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第1章 ニューヨーク
皇帝という名のオフィス 1
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翌週の火曜日、リサはクライアントであるテレビ局との打ち合わせ前に、アニエス・アントワーヌ女史から説明を受けていた。資料には書かれていない業界の裏話を、彼女はいろいろ知っているからだ。
「……それでルイス・エンタープライズは、ガレット・デ・ロワのファッションショーやウェブサイトを担当してるというわけね」
「そうよ。他にも多くの方面にわたって……、とにかく今回向こうが必要な素材は、ほとんどうちが扱ってるわ」
企画内容は、NBCがパリのオートクチュール「ガレット・デ・ロワ」を創設した女性デザイナーの自叙伝を、ドラマ化するというものだ。テレビ局は今回のクライアントではあるが、ルイス・エンタープライズはテレビ番組のスポンサーも担当しており、いわば相互クライアントという関係だった。
それにしてもミセス・アントワーヌは、リサが感心させられるほど本当に頭のいい人だ。アメリカ人の平均よりもかなりほっそりとした体型が、彼女の身にまとう衣装をエレガントに演出している。ルイス社長の秘書にふさわしい女性だと誰もが認めていた。
美人というよりはどちらかと言えば地味な感じの人で、円満な家庭を持ち、その目立たないところがジェレミーを惑わせたりせず、落ち着いて社長を仕事に集中させてくれるのだ。この業務に最も適した人材だとの噂におそらく間違いはない。最初に会った日からリサは、敬語は必要ないと言い渡されている。
そのとき入り口に人影が現れ、開いているドアを軽くノックした。
「おはよう、アニエス。えっとそれから君は、……佐伯理沙さん?」
久しぶりに日本語でフルネームを呼ばれ顔を上げると、まだ二十代半ばの若い男性がドアにもたれて腕を組み、長い足を交差させて彼女を見下ろしていた。初対面のはずなのに、おそらくデスクのネームプレートの漢字を読んだのだろう。
リサが社員だったらメタルのプレートにアルファベットが印刷されているところだが、インターンとして入ったばかりの頃、アニエスが「自分で作ってね」と、印字できるステーショナリーを貸してくれたのだ。せっかくだからと、リサはPCを駆使して漢字も入れてみた。この人はまるでそれが読めるかのように、訛りのない完璧な発音のネィティブの日本語だった。
――誰? 前髪が顎に届きそうな長さの男性って、ニューヨークでは珍しくはないけれど、でもでも重たくならないように、小まめなヘアカットが必要になってくる。ウェーブのかかり具合やダークスーツの着こなしが、普通のビジネスマンというよりむしろファッション雑誌の中の世界に近い雰囲気?
その視線がリサのラップドレスの胸元を注目しているように感じたので、彼女は慌てて身体の角度を変えた。
フィフス・アヴェニューの33rdから34thストリートまでのブロック全体を占める建物、ニューヨーク州のニックネーム〈エンパイア・ステート〉と同じ「皇帝」という名を持つビルの超高層階に位置するルイス・エンタープライズは、ジェレミーの君臨する本社オフィスである。
八十四階全体を占めているオフィスでは、来客用エレベーターを下りた人は皆、自動ドアの向こうに座っている美しいレセプショニスト(受付嬢)に微笑みで迎えられる。そこから左手に進むとコンテンポラリーなデスクやキャビネットのある執務エリアが広がり、反対側の右手には個室を持つ管理職たちの部屋が並んでいた。
所々に置かれた観葉植物は、ほっと一息つかせてくれる存在だった。慣れてきたこの頃では、これらの東欧風の家具が人々をリラックスさせるデザインだということはよくわかっているが、初めてリサがここを一人で訪れ、社長に案内された時は、プランターの周りだけ雰囲気が違って見えた。
あとでそれが、空気を綺麗にする機能のある植物だと聞かされた……というオチまでついている。
フロア右手の一番奥が、ジェレミーの部屋と応接室、彼専用の会議室だった。
それらの社長専用エリアは、すべて秘書室の奥にある。だからジェレミーに用のある人間は、誰もが秘書のデスクの前を通り抜けなければならない。
アニエスに与えられた秘書室はとても広く、この夏からリサもここに加わったのに、デスクを互いに向き合ったり並べたりしなくても、それぞれの仕事に集中できるだけの距離を保てるスペースがあった。高価な木製のファイルキャビネットの並ぶ彼らの部屋には、給湯施設からテーブルまで備えられていて、社長のジェレミーもこの秘書室で仕事をすることが多かった。
ジェレミー専用の部屋も含め全部まとめて「社長室」と呼ばれており、そこで勤務するのは三人だけであっても、彼女たちの部屋の扉はいつも開け放しておく習慣になっていた。
仕事をしている時のジェレミーは、総じて真面目だがユーモアのセンスもあり、この部屋に入ってきた訪問者は、互いのジョークに笑っている仲睦まじい彼らを目にすることも珍しくない。
ところで今リサの目の前に現れた日本語を話す男性は、ジェレミーの持つ雰囲気にも似た、自信溢れる誇らし気な笑顔をたたえていた。日本人の血もほんの少し感じられるけれど、彫りが深い顔立ちとダークな髪が光に透けて輝く色合いは、外国人のイメージの方が強い。
「おはようっていうより、君には『はじめまして』かな? 一見セクシーに見えるそのドレスを、知的で清楚に、しかもそこはかとなく妖艶さを漂わせて着こなせる人は、なかなかいない」
――ふ、普通の人はそんなこと言わないでしょ? あ、でも仕事だから……とりあえず褒め言葉と受け取った振りをしないと。
「あ……、ありがとうございます」
今日のクライアントは日本女性が好みだからと、胸を強調するラップドレスを着るよう彼女に命じたのは、もちろんジェレミーである。
この人はクライアントではないし、だとしたらいったい何者なのかととまどっているリサに、彼は「ジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアン」と書かれた名刺を渡した。おしゃれな黒地に、有名なファッションブランド「ガレット・デ・ロワ」のロゴが印刷されている。そして親しそうにアニエスに向かって、「君のアシスタント?」と訊ねた。
「いえ、彼女は……」
アニエスが答え終わる前に、入り口からジェレミーの声がする。
「そうじゃない。彼女は私のサポートをしてくれている」
ジャン=ピエールは振り向いた。
「あ、もうご出勤ですか。ふうん、こんな若い女の子を……? ああ、つまりインターンですね、チーフ・エグゼクティブ・オフィサー」
わざと意味ありげに役職名で呼んだ。ジェレミーは、あえてジャン=ピエールには答えず、リサとアニエスに「ハロー、レディス」と声をかけた。
「おはようございます」
二人は姿勢を正し、CEOに挨拶を返す。
ジェレミーは持って来たファイルをアニエスに渡して、片づけておくよう依頼する。彼女がキャビネットにしまうため背を向けている隙に、それは起こった。
まるで自分の所有物であるかのように、ジェレミーが甘い視線をリサに向けたのだ。
――え? どうして?
リサはとまどいを隠すのに必死だった。
「それから……私のアシスタントとして、リサも今日の打ち合わせに参加することを知らせておくよ。念のため」
ジェレミーはジャン=ピエールにきっぱりそう宣言すると、コートを脱いでクローゼットにかけた。上流階級の習慣からか、彼は冬でなくとも薄手のコートを身につける。そしてカプセルをセットしてボタンを押すと一杯分が抽出されるタイプのマシンから、自分でコーヒーを淹れた。
「ジャン=ピエールは客じゃないんだし、飲みたければどうぞご自由に。ここでは自分のコーヒーは自分で淹れることになっている。だからアニエスも彼のことは構わなくていいよ」
「へえ、ずいぶんフェミニストなんですね」
「ユベールに誰かデザイナーをよこすように頼んだんだが、まさかお前を送ってくるとはな」
「別に、自分から申し出たわけじゃありませんよ。ムッシュー・ユベール・ラングロワの命令です。きっと僕がキャサリンのデザイナーだから、あなたと気が合うと思ったんでしょう」
そう言いつつ、ジャン=ピエールは、オーガニック・コーヒーのカプセルを選んでセットした。抽出量は、ジェレミーの好みであるミディアムから、もっと濃い目の少量に設定し直してボタンを押す。
「僕も、ミス・サエキじゃなくて、リサって呼んでいい? 君はどのフレーバーが好きなのかな」
ジャン=ピエールはカプセルの入った引き出しをかき回しながら、親しげに彼女に話しかけた。
「私のことなら、どうぞお構いなく。もう先ほどいただきましたから」
リサは、もとよりこんなアグレッシブな人に、コーヒーなんて淹れてもらうつもりはなかった。ジェレミーにこれほど馴れ馴れしい口をきく人物にしては、いささか若過ぎるし、ルイス夫人のデザイナーというだけではなさそうな雰囲気だ。
「……それでルイス・エンタープライズは、ガレット・デ・ロワのファッションショーやウェブサイトを担当してるというわけね」
「そうよ。他にも多くの方面にわたって……、とにかく今回向こうが必要な素材は、ほとんどうちが扱ってるわ」
企画内容は、NBCがパリのオートクチュール「ガレット・デ・ロワ」を創設した女性デザイナーの自叙伝を、ドラマ化するというものだ。テレビ局は今回のクライアントではあるが、ルイス・エンタープライズはテレビ番組のスポンサーも担当しており、いわば相互クライアントという関係だった。
それにしてもミセス・アントワーヌは、リサが感心させられるほど本当に頭のいい人だ。アメリカ人の平均よりもかなりほっそりとした体型が、彼女の身にまとう衣装をエレガントに演出している。ルイス社長の秘書にふさわしい女性だと誰もが認めていた。
美人というよりはどちらかと言えば地味な感じの人で、円満な家庭を持ち、その目立たないところがジェレミーを惑わせたりせず、落ち着いて社長を仕事に集中させてくれるのだ。この業務に最も適した人材だとの噂におそらく間違いはない。最初に会った日からリサは、敬語は必要ないと言い渡されている。
そのとき入り口に人影が現れ、開いているドアを軽くノックした。
「おはよう、アニエス。えっとそれから君は、……佐伯理沙さん?」
久しぶりに日本語でフルネームを呼ばれ顔を上げると、まだ二十代半ばの若い男性がドアにもたれて腕を組み、長い足を交差させて彼女を見下ろしていた。初対面のはずなのに、おそらくデスクのネームプレートの漢字を読んだのだろう。
リサが社員だったらメタルのプレートにアルファベットが印刷されているところだが、インターンとして入ったばかりの頃、アニエスが「自分で作ってね」と、印字できるステーショナリーを貸してくれたのだ。せっかくだからと、リサはPCを駆使して漢字も入れてみた。この人はまるでそれが読めるかのように、訛りのない完璧な発音のネィティブの日本語だった。
――誰? 前髪が顎に届きそうな長さの男性って、ニューヨークでは珍しくはないけれど、でもでも重たくならないように、小まめなヘアカットが必要になってくる。ウェーブのかかり具合やダークスーツの着こなしが、普通のビジネスマンというよりむしろファッション雑誌の中の世界に近い雰囲気?
その視線がリサのラップドレスの胸元を注目しているように感じたので、彼女は慌てて身体の角度を変えた。
フィフス・アヴェニューの33rdから34thストリートまでのブロック全体を占める建物、ニューヨーク州のニックネーム〈エンパイア・ステート〉と同じ「皇帝」という名を持つビルの超高層階に位置するルイス・エンタープライズは、ジェレミーの君臨する本社オフィスである。
八十四階全体を占めているオフィスでは、来客用エレベーターを下りた人は皆、自動ドアの向こうに座っている美しいレセプショニスト(受付嬢)に微笑みで迎えられる。そこから左手に進むとコンテンポラリーなデスクやキャビネットのある執務エリアが広がり、反対側の右手には個室を持つ管理職たちの部屋が並んでいた。
所々に置かれた観葉植物は、ほっと一息つかせてくれる存在だった。慣れてきたこの頃では、これらの東欧風の家具が人々をリラックスさせるデザインだということはよくわかっているが、初めてリサがここを一人で訪れ、社長に案内された時は、プランターの周りだけ雰囲気が違って見えた。
あとでそれが、空気を綺麗にする機能のある植物だと聞かされた……というオチまでついている。
フロア右手の一番奥が、ジェレミーの部屋と応接室、彼専用の会議室だった。
それらの社長専用エリアは、すべて秘書室の奥にある。だからジェレミーに用のある人間は、誰もが秘書のデスクの前を通り抜けなければならない。
アニエスに与えられた秘書室はとても広く、この夏からリサもここに加わったのに、デスクを互いに向き合ったり並べたりしなくても、それぞれの仕事に集中できるだけの距離を保てるスペースがあった。高価な木製のファイルキャビネットの並ぶ彼らの部屋には、給湯施設からテーブルまで備えられていて、社長のジェレミーもこの秘書室で仕事をすることが多かった。
ジェレミー専用の部屋も含め全部まとめて「社長室」と呼ばれており、そこで勤務するのは三人だけであっても、彼女たちの部屋の扉はいつも開け放しておく習慣になっていた。
仕事をしている時のジェレミーは、総じて真面目だがユーモアのセンスもあり、この部屋に入ってきた訪問者は、互いのジョークに笑っている仲睦まじい彼らを目にすることも珍しくない。
ところで今リサの目の前に現れた日本語を話す男性は、ジェレミーの持つ雰囲気にも似た、自信溢れる誇らし気な笑顔をたたえていた。日本人の血もほんの少し感じられるけれど、彫りが深い顔立ちとダークな髪が光に透けて輝く色合いは、外国人のイメージの方が強い。
「おはようっていうより、君には『はじめまして』かな? 一見セクシーに見えるそのドレスを、知的で清楚に、しかもそこはかとなく妖艶さを漂わせて着こなせる人は、なかなかいない」
――ふ、普通の人はそんなこと言わないでしょ? あ、でも仕事だから……とりあえず褒め言葉と受け取った振りをしないと。
「あ……、ありがとうございます」
今日のクライアントは日本女性が好みだからと、胸を強調するラップドレスを着るよう彼女に命じたのは、もちろんジェレミーである。
この人はクライアントではないし、だとしたらいったい何者なのかととまどっているリサに、彼は「ジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアン」と書かれた名刺を渡した。おしゃれな黒地に、有名なファッションブランド「ガレット・デ・ロワ」のロゴが印刷されている。そして親しそうにアニエスに向かって、「君のアシスタント?」と訊ねた。
「いえ、彼女は……」
アニエスが答え終わる前に、入り口からジェレミーの声がする。
「そうじゃない。彼女は私のサポートをしてくれている」
ジャン=ピエールは振り向いた。
「あ、もうご出勤ですか。ふうん、こんな若い女の子を……? ああ、つまりインターンですね、チーフ・エグゼクティブ・オフィサー」
わざと意味ありげに役職名で呼んだ。ジェレミーは、あえてジャン=ピエールには答えず、リサとアニエスに「ハロー、レディス」と声をかけた。
「おはようございます」
二人は姿勢を正し、CEOに挨拶を返す。
ジェレミーは持って来たファイルをアニエスに渡して、片づけておくよう依頼する。彼女がキャビネットにしまうため背を向けている隙に、それは起こった。
まるで自分の所有物であるかのように、ジェレミーが甘い視線をリサに向けたのだ。
――え? どうして?
リサはとまどいを隠すのに必死だった。
「それから……私のアシスタントとして、リサも今日の打ち合わせに参加することを知らせておくよ。念のため」
ジェレミーはジャン=ピエールにきっぱりそう宣言すると、コートを脱いでクローゼットにかけた。上流階級の習慣からか、彼は冬でなくとも薄手のコートを身につける。そしてカプセルをセットしてボタンを押すと一杯分が抽出されるタイプのマシンから、自分でコーヒーを淹れた。
「ジャン=ピエールは客じゃないんだし、飲みたければどうぞご自由に。ここでは自分のコーヒーは自分で淹れることになっている。だからアニエスも彼のことは構わなくていいよ」
「へえ、ずいぶんフェミニストなんですね」
「ユベールに誰かデザイナーをよこすように頼んだんだが、まさかお前を送ってくるとはな」
「別に、自分から申し出たわけじゃありませんよ。ムッシュー・ユベール・ラングロワの命令です。きっと僕がキャサリンのデザイナーだから、あなたと気が合うと思ったんでしょう」
そう言いつつ、ジャン=ピエールは、オーガニック・コーヒーのカプセルを選んでセットした。抽出量は、ジェレミーの好みであるミディアムから、もっと濃い目の少量に設定し直してボタンを押す。
「僕も、ミス・サエキじゃなくて、リサって呼んでいい? 君はどのフレーバーが好きなのかな」
ジャン=ピエールはカプセルの入った引き出しをかき回しながら、親しげに彼女に話しかけた。
「私のことなら、どうぞお構いなく。もう先ほどいただきましたから」
リサは、もとよりこんなアグレッシブな人に、コーヒーなんて淹れてもらうつもりはなかった。ジェレミーにこれほど馴れ馴れしい口をきく人物にしては、いささか若過ぎるし、ルイス夫人のデザイナーというだけではなさそうな雰囲気だ。
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