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第三章 江戸屋敷
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父の死から一月後、藩主高国の命を受けて弦雲を討つために、千草と石田兄弟は江戸にやってきていた。
智坂藩の藩主が参勤交代で江戸に来たときに住む上屋敷は、江戸城の天守閣を北西に見ることができる位置にあった。だが、今は見ることができない。それは、明暦三年(一六五七年)の大火で、天守閣を焼いてしまっていたからだ。当時の江戸は、八十日間雨が降っておらず乾燥しきっていた。一月十七日頃から北西の風が吹き、十八日の未の刻(午後二時頃)に本妙寺から出火、十九日には新鷹匠町や麹町からも出火して、江戸に住む十万人以上の人たちが死んでいた。そして、もう一つは、大火後の火災の対策の一つとして幕府は御三家の屋敷を城外に移転させ、合わせて大名たちの屋敷も移転させていたのだが、知坂藩の上屋敷は、木がよく茂っている森そばに移らされていたからだ。
知坂藩の屋敷の中に、江戸家老の村石友親の住いもあった。三人はそこを訪ね、村石に挨拶をした。村石は、にこやかに笑い顔を絶やさない。
「それは、それは大儀でござった。明暦三年に江戸に大火がござってな。この屋敷も新しく立て直したばかりでござる。そのために藩の方からもかなりの支出をしていだいた。まあ、どこの場所でも、何もないところはござらん」
「たしかに、私どもは江戸の事情にはうとうございます。ともかくも、上位により弦雲をうたなければなりません。本懐をとげるまでの間、江戸のどこかに住まわせていただきたいと思いますが」
「ごもっとも、ごもっとも、ともかく下屋敷にある田村章衛門の家に逗留されるのがよかろう」
「田村章衛門?」と、千草は額に皺を作った。
「来たばかりでは、江戸の街並みもよく分からないのも無理はない。屋敷まで案内をさせますぞ。土倉、土倉!」
すぐに、若侍の土倉忠五郎がやってきた。
「お呼びでございますか」
「この者たちに田村章衛門の家に案内してやれ。手荷物があれば、土倉に預けてくだされ」
そう言って、村石は立ち上がり、他の用事があるらしく、その部屋から出て行った。
土倉は三人を案内して半時程歩き、智坂藩の下屋敷の中に別棟で建てられている章衛門の家に送り届けた。玄関口で、土倉が呼ぶと、章衛門が出てきた。髪は白く、六十歳をすでに超えていた。歩く度に、体を左に寄せ少し右足を引く。土倉の話では、章衛門は、槍持ちとして参勤交代に参列し江戸に来ていたのだが、足を痛めて行列についていけなくなり江戸に残るようになっていた。
「石田さまの方々ですかな。どうぞ、おあがりください」
前もって話があったのだろう。章衛門は笑顔で三人を家の中に招いてくれた。
「隠居を仰せつかった身、一人暮らしをするには大きすぎる家でござる。わしには、この一部屋を使わしていただければいい。これからは、にぎやかな毎日が過ごせますな」
そう言った章衛門は、禿げあがった額を手でなぜていた。使わせてもらうことになった部屋に千草たちは持ってきた荷物をしまいこむ。その間に、章衛門は、屋敷にいつもやってくる振売りからみそ汁の実に三葉芹を買い、魚を売りに来た振売りから鰯を買って庭に七輪を出して焼き出した。荷物の片づけを終えた千草は、さっそく夕餉仕度の手伝いをしていた。
夕餉の後、月明かりの下で真九郎は庭先を借りて、真剣での素振りを始めた。すぐに、藤十郎も庭におりて、負けまいとして木刀を振り出した。縁側に立ち、二人をみつめる千草は満足気であった。その横にいた章衛門も二人を見て「さすが、俊衛門さまのご子息方でございますな。並みの腕ではござらん」と声を上げていた。
父が教えてくれた剣法は、遠心流であった。戦国時代、北面の武士、長門早水を祖として、その枝派を父が継承していたものだった。心を遠くに置いて、刀と一つになり、すべてを外から見る。自分の命さえも他の位置から見ることが極意であった。刀と一つになることから、居合切りや突き技を至極としていた。
藩にいた頃のことになるが、父と真九郎が練習試合を交えると、始めは父の方が優勢でいても、父が疲れを見せ始めると真九郎の勝ちが多くなった。つまり、真九郎は父と互角の勝負をしていた。それに比べると、藤十郎は父や兄に対して一度も勝ったことはなかった。それは藤十郎の優しさの性だった。尊敬をする父や兄に勝とうと言う気がまるでなかったのだ。しかし、真九郎は藤十郎の真の実力を認めていた。それは、一人になった時に藤十郎が振る太刀の早さや型の確かさを見ていたからだった。藤十郎の中にある優しさを捨てることができた時は、恐ろしい剣客になるかもしれないと思っていたのだ。
智坂藩の藩主が参勤交代で江戸に来たときに住む上屋敷は、江戸城の天守閣を北西に見ることができる位置にあった。だが、今は見ることができない。それは、明暦三年(一六五七年)の大火で、天守閣を焼いてしまっていたからだ。当時の江戸は、八十日間雨が降っておらず乾燥しきっていた。一月十七日頃から北西の風が吹き、十八日の未の刻(午後二時頃)に本妙寺から出火、十九日には新鷹匠町や麹町からも出火して、江戸に住む十万人以上の人たちが死んでいた。そして、もう一つは、大火後の火災の対策の一つとして幕府は御三家の屋敷を城外に移転させ、合わせて大名たちの屋敷も移転させていたのだが、知坂藩の上屋敷は、木がよく茂っている森そばに移らされていたからだ。
知坂藩の屋敷の中に、江戸家老の村石友親の住いもあった。三人はそこを訪ね、村石に挨拶をした。村石は、にこやかに笑い顔を絶やさない。
「それは、それは大儀でござった。明暦三年に江戸に大火がござってな。この屋敷も新しく立て直したばかりでござる。そのために藩の方からもかなりの支出をしていだいた。まあ、どこの場所でも、何もないところはござらん」
「たしかに、私どもは江戸の事情にはうとうございます。ともかくも、上位により弦雲をうたなければなりません。本懐をとげるまでの間、江戸のどこかに住まわせていただきたいと思いますが」
「ごもっとも、ごもっとも、ともかく下屋敷にある田村章衛門の家に逗留されるのがよかろう」
「田村章衛門?」と、千草は額に皺を作った。
「来たばかりでは、江戸の街並みもよく分からないのも無理はない。屋敷まで案内をさせますぞ。土倉、土倉!」
すぐに、若侍の土倉忠五郎がやってきた。
「お呼びでございますか」
「この者たちに田村章衛門の家に案内してやれ。手荷物があれば、土倉に預けてくだされ」
そう言って、村石は立ち上がり、他の用事があるらしく、その部屋から出て行った。
土倉は三人を案内して半時程歩き、智坂藩の下屋敷の中に別棟で建てられている章衛門の家に送り届けた。玄関口で、土倉が呼ぶと、章衛門が出てきた。髪は白く、六十歳をすでに超えていた。歩く度に、体を左に寄せ少し右足を引く。土倉の話では、章衛門は、槍持ちとして参勤交代に参列し江戸に来ていたのだが、足を痛めて行列についていけなくなり江戸に残るようになっていた。
「石田さまの方々ですかな。どうぞ、おあがりください」
前もって話があったのだろう。章衛門は笑顔で三人を家の中に招いてくれた。
「隠居を仰せつかった身、一人暮らしをするには大きすぎる家でござる。わしには、この一部屋を使わしていただければいい。これからは、にぎやかな毎日が過ごせますな」
そう言った章衛門は、禿げあがった額を手でなぜていた。使わせてもらうことになった部屋に千草たちは持ってきた荷物をしまいこむ。その間に、章衛門は、屋敷にいつもやってくる振売りからみそ汁の実に三葉芹を買い、魚を売りに来た振売りから鰯を買って庭に七輪を出して焼き出した。荷物の片づけを終えた千草は、さっそく夕餉仕度の手伝いをしていた。
夕餉の後、月明かりの下で真九郎は庭先を借りて、真剣での素振りを始めた。すぐに、藤十郎も庭におりて、負けまいとして木刀を振り出した。縁側に立ち、二人をみつめる千草は満足気であった。その横にいた章衛門も二人を見て「さすが、俊衛門さまのご子息方でございますな。並みの腕ではござらん」と声を上げていた。
父が教えてくれた剣法は、遠心流であった。戦国時代、北面の武士、長門早水を祖として、その枝派を父が継承していたものだった。心を遠くに置いて、刀と一つになり、すべてを外から見る。自分の命さえも他の位置から見ることが極意であった。刀と一つになることから、居合切りや突き技を至極としていた。
藩にいた頃のことになるが、父と真九郎が練習試合を交えると、始めは父の方が優勢でいても、父が疲れを見せ始めると真九郎の勝ちが多くなった。つまり、真九郎は父と互角の勝負をしていた。それに比べると、藤十郎は父や兄に対して一度も勝ったことはなかった。それは藤十郎の優しさの性だった。尊敬をする父や兄に勝とうと言う気がまるでなかったのだ。しかし、真九郎は藤十郎の真の実力を認めていた。それは、一人になった時に藤十郎が振る太刀の早さや型の確かさを見ていたからだった。藤十郎の中にある優しさを捨てることができた時は、恐ろしい剣客になるかもしれないと思っていたのだ。
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