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七、
しおりを挟む高宮奏の所属事務所は都心にある。
人気のある俳優や歌手を数多く抱えており、テレビ放送が始まったころからの老舗の芸能プロダクションだ。五階建ての自社ビルは地下に駐車場もあり、レッスン場やレコーディングスタジオ、トレーニングジムなどの設備が整っているため、四六時中タレントが出入りしている。
「奏さん」
ジムで汗をかいた後、シャワールームに向かう途中で、奏は後輩タレントの羽田琳に声をかけられた。
「久しぶり」
穏やかな顔で応じた奏に、琳は意味ありげな笑いを返してよこす。
「なに笑ってんの?」
「んー? 相変わらずかっこいいなって思って」
琳は長い黒髪を見せつけるようにかき上げ、ぽってりと肉感的な赤い唇を少しとがらせて奏を見上げた。
「あたし、もうすぐ二十五歳になっちゃう」
「今月だっけ? 誕生日」
「うん。だからね、まだ二十四のうちにね」
ほっそり小さな手で口を覆い隠しながら、琳はささやいた。
「奏さんに抱かれたいなって」
「なんだよ、別れたいって言ったのはそっちだろ」
「だって、奥さんと別れる気ないんだもん。あの時はショックだったからぁ……でも、あたしもオトナになったし? そういう関係もありかなって。ねぇ、まだ二十歳ぐらいに見えるでしょ? やっぱホントに若い子じゃないとだめ?」
こんな女だったかと思いながら、奏は口元だけで笑い、琳の頭をぽんと軽く撫でた。彼女と付き合っていたのは二年ほど前のことで、後腐れなく別れた後は思い出すこともなかった。
「だめ」
「えー」
不服そうに頬をふくらませる琳の耳に、奏は小声で言った。
「後で連絡するよ」
たちまち嬉しそうな笑顔になった彼女を置いて、奏はシャワールームに入った。
誰もいない脱衣場でトレーニングウェアを脱ぐ。
筋肉質になりすぎないよう調整しながら鍛えてきた肉体は、アスリートほどのたくましさはないが、適度に引き締まって無駄な肉などどこにもついていない。もともと均整のとれた体型なので、裸体でも着衣でも他人が見惚れるほどスタイルが良い。
俳優・高宮奏の名前が有名になったのは、由莉との熱愛報道から後である。それまでもテレビドラマや舞台でコンスタントに仕事を得ていたのだが、これといって目立つ存在ではなかった。
人気モデルとの熱愛から結婚という流れの中で、奏は芸能レポーターとの繋がりを持ち、マスコミとの関係を悪くしないよう腐心した。きっかけさえあれば、俳優としてのし上がる自信はあった。どんなチャンスも逃さないつもりだった。
不思議なことに、由莉との結婚で女性からの人気が高まり、いまや女性誌の抱かれたい男ランキングでも上位に名が挙がるほどだ。一緒に仕事した女優やタレントからも、しょっちゅう誘いの声がかかる。「高宮奏」に抱かれたい女たちにとって、彼が既婚者であることなどブレーキにもならないらしい。
「二十八歳か……」
冷たいシャワーを頭から浴びながら、妻の年齢をつぶやく。
由莉は結婚後、モデル時代ずっと長く伸ばしていた髪をバッサリ切り、人妻らしくつつましやかで上品な空気をかもしだすようになった。引退後も変わらずきれいで体型も保っており、このまま年を重ねれば老境に入っても美しいであろうと容易に想像できる。
二人が住むマンションは都心にほど近く、由莉によってセンス良く整えられた部屋は清潔で心地良い。主婦になると決めてから習いはじめた料理もすっかり板についたようだ。衣類も靴もきっちり管理され、あれ出してと言えば即座に使える状態で出てくる。
奏が何か悩んだり落ち込んでいるとみれば、話を聞こうと優しく声をかけてくるし、良いことがあれば分かち合うように一緒に喜んでくれる。
誰が見ても非の打ち所のない完璧な妻であった。
だが、奏が由莉に望んでいるのは、そんなことではなかった。
「潮時」
少し前から、その言葉が奏の頭に浮かんで離れない。分不相応な人気モデルを射止めた時から、これを利用しない手はないと思ってがむしゃらにやってきたが、発作のように時々ふいに、何も知らない由莉をだましたという罪の意識にさいなまれることがある。
彼女の望むような夫婦関係を築くには、奏が変わればいいだけで、今からでも遅くない気もする。だが、そうすることをかたくなに拒む自分もいた。
「由莉」
脳裏に浮かぶ妻は、澄んだ眼差しでまっすぐこちらを見つめている。何ひとつやましいことなどない純粋で真っ当な……奏は苦しくなって濡れた頭をぶんぶん振った。その顔は切なげに歪み、泣きそうにも見えるものだった。
誰にも見せない素の表情。
だが、それはすぐに消え、シャワーを止める頃にはずっかりいつもの堂々とした人気俳優の顔になっていた。
「こないだスタジオに奥さん来てたでしょ?」
甘口のワインを口に含みながら、沢彩音は意味ありげに上目遣いで奏を見た。
高層ホテルの一室。
安くない宿泊料金にはセキュリティの厳重さも含まれていて、ゴシップに飢えた人々の目も防いでくれる。
「旦那さんほっといて若い子につきっきりって、危機感さなすぎ」
可笑しそうに、どこか小馬鹿にした口調で言うと、彼女は白い喉を鳴らしてワインの残りを飲み干した。
「だから、俺たちがこうしていられるんだろ」
奏はミネラルウォーターのボトルを手に、ベッドに戻って寝そべった。
「まぁ、そうだけど」
ベッドに腰かけた彩音はバスローブ姿で脚を組み、だらしなく太ももまでめくれた裾を直そうともしない。清楚なイメージの外見とは裏腹に、彼女は酒と煙草をたしなみながら娼婦のように奔放に男を誘う女だ。
「私が奏さんの奥さんなら、裏切らないようがっちがちに管理すると思う」
「怖いね」
ボトルに口をつけて水を飲むと、奏は彩音の方に手を伸ばした。
「だって、知らない女に寝取られたくないじゃん。奏さんみたいなモテ男、野放しにしてたらやばいって」
「野放しって」
笑いながら腰に手をまわし、その華奢なくびれを楽しむように撫でる。
「ねぇ、奏さん」
彩音は空のグラスを床に放ってふり向き、バスローブの紐をゆるめながら男の目をじっと見つめた。
「もし奥さんと別れる気になったら、私と結婚しない?」
笑いを含みながらも、彼女の目の中で嫉妬の炎が燃えていた。
「じゃ、由莉と別れる気にさせてみれば?」
わざと妻の名を出した奏に、彩音は表情を変える。
「言ったね?」
「ああ、言った」
「取り消しは許さないから。本気で好きなの」
熱い吐息とともに愛の言葉をささやき、彩音は上からのしかかるように奏に口づけた。
嫌気がさすほど手馴れた手は、自動的にいつもの行為をはじめる。気持ちなどなくても、勝手に動いて女を抱く準備を進めていく。なめらかな白い肌、黒く長い髪。華奢な肢体。求めるのはそれだけだ。甘い声などいらない。
――これが由莉なら。
幾度となくそう思いながら女を責めたて、きつく抱きしめた。
どうせ、相手も人気俳優と寝たいだけなのだ。生身の高宮奏など、誰も求めていない。ただ一人、本名で奏と呼ぶ由莉を除いては……だが、彼女の求めに応じることは出来ない。
まだ何者でもなかった頃、奏は由莉に出会って激しく惹かれながらも、どこかで彼女を妬み憎んでいた。けっして幸せではない生い立ちですら、平凡を絵にかいたような自分のそれと比べて羨ましかった。傷つけたい気持ちになって、それでも彼女をこの手で抱きしめ、閉じ込めて独占したいと思った。
欧米人の血が濃い少年モデルが、由莉にとって特別な存在だと知った時、奏は彼が大人になる前に何とかしなくてはと焦った。彼らのあいだに恋愛感情が生まれてしまったら、由莉を手に入れることは難しいと思ったのだ。
「あんた、本当に由莉が好きなの?」
おそろしくきれいな顔の少年に詰め寄られた日のことは、今も忘れられずにいる。
「由莉じゃなきゃダメなの?」
薄汚い心を見透かされた気がして、答えられなかった。
「俺には由莉だけなんだ。だから、お願いだから取らないで!」
泣いてすがる彼を、奏は無視した。
自分だって由莉だけだと、たとえ嘘でも、どうして言えなかったのか。
あの時、断言できなかったばっかりに、いつか奪い返しに来られるような気がして、こっそり彼の動向をチェックするはめになった。海外で順調にモデルとして活躍している姿に、俳優としての自分は嫉妬を覚えたが、日本にいないことに安心もしていた。
その彼が今、奏と同じ世界で俳優として活動するために帰国して頑張っている。仕事とはいえ、由莉のサポートを受けていることは確かで、二人が一緒にいるところを見ると胸の中がざわつく。彼にとって由莉はいまだにかけがえのない存在のようで、二人にしかわからない世界があるようにも見え、奏は自分が邪魔者のように感じることすらあった。
彼らを再び引き離すには、思い切って子供でも作るしかないような気がする。それは由莉も望んでいることなのだが、奏自身は我が子を持ちたいとは少しも思っていない。だから、焦燥感にかられてそんなことをしても、絶対に後悔するのはわかっていた。
「潮時……」
いよいよその時が来たのだという思いが、奏の中で日に日に大きくなってくる。
「どうしたの?」
動きを止めた奏を、彩音がとがめるような目で見た。
「ちゃんと私を見てよ、奏さん」
からみつく腕に抱かれ、奏は彩音に口づける。
「見てるよ」
まがいものをいくら求めても、空虚な胸のうちを満たすことは出来ない。わかっていながら、今はそれにすがることでしかプライドを保てない。
――卑怯で汚い嫌な男だ。
自嘲を打ち消すように、奏は獣じみた欲望に身をゆだねた。
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