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第6章 中世 フランス
フランス王、ルイ・ド・ヴァロワ
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……そういうわけで、リーザは国王の寵姫になる契約を交わしたのだった。
彼女が王から贈られた特別に高価なアクセサリーを、王族のいる前で身にまとうような不躾なんて、一度もしたことがない。だから彼らは知らないはずだったのに、王女は見つけてしまった。
「その装身具に見覚えがあって?」
リーザは、王女の打ち下ろした刃のような問いを受け流してかわす。
「それは……、諸外国の要人をもてなすためにサロンの女主人を着飾るのも、フランス国家の体面を保つ大事なことなのです。政治工作にはどんな細かい要素も作用してきますので……、シャルロットさま」
答え終わると同時に、窓の外に閃光が突き抜ける。雷の音は、さっきよりずっと近い。
サファイアに対峙するリーザの暗褐色のまなざしは、流した刃をシャルロットに向けて構え直すよりも張り詰めた空気をまき散らした。
「その調書をご覧になったのは、王女さまがおいくつの頃なのでしょうか?」
「え……なぜ、いつ見つけたかなんて聞きたいの?」
「私が気がかりなのは、シャルロットさまが幼少のみぎりに見つけられて、お心を痛められたのではないかということにございます」
「ご心配には及ばないわ、リーザ。つい最近のことだから。王族は、十五にもなれば父にミストレスがいたのを知っても、ショックで泣いたりしませんもの」
シャルロットは立ち上がると、リーザの前を離れ、窓際に近寄った。
――反撃に出るのかと思ったわ、このわたくしに向けて。だけど、純真なふりを装っても無駄よ。わたくしは、父上を手練手管で言いくるめようとしたみたいに簡単にはいかなくてよ。
「ご存知かしら? 父上はあなたのことなんて何とも思っていないって……、そうジャン=ピエールにおっしゃっていたわ!」
ずっとずっと昔、確かに国王はジャン=ピエールにそう言っていた。もちろんシャルロットが聞いているべきではない、誰も知らないところで語られたはずなのだが。
リーザの瞳に光がさしたのは果たして涙……? それとも何かを決意した兆しだろうか。
「仰せの通り、……なのでございましょう。私の存在など、陛下には取るに足らないものだったということ、それでよろしいではございませんか」
奥ゆかしげに見つめ返し、あっさり王女の主張を認めてしまった。まるで何かが吹っ切れた、清すがしいほどの笑みを浮かべて。
愛妾を何とも思っていなかったというのは、下げ渡す際の国王の負け惜しみだった――そう聞こえなくもない。愛情は注がれていた。……と信じることができた。だが彼がリーザを誰よりも愛していたのかどうかについては、……その答えをリーザはずっと捜さないようにしてきた。なぜならたぶんNon(ノン)だから。ジェレミー・ルイ・ド・ヴァロワは、絶対に誰もカテリーヌ王妃以上に愛することはなかった。……認めたくないけれど。
「いいえ、わたくしはそんなことより、もっと別の話をしようと思っていたの……」
今まで自信に満ちていた王女の攻撃は、とまどいを見せ始める。
――だめ、ミストレスごときが厭わず受け入れた素直さなんかに、気圧されるわけにはいかない。わたくしは王女なのだから。
そもそもこんなところまでわざわざ訪ねてきたのは、高価な贈り物を国王が寵姫に与えたかどうかを確かめるためなどではないのだから。
窓の外……摩天楼からの眺めは、どこか別の異なる世界にいるように非現実的な、土と岩の大地で満ちていた。遠くにあった黒雲は、どんどん広がってきている。
――受けてごらんなさい! 最後の、一撃っ!
不意に強風が窓を押し開けた。
その音で、謁見室の扉から公太子たちが飛び込んでくる。王女の目には確かにそれを捉えていた。けれど言葉は――放たれてしまった。
「……ジョゼフ・グザビエ・ドルレアンは誰の子供か……、あの子の父親は、国王なのかどうかが知りたかったの」
――言ってしまった、とうとう……。
身内ではないギヨームには聞かせたくなかった。立場をわきまえてか、この場にいないふりをして彼は扉の側に佇んでいてくれたが。
ジャン=ピエールとリーザの間には三人の子供がいる。その長子は七歳になるグザビエだ。
「グザビエの父親は、ジャン=ピエールです、殿下」
口調も静かなままで、リーザは王女の一振りを真っ向から受け止めた。すかさずジャン=ピエールがつけ加える。
「そうだよシャルロット。君が五歳の時のこと……覚えてるだろう? リーザが陛下のもとを下がり、オルレアン家に嫁いだのは十年前、ジョゼフ・グザビエが生まれたのは、その後一年半以上過ぎてからだ」
確かにそれは事実だった。
ならば国王の妾でなくなってから、リーザがルイ・ド・ヴァロワに会ったことがあるのか……。彼女の夫が王の従兄弟にあたるため、どうしても妻の同伴を避けられない機会が生じてくる。だから答えはOui(ウイ)。しかし彼女が、はたして情愛を受け続けたのかについては、どう見てもNon(ノン)だ。なぜならあの誇り高きルイ王が、誰か他の男とミストレスを共有するはずなど、絶対にありえないからである。
「それでは、下賜されたのは、彼女が身ごもったからではないの……?」
急に、重い鎖がきしむような音が近くで聞こえた。シャルロットはぎくりとするが、部屋の隅の昇降機の音だと気づく。人が乗れる大きさではないそれは、ガタンと響いて止まった。
もしかしたらこの機械を使って、階下から武器でも上げさせたのでは? そんな風にシャルロットが考えていると、ジャン=ピエールが割って入った。
「あ、リーザのことは、……あのねシャルロット、国王から下げ渡されたってわけじゃないんだ、実は……」
「そこまでだ。ジャン=ピエール!」
突然……両開きの扉が開けられ、風と共に謁見の間に入ってきたのは――フランス国王その人だった。
「父上!」
みるみるうちにシャルロットの顔に輝きが広がった。
「スイート・ハート」
王が両腕を広げたと同時に、激しい稲光が天を切り裂いた。
腕とともに肩のマントが広げられ、飛び込んできたか細い王女を包み込む。シャルロットはまるで、大きな黒い鳥の翼にでも閉じ込められたように、すっぽりと覆い隠されてしまった。
ジェレミー・ダヴィード・ルイ・ド・ヴァロワ……。フランス国軍の真紅の軍服に、白いトラウザースと膝までの長いブーツ……。金糸で縁取られた立て襟と胸元にはびっしりと刺繍がほどこされ、徽章の数々は、元帥を始めあらゆる階級が並んでいる。神々しいまでにすらりと背の高い姿は、皆を圧倒した。身につけている服装は、徽章の数を除けば二人の公太子も似たようなものなのだが、その立ち居振る舞いから与えられる品格や威風は、他の誰ともまったく異なっていた。
「ジャン=ピエールが言っていたのは……」
国王は腕からシャルロットを離すと、二人並んで椅子に腰掛け、リーザとジャン=ピエールに向き合った。
窓の外には空中を横切る黒い小型の飛竜……、いやガルグイユだ。
国王をここまで案内してきたのだろうか、モン=サン=ミシェルから飛び立ったあのグロテスクな怪物に違いない。急に暗くなった外では、大粒の雨が降り始めていた。
ガルグイユにつき従われているせいか、フランス王というより魔の国の王のごとき脅威を帯びた空気が、辺りを取り巻いている。
国王付きの護衛が、昇降機を開けたリーザから布を受け取り、王の外套の雫を拭う。
「……つまりリーザがあの時、余のもとを去ったのは、身の危険が迫っていたからだ」
「危険……ですって?」
「やはり今回のフランドル訪問は、最後の後始末が関係しているのですね?」
「……いや」
王は声の主ジャン=ピエールの上で視線を留めた。
今の返事、否定の前の一瞬の沈黙は、つまりその逆――肯定を意味していると考えて間違いない。
「父上、何があったのですか? 十年前に」
「あの当時フランスは、欧州諸国に密使を送ると同時に、在仏の外国の外交官たちを招いて機密を探る必要があった。特にとある国に対して……」
◇ ◇ ◇
――十年前、とある国の君主は宰相と密談の最中だった。
「……なに! ルイはレイラに興味を示さぬと?」
「さようにございます。仏王はリーザとやらいう愛人をいつも傍に……」
「ぅむむ……やむを得ん、その女を排除せよ」
「レイラにやらせるので?」
「たわけ! 間者を雇うに決まっておろうが。いずれ愛人にさせる予定の女に、危ない橋を渡らせるわけがないことぐらいわからぬのか。ついでに罪は……、そうだな、ブルゴーニュ公国にでも擦りつけておけ。今年から羊毛の買い取り価格を値下げしおったその罰じゃ」
「おお、それは良きお考えで、勘違いしたフランスが、勝手にブルゴーニュに戦を仕掛けてくれるやもしれませぬな。ふっふっふっ」
羊毛の産地でもある豊かなフランドル地方を手に入れんと、近隣諸国は十四世紀ごろからブルゴーニュに攻撃を繰り返していた。自らの手を汚さずにフランスに攻めさせることができれば、一石二鳥である。
「しかし陛下、スビズ宮のサロンには、ルイも度々、仮面をまとって姿を忍ばせているという噂が……」
「仮面などつけておっても明らかではないか、あの男の外観は。……ったく、我が国より絶対的な権力を行使しているとは小賢しい王室じゃ」
けれどその目論見は失敗に終わる。密使を送った事実が発覚し自らの立場も危うくなったその国は、さらなる謀を企んできた。
◇ ◇ ◇
「……だから刺客の手から、リーザを救った」
突然口を挟んだのはジャン=ピエールだ。彼は一歩前に進み出る。
「……僕がね」
「余は彼女の命がこれ以上危険にさらされることを懸念して、サロンを女官長のアニエスに引き継がせ、リーザを公妾の座から降ろすことにした」
雨はますます激しくなり、雷鳴は閃光を追いかけて迫る。
扉の外から呼びかけた執事が深ぶかと一礼し、ドルレアン夫妻に向け食堂へ続く階段のほうに手を示した。
「陛下、どうやらお食事の用意が整ったようにございます」
「それは妙案だな、リーザ」
国王ジェレミー・D・ルイ・ド・ヴァロワは、柔らかなまなざしで彼女に微笑んだ。
父とリーザ、二人の間に流れる空気に、シャルロットはどこかもの悲しさを感じていた。この女性とわたくしには、何か共通点があるのかもしれない……と。
国王は流麗な仕草で手を差し出す。その相手――シャルロットは雅やかに父の腕に手を添え、ゆったりと螺旋階段をのぼり始めた。謁見の間の上階に設けられた正餐の間は、この建物の最上階、つまり摩天楼の最も高いところにある。壁には窓がたくさん取られており、いくつも連なるアーチ型の窓枠から伸びた梁が、交差して高い天井を支えている。まるで竜の背骨のようだ。
「きゃ……!」
階段を上がった途端、突然の大きな落雷に驚いたシャルロットは、息をのんで声を抑えた悲鳴とともに父の腕にしがみつく。
とどまるところを知らない豪雨のせいで外の薄暗さは厚みを増したが、まだ午後にさしかかったばかりだった。風がうなり声を上げている。
食事はそんな時にこんな人里離れたところにいる不安を取り去り、長い道のりの疲れに癒しを与えた。
「それで、フランドル訪問はいかがでした? 神聖ローマ皇帝の孫、カルロス一世とのおつきあいですから、王妃さまもずいぶん気苦労が絶えなかったでしょう。アンボワーズのお城で、休養中ですか?」
「そうだ。もともとノルマンディーに王妃を連れて来る予定はなかった。シャルロットの正式な婚約の儀式は主の降誕祭ごろをめどにパリの大聖堂で行なわれるから、そこでギヨームの両親と顔を合わせればよい」
したがってカテリーヌ妃はノルマンディーに立ち寄らず、ブルゴーニュから直接ロワール河畔の城に帰った。そしてジャン=ピエールの予想通り、今回の国王の訪問は、神聖ローマ皇帝の座をめぐって、スペイン王カルロス一世を牽制しようという意図があったことも事実だった。
やがて国王が食事を終え傍の手袋を手に取ると、正餐は締めくくられた。
その時だった。
ガシャンと大きな音をさせて、天井近くの窓ガラスが割れる。次の瞬間吹き込んできた一陣の風が、シャンデリアの明かりを吹き消した。
彼女が王から贈られた特別に高価なアクセサリーを、王族のいる前で身にまとうような不躾なんて、一度もしたことがない。だから彼らは知らないはずだったのに、王女は見つけてしまった。
「その装身具に見覚えがあって?」
リーザは、王女の打ち下ろした刃のような問いを受け流してかわす。
「それは……、諸外国の要人をもてなすためにサロンの女主人を着飾るのも、フランス国家の体面を保つ大事なことなのです。政治工作にはどんな細かい要素も作用してきますので……、シャルロットさま」
答え終わると同時に、窓の外に閃光が突き抜ける。雷の音は、さっきよりずっと近い。
サファイアに対峙するリーザの暗褐色のまなざしは、流した刃をシャルロットに向けて構え直すよりも張り詰めた空気をまき散らした。
「その調書をご覧になったのは、王女さまがおいくつの頃なのでしょうか?」
「え……なぜ、いつ見つけたかなんて聞きたいの?」
「私が気がかりなのは、シャルロットさまが幼少のみぎりに見つけられて、お心を痛められたのではないかということにございます」
「ご心配には及ばないわ、リーザ。つい最近のことだから。王族は、十五にもなれば父にミストレスがいたのを知っても、ショックで泣いたりしませんもの」
シャルロットは立ち上がると、リーザの前を離れ、窓際に近寄った。
――反撃に出るのかと思ったわ、このわたくしに向けて。だけど、純真なふりを装っても無駄よ。わたくしは、父上を手練手管で言いくるめようとしたみたいに簡単にはいかなくてよ。
「ご存知かしら? 父上はあなたのことなんて何とも思っていないって……、そうジャン=ピエールにおっしゃっていたわ!」
ずっとずっと昔、確かに国王はジャン=ピエールにそう言っていた。もちろんシャルロットが聞いているべきではない、誰も知らないところで語られたはずなのだが。
リーザの瞳に光がさしたのは果たして涙……? それとも何かを決意した兆しだろうか。
「仰せの通り、……なのでございましょう。私の存在など、陛下には取るに足らないものだったということ、それでよろしいではございませんか」
奥ゆかしげに見つめ返し、あっさり王女の主張を認めてしまった。まるで何かが吹っ切れた、清すがしいほどの笑みを浮かべて。
愛妾を何とも思っていなかったというのは、下げ渡す際の国王の負け惜しみだった――そう聞こえなくもない。愛情は注がれていた。……と信じることができた。だが彼がリーザを誰よりも愛していたのかどうかについては、……その答えをリーザはずっと捜さないようにしてきた。なぜならたぶんNon(ノン)だから。ジェレミー・ルイ・ド・ヴァロワは、絶対に誰もカテリーヌ王妃以上に愛することはなかった。……認めたくないけれど。
「いいえ、わたくしはそんなことより、もっと別の話をしようと思っていたの……」
今まで自信に満ちていた王女の攻撃は、とまどいを見せ始める。
――だめ、ミストレスごときが厭わず受け入れた素直さなんかに、気圧されるわけにはいかない。わたくしは王女なのだから。
そもそもこんなところまでわざわざ訪ねてきたのは、高価な贈り物を国王が寵姫に与えたかどうかを確かめるためなどではないのだから。
窓の外……摩天楼からの眺めは、どこか別の異なる世界にいるように非現実的な、土と岩の大地で満ちていた。遠くにあった黒雲は、どんどん広がってきている。
――受けてごらんなさい! 最後の、一撃っ!
不意に強風が窓を押し開けた。
その音で、謁見室の扉から公太子たちが飛び込んでくる。王女の目には確かにそれを捉えていた。けれど言葉は――放たれてしまった。
「……ジョゼフ・グザビエ・ドルレアンは誰の子供か……、あの子の父親は、国王なのかどうかが知りたかったの」
――言ってしまった、とうとう……。
身内ではないギヨームには聞かせたくなかった。立場をわきまえてか、この場にいないふりをして彼は扉の側に佇んでいてくれたが。
ジャン=ピエールとリーザの間には三人の子供がいる。その長子は七歳になるグザビエだ。
「グザビエの父親は、ジャン=ピエールです、殿下」
口調も静かなままで、リーザは王女の一振りを真っ向から受け止めた。すかさずジャン=ピエールがつけ加える。
「そうだよシャルロット。君が五歳の時のこと……覚えてるだろう? リーザが陛下のもとを下がり、オルレアン家に嫁いだのは十年前、ジョゼフ・グザビエが生まれたのは、その後一年半以上過ぎてからだ」
確かにそれは事実だった。
ならば国王の妾でなくなってから、リーザがルイ・ド・ヴァロワに会ったことがあるのか……。彼女の夫が王の従兄弟にあたるため、どうしても妻の同伴を避けられない機会が生じてくる。だから答えはOui(ウイ)。しかし彼女が、はたして情愛を受け続けたのかについては、どう見てもNon(ノン)だ。なぜならあの誇り高きルイ王が、誰か他の男とミストレスを共有するはずなど、絶対にありえないからである。
「それでは、下賜されたのは、彼女が身ごもったからではないの……?」
急に、重い鎖がきしむような音が近くで聞こえた。シャルロットはぎくりとするが、部屋の隅の昇降機の音だと気づく。人が乗れる大きさではないそれは、ガタンと響いて止まった。
もしかしたらこの機械を使って、階下から武器でも上げさせたのでは? そんな風にシャルロットが考えていると、ジャン=ピエールが割って入った。
「あ、リーザのことは、……あのねシャルロット、国王から下げ渡されたってわけじゃないんだ、実は……」
「そこまでだ。ジャン=ピエール!」
突然……両開きの扉が開けられ、風と共に謁見の間に入ってきたのは――フランス国王その人だった。
「父上!」
みるみるうちにシャルロットの顔に輝きが広がった。
「スイート・ハート」
王が両腕を広げたと同時に、激しい稲光が天を切り裂いた。
腕とともに肩のマントが広げられ、飛び込んできたか細い王女を包み込む。シャルロットはまるで、大きな黒い鳥の翼にでも閉じ込められたように、すっぽりと覆い隠されてしまった。
ジェレミー・ダヴィード・ルイ・ド・ヴァロワ……。フランス国軍の真紅の軍服に、白いトラウザースと膝までの長いブーツ……。金糸で縁取られた立て襟と胸元にはびっしりと刺繍がほどこされ、徽章の数々は、元帥を始めあらゆる階級が並んでいる。神々しいまでにすらりと背の高い姿は、皆を圧倒した。身につけている服装は、徽章の数を除けば二人の公太子も似たようなものなのだが、その立ち居振る舞いから与えられる品格や威風は、他の誰ともまったく異なっていた。
「ジャン=ピエールが言っていたのは……」
国王は腕からシャルロットを離すと、二人並んで椅子に腰掛け、リーザとジャン=ピエールに向き合った。
窓の外には空中を横切る黒い小型の飛竜……、いやガルグイユだ。
国王をここまで案内してきたのだろうか、モン=サン=ミシェルから飛び立ったあのグロテスクな怪物に違いない。急に暗くなった外では、大粒の雨が降り始めていた。
ガルグイユにつき従われているせいか、フランス王というより魔の国の王のごとき脅威を帯びた空気が、辺りを取り巻いている。
国王付きの護衛が、昇降機を開けたリーザから布を受け取り、王の外套の雫を拭う。
「……つまりリーザがあの時、余のもとを去ったのは、身の危険が迫っていたからだ」
「危険……ですって?」
「やはり今回のフランドル訪問は、最後の後始末が関係しているのですね?」
「……いや」
王は声の主ジャン=ピエールの上で視線を留めた。
今の返事、否定の前の一瞬の沈黙は、つまりその逆――肯定を意味していると考えて間違いない。
「父上、何があったのですか? 十年前に」
「あの当時フランスは、欧州諸国に密使を送ると同時に、在仏の外国の外交官たちを招いて機密を探る必要があった。特にとある国に対して……」
◇ ◇ ◇
――十年前、とある国の君主は宰相と密談の最中だった。
「……なに! ルイはレイラに興味を示さぬと?」
「さようにございます。仏王はリーザとやらいう愛人をいつも傍に……」
「ぅむむ……やむを得ん、その女を排除せよ」
「レイラにやらせるので?」
「たわけ! 間者を雇うに決まっておろうが。いずれ愛人にさせる予定の女に、危ない橋を渡らせるわけがないことぐらいわからぬのか。ついでに罪は……、そうだな、ブルゴーニュ公国にでも擦りつけておけ。今年から羊毛の買い取り価格を値下げしおったその罰じゃ」
「おお、それは良きお考えで、勘違いしたフランスが、勝手にブルゴーニュに戦を仕掛けてくれるやもしれませぬな。ふっふっふっ」
羊毛の産地でもある豊かなフランドル地方を手に入れんと、近隣諸国は十四世紀ごろからブルゴーニュに攻撃を繰り返していた。自らの手を汚さずにフランスに攻めさせることができれば、一石二鳥である。
「しかし陛下、スビズ宮のサロンには、ルイも度々、仮面をまとって姿を忍ばせているという噂が……」
「仮面などつけておっても明らかではないか、あの男の外観は。……ったく、我が国より絶対的な権力を行使しているとは小賢しい王室じゃ」
けれどその目論見は失敗に終わる。密使を送った事実が発覚し自らの立場も危うくなったその国は、さらなる謀を企んできた。
◇ ◇ ◇
「……だから刺客の手から、リーザを救った」
突然口を挟んだのはジャン=ピエールだ。彼は一歩前に進み出る。
「……僕がね」
「余は彼女の命がこれ以上危険にさらされることを懸念して、サロンを女官長のアニエスに引き継がせ、リーザを公妾の座から降ろすことにした」
雨はますます激しくなり、雷鳴は閃光を追いかけて迫る。
扉の外から呼びかけた執事が深ぶかと一礼し、ドルレアン夫妻に向け食堂へ続く階段のほうに手を示した。
「陛下、どうやらお食事の用意が整ったようにございます」
「それは妙案だな、リーザ」
国王ジェレミー・D・ルイ・ド・ヴァロワは、柔らかなまなざしで彼女に微笑んだ。
父とリーザ、二人の間に流れる空気に、シャルロットはどこかもの悲しさを感じていた。この女性とわたくしには、何か共通点があるのかもしれない……と。
国王は流麗な仕草で手を差し出す。その相手――シャルロットは雅やかに父の腕に手を添え、ゆったりと螺旋階段をのぼり始めた。謁見の間の上階に設けられた正餐の間は、この建物の最上階、つまり摩天楼の最も高いところにある。壁には窓がたくさん取られており、いくつも連なるアーチ型の窓枠から伸びた梁が、交差して高い天井を支えている。まるで竜の背骨のようだ。
「きゃ……!」
階段を上がった途端、突然の大きな落雷に驚いたシャルロットは、息をのんで声を抑えた悲鳴とともに父の腕にしがみつく。
とどまるところを知らない豪雨のせいで外の薄暗さは厚みを増したが、まだ午後にさしかかったばかりだった。風がうなり声を上げている。
食事はそんな時にこんな人里離れたところにいる不安を取り去り、長い道のりの疲れに癒しを与えた。
「それで、フランドル訪問はいかがでした? 神聖ローマ皇帝の孫、カルロス一世とのおつきあいですから、王妃さまもずいぶん気苦労が絶えなかったでしょう。アンボワーズのお城で、休養中ですか?」
「そうだ。もともとノルマンディーに王妃を連れて来る予定はなかった。シャルロットの正式な婚約の儀式は主の降誕祭ごろをめどにパリの大聖堂で行なわれるから、そこでギヨームの両親と顔を合わせればよい」
したがってカテリーヌ妃はノルマンディーに立ち寄らず、ブルゴーニュから直接ロワール河畔の城に帰った。そしてジャン=ピエールの予想通り、今回の国王の訪問は、神聖ローマ皇帝の座をめぐって、スペイン王カルロス一世を牽制しようという意図があったことも事実だった。
やがて国王が食事を終え傍の手袋を手に取ると、正餐は締めくくられた。
その時だった。
ガシャンと大きな音をさせて、天井近くの窓ガラスが割れる。次の瞬間吹き込んできた一陣の風が、シャンデリアの明かりを吹き消した。
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