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2交通事故
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玲香がきて、半月も経っていただろうか。
国語の時間だった。
突然、教室の後部ドアが開けられた。
「倉橋先生、授業を中断させてすいません。ちょっと急用なことができましたので」
教室に入ってきたのは、担任の遠藤先生だった。
「玲香さん、お母さんが交通事故にあって病院に運ばれたそうだ」
「えっ、ほんとうですか!」
玲香は、立ち上がって、遠藤先生の顔をみつめた。
「いま職場の人から連絡があった。すぐにそこに行きなさい」
遠藤先生は玲香に近づき、母の秋江が運ばれていった入江口総合病院の住所と病室番号の書いたメモを渡した。
玲香はメモを読み、それを胸ポケットに押し込んでいた。その後、机の上に置かれた教科書、ノート、ペンケースをカバンに入れて手にさげた。すると、遠藤先生はカバンを持っていない玲香の手に千円札を二枚握らせた。
「タクシーで行きなさい」
玲香は思わず頭をさげた。さらに、倉橋先生に向かっても頭をさげると、前の方のドアを開け教室から出て行った。
教室に残された真治は顔を曇らせていた。玲香の家庭が秋江の稼ぎにすべてを頼っていることを知っていたからだ。秋江が怪我をすれば、家計にお金を入れる者がいなくなったということだ。
だが、人のことなど心配できる立場だろうか?
高校生は大学受験のことを第一義に考えなければならない。両親からの願いも真治がいい大学に入ってくれることだ。自分でもちゃんと勉強していくことが大切だと思っている。だから、今日の授業はすべて受けなければならない。だが、それで今日一日が終わるわけではない。
昼休みになって職員室にいる遠藤先生を訪ねた。
「真治、どうしたね?」
「先生、玲香さんがお母さんをお見舞いに行った病院がどこにあるかを教えてくれませんか?」
「聞いてどうするんだ?」
「ぼくも見舞いに行ってやりたいんです」
「そうか、少し話し合った方がいいな」
遠藤先生は、職員室の片隅に設けられた応接コーナーを指さした。
応接コーナーには、小さなローテーブルが置かれ、それを挟むように、長椅子が置かれていた。その周りは、屏風のパーティションで囲っている。
職員室に相談事を持った人がきた時に話ができる場所が必要だと、先生方からの要望があって、作られた所だった。
遠藤先生は立ちあがり、応接コーナーの長椅子に腰をおろした。真治は遠藤先生の反対側にある長椅子にすわった。
「真治は、たまたま玲香さんと教室の席が隣り合った。先生もクラスの生徒同士は仲良くしてもらいたいと思っている。だが、生徒の立場で関わることはおのずと限度がある。だから、まず玲香さんのことを、どのていど知っているのかな?」
真治は一度唇をかみしめてから口を開いた。
「玲香さんにお父さんがいない」
「ほう、いないと思っているのか!」
真治はうなずいて見せた。
「玲香さんに、お父さんがいないのは、行方知れずになっているからだよ」
「どうしてですか?」
「これは、玲香さんの家に家庭訪問をして聞いてきたことだが」と言って、遠藤先生は玲香が転校してくる前のこと、東京にいた頃のことを話し出した。
ここに来る前。
玲香は両親と東京の田島市に住んでいた。父である江島保志は鉄製品を作る江島製作所をやっていて、そこで月産自動車の車ネジを作っていた。だが野心のある保志は車以外にも使える新しいネジをつくり、それを売り出した。だが、そのネジに欠陥があることが明らかになったのだ。その制作のために大型の機械を購入し、購入に必要な資金を銀行から借りていた。今まで江島製作所が順調な発展をとげたこともあって、銀行は一億円近くのお金を貸してくれていたのだが、事業が不調だと知ると、銀行はすぐに一括返金を迫ってきた。資金繰りのために保志はいろんな所から金を借りまくり、とうとう悪質な金融業者から高利な借り入れをしてしまった。
保志の危機を秋江が知ったのは、青い顔をした保志が新たな借り入れの保証人として契約書のサインを秋江に頼んだからだ。始め秋江はそれを拒否していた。だが、工場で働いている人たちの給与が未払いであることを知るとサインせざるを得なくなったのだ。
新たな資金を手にしようと保志はさらに動き回っていたが、やがて家に帰ってこなくなった。
ある日の朝。社員からの電話で、秋江は工場が銀行にさし押えられたことを知った。
その日から、毎日のように取りたて屋の男たちがやってきて家の外で騒いでいた。玲香が学校へ行く時や家に帰ってきた時に男たちと顔を合わせてしまう。秋江はじっと家に閉じこもり耐え続けた。だが、図にのった男たちは近所の家々に聞こえるほどの大声をあげ、ドアが壊れるほど叩き続けた。
このままではだめだと思った秋江は父の会社の顧問弁護士と連絡をとり相談を始めた。
やがて、男たちが家にこなくなった。弁護士が乗り出してくれたおかげだ。
「もう借金取りは来ないわ。その代わり、家や土地はすべて売ってしまいました。それで借金の多くを返すことができた。でも、一千万円の借金は残ってしまったわ。本来ならば、五年で返さなければならないそうだけど、十年にしてもらった」
後で、玲香も知ることになったのだが、一千万円の借金のために、毎月十万円を返済していかなければならなかったのだ。
次の日から、秋江は家を出て歩き出した。
新しく住む場所を探すためだ。住む場所が決まれば、そこで働く先も見つけておかなければならない。
それらを見つけられた場所が入江口市であった。そして、玲香は育成高校に転校をしてきたのだった。
これまでの経過を話し終えた遠藤先生は少し疲れたようだった。
「よけいな事を少し話しすぎたかもしれんな。真治くんは、これでも関わりたいのかな?」
「クラスメートではダメですか?」
「あまりにもシンプルな理由だな。重たいことを生徒一人に押しつけるわけにはいかないな」
「それじゃ」
「私も真治くんと一緒に病院に行くよ」
遠藤先生は笑い出していた。
授業が終わると、真治はすぐに職員室の前に行った。
廊下で立っていると、しばらくして遠藤先生が職員室から出てきた。校舎から出て二人で校門に近づくと前もって呼んでいたタクシーがすでに停まっていた。
遠藤先生は真治を先にタクシーの後部座席に乗せ、自分もその後を追うように乗り込んだ。そして、行き先をすぐに運転手に告げた。
十五分ほど車が南に走ると白い建物が見えてきた。
入江口総合病院だ。
七階建てのビルで大きな客船を思わせた。
二人はすぐに病院の中に入った。一階は大きな待合室になっていて、升目に並んだ椅子が置かれ、この時間なのにまだ多くの人たちがすわっていた。椅子の前にカウンターがあって、そこが会計や初診等の受付になっている。
待合室の後ろを通ると病院内を図示した表示板が壁に貼ってあった。その前に二人は立ち、秋江の病室へ行く道順を確認していた。病室は五〇七号。そこに行くには南側にあるエレベーターにのればいいことがわかる。真治が顔を廻してエレベーター昇降口をみつけ指さした。二人はそこに行き、やってきたエレベーターにのり五階でおりた。
五階フロアの通路を歩き、左に曲がりナースステションに行った。そこで、看護師に教えられて五〇七号に行く。
「失礼します」と遠藤先生と真治は声を合わせた。
二人が病室に入ると、ベッドそばの丸椅子にすわっていた玲香が立ち上がった。
「先生、真治くん、来てくれたんだ」
「お母さん、どうですか?」
遠藤先生は秋江の方に顔を向けた。
「わざわざ先生まで来ていただいて。そんなに心配をすることじゃないんですよ。でも、ヘマをしちまってね。弁当を運んでいる時に、車にはねられてしまった。もちろん、信号が青であるのを確かめて横断歩道を渡っていたんですよ」
秋江は明るく笑っている。
「当分、歩けないらしい。でも、一月もしたら歩いて見せますよ」
秋江は、突然、目を閉じると寝息をたてて眠り出した。玲香は、秋江にもう少し遠藤先生や真治と話をして欲しかったようだ。
「今日一日、いろんなことがあったでしょうから、疲れが出たんですね」
遠藤先生がそう言ったので真治もうなずいた。この時は、近づく危険を三人は知らなかった。だから、玲香も穏やかな顔をしていた。
「この合間にやっておきますね」と言って、玲香はキティちゃんの絵が描いてある手帳を取り出した。
「お母さんの仕事先への連絡かい?」と、真治は尋ねた。うなずいた玲香は手帳を手に病室を出ていき通路の端にある公衆電話ボックスに入っていった。
そこで、手帳から母の勤め先を記載したページをみつけ出し、それを見ながら、まず清掃会社に電話をした。交通事故にあった母が仕事に行けないので、玲香が代わりに行って働きたいと申し出た。だが、仕事の勤務時間に入っていたこともあって、すでに他の人が仕事をしていることを知らされた。次に、コンビニのピースランドに連絡をした。母が交通事故を起こしたことを話し玲香が代理で午後十時からの夜間勤務について働きたいと申し出ると、ぜひ来てくださいと言ってくれた。
玲香は少しほっとした思いで病室に戻った。だが、病室にいる遠藤先生や真治は暗い顔をしていた。何故か、担当医師と看護師が立っていた。
「先生、どうかしたんですか?」
「回診できてみたんだが、この寝息は悪い。もう一度、脳をスキャンしてみる必要があるようだね」
担当医師は看護師に指示をすると、看護師は一度病室を出ていき、すぐに寝台車を運んできた。その後、看護師たちは秋江を寝台車に載せ検査室に連れて行った。
三人は検査室の前に行きクマのように同じ所を歩き廻っていた。
やがて検査を終えて担当医師が出てきた。
「すぐに手術をさせてください」
交通事故の時に秋江の脳にできた血塊が大きくなり出していると言うのだ。手術の前に玲香は手術同意書にサインをさせられた。
検査室から秋江を載せた寝台車が看護師たちに押され出てきたが、そのまますぐに手術室に運ばれていった。
扉が閉まると、三人は手術室前の通路ぎわに置かれた長椅子に腰をおろした。後は手術が終わるのを待つしかない。
だが、玲香は暗い顔をして落ちつかない。真治は自分の腕時計を見た。午後九時半を過ぎ出している。
「玲香さん、十時が近づいているよね。ピースランドに行くことにしたんだろう? お母さんを守るのはきみだ。そのためには、お金を稼ぎ続けなければならない。もしよければ、ぼくたちがお母さんを見守ってあげるよ。それに、何かあったら、すぐに連絡をする」
真治の言葉に、玲香は潤み出した涙で目を光らせていたが、すぐにピースランドの電話番号を真治に教えていた。
「真治の言う通りだな。私らができることは、祈って待つしかない。だが、私ができることがこの場で一つあることに気がついたよ。私がタクシーを呼んであげて、タクシー代をまた玲香さんに渡すことだ」と言った遠藤先生は、すぐにスマホでタクシー会社に連絡をとっていた。
玲香は遠藤先生から渡された二千円札を手にエレベーター昇降口に向かい、そこでエレベーターにのると、このフロアが出て行った。
三時間後、手術室から医者たちが出てきた。
「どうやら、血は取り除くことができましたよ。あとは経過をみるだけですね」
担当医師は遠藤先生と真治に手術の経過を報告して医務室に戻っていった。
すぐに真治はスマホを出してピースランドに電話をかけた。玲香を呼び出してもらい秋江の手術が良好であった報告をした。電話の向こうで玲香の涙まじりで喜ぶ声が聞こえてきた。
国語の時間だった。
突然、教室の後部ドアが開けられた。
「倉橋先生、授業を中断させてすいません。ちょっと急用なことができましたので」
教室に入ってきたのは、担任の遠藤先生だった。
「玲香さん、お母さんが交通事故にあって病院に運ばれたそうだ」
「えっ、ほんとうですか!」
玲香は、立ち上がって、遠藤先生の顔をみつめた。
「いま職場の人から連絡があった。すぐにそこに行きなさい」
遠藤先生は玲香に近づき、母の秋江が運ばれていった入江口総合病院の住所と病室番号の書いたメモを渡した。
玲香はメモを読み、それを胸ポケットに押し込んでいた。その後、机の上に置かれた教科書、ノート、ペンケースをカバンに入れて手にさげた。すると、遠藤先生はカバンを持っていない玲香の手に千円札を二枚握らせた。
「タクシーで行きなさい」
玲香は思わず頭をさげた。さらに、倉橋先生に向かっても頭をさげると、前の方のドアを開け教室から出て行った。
教室に残された真治は顔を曇らせていた。玲香の家庭が秋江の稼ぎにすべてを頼っていることを知っていたからだ。秋江が怪我をすれば、家計にお金を入れる者がいなくなったということだ。
だが、人のことなど心配できる立場だろうか?
高校生は大学受験のことを第一義に考えなければならない。両親からの願いも真治がいい大学に入ってくれることだ。自分でもちゃんと勉強していくことが大切だと思っている。だから、今日の授業はすべて受けなければならない。だが、それで今日一日が終わるわけではない。
昼休みになって職員室にいる遠藤先生を訪ねた。
「真治、どうしたね?」
「先生、玲香さんがお母さんをお見舞いに行った病院がどこにあるかを教えてくれませんか?」
「聞いてどうするんだ?」
「ぼくも見舞いに行ってやりたいんです」
「そうか、少し話し合った方がいいな」
遠藤先生は、職員室の片隅に設けられた応接コーナーを指さした。
応接コーナーには、小さなローテーブルが置かれ、それを挟むように、長椅子が置かれていた。その周りは、屏風のパーティションで囲っている。
職員室に相談事を持った人がきた時に話ができる場所が必要だと、先生方からの要望があって、作られた所だった。
遠藤先生は立ちあがり、応接コーナーの長椅子に腰をおろした。真治は遠藤先生の反対側にある長椅子にすわった。
「真治は、たまたま玲香さんと教室の席が隣り合った。先生もクラスの生徒同士は仲良くしてもらいたいと思っている。だが、生徒の立場で関わることはおのずと限度がある。だから、まず玲香さんのことを、どのていど知っているのかな?」
真治は一度唇をかみしめてから口を開いた。
「玲香さんにお父さんがいない」
「ほう、いないと思っているのか!」
真治はうなずいて見せた。
「玲香さんに、お父さんがいないのは、行方知れずになっているからだよ」
「どうしてですか?」
「これは、玲香さんの家に家庭訪問をして聞いてきたことだが」と言って、遠藤先生は玲香が転校してくる前のこと、東京にいた頃のことを話し出した。
ここに来る前。
玲香は両親と東京の田島市に住んでいた。父である江島保志は鉄製品を作る江島製作所をやっていて、そこで月産自動車の車ネジを作っていた。だが野心のある保志は車以外にも使える新しいネジをつくり、それを売り出した。だが、そのネジに欠陥があることが明らかになったのだ。その制作のために大型の機械を購入し、購入に必要な資金を銀行から借りていた。今まで江島製作所が順調な発展をとげたこともあって、銀行は一億円近くのお金を貸してくれていたのだが、事業が不調だと知ると、銀行はすぐに一括返金を迫ってきた。資金繰りのために保志はいろんな所から金を借りまくり、とうとう悪質な金融業者から高利な借り入れをしてしまった。
保志の危機を秋江が知ったのは、青い顔をした保志が新たな借り入れの保証人として契約書のサインを秋江に頼んだからだ。始め秋江はそれを拒否していた。だが、工場で働いている人たちの給与が未払いであることを知るとサインせざるを得なくなったのだ。
新たな資金を手にしようと保志はさらに動き回っていたが、やがて家に帰ってこなくなった。
ある日の朝。社員からの電話で、秋江は工場が銀行にさし押えられたことを知った。
その日から、毎日のように取りたて屋の男たちがやってきて家の外で騒いでいた。玲香が学校へ行く時や家に帰ってきた時に男たちと顔を合わせてしまう。秋江はじっと家に閉じこもり耐え続けた。だが、図にのった男たちは近所の家々に聞こえるほどの大声をあげ、ドアが壊れるほど叩き続けた。
このままではだめだと思った秋江は父の会社の顧問弁護士と連絡をとり相談を始めた。
やがて、男たちが家にこなくなった。弁護士が乗り出してくれたおかげだ。
「もう借金取りは来ないわ。その代わり、家や土地はすべて売ってしまいました。それで借金の多くを返すことができた。でも、一千万円の借金は残ってしまったわ。本来ならば、五年で返さなければならないそうだけど、十年にしてもらった」
後で、玲香も知ることになったのだが、一千万円の借金のために、毎月十万円を返済していかなければならなかったのだ。
次の日から、秋江は家を出て歩き出した。
新しく住む場所を探すためだ。住む場所が決まれば、そこで働く先も見つけておかなければならない。
それらを見つけられた場所が入江口市であった。そして、玲香は育成高校に転校をしてきたのだった。
これまでの経過を話し終えた遠藤先生は少し疲れたようだった。
「よけいな事を少し話しすぎたかもしれんな。真治くんは、これでも関わりたいのかな?」
「クラスメートではダメですか?」
「あまりにもシンプルな理由だな。重たいことを生徒一人に押しつけるわけにはいかないな」
「それじゃ」
「私も真治くんと一緒に病院に行くよ」
遠藤先生は笑い出していた。
授業が終わると、真治はすぐに職員室の前に行った。
廊下で立っていると、しばらくして遠藤先生が職員室から出てきた。校舎から出て二人で校門に近づくと前もって呼んでいたタクシーがすでに停まっていた。
遠藤先生は真治を先にタクシーの後部座席に乗せ、自分もその後を追うように乗り込んだ。そして、行き先をすぐに運転手に告げた。
十五分ほど車が南に走ると白い建物が見えてきた。
入江口総合病院だ。
七階建てのビルで大きな客船を思わせた。
二人はすぐに病院の中に入った。一階は大きな待合室になっていて、升目に並んだ椅子が置かれ、この時間なのにまだ多くの人たちがすわっていた。椅子の前にカウンターがあって、そこが会計や初診等の受付になっている。
待合室の後ろを通ると病院内を図示した表示板が壁に貼ってあった。その前に二人は立ち、秋江の病室へ行く道順を確認していた。病室は五〇七号。そこに行くには南側にあるエレベーターにのればいいことがわかる。真治が顔を廻してエレベーター昇降口をみつけ指さした。二人はそこに行き、やってきたエレベーターにのり五階でおりた。
五階フロアの通路を歩き、左に曲がりナースステションに行った。そこで、看護師に教えられて五〇七号に行く。
「失礼します」と遠藤先生と真治は声を合わせた。
二人が病室に入ると、ベッドそばの丸椅子にすわっていた玲香が立ち上がった。
「先生、真治くん、来てくれたんだ」
「お母さん、どうですか?」
遠藤先生は秋江の方に顔を向けた。
「わざわざ先生まで来ていただいて。そんなに心配をすることじゃないんですよ。でも、ヘマをしちまってね。弁当を運んでいる時に、車にはねられてしまった。もちろん、信号が青であるのを確かめて横断歩道を渡っていたんですよ」
秋江は明るく笑っている。
「当分、歩けないらしい。でも、一月もしたら歩いて見せますよ」
秋江は、突然、目を閉じると寝息をたてて眠り出した。玲香は、秋江にもう少し遠藤先生や真治と話をして欲しかったようだ。
「今日一日、いろんなことがあったでしょうから、疲れが出たんですね」
遠藤先生がそう言ったので真治もうなずいた。この時は、近づく危険を三人は知らなかった。だから、玲香も穏やかな顔をしていた。
「この合間にやっておきますね」と言って、玲香はキティちゃんの絵が描いてある手帳を取り出した。
「お母さんの仕事先への連絡かい?」と、真治は尋ねた。うなずいた玲香は手帳を手に病室を出ていき通路の端にある公衆電話ボックスに入っていった。
そこで、手帳から母の勤め先を記載したページをみつけ出し、それを見ながら、まず清掃会社に電話をした。交通事故にあった母が仕事に行けないので、玲香が代わりに行って働きたいと申し出た。だが、仕事の勤務時間に入っていたこともあって、すでに他の人が仕事をしていることを知らされた。次に、コンビニのピースランドに連絡をした。母が交通事故を起こしたことを話し玲香が代理で午後十時からの夜間勤務について働きたいと申し出ると、ぜひ来てくださいと言ってくれた。
玲香は少しほっとした思いで病室に戻った。だが、病室にいる遠藤先生や真治は暗い顔をしていた。何故か、担当医師と看護師が立っていた。
「先生、どうかしたんですか?」
「回診できてみたんだが、この寝息は悪い。もう一度、脳をスキャンしてみる必要があるようだね」
担当医師は看護師に指示をすると、看護師は一度病室を出ていき、すぐに寝台車を運んできた。その後、看護師たちは秋江を寝台車に載せ検査室に連れて行った。
三人は検査室の前に行きクマのように同じ所を歩き廻っていた。
やがて検査を終えて担当医師が出てきた。
「すぐに手術をさせてください」
交通事故の時に秋江の脳にできた血塊が大きくなり出していると言うのだ。手術の前に玲香は手術同意書にサインをさせられた。
検査室から秋江を載せた寝台車が看護師たちに押され出てきたが、そのまますぐに手術室に運ばれていった。
扉が閉まると、三人は手術室前の通路ぎわに置かれた長椅子に腰をおろした。後は手術が終わるのを待つしかない。
だが、玲香は暗い顔をして落ちつかない。真治は自分の腕時計を見た。午後九時半を過ぎ出している。
「玲香さん、十時が近づいているよね。ピースランドに行くことにしたんだろう? お母さんを守るのはきみだ。そのためには、お金を稼ぎ続けなければならない。もしよければ、ぼくたちがお母さんを見守ってあげるよ。それに、何かあったら、すぐに連絡をする」
真治の言葉に、玲香は潤み出した涙で目を光らせていたが、すぐにピースランドの電話番号を真治に教えていた。
「真治の言う通りだな。私らができることは、祈って待つしかない。だが、私ができることがこの場で一つあることに気がついたよ。私がタクシーを呼んであげて、タクシー代をまた玲香さんに渡すことだ」と言った遠藤先生は、すぐにスマホでタクシー会社に連絡をとっていた。
玲香は遠藤先生から渡された二千円札を手にエレベーター昇降口に向かい、そこでエレベーターにのると、このフロアが出て行った。
三時間後、手術室から医者たちが出てきた。
「どうやら、血は取り除くことができましたよ。あとは経過をみるだけですね」
担当医師は遠藤先生と真治に手術の経過を報告して医務室に戻っていった。
すぐに真治はスマホを出してピースランドに電話をかけた。玲香を呼び出してもらい秋江の手術が良好であった報告をした。電話の向こうで玲香の涙まじりで喜ぶ声が聞こえてきた。
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