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第1章 御前試合
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万治三年(一六六〇年)の春。
智坂藩の城内の庭に咲く桜は、静かに花びらを散らしていた。その庭で若君、美馬陰千代の剣術指南役を決めるため、藩主、美馬高国を前にして御前試合が行わるところであった。藩内で、武勇の誉れが高い柳原真吾と尾畑弦雲の二人が候補に選び出されたが、どちらを剣術指南役にするかは大老の伊藤曽衛門、城代家老の中島敏郎、若年寄の後藤公平の藩の三役で話し合っても決められなかった。結局、二人に試合をして決めてもらうことになったのだ。そして、審判役は大目付の石田俊衛門が務めることになり、大目付の提言によって、優れた藩士を傷つけないことを考え、試合は木刀による寸止めで行うことしていた。
藩主、高国に向かって一礼をすると、「はじめい!」との俊衛門の声に、両者は向かい合った。真吾が上段に構えると、弦雲は下段に構えた。弦雲が上段に構えなおすと真吾は下段に構えた。その内に、両者とも正眼に構え出し、何度も打ち合った。
お互いの力量に差がないと判り始めたとき、弦雲は下段の右地ずりに構えなおした。その時、弦雲はかすかに口をゆがめて笑った。真吾にわざと隙を見せ、誘いを入れたのだ。弦雲の読み通り、真吾がすばやく上段に構えなおし、弦雲の額めがけて打ちおろしてきた。弦雲はすばやく下がりながら、体を右に廻した。しかし、真吾の木刀は弦雲のはちまきの上をなぞり、赤い血すじを付けてしまった。
それを見ていた俊衛門は、「やめい!相打ちじゃ」と声を出し、片手をあげた。
誰もが、弦雲の額が打たれるのを俊衛門が止めて救ったように見えた。俊衛門は、高国の方を向き、「相打ちでござった」と改めて言って、頭を下げた。
高国が頷き、立ち上がろうとしたときであった。
「まだ、勝負がついてはござらぬ」と、弦雲が低い声を出した。
「真吾殿の太刀、見切っていたのでござる。大目付さまがお止なさらなければ、胴をとる所存でござった」
高国は少し考える風に、首を傾げた。
「弦雲、いいではないか。腕を披露できる機会は、またあろう」
高国は、そう言って、弦雲に笑ってみせた。高国は大目付の判断を信じていたかどうかは、今もわからない。だが、大目付も石田道場の道場主として、その腕前が知れ渡っていた。その面目をおもんばかったためかもしれない。
高国に、そう言われては、弦雲も頭を下げるしかなかった。
しかし、それで、弦雲の気持が治まりはしなかった。その日の内に、弦雲は安芸国高田との国境にある山をめざした。そこには、弦雲の隠れ修業の場があった。梟がいる森である。そこだけは、木がまばらに生えていて、動き廻る空間ができていた。そこを戦場と思い、弦雲は木刀を手に走り、木を撃ち続けてきた場所だった。
そこに来て、迷いを振り払うように、一晩中、弦雲は真剣をふり続け、やがて朝がきていた。だが、何度太刀を振ってみても、心にわき起こる霧をはらうことはできない。
「ばかな。負けてなど、なかったはずだ」
尾畑弦雲は、朝やけで赤くなりだした東の空を仰いで、呻くように声を出した。弦雲の頭の中で、試合の記憶が反芻され続けていたからだ。その度に胃の中が熱くなり、喉元まで苦い物が込みあげてきた。
何度、思い直しても、真吾の木刀はかわすことができ、右にさげた自分の木刀は、真吾の脇腹を打っていた。
「真剣を持たせてもらえば良かった」
そうであれば、負けたら死ぬことができ、おめおめと生き恥をかかなくてもすむ。もし、木刀であっても寸止めでなければ、こんなことにはならなかったはずだ。頭に傷を負っても、それこそ、武士の誇りであった。
「憎い、大目付が憎い」
ならば、大目付を切ればいい!
弦雲の背後から声が聞こえた。その声は、弦雲の心の声が聞こえてきたように思え、弦雲は笑い出していた。
弦雲は、刀を朝日にかざした。刀は日を浴びて、怪しく光っている。
「だが、わしの力で大目付を切ることができようか?」
石田俊衛門は、名うての使い手と言われている。弦雲が通っていた本村道場の師範、近賀昌徳も石田俊衛門に一目を置いていた。弦雲は、老いを臭わせ出した師範を超えたと思っている。だが、その師範はもっと上の者がいると弦雲に言い聞かせていた。それは、石田俊衛門を指していることは明らかだった。弦雲の中に弱気と迷いが生じた。
ならば、わしが力を与えよう!
明らかに、自分の中から出てきた声ではない。間違いがない。何かが話しかけてきているのだ。
「誰じゃ?」と、弦雲は大声を出して振りかえった。木の間から妖気を帯びているとしか思えないような黒い炎が立ち昇っていた。
わしか、今は石じゃ。玄翁に打ち砕かれ、破片となって、那須から飛んできたものだ。
「もしかして、そちは殺生石か?」
弦雲は、隣国にある安芸国高田にある伝説を思い出していた。
殺生石は空から隕石に付いて、この地にやってきた物の怪だと言われていた。人や生物の恨みや憎しみ、さらに悲しみから生じた悪気を吸って、邪気と化してあらゆる物に取りつき姿を変えることもできる。異国から来た時も鳥羽上皇が愛した女、玉藻前として姿を現し、やがて九つにわかれた尾を持つ狐と化して見せた。至徳二年(一三八五年)に玄翁和尚は、魔呪品という経を唱えて殺生石の霊力を封じ込め、隕石で作った大金槌で殺生石を打ち砕いた。すると、殺生石はいくつにも別れて飛び散り、その欠片の一つが、安芸国高田にも落ちたと言われていた。その殺生石が、今弦雲に話しかけているのだ。
わしは形もあるが、そもそも邪気じゃ。白い尾のある彗星が流れるたびに、たくさんの邪気がこの地に振ってきておるのを知らんのじゃろう。邪気になれば定まった形などなくなるわ。霧のようになって石にも、狐にも、猫にも、人にも付くことができる。わしは邪気をたばねて、この地を支配したいのじゃ。
「わしは強くなりたいだけじゃ。どうすれば、強くなれる!」
だから、わしが力を貸そうと言っている!
もっと、もっと石田俊衛門を憎め。憎悪や悲哀がわしに力をつけ、お主を助けてやることができる。
弦雲は、刀をにらみつけた。赤い朝日に、弦雲の顔は赤鬼のように見え出した。その途端、林の中から立ち上がった邪気が流れてきて、弦雲を囲むと耳、鼻や口、さらに眼から、弦雲の中に吸い込まれるように入っていった。
弦雲の目はつりあがり、耳がかすかに尖り出していく。あれだけ日に焼けた褐色の肌は、死んだ者のように、青白く変わっていた。まるで別人のように見える。いや、もはや以前の弦雲ではなかった。
智坂藩の城内の庭に咲く桜は、静かに花びらを散らしていた。その庭で若君、美馬陰千代の剣術指南役を決めるため、藩主、美馬高国を前にして御前試合が行わるところであった。藩内で、武勇の誉れが高い柳原真吾と尾畑弦雲の二人が候補に選び出されたが、どちらを剣術指南役にするかは大老の伊藤曽衛門、城代家老の中島敏郎、若年寄の後藤公平の藩の三役で話し合っても決められなかった。結局、二人に試合をして決めてもらうことになったのだ。そして、審判役は大目付の石田俊衛門が務めることになり、大目付の提言によって、優れた藩士を傷つけないことを考え、試合は木刀による寸止めで行うことしていた。
藩主、高国に向かって一礼をすると、「はじめい!」との俊衛門の声に、両者は向かい合った。真吾が上段に構えると、弦雲は下段に構えた。弦雲が上段に構えなおすと真吾は下段に構えた。その内に、両者とも正眼に構え出し、何度も打ち合った。
お互いの力量に差がないと判り始めたとき、弦雲は下段の右地ずりに構えなおした。その時、弦雲はかすかに口をゆがめて笑った。真吾にわざと隙を見せ、誘いを入れたのだ。弦雲の読み通り、真吾がすばやく上段に構えなおし、弦雲の額めがけて打ちおろしてきた。弦雲はすばやく下がりながら、体を右に廻した。しかし、真吾の木刀は弦雲のはちまきの上をなぞり、赤い血すじを付けてしまった。
それを見ていた俊衛門は、「やめい!相打ちじゃ」と声を出し、片手をあげた。
誰もが、弦雲の額が打たれるのを俊衛門が止めて救ったように見えた。俊衛門は、高国の方を向き、「相打ちでござった」と改めて言って、頭を下げた。
高国が頷き、立ち上がろうとしたときであった。
「まだ、勝負がついてはござらぬ」と、弦雲が低い声を出した。
「真吾殿の太刀、見切っていたのでござる。大目付さまがお止なさらなければ、胴をとる所存でござった」
高国は少し考える風に、首を傾げた。
「弦雲、いいではないか。腕を披露できる機会は、またあろう」
高国は、そう言って、弦雲に笑ってみせた。高国は大目付の判断を信じていたかどうかは、今もわからない。だが、大目付も石田道場の道場主として、その腕前が知れ渡っていた。その面目をおもんばかったためかもしれない。
高国に、そう言われては、弦雲も頭を下げるしかなかった。
しかし、それで、弦雲の気持が治まりはしなかった。その日の内に、弦雲は安芸国高田との国境にある山をめざした。そこには、弦雲の隠れ修業の場があった。梟がいる森である。そこだけは、木がまばらに生えていて、動き廻る空間ができていた。そこを戦場と思い、弦雲は木刀を手に走り、木を撃ち続けてきた場所だった。
そこに来て、迷いを振り払うように、一晩中、弦雲は真剣をふり続け、やがて朝がきていた。だが、何度太刀を振ってみても、心にわき起こる霧をはらうことはできない。
「ばかな。負けてなど、なかったはずだ」
尾畑弦雲は、朝やけで赤くなりだした東の空を仰いで、呻くように声を出した。弦雲の頭の中で、試合の記憶が反芻され続けていたからだ。その度に胃の中が熱くなり、喉元まで苦い物が込みあげてきた。
何度、思い直しても、真吾の木刀はかわすことができ、右にさげた自分の木刀は、真吾の脇腹を打っていた。
「真剣を持たせてもらえば良かった」
そうであれば、負けたら死ぬことができ、おめおめと生き恥をかかなくてもすむ。もし、木刀であっても寸止めでなければ、こんなことにはならなかったはずだ。頭に傷を負っても、それこそ、武士の誇りであった。
「憎い、大目付が憎い」
ならば、大目付を切ればいい!
弦雲の背後から声が聞こえた。その声は、弦雲の心の声が聞こえてきたように思え、弦雲は笑い出していた。
弦雲は、刀を朝日にかざした。刀は日を浴びて、怪しく光っている。
「だが、わしの力で大目付を切ることができようか?」
石田俊衛門は、名うての使い手と言われている。弦雲が通っていた本村道場の師範、近賀昌徳も石田俊衛門に一目を置いていた。弦雲は、老いを臭わせ出した師範を超えたと思っている。だが、その師範はもっと上の者がいると弦雲に言い聞かせていた。それは、石田俊衛門を指していることは明らかだった。弦雲の中に弱気と迷いが生じた。
ならば、わしが力を与えよう!
明らかに、自分の中から出てきた声ではない。間違いがない。何かが話しかけてきているのだ。
「誰じゃ?」と、弦雲は大声を出して振りかえった。木の間から妖気を帯びているとしか思えないような黒い炎が立ち昇っていた。
わしか、今は石じゃ。玄翁に打ち砕かれ、破片となって、那須から飛んできたものだ。
「もしかして、そちは殺生石か?」
弦雲は、隣国にある安芸国高田にある伝説を思い出していた。
殺生石は空から隕石に付いて、この地にやってきた物の怪だと言われていた。人や生物の恨みや憎しみ、さらに悲しみから生じた悪気を吸って、邪気と化してあらゆる物に取りつき姿を変えることもできる。異国から来た時も鳥羽上皇が愛した女、玉藻前として姿を現し、やがて九つにわかれた尾を持つ狐と化して見せた。至徳二年(一三八五年)に玄翁和尚は、魔呪品という経を唱えて殺生石の霊力を封じ込め、隕石で作った大金槌で殺生石を打ち砕いた。すると、殺生石はいくつにも別れて飛び散り、その欠片の一つが、安芸国高田にも落ちたと言われていた。その殺生石が、今弦雲に話しかけているのだ。
わしは形もあるが、そもそも邪気じゃ。白い尾のある彗星が流れるたびに、たくさんの邪気がこの地に振ってきておるのを知らんのじゃろう。邪気になれば定まった形などなくなるわ。霧のようになって石にも、狐にも、猫にも、人にも付くことができる。わしは邪気をたばねて、この地を支配したいのじゃ。
「わしは強くなりたいだけじゃ。どうすれば、強くなれる!」
だから、わしが力を貸そうと言っている!
もっと、もっと石田俊衛門を憎め。憎悪や悲哀がわしに力をつけ、お主を助けてやることができる。
弦雲は、刀をにらみつけた。赤い朝日に、弦雲の顔は赤鬼のように見え出した。その途端、林の中から立ち上がった邪気が流れてきて、弦雲を囲むと耳、鼻や口、さらに眼から、弦雲の中に吸い込まれるように入っていった。
弦雲の目はつりあがり、耳がかすかに尖り出していく。あれだけ日に焼けた褐色の肌は、死んだ者のように、青白く変わっていた。まるで別人のように見える。いや、もはや以前の弦雲ではなかった。
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