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ラドン
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修は背中にランドセルを背負っていた。
同じくランドセルを背負っている他の少年たちはここまでくると右に曲がった。右のつきあたりに小学校があるからだ。しかし、修は少しの間ためらっていたが、曲がらずに真っすぐに歩き出していた。
出勤時間が終わった街は静かだった。そして、船の寄り付かなくなった港の倉庫街はやはり眠っているようであった。だが、石造りの倉庫は年寄りが持つようなやさしさに満ち溢れている。修はランドセルを揺らしながら、静かでやさしさに満ちた倉庫街に入っていった。
修は、やがて山一倉庫の前に立つと、躊躇うこともなく、はずれた戸の隙間から中に入りこんだ。
この倉庫の中だけは、修の世界であった。
ここには、修をいじめる少年たちもいないし、聞いていても分からない学校の授業もない。修は毛布に腰をおろすと、ランドセルを開けラドンを取り出した。倉庫の薄明りが鉄片に深い陰影を与え、ラドンは奇妙な重量感を帯びていた。修は集めた玩具たちを一列に並べ、その右端にラドンを置いた。学校では授業がまっさかりの頃だろう。だが、修は学校のことなど思い出しもしない。次に、修はラドンを真ん中に置きなおし、その周りを他の玩具でまるく囲ませた。ラドンは修にとって王様であったからだ。さらに、ラドンを手に持って、声を出して倉庫の中を走り回った。いや、ラドンは飛んでいたのだ。そして、修は笑っていた。
しかし、修の高揚した気分のままでいられたのは、アパートに戻り、部屋の玄関ドアを開けるまでであった。
玄関ホールに白い服を着た女が腰をおろして座っていた。母は膝をおって、その女と話をしていたが、修が入っていくと母は悲しげな眼を向けてきた。
「修、今までどこへ行っていたんだい?」
白い服をきた女は、ゆっくりと振り返って修を見つめた。修は思わず息を飲んだ。女は担任の先生だった。先生にこられても仕方がなかった。学校を休んだことは今まで何度もあったが、三日も続けて学校を休んだのは始めてのことだったからだ。
「修くん、どうして学校に来なかったの?お母さんの話では、ちゃんと家は出ていると言っているわよ」
先生は笑っていたが、その顔は引き攣ったようにぎこちなかった。修は立ってまま、顔を下げ黙っていた。
「先生にちゃんと話しなさい!」
母は甲高い声を出した。修が帰ってくるまでの間、先生からいろいろと言われていたのだろう。
修は相変わらず黙っていた。母は立ちあがり、サンダルに足を入れて修の側に来ると、思いっきり修の頬をぶった。母には、修が学校に行かないことよりも、こうやって先生に来られたことの方に腹が立っていたのだ。修は一気に泣き出した。
「まあまあ、お母さん。落ち着いてください」と、先生はなだめ役にまわらざるを得なかった。
そんな時、電話が鳴った。母はしかたなく玄関ホールに戻ってサンダルを脱いであがると、居間に行って電話に出た。
「礼子か?」
田村の低い声が受話器に響いた。
「ええ」と母は言葉すくなに答えた。
「悪いがまた少し用立ててもらえないか?五万、いや三万ばかりでいいんだが」
修の先生がいるこの場で大声を出すわけには行かない。
「分かりました。一時間ぐらいしたら行きますから、いつものところで待っていてください」
「いつものところと言ったら、喫茶ケルンでいいな。誰かきているのか?」
「ええ」
礼子は、あいまいな返事をした。しかし、それで田村には十分通じた。
「分かった。じゃ、喫茶ケルンで待っている」
礼子の耳元で、ガチャリと電話の切れる鈍い音がした。礼子が田村と話をしている間に、先生は修に話しかけていた。
「今日はどこへ行っていたの?」
「海のほう」
「海のほう。埠頭ね。でも、危ないわよ。学校は嫌い?」
修はすぐに黙った。修に意地悪をした友達の顔が、頭の中を走馬燈のように次から次へと浮かんでは消えていった。
「明日からは必ず学校に来てね。約束をしてくれる?」
先生は、じっと修を見つめ続けた。耐え切れずに修は頷いていた。
「本当にすいません」と、戻ってきた礼子は頭をさげた。
「修くんも、分かってくれたようですから」
先生は、修の頭を軽くなぜながら言った。
「後できつく言っておきますから」
礼子は、先生に向かって深く頭をさげた。先生も頭をさげ、この部屋から出ていった。
礼子は先生がいなくなると、顔をあげて掛け時計を見た。時計の針は四時半を指していた。彼女が、気にしていたのは、近くある銀行からお金を引き出すことができるかどうかと、いうことであった。ATMなら午後三時以降でも引き出すことができる。礼子はまずハンドバッグを開けてカードがあることを確かめた。
「修、ちょっとでかけてくるからね」
そう言った母は、カードを戻したハンドバッグを手に持ち、この部屋を出ていった。一人取り残された修は泣き出していた。
礼子は自転車にのり、銀行のATMコーナーに行きカードで三万円を引き出した。ATMの表示画面に残額が表示された。その額は一万五千円しか残っていなかった。礼子はしばらくの間、瞬きもせず、それを見つめていた。
その頃、修は、泣きじゃくりながら、ランドセルからラドンを取り出していた。ラドンを頬にあてると、その鉄の冷たさが、ほてりを消し去ってくれるようであった。そのうちに修はラドンを抱きかかえたまま眠りに落ちていった。
同じくランドセルを背負っている他の少年たちはここまでくると右に曲がった。右のつきあたりに小学校があるからだ。しかし、修は少しの間ためらっていたが、曲がらずに真っすぐに歩き出していた。
出勤時間が終わった街は静かだった。そして、船の寄り付かなくなった港の倉庫街はやはり眠っているようであった。だが、石造りの倉庫は年寄りが持つようなやさしさに満ち溢れている。修はランドセルを揺らしながら、静かでやさしさに満ちた倉庫街に入っていった。
修は、やがて山一倉庫の前に立つと、躊躇うこともなく、はずれた戸の隙間から中に入りこんだ。
この倉庫の中だけは、修の世界であった。
ここには、修をいじめる少年たちもいないし、聞いていても分からない学校の授業もない。修は毛布に腰をおろすと、ランドセルを開けラドンを取り出した。倉庫の薄明りが鉄片に深い陰影を与え、ラドンは奇妙な重量感を帯びていた。修は集めた玩具たちを一列に並べ、その右端にラドンを置いた。学校では授業がまっさかりの頃だろう。だが、修は学校のことなど思い出しもしない。次に、修はラドンを真ん中に置きなおし、その周りを他の玩具でまるく囲ませた。ラドンは修にとって王様であったからだ。さらに、ラドンを手に持って、声を出して倉庫の中を走り回った。いや、ラドンは飛んでいたのだ。そして、修は笑っていた。
しかし、修の高揚した気分のままでいられたのは、アパートに戻り、部屋の玄関ドアを開けるまでであった。
玄関ホールに白い服を着た女が腰をおろして座っていた。母は膝をおって、その女と話をしていたが、修が入っていくと母は悲しげな眼を向けてきた。
「修、今までどこへ行っていたんだい?」
白い服をきた女は、ゆっくりと振り返って修を見つめた。修は思わず息を飲んだ。女は担任の先生だった。先生にこられても仕方がなかった。学校を休んだことは今まで何度もあったが、三日も続けて学校を休んだのは始めてのことだったからだ。
「修くん、どうして学校に来なかったの?お母さんの話では、ちゃんと家は出ていると言っているわよ」
先生は笑っていたが、その顔は引き攣ったようにぎこちなかった。修は立ってまま、顔を下げ黙っていた。
「先生にちゃんと話しなさい!」
母は甲高い声を出した。修が帰ってくるまでの間、先生からいろいろと言われていたのだろう。
修は相変わらず黙っていた。母は立ちあがり、サンダルに足を入れて修の側に来ると、思いっきり修の頬をぶった。母には、修が学校に行かないことよりも、こうやって先生に来られたことの方に腹が立っていたのだ。修は一気に泣き出した。
「まあまあ、お母さん。落ち着いてください」と、先生はなだめ役にまわらざるを得なかった。
そんな時、電話が鳴った。母はしかたなく玄関ホールに戻ってサンダルを脱いであがると、居間に行って電話に出た。
「礼子か?」
田村の低い声が受話器に響いた。
「ええ」と母は言葉すくなに答えた。
「悪いがまた少し用立ててもらえないか?五万、いや三万ばかりでいいんだが」
修の先生がいるこの場で大声を出すわけには行かない。
「分かりました。一時間ぐらいしたら行きますから、いつものところで待っていてください」
「いつものところと言ったら、喫茶ケルンでいいな。誰かきているのか?」
「ええ」
礼子は、あいまいな返事をした。しかし、それで田村には十分通じた。
「分かった。じゃ、喫茶ケルンで待っている」
礼子の耳元で、ガチャリと電話の切れる鈍い音がした。礼子が田村と話をしている間に、先生は修に話しかけていた。
「今日はどこへ行っていたの?」
「海のほう」
「海のほう。埠頭ね。でも、危ないわよ。学校は嫌い?」
修はすぐに黙った。修に意地悪をした友達の顔が、頭の中を走馬燈のように次から次へと浮かんでは消えていった。
「明日からは必ず学校に来てね。約束をしてくれる?」
先生は、じっと修を見つめ続けた。耐え切れずに修は頷いていた。
「本当にすいません」と、戻ってきた礼子は頭をさげた。
「修くんも、分かってくれたようですから」
先生は、修の頭を軽くなぜながら言った。
「後できつく言っておきますから」
礼子は、先生に向かって深く頭をさげた。先生も頭をさげ、この部屋から出ていった。
礼子は先生がいなくなると、顔をあげて掛け時計を見た。時計の針は四時半を指していた。彼女が、気にしていたのは、近くある銀行からお金を引き出すことができるかどうかと、いうことであった。ATMなら午後三時以降でも引き出すことができる。礼子はまずハンドバッグを開けてカードがあることを確かめた。
「修、ちょっとでかけてくるからね」
そう言った母は、カードを戻したハンドバッグを手に持ち、この部屋を出ていった。一人取り残された修は泣き出していた。
礼子は自転車にのり、銀行のATMコーナーに行きカードで三万円を引き出した。ATMの表示画面に残額が表示された。その額は一万五千円しか残っていなかった。礼子はしばらくの間、瞬きもせず、それを見つめていた。
その頃、修は、泣きじゃくりながら、ランドセルからラドンを取り出していた。ラドンを頬にあてると、その鉄の冷たさが、ほてりを消し去ってくれるようであった。そのうちに修はラドンを抱きかかえたまま眠りに落ちていった。
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