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第2章

ヴェネツィアのカルネヴァーレと幼女(プリンセス) 2

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「あ、ありがとう」
 慌てて追いかけてきた二人が礼をいうと、彼はユージェニオを一瞥し、視線をクラウディアの前で止めた。
(もしかしたら、この人……)
 王女は少年のほぼ黒に近い暗褐色の髪が明かりを受けて、不思議な虹色を表面に反射させているのに気づく。
「ラヴェンナに帰ったら返すから」
 ユージェニオが彼に言った言葉で、クラウディアは確信を得た。この少年は、宰相アルノ公爵の長男、十三歳のフィリベルトだ。
(でも、なんだか少し変)
 彼は普段、こんな横柄な口をきく少年じゃない。初めはクラウディアたちのことを王族だとわかっていないから、あんな口調だったのだと思っていた。なのにこの笑いは……、まるでユージェニオとクラウディアの身分を知っているのに嘲笑しているみたいだ。
「……だって、私が急に誘ったから、小銭の持ち合わせがなかっただけなの!」
 王女がきっぱりと言う。しばらく待ったが、フィリベルトは何も答えない。
 クラウディアが苛立っているのは、自分が予定外の行動をとったせいで兄に恥をかかせてしまったことだ。
(ちゃんとお礼も言ったのに……)
 王女は失礼な少年を無視し、町歩きを続けることにした。
(カルネヴァーレが終わってしまう前に、もっと楽しいことを見つけるの!)
 急ぐ気持ちのせいか、角を曲がったところでクラウディアは誰かにぶつかりそうになる。今度はピエロに扮装した人だった。今夜は本当に街中どうしようもないくらい人が溢れている。
 通り沿いのショーウインドウには人形がぎっしり並び、その目がまるで生きているみたいにキラリと光った。そこに続く小さな広場(カンポ)の一角には肉屋があり、手足の切り取られた大きな牛の肉の固まりがつり下げられている。王太子と王女は目を見張った。
(すべてがきらめいて……)
 運河に沿って歩いたり、橋を渡ったり、もういくつ角を曲がったのか数え切れない。
「ふう……」
 ため息にも似た穏やかな声だった。クラウディアたちが足を踏み入れた空間……、広場と呼ぶには小さいその片隅には、古い井戸がたたずんでいる。
 建物の屋根を見上げると、さっきまで見えていたサン・マルコの鐘楼は視界から消えていた。でも、二人は道に迷ったわけではない。ここを通り抜ける出口が見あたらないみたいだが、行き止まりに来てしまったのなら、今来た道を戻れば良いだけのことだから。
 遠くから、かすかにリュートの音色が響いてくる。
 表通りは人で溢れているというのに、全く人影がない。人いきれのする空間に疲れを感じ始めていたのを鎮めてくれる風が心地よくて、二人ともすぐにはその場所を離れなかった。
 足元の正方形の茶色と白の石が互い違いにはめ込まれた市松模様の石畳を見て、クラウディアは思い出したように口にした。
「ホースをbの4へ」
 そして彼女は、茶色の石の上へと進む。
「えっと、昨夜の続き?」
 王女は兄に頷き返した。
「だって、私がお兄さまに勝てる可能性があるのは、チェスぐらいですもの」
 昨晩遅くまで決着がつかなかったゲームはお預けとなり、侍女たちに寝室へと急き立てられてしまった。だからクラウディアはここでその続きを再現したかったのだ。
「……じゃあ、クイーンをaの3」
「えっと……ホースを、dの5」
「チェックメイト」
「やっぱり、お兄さまにはかなわないのね……」
 負けを認めた王女は手を優雅に滑らせ、ドレスをつまんでユージェニオにお辞儀をする。
「あっ……!」
 カーテシーから立ち上がる途中で、広場の奥に視線が釘付けになるクラウディア。ユージェニオもその視線の先をたどって振り返る。……と、窪みになっている角に、一本の木が立っていた。
「ゎぁ……」
 それは普通の木ではないらしく、枝に下がっている実の一つ一つが、ぼんやりと明かりを放っているのだ。さっき広場に入って来た時には気がつかなかった。窪みにあっても、確かにこの木は視界の中のはずだった。気づかなかったのはきっと、果実が光っていなかったからだ。クラウディアはゆっくりと発光する実に引き寄せられる。
「ランタン……なの?」
 それにしては蝋燭の炎が揺れていない。しかも普通の果実みたいに中が不透明で、それでいて一つ一つの色が違う。中心の種から発光しているらしく、赤、黄、緑に紫……。砂糖菓子みたいに、様ざまな色でほのかな明かりを灯している。実の大きさはりんごぐらいで、それほど高くない枝もある。
(なんて柔らかそうな……)
 それを確かめたくて、クラウディアは抗うことなく一番低い枝の実に手を伸ばす。
「危ないっ!」
 怪しい風の音を聞いて、ユージェニオはとっさに王女の腕を掴んだ。だがわずかに間に合わなかった。
 彼女が果実に手を触れたと同時に、その影は突然井戸から飛び出してきた。
 ユージェニオはクラウディアをかばって前に出る。
「な、なに!?」
 黒い獣だった。猫のような鳴き声を立てている。けれど、野生の山猫よりずっと大きい。
 ウーッと威嚇してくる。月が雲から顔を出した時、目の色がアンバーから茶色を帯びて行くのが見えた。
 シャーッ
 突然飛びかかる獣に、王太子は剣を抜いて振り下ろす。
 しかし、まるでそこに体がなかったかのように、獣はふにゃりと形を変えて逃れた。 
 二人の後ろで、剣を抜く鋭い音がしたのは、その瞬間だ。
 背の高い黒髪の少年が、マントをばさりと風になびかせて、軒下の階段から飛び降りる。まだ仮面をつけたままだった。
「あ……」
 目にも留まらぬ県の動き! 雄々しい音を立てたマントが、着地のとき翼のごとく折りたたまれた。
「下がっていろ!」
 少年は二人の前に歩み出た。
 闖入者の登場に、獣も身を堅くする。フィリベルトの剣さばきに、ただならぬ殺気を感じたのだろうか。
 不気味な叫び声とともに爪を立て、獣は彼に飛びかかった。切先が空を斬る音……。
 刃は獣の背中をかすめたが、敵はまたしても避けた。
「王女を守れ!」
 彼は王太子に叫び、自分自身は横に飛んで獣を我へと引きつける。
 ユージェニオも剣を構え直した。
 次の瞬間だ。不気味に光る二つの瞳が王女をとらえる。フィリベルトはそれを許さなかった。
 剣を鋭角に、敵の眉間に狙いを定める。飛びかかってくる黒い胴体とすれ違いざま……!
 確かに彼は手応えを感じた。……はずなのに、獣は音もなくしなやかに降り立ち、睨みつけてくる。
「どういうことだ? いったい」
 まるで自由自在に形を変化できる化け物だ。
 とたんに獣の瞳がヘイゼルから濃い赤に変わった。まるで警鐘を発するかのように。
「はっ、まさか」
 フィリベルトは目の端で、広場の隅の樹木をとらえる。光る果実は、すべてが真っ赤に色を変えていた。
「そうか!」
 彼は助走をつけ思いっきり跳び上がると、木に向かって剣を大振りする。
 ひとなぎで数個の光る果実が、果汁を飛び散らせながら地面に切り落とされた。同時に黒い獣は、悲痛な叫びを残し、井戸の中へ飛び込んでいった。
「今だ。早く!」
 少年はクラウディアの腕を掴み、建物の間の細い隙間を走りだす。
「こんなところに通路が……」
 見えなかった路地が、建物の間に細く走っていた。狭い隙間にぶつからないよう気をつけながら、ユージェニオも後を追った。
 路地を抜けると運河だった。フィリベルトはゴンドラを捕まえて、クラウディアを抱き上げ飛び乗る。王太子が乗り込むと同時に、漕ぎ手の青年は櫂を動かし始めた。
 逃げてきた道を振り返ったが、獣が追ってくる気配はない。
 水の流れが信じられないほど穏やかで、さっきまでの出来事はなんだったのだろうとぼんやり王女は考える。ふと気づくと隣の席にいつもいる兄の代わりに黒い衣装に身を包んだ少年が座っていた。
 さっきのことで混乱した頭の鎮まらないまま、クラウディアはじっと水面を見つめていた。その刹那!
「あっ!」
 いきなり獣の顔が水の中に現れびくりと肩が揺れる。けれどそれは、水面に投影された橋の彫刻の影だった。王女は深い吐息をついたが、肩に回された彼の指に一瞬力が込められた。
 ――この人に今の動揺が伝わってしまったのは間違いない。
 三人ともなぜかさっきの幻想的なできごとを、誰も口にしようとはしなかった。
 やがて船が人で賑わう河岸までやってくると、フィリベルトはゴンドラを止めさせる。
「それではまた、クラウディアさま」
 王女は、右手を差し出す。少年に触れさせることを許す、王族の仕草だ。握手だけのつもりで差し出した彼女だが、フィリベルトはその高貴で小さな手に恭しく口づける。
 彼は岸に飛び乗り、踵を返すと人波のなかへ消えていった。
「カ・ドーロ(Ca d'Oro)へ」
 クラウディアを現実に引き戻したのは、向かいの席から漕ぎ手に行き先を告げるユージェニオの声だった。
「ごめんなさい、巻き込んでしまって……」
 ユージェニオは頷くと、自分のマントを外して彼女の肩をおおった。
「ありがとう」
 かすかに残った兄の温もりを、クラウディアは両手で引き寄せる。
 とある館の前で、黒い仮面の少年の行く先に、もう一人の少年が立ちはだかった。
「どこへ行っていた、レオナルド?」
 レオナルドと呼ばれたのは、つい先ほどまで王女たちと一緒にいた少年だ。そうクラウディアがフィリベルトだと思い込んでいたほうの……。
 身につけている衣装は異なるが、同じ背丈同じ黒っぽい髪……いや一つだけ違う点がある。レオナルドの髪には、光を浴びた時さまざまな色に輝く、オーロラのような光の幕があった。
「わかってるのか、誰にも知られてはいけないんだ、双子だってことを」
 そう言うフィリベルトの言葉に、レオナルドは唇の端をわずかに上げる。
「だったら今みたいに、二人が一緒に居るところを見られるほうが、もっとまずいんじゃないのか?」
「うっ……」
 フィリベルトが答えに詰まる。たとえ両方とも仮面をつけていたとしても、髪の色も背格好も生き写しの二人が、ただの兄弟ではなく双生児であることは明らかだった。「双子の片割れは毒を持ち、もう一方の未来を飲み込んでしまう」という迷信を信じ、忌子(いみこ)扱いされている家で育てられたレオナルドは、いつもは屋敷の地下室で暮らさなければならなかった。とはいえ奪われていたのは自由だけで、食事や衣服などの生活は分け隔てなく与えられている。しかもその「自由」ですら、親に内緒でフィリベルトと時どき入れ替わることによって手に入れていたのだが。だから王宮のことも知りつくしているし、剣術さえも学んだ。
 父親がレオナルドに手をあげるような事態は決してない。どちらかというと父は、この息子を嫌うというよりは恐れていたから。
「とにかく、母上が心配していたぞ。一応うまく言い繕っておいたけど」
「ああ、すぐに会いにいく」
 館に入って行こうとしてレオナルドは、ふと思い出してフィリベルトを振り向いた。
「ヴェネツィアの井戸にまつわる獣の話を知っているか?」
「ん、ガティトーのことかな? 井戸を守る猫だって聞いた。こっちが邪魔をしたりしなければ、危険な獣ではないらしい。何かあったのか?」
「いや、特に何も……」
 レオナルドは屋敷の中に入っていく。
 夜空には、ただひとつ満月が、ひっそりと薄笑いを浮かべていた。
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