を見たが返事をするつもりはない。

 大地に乱された髪を手ぐしで直しながら、僕は教室に向かった。

「おまえ、高校もずっとそれで通すわけ?」
 すぐに追いついた大地が呆れ声で言う。
「別にいいだろ。誰に迷惑かけるでもなし」
「迷惑とかそういう問題かよ。彼女とか欲しくね?」
「欲しくない」

 大地はフーンと鼻を鳴らし、僕の耳に口を近付けた。

「まさか蒼空が好きとか?」
 温かい吐息が耳にかかり、僕はぞくっとして身を震わせた。
「感じてんじゃねーよ」
 大地は可笑しそうに笑って僕の肩を叩いた。
「違うよ、ばーか」
 僕も笑って誤魔化し、大地の脇腹を小突く。
「蒼空に惚れてんのはおまえの方だろ」
「まあな」
 しれっと言ってのける大地が眩しかった。

 蒼空とは家が隣同士の幼馴染で、僕が口をきく唯一の女子だ。小さい頃から大地と三人でいることが多かったが、最近この二人が付きあい始めたため、僕はあまり近寄らないようにしている。

「なんてったって、蒼空は命の恩人だしな」

 僕の胸の奥深いところでベリッと、かさぶたの剥がれる音がした。

「俺、よく憶えてんだよな」
 大地は僕の変化には全く気付かず耳元で囁き続ける。
「人工呼吸とは別に、やたら濃厚なキスされたの」

 傷口からどす黒い血がドクドクと流れ出してくる。

「蒼空が俺にとって特別になったのって、あのキスのせいかも」

 耐えがたい苦痛により、僕は歩を止めた。

「どうした?」
「トイレ」

 後ろで大地が何か言っていたが、僕の耳はもう限界を超えてシャットダウンしている。

 急いで個室に駆け込み、洋式の蓋の上に突っ伏した。
 涙腺が決壊する。
 嗚咽を漏らすまいと拳を噛んで耐えた。


 胸の奥から噴き出す熱い血が、僕を内側から焼いている。

 どうして?どうして?どうして?

 外側に向かって吐き出すことのないどろどろした感情が、下腹へと集中し痛いほどに熱く脈打つ。
 ホームルームの始まりを告げるチャイムを聞きながら、僕は泣きながらベルトに手をかけた。 



 何事もなかったように一限から教室に戻った僕は、いつも通りひっそりと気配をころして過ごした。
 成績は可もなく不可もなく。あくまで目立たぬように。
 それが僕を育てた父親の方針だ。といっても実の父ではない。

 それどころかヒトですらない。

 どこか暗い所にいた僕を気まぐれに拾い上げて育てたのは、堕ちた神の成れの果てだった。
 だから、僕も元がヒトなのかどうかわからない。
 父親は自分の仕事を代わりにこなせる者を必要としていた。
 ヒトの世にまぎれ込み、ヒトのように学校へ通って暮らしながら、僕は生き物の精気や魂を売り買いする化け物に成長した。

 立派に育った僕を、父親は特別に愛してくれる。

 それは僕にとって吐き気を催すような、おぞましい愛情だった。


「おまえは誰よりも美しい」


 薔薇の繁みに囚われるような快楽で縛られ、もがくたび鋭い棘に傷めつけられ、僕は身も心も蝕まれゆく穢らわしさに息も絶え絶えになる。
 それでも、胸の奥底の癒えない傷から熱い血を噴き出す苦しみと比べたら、取るに足らない痛みなのだ。







 放課後、階段の踊り場で蒼空そらに会った。

「帰るとこ?」

 いつも通り屈託なく話しかけてくる。ふくふくした白い頬には笑窪が浮かんでいた。平凡な容姿の優しい女の子。

 僕は蒼空といると、ふんわり柔らかく暖かいものに包まれたような気持ちになる。

「うん。蒼空はこれから部活?」
 彼女が着ている白地に赤いラインが入ったジャージは、大地と同じテニス部のものだ。
「大地がいなくて捜してるの。コーチが呼んでるんだけど」
「そっか」

 僕は直感で大地がどこで何をしているのか悟った。

「捜すの手伝うよ」
「ほんと?助かる!私より海斗の方が大地の事わかってるもんね」
 何気ない蒼空の言葉が、透明な針のように僕の心臓を貫く。残酷な衝動が湧き上がってくるのを、僕は必死に堪えて笑みを作った。
「今ってスマホ持ってる?見つかったら連絡するよ」
 僕は蒼空と別れて下りたばかりの階段を上った。


 最上階の廊下を通って別の階段を更に上ると、予備の机や行事用の照明器具などが収納されている広い倉庫がある。扉には鍵が付いているが、大地は合鍵を持っていた。どんな手を使ったのかはわからない。
 窓のない扉に手をかけると、内側から女の声が漏れ聞こえてきた。ぎしぎしと机を揺らす淫靡な音がする。

 僕は額の真眼を開き、扉の向こうを凝視した。


 見知らぬ女子を弄ぶ大地が見える。
 ほぼ裸に近い女子の姿より、制服の下だけ脱ぎ捨てた浅ましい大地の姿に、胸の鼓動が高鳴った。

 何度見ても醜悪な構図だと思う。それなのに僕は大地から目が離せないのだ。

 上気した頬に浮かぶ淫らな笑み、逞しい太腿の筋肉、その上の猛々しい部分まで……普段は見ることのできない大地の生々しい姿が僕を虜にする。
 僕は立っていられなくなって、がくんと膝を折り床に手をついた。



「どうして?」

 こんな穢れた魂の持ち主に

「どうして?」

 恋い焦がれてしまうのか

「どうして?」
 
 口をつぐみ続けているのか



 異形の力を行使して大地を手に入れることはできない。

 たとえ精気を奪って肉体を意のままにできても、それは大地の抜け殻でしかなく、僕はそんなものを欲しいとは思わない。
 





「こんな所でどうした?」

 階段の下で待っていると、制服の上衣を手にした大地が下りてきた。

「蒼空が捜してた」

 僕の顔はいつも通り、共犯者じみた黒い笑みを浮かべている。
 そして大地は狡猾な目でそれを眺め、うっとりするほど邪悪に微笑むのだ。 






 優等生の大地が表向きの顔だと知っているのは僕だけではない。

 醜い性の欲望を交換したがる性奴隷たち。
 痛みを免れるために搾取に応じる羊ども。
 機嫌を損ねないよう立ち回る道化に、媚びへつらう下僕。

 皆で寄ってたかって、大地の優等生の仮面を強固なものに仕立て上げていく。
 黒い大地にすり寄る者たちは愚鈍な民のように自ら服従を誓い、今にも崩れそうな崖っぷちを歩かされても庇護の下に留まりたがる。
 だけど大地には庇護する気など毛頭ない。気まぐれに手を差し伸べ、気まぐれに突き落とすだけだ。

 それがわかっていながら、僕もまた大地の前に平伏することを望む愚かな民なのだ。







 その日の放課後は仕事の予定があった。

 反社会的勢力の会長から死なない程度に精気を抜く。
 最近はヒトからの依頼が増え、こんなつまらない仕事ばかりだ。



「海斗、ちょっと来て」
 さっさと帰ろうと教室を出かかったところに大地がやって来た。蒼空も一緒だ。
「なに?」
「図書室に戻しとけって言われた本が多過ぎなんだよ。悪いけど一緒に運んでくれね?」
「そんな面倒なこと引き受けるなんて珍しいじゃん」
「俺じゃねーよ」
 大地が蒼空を指差す。
「ごめんね」
 彼女は申し訳なさそうな顔で僕を見る。
「……蒼空なら仕方ないね」
「ありがとう」
 蒼空の頬に笑窪が浮かぶと、まわりの空気がぱっと明るくなった。

 僕や大地の黒い部分まで白に変えてしまえるような、優しく善なる無垢のヒト。

 額の真眼で見て、真綿のような白さと輝きを持っているのは、蒼空ただ一人だ。そばにいるだけで浄化されそうな気がして居心地が好い。



 大地にとっても蒼空は特別な存在だ。
「蒼空を失ったら生きていける自信ない。だから、あいつには優等生の顔しか見せたくない」
 釘を刺すようにそう言われたが、この僕が蒼空に告げ口などするわけがない。

「あいつが助けてくれなかったら俺の命は12歳で終わってた」

 幾度となく聞いたその言葉は、そのたびに僕の胸の深いところを傷つけ、癒えることのない傷から噴き出すどす黒く煮えたぎった血が出口を求めて身の内で暴れ業火となる。


――助けたのは蒼空じゃない!


 そう叫ぶことができたなら、どんなに楽だろう。
 だが、言ってしまえば僕はもう大地の傍にいることを諦めなくてはならなくなる。

 12歳まで白く輝いていた彼に、魂を黒く染める種を植えたのは僕なのだから。





 あの夏の終わり、貯水池で溺れた大地を助けるために、僕は自分の精気を分け与えた。
 黒い翼を持つ僕の精気でヒトを蘇生させたらどうなるかなんて、当時の僕にはわからなかった。だが、息をしなくなった大地の命を繋ぎとめるには、やってみるしかなかったのだ。

 最も手っ取り早い方法で口から精気を吹き込むと、止まりかけた心臓が力強く動き出した。僕が甦らせたと思うとたまらなく愛しくなり、夢中で大地の唇を貪ってしまった。

 我に返ったのは、僕らの名を呼ぶ蒼空の声が聞こえた時だ。
 かなりの精気を失った僕は、出てしまった翼や真眼を隠す力もなく、慌ててその場を離れ林の中に逃げ込んだ。
 そして、蒼空は倒れていた大地を見つけて介抱し救急車を呼んだ。それで、大地を助けたのは蒼空ということになってしまったのだ。

「キスなんかしてない」

 そう否定する蒼空は正しい。本当にしていないのだから。
 だが大地は信じなかった。羞恥心から嘘をついていると思い込んだ。


 僕は目の前で恋が育っていくのを、黙って見ているしかなかった。





「こうやって3人でいると昔を思い出すね」
 それぞれ本を抱えて図書室に向かう途中、蒼空が嬉しそうに言った。
「懐かしい」
「今度3人でどっか行くか?」
 大地の声は優しい。蒼空に向ける顔には邪悪な色などみじんもなく、優等生の仮面とも違う本来の姿があった。
「邪魔にされそうだから遠慮しとくよ」
 僕は冗談めかして笑いながら断る。

 見たくない。こんな大地の姿など。









 ヘマをしてしまった。
 僕は制服の上衣を脱ぎ、流血を隠すために腕にかけた。手首の少し上がザックリ切り裂かれている。

 ターゲット以外は難なく動きを止めて侵入出来たのに、本人に仕掛けるタイミングが一拍遅れてしまったせいで、思わぬ反撃に遭った。僕だって物理的攻撃を受ければ普通に怪我をしてしまう。
 どうにか依頼通りの状態にして出て来たのだが、傷は思ったより深く、なかなか塞がらない。
 僕は人通りの少ない道を選んで自宅へ向かった。


――あんな場面を見てしまったせいだ。


 図書室の書架の向こう側で、大地は蒼空にキスしていた。
 そっと頬に触れた右手と、強めの力で頭の後ろを押さえている左手。長身を屈め、蒼空の小さな唇を慈しむように啄む。

 今まで見てきた女子たちとの醜悪な場面と違って、それはとても崇高な行為に見えた。


――どうして大地の優しいキスを受けるのが僕じゃないの?


 わかっている。

 わかっているのだ。


 大地を白く癒せるのは蒼空だけで、黒い命を吹き込んだ僕の出る幕などない。

 永遠にない。










 「海斗?」

 路地を抜けると、目の前に蒼空がいた。
 驚いた顔で僕を見つめている。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫って、なにが?」
 僕は平静を装い笑みを浮かべた。
「だって、その血……」
 言われて自分の体を見下ろすと、ワイシャツの胸の部分が赤く染まっていた。傷のある腕を胴体に寄せていたからだろうか。


 こんな失敗は全くもって僕らしくない。

「轢かれた猫を助けようと……でも死んじゃって」
 だめだ、うまく誤魔化せない。
 僕は上着ごと腕を抱えるようにして逃げ出した。





 自宅に賭け込んだ僕を、父親が待ち構えていた。
「しくじったな」
 答えるより早く、僕の体は見えない何かにがんじがらめにされ、宙吊りにされてしまった。

 父親は腕組みしたまま、背中から生えた黒い手で僕の制服を切り裂く。
 高く掲げられた腕から血が流れ、裸の体を伝い爪先から床に滴り落ちた。

「これはこれで美しい」

 黒い手で傷に触れ、鋭い爪を沈める。新しい血がどくどくと湧き出す。
 痛みに思わずうめくと、父親は腕をほどき僕に両手を伸ばしてきた。

 おぞましい口づけ。

 血を塗りたくるように肌を撫でまわす無数の黒い手と、僕のものを握りしめるヒトの形をした手。
 吐き気がする。
 それなのに体の方は抗えない快楽に溺れ、無理やり広げられて体の奥深いところまで侵入を赦してしまう。



 僕は深淵をのぞきながら、いったい自分はどこにいるのだろうと考えている。
 深淵のふちに立っているのか、堕ちかけているのか、それとも、もうとっくに墜落してしまっているのか。



「治してやろう」

 獣欲を満たした父親は微笑み、僕から羽を一枚ぶちっと抜き黒い霧に変えて傷を覆った。
 もやもやと傷口に吸い込まれていく霧を眺めているうちに父親は姿を消し、僕は解放されて床に崩れ落ちる。

 とても……とても疲れていた。

 だから気が回らなかったのだ。

「海斗なの?」

 やわらかく清浄な空気が僕を包む。
 肩に温かい手を感じて身を起こすと、そこには蒼空の姿があった。

――どうしてここに?

 いや、訊くまでもない。僕の様子が変だったから心配して訪ねて来たのだろう。父親との交歓を見られなかっただけ、まだましかもしれない。


「綺麗ね」
 蒼空は僕の翼に触れた。
「熱っ」
 声を上げた僕に慌てて手が離れる。見れば、蒼空が触れた部分の羽が白くなっていた。








「誰にも言わないよ」
 蒼空は笑窪を浮かべてそう約束した。
「勿体ないね。こんなに綺麗なのに、隠さないといけないなんて」
 夢見るような目で僕を眺める。

 血にまみれた白すぎる肌に、漆黒の大きな翼を生やし、額に第三の目がある僕を。

 どうして驚かないのか不思議だが、蒼空にはそういうところがある。愚鈍なまでの素直さでありのままを受け止めてくれる。
 その優しさに、涙があふれそうなほど心が震えていながら、たまらなく憎い。

 僕は深い絶望に打ちひしがれていた。

「早く帰って」
 膝を抱え、翼を広げて体を覆い隠した。これ以上、蒼空の目を穢すわけにはいかない。
「わかった」
 ドアが閉まり、軽やかな足音が遠ざかる。



 僕は改めて蒼空に触れられた羽を確認した。
 漆黒の羽がその部分だけ確かに白くなっている。黒が白に変色したのではなく、黒い塗りが剥げて白くなったように見えた。


「癒しの神か」
 声とともに空気が揺らいで父親が現れた。
「まれにヒトに転生するらしいが、よもや隣の家にいたとは」

 見逃してもらえるとは思えない――僕には、次に父親が何を言うかがわかっていた。

「始末しろ」

 父親は白くなった羽をぎゅっと掴んだ。その手から黒い瘴気が染み渡る。
 漆黒に戻った翼を、僕は残念に感じてじっと見つめた。

 蒼空を手にかけなければならないのなら、せめて苦しませないようにしてあげようと思った。

 
「蒼空を失ったら生きていく自信ない」

 大地の声が甦る。

 いや、ただの比喩だ。後を追って死ぬなどという意味ではないはずだ。
 それに、ここを離れてしまえば大地と顔を合わせることもなくなる。

 癒えない傷から血を噴き出すことも。
 その血が業火を放つことも。
 身の内から焼かれ苦しみ悶えることも。

 全てなくなるのだ。


 そして僕は楽になれ……る? 


 本当に?




「不愉快だ」

 父親は無理やり僕の翼を広げた。

「せっかく捕えて、ここまで堕としたのに」

 背後から伸びた無数の黒い手が僕の体を締め上げる。


「癒しの神と交わりでもしたら、元に戻ってしまうじゃないか」


 僕は抵抗もせず父親の目を凝視した。底なし沼のようなどろりと濁った黒い目。


――元に戻る、とは?


「僕はどこか暗い所から拾われたのでは……」

 父親は目をスッと細めた。

「天から引き摺り下ろした時、この翼は真っ白で、それはもう」

 堕ちた神の成れの果ては、大きく口を開けて可笑しそうに嗤った。


「ひどく醜かったよ」


 ガンと強い力で叩かれたように頭が痛んだ。


 邪悪なはずの僕が、なぜ蒼空の傍にいて心地良かったのか。

 僕の翼は白から黒に、瘴気で染められたものだった。

 僕の精気も黒く穢されたのだろう。



 では、大地を黒く染めているのは僕じゃなくて……この堕ちた神?



 胸の奥深いところでかさぶたが剥がれ落ち、どくどくと熱い血が噴き出してくる。ほどなく血は業火と化し、出口を求め暴れ始めた。


「気が変わった。癒しの神はこの手で始末する」

 未来永劫ずっと神には戻れぬ穢れた者は、妬みと憎悪に満ちた顔をしていた。


――ああ、なんて醜い!


「まずは男たちに犯させるのも一興」


「させない!」

 僕は叫びとともに業火を吐き出し、目の前の醜悪なものを炎で包み込んだ。

 父親だったものは凄まじく絶叫して転げ回り、白い炎に炙られ続けた。


 どれほど邪悪であろうと、暗い所で朽ちる身だったのを拾ってもらった恩がある限り、逆らうことなどできないと思っていた。その枷に縛られてギリギリまで耐えてきたのに、だまされていたなんて……



 心身から黒が薄れていくのを感じ、初めは気のせいかと思った。だが、清々しく晴れ渡っていくような感覚が確かにある。



 ふと気付いて翼を広げて見ると、黒が剥がれ落ちそうになっていた。僕が羽ばたくとそれは払われ、黒い靄となって空気に融けて消えた。


 初めて見る白い翼。

 それはとても美しかった。



 その時、ひくひくうごめく焦げた肉塊がぶわっと黒い瘴気を吐き出した。
「慈しんでやったのに」
 怨嗟の声とともに一本の黒い手が生え、目にも止まらぬ速さで伸びて来て僕の首をがっちりと掴んだ。
「おまえの中に棲むぞ」
 肉塊の表面が割れ、ずるんっと何かが抜け出した。
 僕は黒い手を剥そうともがいたが、びくともしない。
 濃厚な禍々しさを放つ何かは、ずるずると蛇が巻き付くようにらせんを描いて、僕の体を上ってくる。


「もう何をしても無駄」


 顔の下まで這い上がってきたそれは、凍りつくような黒い声を発すると、凄まじい力で僕の口を割って体内に侵入した。










 愛しい大地。

 僕は君を元に戻す努力をしよう。



 夜が更けるのを待ち、大地の家に行った。
 真眼で見てみると、家族全員もう寝静まっているようだ。

 黒い霧と化して大地の部屋に入り込む。堕ちた神そのものになりつつある僕は、容易くその力を行使できた。

 今は意志に従って動けるが、いずれ僕の意識は失われてしまうだろう。侵食し続けるものの記憶や知識が、そう教えてくれる。
 この禍々しいものの種を、僕は無知にも大地に植え付けてしまった。責任は取らねばならない。


 眠っている大地の顔は穏やかで、邪なものの気配を感じさせなかった。
 だが、その体内で脈打つ種は、一時も休むことなく暗黒を生み出している。僕が吹き込んだ黒い精気から生まれた種だ。


「大好きだよ」


 僕は声にならないほど小さく囁き、大地と唇を重ねた。
 温かく湿った息が漏れる。
 愛しい匂いがした。


 かつて吹き込んだものを吸い出すのは、楽な仕事じゃない。種は今やしっかりと根を張っているのだ。
 苦痛を出来るだけ感じさせないように、僕は意識を集中させて一本ずつ根をころしていった。

 大地の口の端から唾液が流れ、苦しげなうめきが漏れる。

――まだ我慢して。もう少しだから。

 僕は大地の顔を両手でしっかり固定して吸う力を強めた。
 種が張り巡らせていた根の最後の一本が抜けた瞬間、それは軽々と喉元を上がって来て僕の口中に収まった。

――これでいい。

 種を呑み込んで唇を離すと、大地はうっすら目を開けていた。
「そっか、海斗だったんだ」
 朦朧としているようだが、僕は大地が何を言っているかすぐわかった。
「蒼空とキスしても、なんか違うと思ってた」
 僕の胸から熱いものがこみ上げてくる。あふれた涙で視界がぼやけた。
「ありがとな」
 その言葉だけで心が満たされた気がする。
 僕は涙をぬぐい、手をかざして大地のまぶたを閉じさせた。
 次に目覚めた時、大地の中から僕は消え失せていることだろう。
 大地は優しい顔で眠りに落ちていった。

 深淵に堕ちるのは僕だけでいい。

 黒い種に染められていた時の記憶は、大地を苦しめるかもしれない。
 突然の変化に、黒い王を仰いでいた者たちは戸惑うことだろう。
 それでも大地には蒼空がいる。癒しの神は奇跡のように大地を護り、救ってくれることだろう。




 黒い精気がヒトに入ると禍々しい種を生み出す、なんて。
 僕は本当に何も知らなかったのだ。

 今の僕には以前とはく比べものにならないほどの知識と力がある。
 これから自分がどうなるかも、よくわかっている。



 僕は夜空に飛び立った。

 翼がぼろぼろになるまで休まず飛び続け、力尽きて海に落ちた。
 沈みながら死を期待したのに、何の苦痛もなく再び浮き上がった。
 陸に上がった体は、僕の意志とは関係なく動くようになり、おぞましい食物を口に運んだ。
 咀嚼された生臭いものが喉を下りていく。吐き出したかったが、僕の顔は満足そうに笑みを浮かべているばかりだった。

 意識もだんだん薄れてきた。


 これが僕の運命だったのだ。



 堕ちた神の成れの果てが天上に穿った穴から手を伸ばし、うまれたての僕がたまたまそこにいた。その時から、こうなることは決まっていたのだ。




「さよなら」





 生ぬるい闇に包まれて眠りにつこう。

 深淵の底の静寂が僕を待っている。




~FIN~

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