12 / 13
十一、
しおりを挟む
「電話、ありがとう」
いつも通りなショーンの声に、由莉は泣きそうになった。
「何度か電話したりメッセージ送ったんだけど、繋がらなかったから……電源切ってるんだろうなって。由莉のほうから連絡くれるの待ってたんだ」
こんな騒ぎになり、一人おびえて隠れているようなイメージが頭のどこかにあったが、ショーンはもう傷つきやすいだけの少年ではない。冷静に事態を受け止め、衝動的に動いたりもしなかった。自分なりに考えて静かに待っていてくれた。そのことが頼もしくもあり、素直に嬉しかった。
「心配かけちゃったね。ごめん」
にじんでくる涙を指先でぬぐいながら、由莉は言葉を選んでゆっくり話しはじめる。
「高宮と話し合うのが先だと思ったから」
名字で奏のことを読んだ由莉に、ショーンは息をのむ。
別れると決まったからには、下の名前ではもう呼べない。これからは二人が会う機会も、ほぼなくなるだろう。
「ロケ先から戻ってきた彼とさっきまで話してて、離婚することになったの」
「えっ……もう決まったの?」
戸惑うような声が意外で、由莉は少し表情を硬くする。
「そんな、困ったみたいな反応されると傷つくんだけど」
大人げないと思いながら正直な気持ちを口にすると、やや間を置いてショーンが低い声を発した。
「雑誌が発売されて丸一日も経ってないのに、あの人、離婚に同意したわけ?」
どこか怒りを含んだような口調で質問され、今度は由莉が戸惑った。
「いや、俺が言うことじゃないってわかってるよ。でも、今まで由莉を裏切ってたくせに、手のひら返して切り捨てるみたいに……」
「待って、そうじゃない」
どう説明したらいいか迷いながら、それでも由莉は取り繕ったりせず、事実をありのまま伝えたかった。
「高宮が言うには、売名のためにショーンから横取りして結婚したけど、もうそろそろ潮時だと思ってたって。はじめからいつか離婚するつもりでいた、本来の相手に返してやるって……私に謝罪させないために悪ぶったのかな。最後まで本音がわからなかった」
「由莉にそんなひどいこと言ったんだ?」
電話の向こうで、ショーンは長いため息を吐いた。
「もし一緒に仕事する機会がなかったら、真に受けて怒ってたかもしれない。あの人は由莉を独占したがってたし、俺が近づくことに嫉妬もしてた。愛情がなかったとは思えないよ。由莉に憎まれるようなことを言ったのもわざとで、あの人なりにけじめつけるために必要だったんじゃないかな。プライドもあっただろうし」
「……そう思う?」
ショーンは「うん」と言った後、ちょっと笑った。
「ごめん。俺が言うことじゃないね、ほんと」
彼が誰かについて話すことは珍しいが、たまにその洞察力に驚かされることがある。人間が怖く、なかなか心を開けない性格なだけに、逆にそういう感覚が鋭いのかもしれない。
つい先ほどということもあって、奏が話した内容を、由莉はどう受け止めたらいいかわからなかったが、もう終わりなのだから忘れるべきだと思っていた。でも、このもやもやした気持ちをに蓋して新しい人生を歩き出そうとしたら、ずっと心のどこかに引っかかりを感じたまま生きることになるかもしれない。
「ううん、どう思うか聞かせてくれてよかった。私もけじめつけなきゃね。ちゃんと考えて、私なりの解釈ですっきりさせたい。それから前に進むことにする」
「わかった。待ってるよ」
ショーンの言葉がやさしく耳をくすぐる。
「高宮が近いうち会見ひらいて離婚を発表するって言ってたから、しばらくは騒がしいと思う。カオルさんには私から説明しておくね」
「うん、ありがとう」
約束していいかどうか、少し迷ったが、由莉は思い切って口を開いた。
「次に会えるのは、たぶんちょっと落ち着いてからになるけど、その時には……」
「俺だけの由莉になってて」
かぶされた真剣な声に、由莉はドキッとした。
「後悔なんか絶対させないから」
ショーンの言葉はストレートで嘘がない。だから一緒にいて気持ちが楽だし、彼だけは無条件に信じていられる。思い返せば昔からずっとそうだった。
「ありがとう、ショーン」
涙があふれて止まらない。でも由莉は泣いているのを隠そうとはしなかった。ショーンに対しては、どんな感情でも伝えていきたいと素直に思える。
「もしかして泣いてる?」
「うん。とんでもないことに気がついてしまって」
由莉は今まで漠然と、心の中から高宮奏がいなくなったら、同じ場所にショーンがおさまるのだろうと思っていた。だが、そうではなかった。彼女の中での二人のポジションは全然違う。
「私、何にもわかってなかった。高宮のためって言いながら、自分がしたい努力しかしてなかった。勝手に思い込んで押しつけておいて、どうして喜ばれると思ってたのかな……」
泣きながら話すのを、ショーンは黙って聞いている。
「温かい家庭とか、信頼しあえる関係とか誠実さ、きちんとした生活、穏やかな毎日……私が高宮に押しつけたことのほとんどは、小さい頃のあなたにしてあげたいと思ってたものだった」
もしかすると、由莉本人も自覚していなかったそのことに、高宮は気がついていたのかもしれない。
「あの人は、由莉に何を求めてたの?」
「わからない。何年も一緒にいたのに、わからないの」
情けなくて、自分自身に失望すら感じる。だが、もう何もかも終わったことで、取り返しはつかないのだ。
「ひどいよね。ちっとも良い妻なんかじゃなかった」
「由莉」
ショーンは落ち着いていた。
「俺が欲しいものはみんな由莉が持ってると思うから、これからそれ全部ちょうだい。少しずつでも、時間かかってもいいよ。で、たぶん由莉が欲しいものは、俺がみんな持ってる。変なこと言うようだけど、自信あるんだ。由莉と俺は、お互い与えたいものと欲しいものが同じなんだよ。そういうの、世間では相性が良いっていうんじゃないかな」
「相性?」
「うん、だから俺たちは絶対うまくいく」
少し笑いを含んだ彼の声は、どこか希望を予感させるように弾んでいた。
相性という言葉が、これほど実感を持って響いたことはない。
高宮とは努力すればするほど気持ちが離れていくのを感じ、特に結婚してからは幸せより苦しみの方が多かった気がする。浮気を繰り返した彼にも、口に出来ない苦しみはあったかもしれない。それもこれもすべて、夫婦互いに望んでいることと与えたいこととが、ひどいミスマッチだったからと思えば納得がいく。
「ショーン……」
由莉は小さく震えはじめた体を、片手でさすった。
「会いたくて、会いたくてたまらない。死にそう」
こんなセリフを吐くなんてどうかしている――そう思いながらも止められなかった。
「俺も会いたい。早く会って、由莉をぎゅってしたい」
由莉を囚えていた檻や枷のような思いが、急速に消えて無くなっていく。心の中に、ショーンへの愛しさがじんわり沁みるように広がっていくのを感じた。
高宮奏の離婚会見が行われたのは、翌日の午後だった。
人目を忍んで訪ねて来たカオルから、ワイドショーで生中継されると聞いて、由莉は緊張しながらテレビをつけた。昨日と同じコメンテーターがまた勝手な見解を喋りまくっていたが、気にしないことにして、その時を待つ。
「あ、はじまるわね」
隣に座っているカオルも緊張しているようで、クッションを両手でしっかり抱え込んで言葉少なだ。
画面の向こうでは、テレビカメラがスタンバイしている会見場に、さっそうと高宮が現れた。紺のシャツに白いジャケットという爽やかさを強調するような服装で、地味めのスモーキーピンクと紺のストライプ柄のネクタイをしている。
「着こなしの難しいスタイルね。似合ってるけど」
カオルがぼそっと言う。
こういう場にスーツではなく、あえてラフなスタイルで臨んだのは、謝罪が第一目的ではないということだろう。さすがに看板俳優なだけあって、マネージャーではなく所属事務所の社長が同席している。
司会が会見のスタートを告げ、高宮本人がマイクに向かって口を開く。本日はお忙しい中……と決まり文句のような挨拶を前置きに、経緯の説明をはじめる。
「私どもは似た者同士の夫婦でした」
会見で何を話すつもりか、由莉は一切聞いていない。すべて任せろと言われただけだ。
高宮はまじめな面持ちだが、裏切られた夫のような悲壮感はまったくない。
「初対面から私どもの距離感は近く、お互いに運命だと信じて結婚まで突き進んだわけですが、わりと早い段階で間違いに気がつきました。友人同士なら、これほど解り合えて気楽な相手はいないのに、夫婦として共に生きるには、あまりにも似過ぎて相性が良くなかったのです」
まったく事実と異なる離婚理由を語っているのに、妙な説得力がある。演技が巧みなせいだろうか。当の本人である由莉まで、この人の言う通りの「妻」がどこかに存在しているような錯覚すら覚える。
「そのような気持ちを打ち明けるのは勇気がいることでしたが、妻も同じことで悩んでいたとわかり、それから二人で話し合いを重ねてきました」
彼は目を伏せ、感情を整えるかのように一息ついた後、再び目線を上げて語り出した。
「私、高宮奏は白川由莉さんと離婚いたします」
いくつものシャッター音が重なって響く。
「出演ドラマの関係もありまして、時期を見計らっていたのですが、もともと数ヶ月後には公表する予定でした。今回の報道により、不倫が理由での離婚というような間違った認識が広がるのは、私としても本意ではありません。もはや時期を待っている場合ではないと判断し、このような形でのご報告となりました。関係者の皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」
立ち上がって頭を下げた高宮奏は、ものすごい数のフラッシュを浴びた。
由莉は瞬きもせず、その姿をじっと見つめる。恋人として八年、夫婦として三年を共に生きた相手がつけたけじめがこれなら、自分には見届ける義務があると思った。
「奥さんとショーンさんの関係はご存じでしたか?」
記者の質問が飛ぶ。
「知ってました」
高宮は顔色も変えない。
「ショーンは子供のころから由莉さんを慕ってました。一般人の恋人がいるというのは、カモフラージュだったみたいですよ。初恋の人である由莉さんを一途に想い続けて、仕事で再会したのを機に気持ちが通じたそうです。ただ、離婚を決めた後のことですし、本当につい最近の話ですから、憶測で語られているような不適切な関係ではありません。彼らを知ってる人ならわかると思いますが、どちらも不道徳なことが出来る人間じゃないんです。形だけでも私と結婚しているうちは性格的に無理でしょう。二人の関係はまだローティーンのような幼くて初々しい恋がはじまったばかりで、大人の恋には程遠いんじゃないかなと思います」
由莉は思わず赤面して、画面の高宮をにらむ。
「昨日の今日でこれとは、すごい対応力ね」
カオルは抱きしめていたクッションをようやく手放し、ふうっと大きく息を吐いた。
「いつか別れようと、ずっと思ってたみたいだから」
由莉は自筆でサインした委任状を丁寧に折って封筒に入れ、カオルに渡した。
「代理人の手配とか、今回の事後処理を頼みたいの」
ぽかんと口を開けて、カオルは由莉の顔をまじまじと見た。
「やってくれるよね?」
由莉はちょっと笑いを含んだ表情で、それでも怒ったふうを装うかのようにテーブルを軽く叩いた。
「はい、白状して」
「ごめん!」
カオルはがばっと頭を下げた。
「引き受けるわ。何でもやらせてもらう!」
「どこからが計画だったの?」
「……正直に話すわね」
カオルは両手をひざの上にそろえ、真剣な表情で語りはじめた。
「実はショーンには、イタリアのブランドから誘いが来てるの。世界でもトップクラスのメンズブランドと契約すれば、一気にトップモデルの仲間入りよ。うちの事務所にとっても、またとないチャンスなの。そう遠くない将来、本腰入れて海外進出したいから」
熱っぽく語る彼女に、由莉は無意識に相槌を打つようにうなずいていた。海外進出はカオルの長年の夢でもある。
「去年、そのブランドのキャンペーンモデルの一人に選ばれたんだけど、デザイナーがえらく気に入ってくれて、ぜひ専属にって破格の条件を提示されたの。ショーンも断るのをためらってた。あんな子だけどモデルの仕事が嫌いじゃないの、由莉も見ててわかるでしょ? だけど話を進めようとすると、とても自信ないって怖気づいて全然ダメ。あたしもやけくそになって、ブランド側に半年待ってくれたら契約してもいいって強気で申し入れたら、あっさりOKされちゃって。もうこうなったら、半年でどうにかして高宮奏から由莉を奪うしかないって、ショーンを焚きつけて帰国させたの」
「嘘でしょ、ショーンまではじめから……」
「怒らないでやって。あの子は由莉の幸せを壊したくないって抵抗したのよ。山口さん経由で、由莉はそんなに幸せじゃないって吹き込んで、帰国を決意させるまでが大変だったわ……でも、ショーンが世界的な一流モデルになるには、どうしても由莉が必要なのよ。どんな有能なエージェント雇ったって、あの子を支えるのは無理だわ。そしてショーンが大舞台でコケたら、うちの事務所の海外案件は全部終わりよ。だからね、由莉や高宮さんに恨まれてもいいから、どんな手を使ってでも離婚させるつもりだった」
由莉はあきれて、開いた口が塞がらなかった。
だが、カオルがそこまでの決意でこの策略に賭けていたのなら、やっぱり憎めない。
「もし高宮が浮気しない誠実な男だったら、こんなこと考えなかったでしょ?」
「そんなきれいごと言うつもりないわ。うちの事務所にとって重大な案件だから、容赦なく遂行したのよ。自分とこのモデルと親友を不倫に誘導してスクープ記者に売るなんて、バカバカしい、うまくいくわけないって母親には散々な言われ様だったけどね。いいから任せろって押し切ったわよ」
「……カオルさん、もうさっさと社長に就任した方がいいと思うよ」
皮肉のつもりで由莉が言うと、カオルはにやっと不敵な笑いを浮かべた。
「近いうちにそうなるわ。由莉、イタリアからお祝い送ってちょうだいね」
いつも通りなショーンの声に、由莉は泣きそうになった。
「何度か電話したりメッセージ送ったんだけど、繋がらなかったから……電源切ってるんだろうなって。由莉のほうから連絡くれるの待ってたんだ」
こんな騒ぎになり、一人おびえて隠れているようなイメージが頭のどこかにあったが、ショーンはもう傷つきやすいだけの少年ではない。冷静に事態を受け止め、衝動的に動いたりもしなかった。自分なりに考えて静かに待っていてくれた。そのことが頼もしくもあり、素直に嬉しかった。
「心配かけちゃったね。ごめん」
にじんでくる涙を指先でぬぐいながら、由莉は言葉を選んでゆっくり話しはじめる。
「高宮と話し合うのが先だと思ったから」
名字で奏のことを読んだ由莉に、ショーンは息をのむ。
別れると決まったからには、下の名前ではもう呼べない。これからは二人が会う機会も、ほぼなくなるだろう。
「ロケ先から戻ってきた彼とさっきまで話してて、離婚することになったの」
「えっ……もう決まったの?」
戸惑うような声が意外で、由莉は少し表情を硬くする。
「そんな、困ったみたいな反応されると傷つくんだけど」
大人げないと思いながら正直な気持ちを口にすると、やや間を置いてショーンが低い声を発した。
「雑誌が発売されて丸一日も経ってないのに、あの人、離婚に同意したわけ?」
どこか怒りを含んだような口調で質問され、今度は由莉が戸惑った。
「いや、俺が言うことじゃないってわかってるよ。でも、今まで由莉を裏切ってたくせに、手のひら返して切り捨てるみたいに……」
「待って、そうじゃない」
どう説明したらいいか迷いながら、それでも由莉は取り繕ったりせず、事実をありのまま伝えたかった。
「高宮が言うには、売名のためにショーンから横取りして結婚したけど、もうそろそろ潮時だと思ってたって。はじめからいつか離婚するつもりでいた、本来の相手に返してやるって……私に謝罪させないために悪ぶったのかな。最後まで本音がわからなかった」
「由莉にそんなひどいこと言ったんだ?」
電話の向こうで、ショーンは長いため息を吐いた。
「もし一緒に仕事する機会がなかったら、真に受けて怒ってたかもしれない。あの人は由莉を独占したがってたし、俺が近づくことに嫉妬もしてた。愛情がなかったとは思えないよ。由莉に憎まれるようなことを言ったのもわざとで、あの人なりにけじめつけるために必要だったんじゃないかな。プライドもあっただろうし」
「……そう思う?」
ショーンは「うん」と言った後、ちょっと笑った。
「ごめん。俺が言うことじゃないね、ほんと」
彼が誰かについて話すことは珍しいが、たまにその洞察力に驚かされることがある。人間が怖く、なかなか心を開けない性格なだけに、逆にそういう感覚が鋭いのかもしれない。
つい先ほどということもあって、奏が話した内容を、由莉はどう受け止めたらいいかわからなかったが、もう終わりなのだから忘れるべきだと思っていた。でも、このもやもやした気持ちをに蓋して新しい人生を歩き出そうとしたら、ずっと心のどこかに引っかかりを感じたまま生きることになるかもしれない。
「ううん、どう思うか聞かせてくれてよかった。私もけじめつけなきゃね。ちゃんと考えて、私なりの解釈ですっきりさせたい。それから前に進むことにする」
「わかった。待ってるよ」
ショーンの言葉がやさしく耳をくすぐる。
「高宮が近いうち会見ひらいて離婚を発表するって言ってたから、しばらくは騒がしいと思う。カオルさんには私から説明しておくね」
「うん、ありがとう」
約束していいかどうか、少し迷ったが、由莉は思い切って口を開いた。
「次に会えるのは、たぶんちょっと落ち着いてからになるけど、その時には……」
「俺だけの由莉になってて」
かぶされた真剣な声に、由莉はドキッとした。
「後悔なんか絶対させないから」
ショーンの言葉はストレートで嘘がない。だから一緒にいて気持ちが楽だし、彼だけは無条件に信じていられる。思い返せば昔からずっとそうだった。
「ありがとう、ショーン」
涙があふれて止まらない。でも由莉は泣いているのを隠そうとはしなかった。ショーンに対しては、どんな感情でも伝えていきたいと素直に思える。
「もしかして泣いてる?」
「うん。とんでもないことに気がついてしまって」
由莉は今まで漠然と、心の中から高宮奏がいなくなったら、同じ場所にショーンがおさまるのだろうと思っていた。だが、そうではなかった。彼女の中での二人のポジションは全然違う。
「私、何にもわかってなかった。高宮のためって言いながら、自分がしたい努力しかしてなかった。勝手に思い込んで押しつけておいて、どうして喜ばれると思ってたのかな……」
泣きながら話すのを、ショーンは黙って聞いている。
「温かい家庭とか、信頼しあえる関係とか誠実さ、きちんとした生活、穏やかな毎日……私が高宮に押しつけたことのほとんどは、小さい頃のあなたにしてあげたいと思ってたものだった」
もしかすると、由莉本人も自覚していなかったそのことに、高宮は気がついていたのかもしれない。
「あの人は、由莉に何を求めてたの?」
「わからない。何年も一緒にいたのに、わからないの」
情けなくて、自分自身に失望すら感じる。だが、もう何もかも終わったことで、取り返しはつかないのだ。
「ひどいよね。ちっとも良い妻なんかじゃなかった」
「由莉」
ショーンは落ち着いていた。
「俺が欲しいものはみんな由莉が持ってると思うから、これからそれ全部ちょうだい。少しずつでも、時間かかってもいいよ。で、たぶん由莉が欲しいものは、俺がみんな持ってる。変なこと言うようだけど、自信あるんだ。由莉と俺は、お互い与えたいものと欲しいものが同じなんだよ。そういうの、世間では相性が良いっていうんじゃないかな」
「相性?」
「うん、だから俺たちは絶対うまくいく」
少し笑いを含んだ彼の声は、どこか希望を予感させるように弾んでいた。
相性という言葉が、これほど実感を持って響いたことはない。
高宮とは努力すればするほど気持ちが離れていくのを感じ、特に結婚してからは幸せより苦しみの方が多かった気がする。浮気を繰り返した彼にも、口に出来ない苦しみはあったかもしれない。それもこれもすべて、夫婦互いに望んでいることと与えたいこととが、ひどいミスマッチだったからと思えば納得がいく。
「ショーン……」
由莉は小さく震えはじめた体を、片手でさすった。
「会いたくて、会いたくてたまらない。死にそう」
こんなセリフを吐くなんてどうかしている――そう思いながらも止められなかった。
「俺も会いたい。早く会って、由莉をぎゅってしたい」
由莉を囚えていた檻や枷のような思いが、急速に消えて無くなっていく。心の中に、ショーンへの愛しさがじんわり沁みるように広がっていくのを感じた。
高宮奏の離婚会見が行われたのは、翌日の午後だった。
人目を忍んで訪ねて来たカオルから、ワイドショーで生中継されると聞いて、由莉は緊張しながらテレビをつけた。昨日と同じコメンテーターがまた勝手な見解を喋りまくっていたが、気にしないことにして、その時を待つ。
「あ、はじまるわね」
隣に座っているカオルも緊張しているようで、クッションを両手でしっかり抱え込んで言葉少なだ。
画面の向こうでは、テレビカメラがスタンバイしている会見場に、さっそうと高宮が現れた。紺のシャツに白いジャケットという爽やかさを強調するような服装で、地味めのスモーキーピンクと紺のストライプ柄のネクタイをしている。
「着こなしの難しいスタイルね。似合ってるけど」
カオルがぼそっと言う。
こういう場にスーツではなく、あえてラフなスタイルで臨んだのは、謝罪が第一目的ではないということだろう。さすがに看板俳優なだけあって、マネージャーではなく所属事務所の社長が同席している。
司会が会見のスタートを告げ、高宮本人がマイクに向かって口を開く。本日はお忙しい中……と決まり文句のような挨拶を前置きに、経緯の説明をはじめる。
「私どもは似た者同士の夫婦でした」
会見で何を話すつもりか、由莉は一切聞いていない。すべて任せろと言われただけだ。
高宮はまじめな面持ちだが、裏切られた夫のような悲壮感はまったくない。
「初対面から私どもの距離感は近く、お互いに運命だと信じて結婚まで突き進んだわけですが、わりと早い段階で間違いに気がつきました。友人同士なら、これほど解り合えて気楽な相手はいないのに、夫婦として共に生きるには、あまりにも似過ぎて相性が良くなかったのです」
まったく事実と異なる離婚理由を語っているのに、妙な説得力がある。演技が巧みなせいだろうか。当の本人である由莉まで、この人の言う通りの「妻」がどこかに存在しているような錯覚すら覚える。
「そのような気持ちを打ち明けるのは勇気がいることでしたが、妻も同じことで悩んでいたとわかり、それから二人で話し合いを重ねてきました」
彼は目を伏せ、感情を整えるかのように一息ついた後、再び目線を上げて語り出した。
「私、高宮奏は白川由莉さんと離婚いたします」
いくつものシャッター音が重なって響く。
「出演ドラマの関係もありまして、時期を見計らっていたのですが、もともと数ヶ月後には公表する予定でした。今回の報道により、不倫が理由での離婚というような間違った認識が広がるのは、私としても本意ではありません。もはや時期を待っている場合ではないと判断し、このような形でのご報告となりました。関係者の皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」
立ち上がって頭を下げた高宮奏は、ものすごい数のフラッシュを浴びた。
由莉は瞬きもせず、その姿をじっと見つめる。恋人として八年、夫婦として三年を共に生きた相手がつけたけじめがこれなら、自分には見届ける義務があると思った。
「奥さんとショーンさんの関係はご存じでしたか?」
記者の質問が飛ぶ。
「知ってました」
高宮は顔色も変えない。
「ショーンは子供のころから由莉さんを慕ってました。一般人の恋人がいるというのは、カモフラージュだったみたいですよ。初恋の人である由莉さんを一途に想い続けて、仕事で再会したのを機に気持ちが通じたそうです。ただ、離婚を決めた後のことですし、本当につい最近の話ですから、憶測で語られているような不適切な関係ではありません。彼らを知ってる人ならわかると思いますが、どちらも不道徳なことが出来る人間じゃないんです。形だけでも私と結婚しているうちは性格的に無理でしょう。二人の関係はまだローティーンのような幼くて初々しい恋がはじまったばかりで、大人の恋には程遠いんじゃないかなと思います」
由莉は思わず赤面して、画面の高宮をにらむ。
「昨日の今日でこれとは、すごい対応力ね」
カオルは抱きしめていたクッションをようやく手放し、ふうっと大きく息を吐いた。
「いつか別れようと、ずっと思ってたみたいだから」
由莉は自筆でサインした委任状を丁寧に折って封筒に入れ、カオルに渡した。
「代理人の手配とか、今回の事後処理を頼みたいの」
ぽかんと口を開けて、カオルは由莉の顔をまじまじと見た。
「やってくれるよね?」
由莉はちょっと笑いを含んだ表情で、それでも怒ったふうを装うかのようにテーブルを軽く叩いた。
「はい、白状して」
「ごめん!」
カオルはがばっと頭を下げた。
「引き受けるわ。何でもやらせてもらう!」
「どこからが計画だったの?」
「……正直に話すわね」
カオルは両手をひざの上にそろえ、真剣な表情で語りはじめた。
「実はショーンには、イタリアのブランドから誘いが来てるの。世界でもトップクラスのメンズブランドと契約すれば、一気にトップモデルの仲間入りよ。うちの事務所にとっても、またとないチャンスなの。そう遠くない将来、本腰入れて海外進出したいから」
熱っぽく語る彼女に、由莉は無意識に相槌を打つようにうなずいていた。海外進出はカオルの長年の夢でもある。
「去年、そのブランドのキャンペーンモデルの一人に選ばれたんだけど、デザイナーがえらく気に入ってくれて、ぜひ専属にって破格の条件を提示されたの。ショーンも断るのをためらってた。あんな子だけどモデルの仕事が嫌いじゃないの、由莉も見ててわかるでしょ? だけど話を進めようとすると、とても自信ないって怖気づいて全然ダメ。あたしもやけくそになって、ブランド側に半年待ってくれたら契約してもいいって強気で申し入れたら、あっさりOKされちゃって。もうこうなったら、半年でどうにかして高宮奏から由莉を奪うしかないって、ショーンを焚きつけて帰国させたの」
「嘘でしょ、ショーンまではじめから……」
「怒らないでやって。あの子は由莉の幸せを壊したくないって抵抗したのよ。山口さん経由で、由莉はそんなに幸せじゃないって吹き込んで、帰国を決意させるまでが大変だったわ……でも、ショーンが世界的な一流モデルになるには、どうしても由莉が必要なのよ。どんな有能なエージェント雇ったって、あの子を支えるのは無理だわ。そしてショーンが大舞台でコケたら、うちの事務所の海外案件は全部終わりよ。だからね、由莉や高宮さんに恨まれてもいいから、どんな手を使ってでも離婚させるつもりだった」
由莉はあきれて、開いた口が塞がらなかった。
だが、カオルがそこまでの決意でこの策略に賭けていたのなら、やっぱり憎めない。
「もし高宮が浮気しない誠実な男だったら、こんなこと考えなかったでしょ?」
「そんなきれいごと言うつもりないわ。うちの事務所にとって重大な案件だから、容赦なく遂行したのよ。自分とこのモデルと親友を不倫に誘導してスクープ記者に売るなんて、バカバカしい、うまくいくわけないって母親には散々な言われ様だったけどね。いいから任せろって押し切ったわよ」
「……カオルさん、もうさっさと社長に就任した方がいいと思うよ」
皮肉のつもりで由莉が言うと、カオルはにやっと不敵な笑いを浮かべた。
「近いうちにそうなるわ。由莉、イタリアからお祝い送ってちょうだいね」
0
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説
同期の御曹司様は浮気がお嫌い
秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!?
不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。
「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」
強引に同居が始まって甘やかされています。
人生ボロボロOL × 財閥御曹司
甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。
「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」
表紙イラスト
ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl
【完結】元カノ〜俺と彼女の最後の三ヶ月〜
一茅苑呼
恋愛
女って、なんでこんなに面倒くさいんだ。
【身勝手なオトコ✕過去にすがりつくオンナ】
── あらすじ ──
クールでしっかり者の『彼女』と別れたのは三ヶ月前。
今カノの面倒くささに、つい、優しくて物分かりの良い『彼女』との関係をもってしまった俺。
「──バラしてやる、全部」
ゾッとするほど低い声で言ったのは、その、物分かりの良いはずの『彼女』だった……。
※表紙絵はAIイラストです。
※他サイトでも公開しています。
羽柴弁護士の愛はいろいろと重すぎるので返品したい。
泉野あおい
恋愛
人の気持ちに重い軽いがあるなんて変だと思ってた。
でも今、確かに思ってる。
―――この愛は、重い。
------------------------------------------
羽柴健人(30)
羽柴法律事務所所長 鳳凰グループ法律顧問
座右の銘『危ない橋ほど渡りたい。』
好き:柊みゆ
嫌い:褒められること
×
柊 みゆ(28)
弱小飲料メーカー→鳳凰グループ・ホウオウ総務部
座右の銘『石橋は叩いて渡りたい。』
好き:走ること
苦手:羽柴健人
------------------------------------------
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
再会したスパダリ社長は強引なプロポーズで私を離す気はないようです
星空永遠
恋愛
6年前、ホームレスだった藤堂樹と出会い、一緒に暮らしていた。しかし、ある日突然、藤堂は桜井千夏の前から姿を消した。それから6年ぶりに再会した藤堂は藤堂ブランド化粧品の社長になっていた!?結婚を前提に交際した二人は45階建てのタマワン最上階で再び同棲を始める。千夏が知らない世界を藤堂は教え、藤堂のスパダリ加減に沼っていく千夏。藤堂は千夏が好きすぎる故に溺愛を超える執着愛で毎日のように愛を囁き続けた。
2024年4月21日 公開
2024年4月21日 完結
☆ベリーズカフェ、魔法のiらんどにて同作品掲載中。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる