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1転校生
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四月末に、育成高校の2年3組に転校生がやってきた。学年が始まったすぐに転校してくること自体珍しいことだった。
江島玲香と名乗って自己紹介をした。だが、前の学校や住んでいた東京のことはまるで話をしない。何かを隠しているかのようだった。担任の遠藤先生も、もっと話をして欲しかったかもしれない。だが、遠藤先生はそのことにあえて触れない。すべき役割を早く終えなければと思っているように、玲香の席は、窓際で後ろから三つ目であることを告げた。さらに隣の席にすわっている竹内真治に今日一日、教科書を見せてあげるように言っていた。
授業が始まるたびに玲香は恥ずかしそうに一緒に持った本から顔をあげてつぶらな瞳を真治に向けてきた。真治はこんなに女の子に見られたことはないと思っていた。
真治はどのクラブにも入っていない。よく言われる帰宅部だ。それは大学受験に専念するためだ。両親も彼に大学に進学することを望んでいる。だが、自分でも頭がいいと思ってはいない。だから必死に勉強をするしかない。復習、予習を必ずやって、上の中くらいの成績だ。それを保持するために、水曜日にはテキストや文房具を入れたリュックを背負い塾に通っていた。
その帰りで、玲香がこの学校にきて三日目のことだった。
少し先を、玲香が歩いていた。すると三人の男たちが玲香に近づき囲い込むと住宅地の狭い路地に連れ込んでいく。すぐに真治は後をつけた。
三人の男たちは真治と同じくらいの年齢だった。育成高校と違って制服を着ていない。ラフな普段着で下は三人ともジーンズをはいていた。
「すいませんね。ここまで来てもらって」と、背の一番低い男が先陣を切るように言っていた。
「なんですか?」と、玲香は怯えた声を出した。
「お金を貸してください」
玲香の右に貼りついたニキビ面が玲香の腰にさげていたバッグから財布を取り出し、中を開けて見ている。
「後は小銭だけですか。でも三千円はある。ちょうど、三千円借りたいと思っていたんだ」
「困ります。貸すことができるお金はありません。そのお金で買い物をして行かなければならないんです」
「目の前に困っている人がいるなら、助けてあげるべきじゃないの」と、背の低い男がわけの分からないことを言い出していた。
「ぼくたちさ。貸してくださいと言っているだけなんだよ」
ニキビ面は声を大きくして、千円札三枚をつかみ出してヒラヒラさせている。三人の中で一番背の高い男は用心棒役なのか、玲香のそばにいる二人が広い通りから見えないように背中をこちらに向けていた。
「おい、何やっているんだ」
真治の声を聞いて、背の高い男は顔を向けた。その顔には、驚きの表情が浮かんでいる。
真治はずかずかと近づいて行った。だが、けっして体力に自信があるわけではない。もし体力に自信があるのなら、運動クラブで活躍をして大学への推薦入学を手に入れたいと思っているくらいだ。
真治の行く手をふさぐために背の高い男は真治の前に立った。真治は右手をすばやく出して男の脇腹を押していた。不意を突かれた男はバランス崩してよろけている。さらに真治は真っすぐに歩き、ニキビ面の手から千円札三枚をつかみ取ってズボンの右ポケットにねじ込んだ。次にサイフも取り上げ、同じズボンの左ポケットに押し込んだ。
「何をするんだ」と言って、ニキビ面は右手を突き出してきた。ストレートだ。真治は首を傾げてよけたつもりだが、失敗をしていた。拳は左頬にあたり、すぐに赤くはれ出した。
だが、真治はひるまない。何もなかったように、玲子に近づき、その手を掴んだ。
「さあ、行くよ」
真治は玲香も驚くような強さで引っ張って行く。その勢いに驚いている男たちをおいて、路地から二人は出てくることができた。男たちは追ってはこない。
どのくらい手をつないで住宅街を歩いていただろうか。
「あの、真治くん」と声をかけられた。真治は振り向いて、玲香と手をつないだままであることに気がついた。
「あっごめん」と、真治は手を離した。
「いえ、いいんです」
「そうだ。買い物をするために出てきたんだろう?」
真治はズボンの両方のポケットに手を入れて、三千円とサイフを取り出し、玲香に手渡した。
「はい、そうです。スターマーケットで」
「買い物につきあうよ。あいつら、玲香さんをまた狙って来るかもしれない。ともかく家まで送っていくよ」
「いえ、でも。真治くんの家の皆さん、遅くなったら心配するわ」
「じゃ、家に電話をしておくよ」
すぐに真治は胸ポケットからスマホを出すと自分の家に電話をかけ出した。
「昭の家によって、少し教えてもらってから帰るよ」
昭のフールネームは吉村昭だ。中学校の時にも同じクラスだったこともあって、何でも言える間柄だ。今夜のように彼の家にいたことにしてもらうこともできる。
母を安心させる電話ができたと思って電話を切り、真治はスマホを胸ポケットに戻した。
二人は宅地の道路から車が走っている南本通りに出た。その通りにある交差点を右に曲がると明るく光っている白い建物が見えてきた。
スターマーケットだ。
二十四時間営業。買い忘れた物でもここにくれば手に入れることができる。真治も何回か、母に言われてここに来たことがあった。
自動ドアを開けて、二人で店の中に入った。
「何を買うの?」
「たまねぎとニンジン、それにジャガイモ、後は牛肉も」
玲香は次から次へと買い物客用のバスケットの中に品物を入れていく。
「もしかしたら、カレーかい? きみがつくるの」
「そう、あたり」
「お母さん、昼間は、弁当の配達。午後は清掃会社。一度家に帰ってくるけど、午後の十時からピースランドに行って、深夜勤務をやっているわ」
「それは、すごいね。寝る暇がないみたいだ」
玲香の母親は信じられないくらい働いている。そして、玲香も普通の高校生とは言えない。母の代わりに主婦の仕事すべてをやっていた。だが、父親の話は出てこない。どうしているのか? それは聞かない方がいいように思えていた。
「だから、夕飯は美味しくて栄養がつくものを食べさせてあげたいの。だったら、カレーでしょう」
「そうだね。カレーがあれば、カレーうどんもつくれるし、カレーそばもできるよ」
「それなら手抜きでしょう」と、玲香は笑ってくれた。
スターマーケットからの帰り、真治は買った物を入れたビニール袋を持たせてもらった。
再び住宅地をとおり、やがて二人は西黒天商店街に入っていた。
この通りは商店街なのに、昼間でも人通りはない。まるで廃墟のような所だ。街を通っている道路はコンクリート舗装なのだが、海の上の波のようにデコボコができている。
こんな街になったのは、十五年前、西黒天商店街の下に地下鉄を通すためのトンネルが掘られたからだ。問題がないとされていたのだが、掘削工事を行うと地上の地面が陥没していった。やがて工事は中止になったが街の地盤はその時に壊れてしまった。
西黒天商店街の店は次々と閉めていったのだが、その中にあって藤井ビルは個人への部屋貸しを始めていた。
玲香の母、秋江は安い部屋を探していて、ここを見つけ借りることができた。
家賃は月九千円だった。
「ここよ。私のうちは」
玲香が指差した藤井ビルは三階建てで両隣の建物よりは高く突き出していた。
「大きい家だね」
「違うの。ここの一階の部屋を借りているだけ、アパートと同じよ」
「そうなんだ。じゃ」
真治は玲香を無事に送り届けて役目を終えたと思ったので、帰ろうとして片手をあげた。
「待って、真治くん」と言って呼び止められた。
「顔、怪我をしているわ」
「こんなの、たいしたことないよ」
「だめ、薬を塗らせて、それにお礼がしたいの」
「お礼?」
「カレーを急いで作るから、食べて行って欲しいの」
そう言われれば、真治の小腹は空いてきていた。
「そうだね。クラスの女の子の作る物なんか食べる機会はめったにないしね」
玲香はクスクスと笑い出し、玄関ドアに鍵を差し込んで開けた。
入った部屋は広かった。リビングルームとして使っているのだろうが、前は喫茶店の店内だったに違いない。カウンターがあって、その向こうにはキチン。部屋の真ん中にテーブル、それを囲むように椅子が四つ。壁際にはソファや戸棚、タンスがおかれていた。
真治が部屋の中を見廻している間に、玲香は戸棚から薬箱を出してきた。次に薬箱からガーゼと塗り薬を出し、真治の顔の赤くなった所に薬を塗ると、その上にガーゼをあて絆創膏でとめていた。
「これでいいわ」
「ありがとう」
「カレーができるまで、すわっていて」
真治はうなずきながら、背中のリュックを足元におき、テーブルを前にした椅子に腰をおろした。
玲香はビニール袋を持ってキッチンに行くと、調理を始めた。
玉ねぎやニンジンを切る包丁の音が聞こえ、火で煮る音がし出した。やがて、カレー特有の香ばしい匂いがしてきた。
「できたの?」
玲香はうなずきながら、壁にかけられた皿のように丸い時計を見ている。
時計の針は午後七時を少し過ぎている。母親を待っているのだと真治が思った時、玄関のドアが開いた。
入ってきた女性は、真治を見て驚いている。真治はすぐに椅子から立ち上がった。
「お邪魔しています」
「お母さん、お帰りなさい」と、玲香が言った。
秋江は、真治の母親とは同じぐらいの年齢だろう。苦労をしているせいか、額のわきに生えている髪が数本白くなっている。だが、どんな困難にも立ち向かってきた者の強さが顔から感じられた。
「どちらさま?」
「同じ学校の同級生。竹内真治くん」
「すいません。こんな夜分に」
玲香はすぐに三人の男たちの中から真治が助けてくれた話をした。
「それは、ありがとうございました」
真治が照れている間に、玲香は皿に盛ったカレーを運び出した。秋江も手伝ってスプーンを並べ出し、コップをおいた。玲香は冷蔵庫からパック入りの牛乳を持ってきて、おかれたコップに牛乳を注いでいた。
準備が終わると、秋江の合図で一斉にカレーを食べ出した。
カレーを食べ出すと、真治は何も話をしなくなった。真治が思っていた以上に空腹でいたからだ。それに玲香のつくったカレーはものすごく美味しかったのだ。
秋江は、すぐに「もう寝かせてもらいますからね」と言って、家に入ってきた時と同じ衣服のままでソファに行くと横になっていた。そして、すぐに寝息をたて出した。
玲香はタンスの引き出しから毛布を取り出すと、秋江の上にかけていた。
「真治くん、ごめんなさい」
「いいよ。疲れているんだろう」
「何度かに分けて、睡眠時間をとるようにしているの」
「そうだね。できるだけ睡眠をとることは必要だよ。でも、ここは静かだね。他からなんの音も聞こえてこない。ここには静かな人たちばかりが住んでいるんだ」
「そうじゃないのよ」
「そうじゃない?」
「ここには、私たち以外誰も住んでいないのよ」
「じゃ、どの部屋を使ってもいい。使い放題だね」
「だめよ。そんな契約していないもの」
「他の部屋に誰かがいるかもしれないよ。怖くなることない?」
「誰?」
「幽霊さ」
「幽霊なんか怖くないわ」
「じゃ、何が怖いの」
「そうね。お金がないことかな。どんな場合よりも恐ろしい気がするわ」と言って、玲香は真治をみつめてきた。
「そうかもしれないね」
そろそろ、真治は帰るべき潮時だと思って椅子から立ち上がり、足元においたリュックを掴むと背負った。
「もう帰るよ。カレー美味しかった。ごちそうさま」
玲子は笑ってうなずいている。真治は軽く手をあげてから玄関ドアに近づき、ドアを開けて外へ出た。
思ったよりも明るく感じて、顔を空に向けると三日月が出ていた。今晩のことは昭に話さないでおいた方がいいかなと思った。後はできるだけ早く帰って母に言い訳をしなければならない。そう思うと、真治は冷たくなった夜の空気を吸って走り出していた。
江島玲香と名乗って自己紹介をした。だが、前の学校や住んでいた東京のことはまるで話をしない。何かを隠しているかのようだった。担任の遠藤先生も、もっと話をして欲しかったかもしれない。だが、遠藤先生はそのことにあえて触れない。すべき役割を早く終えなければと思っているように、玲香の席は、窓際で後ろから三つ目であることを告げた。さらに隣の席にすわっている竹内真治に今日一日、教科書を見せてあげるように言っていた。
授業が始まるたびに玲香は恥ずかしそうに一緒に持った本から顔をあげてつぶらな瞳を真治に向けてきた。真治はこんなに女の子に見られたことはないと思っていた。
真治はどのクラブにも入っていない。よく言われる帰宅部だ。それは大学受験に専念するためだ。両親も彼に大学に進学することを望んでいる。だが、自分でも頭がいいと思ってはいない。だから必死に勉強をするしかない。復習、予習を必ずやって、上の中くらいの成績だ。それを保持するために、水曜日にはテキストや文房具を入れたリュックを背負い塾に通っていた。
その帰りで、玲香がこの学校にきて三日目のことだった。
少し先を、玲香が歩いていた。すると三人の男たちが玲香に近づき囲い込むと住宅地の狭い路地に連れ込んでいく。すぐに真治は後をつけた。
三人の男たちは真治と同じくらいの年齢だった。育成高校と違って制服を着ていない。ラフな普段着で下は三人ともジーンズをはいていた。
「すいませんね。ここまで来てもらって」と、背の一番低い男が先陣を切るように言っていた。
「なんですか?」と、玲香は怯えた声を出した。
「お金を貸してください」
玲香の右に貼りついたニキビ面が玲香の腰にさげていたバッグから財布を取り出し、中を開けて見ている。
「後は小銭だけですか。でも三千円はある。ちょうど、三千円借りたいと思っていたんだ」
「困ります。貸すことができるお金はありません。そのお金で買い物をして行かなければならないんです」
「目の前に困っている人がいるなら、助けてあげるべきじゃないの」と、背の低い男がわけの分からないことを言い出していた。
「ぼくたちさ。貸してくださいと言っているだけなんだよ」
ニキビ面は声を大きくして、千円札三枚をつかみ出してヒラヒラさせている。三人の中で一番背の高い男は用心棒役なのか、玲香のそばにいる二人が広い通りから見えないように背中をこちらに向けていた。
「おい、何やっているんだ」
真治の声を聞いて、背の高い男は顔を向けた。その顔には、驚きの表情が浮かんでいる。
真治はずかずかと近づいて行った。だが、けっして体力に自信があるわけではない。もし体力に自信があるのなら、運動クラブで活躍をして大学への推薦入学を手に入れたいと思っているくらいだ。
真治の行く手をふさぐために背の高い男は真治の前に立った。真治は右手をすばやく出して男の脇腹を押していた。不意を突かれた男はバランス崩してよろけている。さらに真治は真っすぐに歩き、ニキビ面の手から千円札三枚をつかみ取ってズボンの右ポケットにねじ込んだ。次にサイフも取り上げ、同じズボンの左ポケットに押し込んだ。
「何をするんだ」と言って、ニキビ面は右手を突き出してきた。ストレートだ。真治は首を傾げてよけたつもりだが、失敗をしていた。拳は左頬にあたり、すぐに赤くはれ出した。
だが、真治はひるまない。何もなかったように、玲子に近づき、その手を掴んだ。
「さあ、行くよ」
真治は玲香も驚くような強さで引っ張って行く。その勢いに驚いている男たちをおいて、路地から二人は出てくることができた。男たちは追ってはこない。
どのくらい手をつないで住宅街を歩いていただろうか。
「あの、真治くん」と声をかけられた。真治は振り向いて、玲香と手をつないだままであることに気がついた。
「あっごめん」と、真治は手を離した。
「いえ、いいんです」
「そうだ。買い物をするために出てきたんだろう?」
真治はズボンの両方のポケットに手を入れて、三千円とサイフを取り出し、玲香に手渡した。
「はい、そうです。スターマーケットで」
「買い物につきあうよ。あいつら、玲香さんをまた狙って来るかもしれない。ともかく家まで送っていくよ」
「いえ、でも。真治くんの家の皆さん、遅くなったら心配するわ」
「じゃ、家に電話をしておくよ」
すぐに真治は胸ポケットからスマホを出すと自分の家に電話をかけ出した。
「昭の家によって、少し教えてもらってから帰るよ」
昭のフールネームは吉村昭だ。中学校の時にも同じクラスだったこともあって、何でも言える間柄だ。今夜のように彼の家にいたことにしてもらうこともできる。
母を安心させる電話ができたと思って電話を切り、真治はスマホを胸ポケットに戻した。
二人は宅地の道路から車が走っている南本通りに出た。その通りにある交差点を右に曲がると明るく光っている白い建物が見えてきた。
スターマーケットだ。
二十四時間営業。買い忘れた物でもここにくれば手に入れることができる。真治も何回か、母に言われてここに来たことがあった。
自動ドアを開けて、二人で店の中に入った。
「何を買うの?」
「たまねぎとニンジン、それにジャガイモ、後は牛肉も」
玲香は次から次へと買い物客用のバスケットの中に品物を入れていく。
「もしかしたら、カレーかい? きみがつくるの」
「そう、あたり」
「お母さん、昼間は、弁当の配達。午後は清掃会社。一度家に帰ってくるけど、午後の十時からピースランドに行って、深夜勤務をやっているわ」
「それは、すごいね。寝る暇がないみたいだ」
玲香の母親は信じられないくらい働いている。そして、玲香も普通の高校生とは言えない。母の代わりに主婦の仕事すべてをやっていた。だが、父親の話は出てこない。どうしているのか? それは聞かない方がいいように思えていた。
「だから、夕飯は美味しくて栄養がつくものを食べさせてあげたいの。だったら、カレーでしょう」
「そうだね。カレーがあれば、カレーうどんもつくれるし、カレーそばもできるよ」
「それなら手抜きでしょう」と、玲香は笑ってくれた。
スターマーケットからの帰り、真治は買った物を入れたビニール袋を持たせてもらった。
再び住宅地をとおり、やがて二人は西黒天商店街に入っていた。
この通りは商店街なのに、昼間でも人通りはない。まるで廃墟のような所だ。街を通っている道路はコンクリート舗装なのだが、海の上の波のようにデコボコができている。
こんな街になったのは、十五年前、西黒天商店街の下に地下鉄を通すためのトンネルが掘られたからだ。問題がないとされていたのだが、掘削工事を行うと地上の地面が陥没していった。やがて工事は中止になったが街の地盤はその時に壊れてしまった。
西黒天商店街の店は次々と閉めていったのだが、その中にあって藤井ビルは個人への部屋貸しを始めていた。
玲香の母、秋江は安い部屋を探していて、ここを見つけ借りることができた。
家賃は月九千円だった。
「ここよ。私のうちは」
玲香が指差した藤井ビルは三階建てで両隣の建物よりは高く突き出していた。
「大きい家だね」
「違うの。ここの一階の部屋を借りているだけ、アパートと同じよ」
「そうなんだ。じゃ」
真治は玲香を無事に送り届けて役目を終えたと思ったので、帰ろうとして片手をあげた。
「待って、真治くん」と言って呼び止められた。
「顔、怪我をしているわ」
「こんなの、たいしたことないよ」
「だめ、薬を塗らせて、それにお礼がしたいの」
「お礼?」
「カレーを急いで作るから、食べて行って欲しいの」
そう言われれば、真治の小腹は空いてきていた。
「そうだね。クラスの女の子の作る物なんか食べる機会はめったにないしね」
玲香はクスクスと笑い出し、玄関ドアに鍵を差し込んで開けた。
入った部屋は広かった。リビングルームとして使っているのだろうが、前は喫茶店の店内だったに違いない。カウンターがあって、その向こうにはキチン。部屋の真ん中にテーブル、それを囲むように椅子が四つ。壁際にはソファや戸棚、タンスがおかれていた。
真治が部屋の中を見廻している間に、玲香は戸棚から薬箱を出してきた。次に薬箱からガーゼと塗り薬を出し、真治の顔の赤くなった所に薬を塗ると、その上にガーゼをあて絆創膏でとめていた。
「これでいいわ」
「ありがとう」
「カレーができるまで、すわっていて」
真治はうなずきながら、背中のリュックを足元におき、テーブルを前にした椅子に腰をおろした。
玲香はビニール袋を持ってキッチンに行くと、調理を始めた。
玉ねぎやニンジンを切る包丁の音が聞こえ、火で煮る音がし出した。やがて、カレー特有の香ばしい匂いがしてきた。
「できたの?」
玲香はうなずきながら、壁にかけられた皿のように丸い時計を見ている。
時計の針は午後七時を少し過ぎている。母親を待っているのだと真治が思った時、玄関のドアが開いた。
入ってきた女性は、真治を見て驚いている。真治はすぐに椅子から立ち上がった。
「お邪魔しています」
「お母さん、お帰りなさい」と、玲香が言った。
秋江は、真治の母親とは同じぐらいの年齢だろう。苦労をしているせいか、額のわきに生えている髪が数本白くなっている。だが、どんな困難にも立ち向かってきた者の強さが顔から感じられた。
「どちらさま?」
「同じ学校の同級生。竹内真治くん」
「すいません。こんな夜分に」
玲香はすぐに三人の男たちの中から真治が助けてくれた話をした。
「それは、ありがとうございました」
真治が照れている間に、玲香は皿に盛ったカレーを運び出した。秋江も手伝ってスプーンを並べ出し、コップをおいた。玲香は冷蔵庫からパック入りの牛乳を持ってきて、おかれたコップに牛乳を注いでいた。
準備が終わると、秋江の合図で一斉にカレーを食べ出した。
カレーを食べ出すと、真治は何も話をしなくなった。真治が思っていた以上に空腹でいたからだ。それに玲香のつくったカレーはものすごく美味しかったのだ。
秋江は、すぐに「もう寝かせてもらいますからね」と言って、家に入ってきた時と同じ衣服のままでソファに行くと横になっていた。そして、すぐに寝息をたて出した。
玲香はタンスの引き出しから毛布を取り出すと、秋江の上にかけていた。
「真治くん、ごめんなさい」
「いいよ。疲れているんだろう」
「何度かに分けて、睡眠時間をとるようにしているの」
「そうだね。できるだけ睡眠をとることは必要だよ。でも、ここは静かだね。他からなんの音も聞こえてこない。ここには静かな人たちばかりが住んでいるんだ」
「そうじゃないのよ」
「そうじゃない?」
「ここには、私たち以外誰も住んでいないのよ」
「じゃ、どの部屋を使ってもいい。使い放題だね」
「だめよ。そんな契約していないもの」
「他の部屋に誰かがいるかもしれないよ。怖くなることない?」
「誰?」
「幽霊さ」
「幽霊なんか怖くないわ」
「じゃ、何が怖いの」
「そうね。お金がないことかな。どんな場合よりも恐ろしい気がするわ」と言って、玲香は真治をみつめてきた。
「そうかもしれないね」
そろそろ、真治は帰るべき潮時だと思って椅子から立ち上がり、足元においたリュックを掴むと背負った。
「もう帰るよ。カレー美味しかった。ごちそうさま」
玲子は笑ってうなずいている。真治は軽く手をあげてから玄関ドアに近づき、ドアを開けて外へ出た。
思ったよりも明るく感じて、顔を空に向けると三日月が出ていた。今晩のことは昭に話さないでおいた方がいいかなと思った。後はできるだけ早く帰って母に言い訳をしなければならない。そう思うと、真治は冷たくなった夜の空気を吸って走り出していた。
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