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第5章 ニューヨーク
ロングアイランド・ニューヨーク
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ロングアイランドのナッソー地区には、ユベール・ラングロワの邸宅があった。
彼がニューヨークに来た時滞在するための住まいだ。ユベールはこのような家を世界中にいくつも持っていた。
別荘にはヨットもあり、ジャン=ピエールはボスからいつでも使っていいと許可されている。ユベールのボーイフレンドに違いないと噂の種にされそうなので、屋敷の方には人が多勢集まる時以外はあまり近付かないようにしていたが、この日は、リサをディンギーでのセイリングに招待していた。
別荘にはヨットもあり、ジャン=ピエールはボスからいつでも使っていいと許可されている。この日は、リサをディンギーでのセイリングに招待していた。
緑が多く広々としたニューヨーク州ロングアイランドは、マンハッタンから南東へ車で一時間とは思えないくらい、全く違う雰囲気の場所だった。ビル群に照り返す光でまぶしいシティ(ニューヨーク)の中心とは違って、ここでは植物の色が濃く見えるような気がする。時おりそよいでくる風は、かすかに潮の香りがした。
彼は手際よくディンギーの装備を一人でこなし、セイルを上げると、港を出る前にハーバー事務所に出港の届け出を済ませた。
ジブシートを引き、少し緩ませてシバーした状態のままにする。
「僕が、メインシートをコントロールするから、『引いて』って言ったら、ジブに風がパタパタしなくなるまでこのロープを引っぱってくれる?」
オックスフォード大学のヨット部にいたという彼は、てきぱきと操舵する。
今日はラフにみせかけてこだわりのある服装で、ブラックジーンズに生成りのリネンシャツ、その上にコットンのチルデンセーターを羽織っていた。
こういうアイビー・ファッションにはチノパンツを合わせるのが定番なのだが、プロのコーディネーターである彼には、とにかくブラックジーンズが上品に映え、ミスマッチなところさえとてもよく似合っている。もっともオックスフォード大学の設立は十二世紀と古く、アイビーの語源となったアメリカのエリート大学は十七世紀に創立されたばかりだから、この英国の大学から受け継いだスタイルも、ジャン=ピエールの場合は、たぶんアイビーでなくプレッピー・ファッションと呼ぶべきなのだろう。
エンジンの無い小さな三人乗りのセイリング・ディンギーだから、こんな穏やかな日には操舵は一人でも充分に可能だった。
ジブシートに風をはらませた後、ロープの結び方がわからないリサに代わって、彼は鮮やかな手つきで輪を作り、ボーライン・ノットに結んでみせた。
「キング・オブ・ノットとも呼ばれている、どんなに強く引いても解けない結び方だよ。だけどほどきたい時には、こうすれば簡単に解ける。ほら」
あまりにも集中して彼の手元を見つめていると、彼は芝居がかった口調で言う。
「ゼウスが命じた使命を果たすため、我はこの荒涼たる地についに来たれり。凶漢プロメテウスを、あの岩山に縛りつけるのだ」
縄がリサの目の前に突き出された。
――わ……、わたしがロープを?
「……っ、テニスンの一節かしら」
「ふっ、ギリシャ神話。ていうか単なる冗談だから、そんなに身構えなくていいよ」
彼は屈託のない笑いを見せる。
「ヨットに乗るのは久しぶり?」
「う……ん、父の友人の船に、乗せてもらったことがあるくらい……? でもエンジン付きのクルーザーだったから、こんなに静かじゃなかった」
「へえ、やっぱり、君っていいとこのお嬢さんなんだ」
「大学でヨット部にいた人に、言われたくないわ」
「僕はたぶん、君よりずっと経済的に苦労してるよ。一人暮らしを始めたころだって、飲み水のペットボトルを買わないで、ローリングカート持って近くの公園へ水汲みに行ってた。十六区に、ミネラル分を多く含む飲料水が出る蛇口があったんだ。節約のためにやってるんじゃなくて、健康のために汲みにきてるんだって振りを装ったりして……」
「十六区って、パリの?」
「そう、パリの」
「ふうん……十六区のコゼットは、そんなにミゼラブルな暮らしじゃなかったのね」
二人は目が合うと同時に、クスクス笑い出した。
高級住宅街と言われる地区に住んでいたのなら、彼の経済的苦労というのもたかが知れている。せいぜい屋根裏に住んでいたとか、階段がすり減っていて注意して昇らないと転びそうになるとか、その程度だろう。どんなに古い建物で老いた共用部でも、十六区の個人居住部分は、たいてい驚くほど豪華に改装されているのだから。建物内で行き交う際も、住民はいつも上品に接してくれる。ジャン=ピエールの両親としては、たとえおんぼろ屋根裏住まいだろうと、息子が安全な環境で暮らしてくれたほうが安心できるに違いない。
「わたしだって、何の悩みもないわけじゃない……。父が甘やかそうとするからお金の苦労はしてないけど、頭のいい人のそばにいると、自分がつまらない人間に思えてくる時もあって……」
「リサだって『頭がいい人』だと思うけど」
「何でもできる人と働いてると、たまに自分がほんとに無力だって感じるの。わたしはただの学生だから、当然なんだけど……」
「いや、比べる相手が良くないだけだと思う」
ジャン=ピエールは、なぜだか今日に限って、ジェレミーの話をするたびに彼女が淋しそうな表情を見せるのに気がついた。
「この間ね、コロンビア大学のキャンパスに行って、図書館のまわり一面に広がる芝生とそこに生えてるクローバー見た時、『もしかしたら四つ葉のクローバーが見つかるかもしれない』って思ったの。でも本当に探したいわけじゃないんだけど」
あの時は、リサがニューヨークに来て初めて、ジェレミーとは関係ないことで幸せを感じた――特別な思い出だ。
「ふふっ、わかる?」
急に話題を変えてきたリサを、「なんかあったのかな?」とジャン=ピエールは訝しむ。
「……ん、僕も時々行くんだ、あのキャンパス」
「そうなの? ……でしばらく芝生に座ってクローバーを撫でながら空を見上げてたら、わたしだって頑張ればきっとできるんだって思えてきて……、本当にそれだけのことなのになんだか嬉しくなっちゃった」
「わかるよ」
それっきり二人は、どちらからともなく話さなくなる。コニーアイランドを過ぎ、やがて海岸は砂浜に変わり、ヨットはミドルベイを通り過ぎた。湾を抜けたその先に広がるのは、大西洋だ。
行き交う船も次第に途絶え、時おりカモメが飛んでいるだけで、視界には碧い海と青空以外ほとんど何もない。傾いた船体にバランスをとって座るのに慣れてくると、自然の波の揺れは、リサにも心地よいものに感じられるようになってきた。
ディンギーが沖に出た後も、二人は言葉を交わさないままただ海を眺めて風に吹かれていた。けれど彼は、これ以上耐え難く思えてきた。そう、リサの心をいたわって黙っていることにだ。思い切って、聞くべきなのだろうか。
「なんか言われたの? 子供が生まれても出生証明書にはちゃんとサインしてあげるよとか……」
――なん……ですって!?
「そういうこと言いそうだよね、あの人なら」
驚いた顔が凍りつき……、リサは何も答えられなかった。
でもいきなりこういうことを言い出すのは、確かにこの人らしい。
――けれど本当は、そう……言われたかったのかもしれない。
日本だったら、妻以外の女性との子供を認知したら父親の戸籍に載るから、愛人との子供がいることを、いずれ妻子に知られてしまう。でもアメリカには、家族全員が載っている戸籍というものが存在しない。だから出生証明書に彼が署名すれば、妻子に内緒で庶子の経済サポートができてしまうのだ。
自分が将来そういう立場になりたかったと言い切ることはできないけれど、あの人にとって特別な存在でありたかった。
――でも、ジェレミーがわたしに伝えたかったのは……。
「たぶん……その逆……だと思う」
ジャン=ピエールはすぐには答えず、メインシートを半分下ろして風の様子をチェックする。そして帆を緩め、気流を受けずに流れるようにした。こうすれば船体は、ほぼその位置に止まっていられるのだ。
まわりには、他の船はどこにも見当たらなかった。
――聞こえるのは波の音とカモメの鳴き声だけ……、ここでわたしが大声を上げてもきっと誰にも届かない。
彼は暖かさを増したハーフデッキの上に座り、着ていたセーターを脱いだ。リサを振り返って隣に来るよう手招きをする。リネンシャツやジーンズの上からでも、ほっそりした牡鹿のような若々しい筋肉は、動きに合わせて美しくしなりを帯びていた。
「あ……の……、ヨットは放っておいていいの?」
「大丈夫、今は風を受けないようにしてあるから、しばらく動かないよ」
彼はリサを見つめて、もう一度「おいでよ」と言った。
「……」
セイリングに誘われた時から、彼がそう言うだろうと予感していた。
今ジャン=ピエールのそばに行けば、もう引き返せない。でもここでこの人を振り切ってジェレミーにすがったとしたら、少しは相手をしてくれるの……だろうか。もしジャン=ピエールを選んだら、自分の気持ちをあの人に伝えることは、二度とかなわなくなってしまう。
――決めなくては、わたしの意思で!
ほんの一瞬、「その男は、私より優れた人間なのか」と問いかけるジェレミーの声が、聞こえたような気がした。彼より優れているかどうかはわからないが、ジェレミーに対抗できそうな人は、彼女の人生にこの人をおいてもう二度と現れないだろう。リサはそう直感した。
――ジャン=ピエールは一度だってあの人を怖がったことはない。もし今ここで応えなかったら、おそらく一生ずっと後悔する。
たとえお願いしてもジェレミーがわたしを愛してくれる保障なんて、どこにもない。
とまどいを覚えたけれど、いつもは大人びた振る舞いを見せるジャンピエールが、今日は何だか少年っぽい目で訴えかけてくるから、リサの心をよりいっそう捕らえて離さない。
彼女はしっかりと、足を一歩踏み出した。
デッキの上はでこぼこしていたが、彼は、バランスを取りながら近づいて来たリサを背後から捕らえる。
「ぁん、……真剣なの?」
リサの唇から漏れた甘い声……。ジャン=ピエールは、こんな扇情的で麗しい響きを今まで聞いたことが無かった。
――暖かい……腕。
肩の上から、彼の腕のぬくもりがリサを包み込む。彼女は首を傾げて、斜め後ろを見上げた。
「僕は、君に出会った時から決めてた。いつか必ず自分のものにしてみせるって……」
「でも、わたしは……」
彼女は、ジャン=ピエールの腕に被われながら、その上から自分の手を重ねた。
「もしかしたら、あの人がわたしに興味を抱いてると思って……それでなの? そういう理由で、あなたも好奇心を持っただけなの?」
「ジェレミーが、君を自分のものにしたがっていたから……ってこと? もちろん一番大きな理由は、君が僕の好みにぴったりの女性だから! でも、あのルイス社長が欲するものって、すごく価値があって魅力的に見えるのも事実だよ。あの人から大切な宝物を奪い取ることに、僕は誇りを感じてる」
ヨットが波に揺れる……。その振動が伝わってくる。
「それに君は……、妻帯者を惑わす悪女なんかじゃなくて、とても誠実な女の子だ。あと……、これだけは忘れないで。他の誰も、あの人を恐れて君に近づけないでいたかもしれないけど、僕は違ってたってこと!」
彼女はニューヨークに来てからずっと、独りぼっちだった。
ジェレミーには家族や信頼できる部下や、自分のものがたくさんあるのに、リサのほうはいずれ自分の家族から自立するべき立場でしかない……。
ジャン=ピエールはきっと、ジェレミーとは異なる種類の幸福を与えてくれる。太陽が大地を抱くみたいに、互いに全てを与え、相手の全部を受け入れるが如く。
いかにも「正義の力」の持つ正当性が魔力を打ち負かすようで、彼女はそれに、強く心を動かされた。
「あ……」
彼はリサの顎をとらえ唇にキスを落とす。
柔らかく……食むだけの口づけ……。
しばらくすると、角度を変えて彼女をついばみ始めた。まるで、透明な誠実さを表わしているようだ。だが途中でそれを裏切るように、彼女のうなじを撫でたジャン=ピエールの指先は、艶かしくリサを惑わせる。終わりの部分でゆっくり顔を離していく彼に、吸い寄せられるように自分の唇が少しつられていったのには、彼女自身も驚いていた。
「慎ましやかに見えるけど、冒涜されるのを誘っているようだね」
――わ……たしが、そうしたの? それとも、あなたがそうさせたの?
「もちろん褒めてるんだよ。相手を刺激するのは、とても大切なことだから」
「わたし、別にそんなつもり……」
そんなつもりはなくても、相手にそう思わせてしまう……、リサはそういう性質を持っていた。だから彼女が気品を保ち、男の欲望の餌食にならないでいるためには、他の者たちを寄せ付けないほど価値ある男性に守られていなければならない。
――今まではジェレミーだったかもしれないけど、これからは……、
「僕の腕の中で、ゆっくり心を休めていいよ。これからは、リサに振りかかる全てのトラブルから、僕が守る」
ぴったりと彼の肩に頭を乗せていると、ディンギーの揺れがジャン=ピエールを通して伝わってきて、リサをとても心地よく幸せに満たしてくれた。
「君を誰にも渡したくない、絶対に! そのままでいてくれればいい。僕は君の才能の前にひれ伏すのを恐れないし、置いて行かないで欲しい時には、ちゃんとお願いする勇気がある」
――言われてみるまでわからなかった。誰かに寄りかかってもいいって告げられるのを、これほど求めていたなんて。
宝石のようにきらめく海に目を細め、ゆったりと揺れる心地よい彼の肩と広大な海に身を預けるのは、こんなにも心が癒されることだった。
たぶん、もうジェレミーと二人きりで食事をすることはない――それを受け入れるのは、悲しみで胸がつぶれてしまうだろうと思っていた。決めるまでは確かに苦しかった。
けれど不思議なことに、同時に心の片隅で、今まで引きずっていたものを捨てて軽くなっていく感覚を覚えたのだ。
今ならば、こうして太陽の光に包まれているのなら、前を向くことができるのかもしれない……と。
彼がニューヨークに来た時滞在するための住まいだ。ユベールはこのような家を世界中にいくつも持っていた。
別荘にはヨットもあり、ジャン=ピエールはボスからいつでも使っていいと許可されている。ユベールのボーイフレンドに違いないと噂の種にされそうなので、屋敷の方には人が多勢集まる時以外はあまり近付かないようにしていたが、この日は、リサをディンギーでのセイリングに招待していた。
別荘にはヨットもあり、ジャン=ピエールはボスからいつでも使っていいと許可されている。この日は、リサをディンギーでのセイリングに招待していた。
緑が多く広々としたニューヨーク州ロングアイランドは、マンハッタンから南東へ車で一時間とは思えないくらい、全く違う雰囲気の場所だった。ビル群に照り返す光でまぶしいシティ(ニューヨーク)の中心とは違って、ここでは植物の色が濃く見えるような気がする。時おりそよいでくる風は、かすかに潮の香りがした。
彼は手際よくディンギーの装備を一人でこなし、セイルを上げると、港を出る前にハーバー事務所に出港の届け出を済ませた。
ジブシートを引き、少し緩ませてシバーした状態のままにする。
「僕が、メインシートをコントロールするから、『引いて』って言ったら、ジブに風がパタパタしなくなるまでこのロープを引っぱってくれる?」
オックスフォード大学のヨット部にいたという彼は、てきぱきと操舵する。
今日はラフにみせかけてこだわりのある服装で、ブラックジーンズに生成りのリネンシャツ、その上にコットンのチルデンセーターを羽織っていた。
こういうアイビー・ファッションにはチノパンツを合わせるのが定番なのだが、プロのコーディネーターである彼には、とにかくブラックジーンズが上品に映え、ミスマッチなところさえとてもよく似合っている。もっともオックスフォード大学の設立は十二世紀と古く、アイビーの語源となったアメリカのエリート大学は十七世紀に創立されたばかりだから、この英国の大学から受け継いだスタイルも、ジャン=ピエールの場合は、たぶんアイビーでなくプレッピー・ファッションと呼ぶべきなのだろう。
エンジンの無い小さな三人乗りのセイリング・ディンギーだから、こんな穏やかな日には操舵は一人でも充分に可能だった。
ジブシートに風をはらませた後、ロープの結び方がわからないリサに代わって、彼は鮮やかな手つきで輪を作り、ボーライン・ノットに結んでみせた。
「キング・オブ・ノットとも呼ばれている、どんなに強く引いても解けない結び方だよ。だけどほどきたい時には、こうすれば簡単に解ける。ほら」
あまりにも集中して彼の手元を見つめていると、彼は芝居がかった口調で言う。
「ゼウスが命じた使命を果たすため、我はこの荒涼たる地についに来たれり。凶漢プロメテウスを、あの岩山に縛りつけるのだ」
縄がリサの目の前に突き出された。
――わ……、わたしがロープを?
「……っ、テニスンの一節かしら」
「ふっ、ギリシャ神話。ていうか単なる冗談だから、そんなに身構えなくていいよ」
彼は屈託のない笑いを見せる。
「ヨットに乗るのは久しぶり?」
「う……ん、父の友人の船に、乗せてもらったことがあるくらい……? でもエンジン付きのクルーザーだったから、こんなに静かじゃなかった」
「へえ、やっぱり、君っていいとこのお嬢さんなんだ」
「大学でヨット部にいた人に、言われたくないわ」
「僕はたぶん、君よりずっと経済的に苦労してるよ。一人暮らしを始めたころだって、飲み水のペットボトルを買わないで、ローリングカート持って近くの公園へ水汲みに行ってた。十六区に、ミネラル分を多く含む飲料水が出る蛇口があったんだ。節約のためにやってるんじゃなくて、健康のために汲みにきてるんだって振りを装ったりして……」
「十六区って、パリの?」
「そう、パリの」
「ふうん……十六区のコゼットは、そんなにミゼラブルな暮らしじゃなかったのね」
二人は目が合うと同時に、クスクス笑い出した。
高級住宅街と言われる地区に住んでいたのなら、彼の経済的苦労というのもたかが知れている。せいぜい屋根裏に住んでいたとか、階段がすり減っていて注意して昇らないと転びそうになるとか、その程度だろう。どんなに古い建物で老いた共用部でも、十六区の個人居住部分は、たいてい驚くほど豪華に改装されているのだから。建物内で行き交う際も、住民はいつも上品に接してくれる。ジャン=ピエールの両親としては、たとえおんぼろ屋根裏住まいだろうと、息子が安全な環境で暮らしてくれたほうが安心できるに違いない。
「わたしだって、何の悩みもないわけじゃない……。父が甘やかそうとするからお金の苦労はしてないけど、頭のいい人のそばにいると、自分がつまらない人間に思えてくる時もあって……」
「リサだって『頭がいい人』だと思うけど」
「何でもできる人と働いてると、たまに自分がほんとに無力だって感じるの。わたしはただの学生だから、当然なんだけど……」
「いや、比べる相手が良くないだけだと思う」
ジャン=ピエールは、なぜだか今日に限って、ジェレミーの話をするたびに彼女が淋しそうな表情を見せるのに気がついた。
「この間ね、コロンビア大学のキャンパスに行って、図書館のまわり一面に広がる芝生とそこに生えてるクローバー見た時、『もしかしたら四つ葉のクローバーが見つかるかもしれない』って思ったの。でも本当に探したいわけじゃないんだけど」
あの時は、リサがニューヨークに来て初めて、ジェレミーとは関係ないことで幸せを感じた――特別な思い出だ。
「ふふっ、わかる?」
急に話題を変えてきたリサを、「なんかあったのかな?」とジャン=ピエールは訝しむ。
「……ん、僕も時々行くんだ、あのキャンパス」
「そうなの? ……でしばらく芝生に座ってクローバーを撫でながら空を見上げてたら、わたしだって頑張ればきっとできるんだって思えてきて……、本当にそれだけのことなのになんだか嬉しくなっちゃった」
「わかるよ」
それっきり二人は、どちらからともなく話さなくなる。コニーアイランドを過ぎ、やがて海岸は砂浜に変わり、ヨットはミドルベイを通り過ぎた。湾を抜けたその先に広がるのは、大西洋だ。
行き交う船も次第に途絶え、時おりカモメが飛んでいるだけで、視界には碧い海と青空以外ほとんど何もない。傾いた船体にバランスをとって座るのに慣れてくると、自然の波の揺れは、リサにも心地よいものに感じられるようになってきた。
ディンギーが沖に出た後も、二人は言葉を交わさないままただ海を眺めて風に吹かれていた。けれど彼は、これ以上耐え難く思えてきた。そう、リサの心をいたわって黙っていることにだ。思い切って、聞くべきなのだろうか。
「なんか言われたの? 子供が生まれても出生証明書にはちゃんとサインしてあげるよとか……」
――なん……ですって!?
「そういうこと言いそうだよね、あの人なら」
驚いた顔が凍りつき……、リサは何も答えられなかった。
でもいきなりこういうことを言い出すのは、確かにこの人らしい。
――けれど本当は、そう……言われたかったのかもしれない。
日本だったら、妻以外の女性との子供を認知したら父親の戸籍に載るから、愛人との子供がいることを、いずれ妻子に知られてしまう。でもアメリカには、家族全員が載っている戸籍というものが存在しない。だから出生証明書に彼が署名すれば、妻子に内緒で庶子の経済サポートができてしまうのだ。
自分が将来そういう立場になりたかったと言い切ることはできないけれど、あの人にとって特別な存在でありたかった。
――でも、ジェレミーがわたしに伝えたかったのは……。
「たぶん……その逆……だと思う」
ジャン=ピエールはすぐには答えず、メインシートを半分下ろして風の様子をチェックする。そして帆を緩め、気流を受けずに流れるようにした。こうすれば船体は、ほぼその位置に止まっていられるのだ。
まわりには、他の船はどこにも見当たらなかった。
――聞こえるのは波の音とカモメの鳴き声だけ……、ここでわたしが大声を上げてもきっと誰にも届かない。
彼は暖かさを増したハーフデッキの上に座り、着ていたセーターを脱いだ。リサを振り返って隣に来るよう手招きをする。リネンシャツやジーンズの上からでも、ほっそりした牡鹿のような若々しい筋肉は、動きに合わせて美しくしなりを帯びていた。
「あ……の……、ヨットは放っておいていいの?」
「大丈夫、今は風を受けないようにしてあるから、しばらく動かないよ」
彼はリサを見つめて、もう一度「おいでよ」と言った。
「……」
セイリングに誘われた時から、彼がそう言うだろうと予感していた。
今ジャン=ピエールのそばに行けば、もう引き返せない。でもここでこの人を振り切ってジェレミーにすがったとしたら、少しは相手をしてくれるの……だろうか。もしジャン=ピエールを選んだら、自分の気持ちをあの人に伝えることは、二度とかなわなくなってしまう。
――決めなくては、わたしの意思で!
ほんの一瞬、「その男は、私より優れた人間なのか」と問いかけるジェレミーの声が、聞こえたような気がした。彼より優れているかどうかはわからないが、ジェレミーに対抗できそうな人は、彼女の人生にこの人をおいてもう二度と現れないだろう。リサはそう直感した。
――ジャン=ピエールは一度だってあの人を怖がったことはない。もし今ここで応えなかったら、おそらく一生ずっと後悔する。
たとえお願いしてもジェレミーがわたしを愛してくれる保障なんて、どこにもない。
とまどいを覚えたけれど、いつもは大人びた振る舞いを見せるジャンピエールが、今日は何だか少年っぽい目で訴えかけてくるから、リサの心をよりいっそう捕らえて離さない。
彼女はしっかりと、足を一歩踏み出した。
デッキの上はでこぼこしていたが、彼は、バランスを取りながら近づいて来たリサを背後から捕らえる。
「ぁん、……真剣なの?」
リサの唇から漏れた甘い声……。ジャン=ピエールは、こんな扇情的で麗しい響きを今まで聞いたことが無かった。
――暖かい……腕。
肩の上から、彼の腕のぬくもりがリサを包み込む。彼女は首を傾げて、斜め後ろを見上げた。
「僕は、君に出会った時から決めてた。いつか必ず自分のものにしてみせるって……」
「でも、わたしは……」
彼女は、ジャン=ピエールの腕に被われながら、その上から自分の手を重ねた。
「もしかしたら、あの人がわたしに興味を抱いてると思って……それでなの? そういう理由で、あなたも好奇心を持っただけなの?」
「ジェレミーが、君を自分のものにしたがっていたから……ってこと? もちろん一番大きな理由は、君が僕の好みにぴったりの女性だから! でも、あのルイス社長が欲するものって、すごく価値があって魅力的に見えるのも事実だよ。あの人から大切な宝物を奪い取ることに、僕は誇りを感じてる」
ヨットが波に揺れる……。その振動が伝わってくる。
「それに君は……、妻帯者を惑わす悪女なんかじゃなくて、とても誠実な女の子だ。あと……、これだけは忘れないで。他の誰も、あの人を恐れて君に近づけないでいたかもしれないけど、僕は違ってたってこと!」
彼女はニューヨークに来てからずっと、独りぼっちだった。
ジェレミーには家族や信頼できる部下や、自分のものがたくさんあるのに、リサのほうはいずれ自分の家族から自立するべき立場でしかない……。
ジャン=ピエールはきっと、ジェレミーとは異なる種類の幸福を与えてくれる。太陽が大地を抱くみたいに、互いに全てを与え、相手の全部を受け入れるが如く。
いかにも「正義の力」の持つ正当性が魔力を打ち負かすようで、彼女はそれに、強く心を動かされた。
「あ……」
彼はリサの顎をとらえ唇にキスを落とす。
柔らかく……食むだけの口づけ……。
しばらくすると、角度を変えて彼女をついばみ始めた。まるで、透明な誠実さを表わしているようだ。だが途中でそれを裏切るように、彼女のうなじを撫でたジャン=ピエールの指先は、艶かしくリサを惑わせる。終わりの部分でゆっくり顔を離していく彼に、吸い寄せられるように自分の唇が少しつられていったのには、彼女自身も驚いていた。
「慎ましやかに見えるけど、冒涜されるのを誘っているようだね」
――わ……たしが、そうしたの? それとも、あなたがそうさせたの?
「もちろん褒めてるんだよ。相手を刺激するのは、とても大切なことだから」
「わたし、別にそんなつもり……」
そんなつもりはなくても、相手にそう思わせてしまう……、リサはそういう性質を持っていた。だから彼女が気品を保ち、男の欲望の餌食にならないでいるためには、他の者たちを寄せ付けないほど価値ある男性に守られていなければならない。
――今まではジェレミーだったかもしれないけど、これからは……、
「僕の腕の中で、ゆっくり心を休めていいよ。これからは、リサに振りかかる全てのトラブルから、僕が守る」
ぴったりと彼の肩に頭を乗せていると、ディンギーの揺れがジャン=ピエールを通して伝わってきて、リサをとても心地よく幸せに満たしてくれた。
「君を誰にも渡したくない、絶対に! そのままでいてくれればいい。僕は君の才能の前にひれ伏すのを恐れないし、置いて行かないで欲しい時には、ちゃんとお願いする勇気がある」
――言われてみるまでわからなかった。誰かに寄りかかってもいいって告げられるのを、これほど求めていたなんて。
宝石のようにきらめく海に目を細め、ゆったりと揺れる心地よい彼の肩と広大な海に身を預けるのは、こんなにも心が癒されることだった。
たぶん、もうジェレミーと二人きりで食事をすることはない――それを受け入れるのは、悲しみで胸がつぶれてしまうだろうと思っていた。決めるまでは確かに苦しかった。
けれど不思議なことに、同時に心の片隅で、今まで引きずっていたものを捨てて軽くなっていく感覚を覚えたのだ。
今ならば、こうして太陽の光に包まれているのなら、前を向くことができるのかもしれない……と。
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