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第3章

天変地異

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 五月二十四日、コンスタンティノポリスの空を満月が照らしていた。
「『この帝国は、月が満ちつつある間は決して滅びぬ』という言い伝えを、お聞きになったことがありますか?」
 聖ステファノ教会で礼拝を済ませると、私室まで燭台の火を手に付き添ってきたエルネストが、窓からの月明かりを受けながらレオナルドに尋ねた。
「いや……」
 それは裏返せば満月の後の、月の欠け行く日々に街が滅びるという意味にも取れる。
「もしも、滑稽な信仰だ……と言ったら、お前に軽蔑されるのだろうか」
「そんな……、私は猊下を崇拝しています!」
 エルネストに、まだまだ修養の足りない枢機卿だと思われたくない。だがこの小姓をレオナルド側になびかせて、その上に控えているアサナシウス総主教やゲオルキオス司教との関係に亀裂を生じさせるようなことに巻き込むのはもっと嫌だ。ともかく、自分は絶対に、ギリシャ正教の考え方とは一致しないだろう。
 けれどそういう風に他愛のない迷信に対して皮肉な見方をとまどっている彼自身にも、いつものレオナルド・ディ・サヴォイアらしくないとは気づいていた。むしろ「滑稽な迷信だ」と嫌味のない風刺をさらりと言ってのけて笑みを浮かべたら、いつまでもぐずぐず考えこまないでさっさと次のことに取り組むほうが普段の自分らしい。
 わかっている、その理由は。ローマ教皇の支配下ではない、このギリシャ正教の総本山の地にいるという、畏敬の念みたいなものが、積極性を躊躇させている。いや、それもあるが、それよりも何よりも、希望をつないでゆく未来がいっこうに見えてこないコンスタンティノポリスを、誹謗するような行為などしたくない。
 オスマンが城壁の中へ踏み込んできたら、レオナルドも武器を持って戦うことになるだろう。そして戦に参加すべきではない、中立を貫かねばならぬ立場の人間としては、すでに過剰なまでに参謀の任務に首を突っ込んでしまっている。
 兵士たちが目の前で命を落としていくことの重みは、人の生き死にに直接関わる職業の枢機卿の肩にさえ、苦しいほどの重みでのしかかってくる。
「そんなことくらいで音をあげるなど……、この街の民たちは、我々が来る前からオスマンの圧力に耐えてきたことを考えろ……」
 和平大使が訪れる以前から、東ローマ帝国と行き来する船舶はルメリ・ヒサールから攻撃されていたし、僻地のビザンティン領もずっと襲撃を受けてきた。敵は縄でギリギリと首を締め上げるように、この国の息の根を止める最後の悪あがきの一瞬を、じわじわと挑発しながら圧迫を続けてきたのだ。
 けれど今この瞬間は、コンスタンティノポリスが一丸となって戦っている。それだけがこの国唯一の支えだった。

 その夜、ただでさえ不安を抱いていた人びとをもっと怯えさせるようなことが、空で起こった。まん丸に満ちていた月は見る見るうちに欠け始め、あたりは真っ暗な闇に包まれた。
 月食だった。
 地球の影が月に映っているなどと、誰が知っていただろう。地動説を唱える天文学者など、まだこの世に生まれていない。人びとは、不吉な出来事の前兆だと、むやみやたらに怯えるばかりだ。


 天での異変に恐れを抱いていたのは、コンスタンティノポリスだけではない。オスマンの信ずる宗教も、相当に迷信深いものである。
 無敵の皇帝メフメトも、顔には出さなかったが、不吉な予感を心の隅に隠していた。予感だけではなく、厄介な戦況も耳に入ってきていたのだ。ヴェネツィア共和國が、戦艦を伴って東ローマ帝国に向かっているという知らせ――、それは正しい情報だった。彼らは五月の始めにヴェネツィアを出港したのだ。
 ただスルタンが知らなかったのは、予定の変更により艦隊がまだエーゲ海には入っていないという、皇帝コンスタンティヌスの十二人の使者が運んできた最新の後報だ。だからオスマン軍は、敵の援軍が今もこちらに向かっていると信じ続けている。もし航海が順調なら、六月初めには到着してしまう。戦艦の数はヴェネツィアから十五隻、そしてネグロポンテからロレダンが率いてくる戦艦の数も十五隻もしくはそれ以上……、合わせて三十隻以上の艦隊だ。
(されど、たとえどんなに急ごうと、少なくともあと十日は絶対に到着することはない! それまでにあの壁を破ってしまえば……)
 ところがメフメト二世の杞憂は、それだけではなかった。
 二日前の月食に誰もがまだ胸騒ぎを感じている五月二十六日、松明が昼間のように明るく照らす天幕で、メフメトは大臣(パシャ)、将官、高僧らを招いて作戦会議を行った。その席で、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ将軍が数万の兵を率いてオスマンを倒しに来るという噂があることを口にしたのは、ハリル・パシャだ。そんなことになったら、現時点では敵を包囲して優勢にいるオスマン軍がハンガリーとビザンティンに挟まれてしまう、とメフメトは案じる。
「今ここで引き返しても、少しも恥じる必要はありません。史上名高い皇帝たちの中にも、包囲を解いて諦めたスルタンが何人もいたではありませんか。たとえあの街を征服しても、戦いは永遠に続きましょう。その次は西欧諸国すべてを敵に回さねばなりません」
 ハリル・パシャの弱気な意見に、メフメト二世は鬼のように眉根を寄せた。
(くっ……!! ここまできて何を今さら……)
 ハリルの言葉が、まるで裏切りのように聞こえる。だが皇帝は、込み上げてくる怒りを飲み込んだ。今までだったら怒鳴り散らしていた場面だが、それを止(とど)まらせたのは忠臣の意外な見解を聞いたショックのあまりか、それとも戦で鍛えられた将としての魂ゆえか……。
 出だしは多少つまずいたかもしれないが、皇帝にとって、この戦が押されているとはみじんも感じられなかったのだ。だが亡き父王ムラトより年配の重臣ハリルは、すでに五十日もの長い月日を敵が攻防戦に持ちこたえているのに業を煮やしていた。もちろんそれは彼だけではない。この機をとらえて経験ある宰相が「もう充分戦ったではないか」と訴える言葉には、説得力がある。しばしハリルの意見を指示する空気が流れ、その場を制御していった。
 皇帝の前に集まっていたのは、戦の行方を決める力を持つ者たちである。不満、杞憂、怒り、歯痒さ……それらがタバコの煙と共に大臣や将官たちを取り巻いていた。
 一番先に頭の中を切り替えたのは、最年少のスルタンだった。メフメトは彼らに充分考える時間を与えたように思わせるため、沈黙をしばらくそのままにしておく。その後で部下たちを説得する熱い言葉を語ろうと思いついたが、それより先に口を開いた者がいた。
「ここまできて、なぜ今止めるのですか? 我々の成果は、目に見えて敵に打撃を与えているではありませんか。あの穴だらけの城壁をご覧になれば明らかでしょう。西欧からの援軍など、訪れはしません。いえ、仮に来たとしても、我が軍の方が、遥かに数が多くて強力ではありませんか」
 サガノス・パシャはそこで息を継いだ。
「かつてアレクサンドロス大王は、もっと少ない人数で世界を征服しました。敵は……、敵は今や分裂しています。いえ、ずっと昔から別々だったのです。ギリシャとジェノヴァとヴェネツィアは、お互いの意見を主張して……元は同じはずの宗教さえ、ローマとギリシャに完全に分かれてしまっているではありませんか!」
 軍事においてメフメトの次に長けた参謀と言えば、このサガノスだった。皇帝よりはいくぶん年上だが若いパシャの言葉は、主張していることがどれも理にかなっていて効率的だ。この意見がメフメト以外の者から発せられたことも、さらに相乗効果となる。もし皇帝の言葉だったなら、それは皆の賛同を得たというより命令に近い印象を与えていただろう。
 メフメトが十四歳で帝位をいったん取り上げられた時、彼と一緒にマニサに送られたサガノス・パシャは、どこまでもこの戦の鬼才ファーティフ(征服者)に忠実な僕(しもべ)だったのだ。
「サガノスが、余の心をすべて代弁してくれたようだな」
 メフメト二世が落ち着いた声で賛同の意を示した時、もはや異なる心を持つ者は一人としていなかった。スルタンにとってここで包囲戦を諦めて都に帰ることは、皇帝の位を父に取り上げられた時以上の屈辱だ。それはこの先一生、負け犬の烙印を押されて生きねばならないという意味なのだ。たとえこの戦いで死んでも、後に引くことはできないと彼は固く決意していた。
(そういえばメフメトさまは、このところハリル・パシャを先生(ラーラ)と呼ばなくなっている)
 側近ナディームの胸に密かに芽生えた疑問だった。
 皇帝メフメトは盟約を誓うように厳粛な声で、部下たちに言い放つ。
「三日後……、五月二十九日、総攻撃を行う。それまで慣例に従って、アラーの神に祈りを捧げる!」
 西ヨーロッパから敵の援軍が来るかもしれない不安を打ち破るためには、その前に大掛かりな一斉攻撃をかけて戦争を終わらせてしまうに限る。
 そして運命の女神はオスマンの皇帝に微笑んだかのように、翌日アドリアーノポリスから追加の兵士と食糧がやって来た。これによりオスマン軍は総勢十五万になり、一度は心に迷いを持った兵士たちも、新たな力を得て士気が上がってくるのだった。
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