摩天楼の君主(ヒズ・マジェスティ・オブ・マンハッタン)

H・カザーン

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第5章 ニューヨーク

光は鏡に反射して

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 その日は始まりから、何もかもが違っていた。
 フィフス・アヴェニューと58thストリートの角にある、プラザアテネ・ホテル・ニューヨーク……。
 レッドカーペットの敷かれた入り口を抜けたジェレミーとリサは、豪華なロビーを通り、ガラスドーム天井のレストラン「パーム・コート」への階段を降りた。
 リノベーションされ生まれ変わったアール・ヌーボーの室内は、足を踏み入れたとたんに、誰しもを数世紀前の世界にタイムスリップさせる。壁を飾る合わせ鏡が作りだす不思議な空間……、それはあたかも二人を誘(いざな)うかのように、互いに映り込んで無限の世界へと続いていく。
 ジェレミーはずっと忙しくて、今日の昼食は軽くすませただけだから、これからゆっくりディナーをとるつもり……ってこと?
 中央にある広大なバーカウンターの奥、窓際の落ち着いた席に、二人は案内された。
 格式高いそんなレストランにふさわしく、席に着く前からテーブルには既に飾り皿がセットされている。
 ウェイターはその皿を静かに取り除き、三個ずつ並んだ、それぞれ形の違うグラスの左端に、優雅な所作で水を注いだ。残り二つを取り去ると、ジェレミーのグラスも満たして恭しくテーブルを離れ去った。
 ――わたし達だけで、このまま別の世界に行ってしまえたらどんなに……。
 ふいにざわめきが消え、ゆらりと世界が揺れた。
 声が聞こえてくる。顔を上げた瞬間、向かいの鏡に、リサの視線は縫いとめられた。
 ――だ……れ?
 問いかけるまでもない。それはリサのよく知っている人だった。そこに映っていたのは、まるで中世の部屋そのものだ。
 緋色のプールポワンを身につけテーブルに座っているのは、目の前にいるはずのジェレミー……、その向かいにはリサそっくりの女性が席についていた。
 ――そんなはずは……!
 頭を振って、幻想を追いはらう。
 自分であるはずがない。鏡の中の人は、コルセットで締め上げた豪華なドレスを着ているのだから。そして左手首には、とても目をひくプラチナのブレスレット……。

 もう一度辺りを見まわすと、自分のいる空間は、確かに現実のニューヨークのレストランだ。
 ――でも、声が聞こえた。「余の公妾となり、外国と折衝を試みよ」って……、わたしはミストレスになれと言われた……、現実ではあり得ない世界の中で。


「ぁ……」
 ウェイターが前菜とワイングラスを運んできて、リサは我に返る。
 まったく何事もなかったかのように、彼はルイス社長の選んだワインを二人のグラスにつぎ、静かに戻って行った。
 鏡の中に恐る恐る目をやれば、もはや不思議な世界はそこにない。今二人のいるレストランの風景だけが、ただ映っていた。
 リサがそっとグラスの脚をつまんで持ち上げた瞬間、思わず悲鳴をあげそうな冷ややかさが手首に走る!
 何かが肌に触れた感覚は、まるで痛みにすら思えた。
 手首に目を落とすと、そこには金属製の、幅の広いバングルがあった。
 ――こ、これって……!?
 さっき鏡の中で見たものと同じ? 表面には、薔薇の花が深く刻まれている。もう一つ、大粒のダイヤモンドのいくつも繋がったチェーンブレスレットも重なっている。何度確かめても、鏡の中で見たものと同じに見えた。
 ――どうして、いつの間に?
「あ、あの……」
「なに?」
 ジェレミーが問い返した。
 ――どうしよう……。
 彼女が問いかけたのだから、何か言い繕わなくてはならない。
「……あ、いえ。この間大統領と、話してらしたから」
 彼の海外滞在中の話題にすり替える。
「ああ、見てたのか。あれは、パブリシティーの一環だよ。うちはあの局のスポンサーをしている。だからNBCニュースのカメラが我が国の大統領を写している時に、単に私の画(え)を入れたに過ぎない」
「でも、何か懇意にお話ししてらしたでしょう? 全国に……ぅうん世界中に放映されているニュースで」
「出身校が同じなんだ。まあ向こうは私より八年も前にハーバードで学士号を取った後、ビジネスじゃなくてロー・スクールのほうに行ったようだけど。私はすでに在学中から、父とルイス・エンタープライズ改造に取り組んでいたので法律を学ぶ暇がなかった」
 そう……弁護士が必要だったら、雇えばいいだけなのだ。この人は。
「……ああ、大統領に声をかけられたほんとの理由は、たいしたことじゃない。あれはただ彼がキャサリンと言葉を交わしたかったから、私にもちょっと挨拶しただけだよ。あっちは国家を代表するミスター・プレジデント。私は、ただの会社のプレジデント」
 ――どうしてそんなに、何でもないことのように振る舞えるの? 日常のひとコマに過ぎないような口ぶりで……。
「それにロー・スクールの卒業生は、ビジネス・スクール出身者なんて気にも留めないだろうから」
 ジェレミーが皮肉っぽく笑ってみせた。
 歴代の大統領を含め、アメリカの政治家には、弁護士の資格を持った者が多い。
 大学を卒業した後、ビジネス・スクールは二年で修士号を取得するのに対して、ロー・スクールは三年かけて博士号を得る。当然向こうはビジネス・スクールより上のヒエラルキーに属すると思っている。ジェレミーはそれを揶揄したのだが、この国に数えきれないほどいる弁護士たちは、みんながみんなルイス氏のように、経済に影響を及ぼすような重要な決断をするポジションにいるわけではないのだ。
 まだ温かい焼きたてのバゲットを彼は手にした。
 「まもなく……」とジェレミーは話し始めたが、その続きを飲み込む。
 レストランを映し込む壁の鏡……、角度をつけた面取りが施された縁取り……。クリスタルカットと呼ばれるそれは、集めた光をあらゆる方向に撒き散らしていた。

 前菜を食べ終えた二人のために、ウェイターは魚料理を運んできた。
 白身魚のグリルはオーブンから取り出したばかりで、表面に飾られた薄切りポテトの焼き目が空気に触れ、きゅうきゅう音をさせる。シェフの特製ソースが、焼き色に深みを添えて……。
 グラスも取り替えられ、赤に変わって白ワインが注がれた。
「まもなくインターン期間も終わるが、君は本当に頭のいい生徒だった。その賢さは、私にとって非常に有利なカードだ。卒業後どこで働くにしろ、世の中のビジネスマンは、自分よりシャープな女の子を疎んずるものだ。だから上司にふさわしいのは、君を牛耳ることができるほど頭の回転が早い人間か、もしくは君の頭脳を崇めて、全てを受け入れることができる者か、そのどちらかに限られる」
 ジェレミーより頭の切れる人物などどこにもいなかったし、自らがこんな若い女の子に劣ると認める勇気のある者もいなかった。だからある意味彼は、リサを永遠に自分のものにしておけるのかもしれない。
 インターンシップという隠れ蓑を利用して、リサを指導することから癒しを得ている。彼の与える課題に望む通りの、いやそれ以上の反応を見せてくれる彼女は、他の誰とも代え難いパートナーだった。
 説明などしなくても、彼の戯(たわむ)れ言に共感できる感性には、なかなか巡りあえるものではない。
 しかもその鋭い頭脳は、他の男からは疎まれるだけだ。「リサを輝かせることができるのは、世界で自分一人きり」……その自負は、ジェレミーの大きな心の糧なのだ。
 同時に、もうすぐ失ってしまう愛しき獲物のように、これ以上ない魅力的な対象でもあった。彼はリサにこの後何と続けようか、迷っていた。
 まさか、思っていることを口に出してしまうわけにはいかないだろうが……。
「それにしても君みたいに頭脳明晰な生徒が、十二年前のハーバード卒業生のクラスにいなくて良かった。もしいたら、主席の栄誉はたぶんジェレミー・D・ルイスという名の学生ではなく、リサ・サエキに与えられていたかもしれない」
「なぜ……そんなことを?」
 ――自分の立場を弱く見せるようなことを口にするなんて、全然あなたらしくない。
「ああ、人の言うことは、よく注意して聞かないとね。『もし同じクラスにいたら』と言ったんだ。君に勝てないのは、あの時の私であって、今ここにいるルイス・エンタープライズのCEOじゃない」
 いつもの、気の利いたジョークなのに、なぜかこの時だけは、心なしか憂いを帯びていたような気がした。

 ――鏡の中では、さっき確か「公妾」って耳にしたのだけれど……、やはりあれは、現実とは全く違う世界だから聞こえた言葉なの?
 そんな単語が聞こえたのは、そうなりたいという深層心理なのだろうか。 
 でも現実の世界では、たとえ彼がリサに興味を持っていたとしても、この人はキャサリンと絶対に別れたりしないし、家族を捨てたりもしないだろう。
 ジェレミー・ルイス氏はそういう人なのだ。他の女の子だったら、倫理に反する好きな相手が、いつか自分と結婚してくれることを求めるものなのだろうか。
 けれどリサは、そんなことをするジェレミーを見たくなかった。それは、キャサリンに対する遠慮などというしおらしいものではなくて、ずっと先を見通していたからだ。彼が家族を捨てるのも厭わない冷たい人間なら、何年かしたら今度はリサを捨てて他の誰かを選ぶに違いない。だから妻を愛して守り続けるジェレミーの忠実さを、リサは否定しなかった。

 やがて、ウェイターがメインディッシュの皿を下げに姿を見せる。今夜は、肉と魚の両方のフルコースは頼んでいなかった。
「本日のアミューズでございますが……」
「ああ、今日はやめておこうかな。デザートを持ってきてもらって構わない?」
「ええ、そうしてください」
 彼女は敬意を添えて、ウェイターに微笑みを作る。
「あ、それから、申し訳ないけど、カフェイン・フリーのコーヒーに変更してくれないかな」
 オーダーした時にいつもの習慣でコーヒーを選んでいた彼は、もう夜も更けてきたことを思い出してそう依頼した。
 ウェイターはかしこまって頭を下げ、すぐにデザートとコーヒーポットを運んできた。
 リサは、粒子が光に輝く宝石のような氷菓(ソルベ)を見つめ、テーブルの向こうにいる、それと同じくらい甘く冷たくて洗練された人を眩しそうに眺めやる。
 自尊心の高いジェレミー・ルイス氏……、彼がプライドを無くしたとたん、魅惑的な魔法は解けてしまうに違いない。仕事においては下手(したて)に出る交渉も得意とする彼だが、世の女性たちはその自尊心に畏敬の念を抱いているのだ。ジェレミーを自分たちにかしずかせることを望んでいるのではない。そんなことをしたら、ルイス氏の魅力が半減してしまうから。
 リサは深く息を吸い込み、ソルベの表面にスプーンを入れた。……と、いちごの甘い香りが漂ってくる。
 ふと、彼もスプーンの動きを止める。
 リサから向けられた瞳を、彼は受けとめていた。だがそれがいつまで許されるのかと考えると、物哀しくもあった。
 見つめ返されるのに耐えられなくなったリサは、彼から視線を外す。レストランの壁にアーチ型に並ぶ鏡には、フィフス・アヴェニューの夜を照らす明かりが映り込んでいた。
 外にあるのはただ普通の現実なのに、それを切り取って鏡に封じ込めると、どうしてこんなに夢の世界のように見えるのだろう。
 でも鏡の中は、決して手で触れられる現世(うつしよ)にはなり得ない。たった今この瞬間、彼女はそれを悟った。
 外に出てリムジンに乗る時、彼はそっと手を差しのべてくれた。けれどもしこれが運転手だったら、きっと彼女が震えていることに気づかれてしまったに違いない。
 震えていたのは、ニューヨークの秋の旋律にではない。だからその理由は、間違いなく指先から彼に伝わってしまったはずだ。
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