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第2章

ヴェネツィア商船と教皇特使のジェノヴァ船 2

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 ぎりぎり船体をそれて水中に落ちる砲撃。怯えている暇は無い。何発も何発も、船をかすめ弾がすり抜けて行く。間近に落ちては水柱を吹き上げ、船ごと大きく揺らした。ローマの城と名付けられた要塞から攻撃を受けるなど、この上ない皮肉だ。対岸方向へ避けようにも、幅がせま過ぎた。このあたりは海峡が最も細い難関なのだ。平時でさえ舵取りは、両岸から突き出た岩にぶつからないよう集中しなくてはならない。対岸のアジア側には、三代前の雷帝バヤズィト一世によって築かれた「アジアの城」アナドル・ヒサールがあざ笑うようにそびえている。メフメトの容赦ない性格を表すかのごとき、計算ずくめのルメリ・ヒサール。
 船長は、操舵だけでなく漕ぎ手の技量にも船の運命を託していた。
(くっ、ヴェネツィアの漕ぎ手は奴隷ではなく自由民だから、精錬された人材が選ばれたことだけが、せめてもの頼みの綱っ!)
 砲撃はまだ続いている。一、二発手摺りをかすめていったが、なんとか大きな打撃を回避する。
「危機は脱したか!?」
 崩したバランスをようやく取り戻した帆船が西風を受けて帆を膨らませた時、乗組員たちは初めて息をつくことができた。勢いを盛り返し、速度を増して、うねりの収まらない水面などものともせず逃げる。突き出した岩の角を、あといくつか曲がれば、そこはコンスタンティノポリスだ。
 その刹那……。
 先ほどとは桁違いの爆音がして、船尾に砲撃が命中した。あと一息で逃れられるところまで来ていながら、スルタンの執念が撃ち抜いた最大級の大砲は、ついに獲物を仕留めたのだ。
 哀れ商船は、見えざる手で掴まれ、みるみるうちに船体を傾けて行く。


 教皇特使のジェノヴァの大型帆船には、レオナルドたちの他にも、コンスタンティノポリスからイタリアへ避難する民衆を乗せていた。碇が引き上げられ、金角湾の外に出ると、まもなくボスポラス海峡からの強い北風をはらんで帆が大きな音を立てた。風に乗じて巨体を傾かせながら右に旋回……、方向転換を終えた船艇はマルモラ海に滑り込む。船が金角湾域を離れんとする、正にその直前だ、ボスポラス海峡の北から煙を上げた中型船が近づいてきたのは……。
 それは船体を赤く塗ったヴェネツィアの商船だった。火は三角帆にまで燃え移っている。
「か、火事だ!!」
 ルメリ・ヒサールから必死で免れて漕いできた船だ。
「ただちに消火活動を援護せよ!」
「はいっ、猊下」
 ヴェロッキオ船長はジェノヴァ船を方向転換させる。
 商船の遥か後ろには、港を目指して懸命に泳いでくる者たち、砲撃の揺れで船から振り落とされた乗組員たちがいた。数週間前の斬殺刑の二の舞にはなるまいと、彼らは決して海峡沿岸に向かおうとせず、金角湾まで十キロ近くも泳いできたのだ。
「ボートを降ろせ。一人も逃さず海から引き上げろ」
 教皇特使の大型船が横付けし、舷梯が渡されると、乗組員はヴェネツィア商船に飛び移り消火活動を手伝い始めた。残りの船員も、黒海から満載してきた食糧をこちらの船へ運び出しにかかる。同時に小舟も降ろされ、泳いでいる遭難者を救出に向かった。
 海洋国であるヴェネツィアもジェノヴァも、乗組員は誇り高き船員魂を持っていることで名を馳せている。沈む直前まで決して自分の船を見捨てない。ともすれば彼らは自らも一緒に沈むまで、命がけで船を救おうとするのだ。
 終焉を迎え、ようやく商船は鎮火し始めた。
「方向転換! 港に戻れ」
 同乗している西欧への避難者たちの間に、意気消沈した空気は漂わなかった。
 最高責任者レオナルド・ディ・サヴォイアの命令だからではない。当たり前のことだが、怪我人を港に下ろすことに異論を唱える者は一人としていなかった。
 金角湾の北側、ガラタ領の高い壁の向こうに、切り立った崖の上から黒い馬に乗ってこちらを見ている大マントの人物がレオナルドの目に止まる。それは紛れもなくメフメト二世の姿だ。ユージェニオが小声で聞いてきた。
「まさか、我々の船の帰路を阻止するために、わざとやったのでしょうか?」
「さあ……たぶん、おそらくは……」
 船から陸に一歩ふみ出した時に、フィリベルトがため息を漏らす。
「あーあ、なんかもう二度とここを離れられないような気がするな」
 たった今戦況が変わったことにまだ感づいていない楽観的な言葉だ。この先どんな未来が待ち受けているか知っていたら、彼はさぞや自分を呪ったに違いない。

 この出来事は、コンスタンティノポリスの人びとが目を背けていた杞憂を、現実に引きずり下ろした。
「敵がこの船の帰還を阻止しようとしたのは明らかなこと、次回また試みても別の方法で邪魔してくるでしょう」
 ヴァティカンの枢機卿にそう申し立てられると、さすがに皇帝コンスタンティヌスさえも、三人がこの地に留まるのを否定できなかった。
 眼前の金角湾で攻撃を受けるというのは、すなわち戦の火蓋が切られることを意味する。いま来られては困るのだ。テオドシウスの壁はまだ修復が済んでいない。仮に西欧からの友軍を受け入れるとして、兵士がコンスタンティノポリスに着く前に敵に囲まれてしまったら、彼らはこの街に入城できない。
 教皇特使の思わぬ帰港は、温かいまなざしで受け入れられた。彼らがいずれ西欧に帰る身の上だということは皆十分に承知しており、たとえ帰ってしまってもしかたがないのだが、その船がヴェネツィア商船を助けて戻ってきたのだ。新たな援助を得た以上に、人びとは心強く感じていた。
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