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第1章

サヴォイア家の剣

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「いったい何と申して良いのやら……」
 その夜ヴィドー枢機卿とレオナルドは、遅くまで古文書館でニカイア・コンスタンティノポリス信条に目を通していた。
「いや、もともと賭けごとは俺が言い出したんだから、広間で金貨を落としたのが誰であっても、責任とってネゴシエイターを買って出るべきなんだし」
「え? ということは、あれはサヴォイア枢機卿が落とされたのじゃないと?」
「はぁあ!? ってことは、あなたのでもないって?」
 ヴィドー枢機卿は首を横に振る。
「じゃあ誰が落としたんだ?」
 残り少なくなったろうそくの明かりにちらと目をやり、彼は声をひそめて答えた。古文書館には二人だけしかいないというのに。
「おそらく……ですが、パルマ枢機卿だったのかもしれません」
「じゃあ、……罠?」
「そんな予感がするんです。何らかの伝手で、賭けのことを耳に挟んで利用してきた……とか」
「あのくそじじ……、ったく古狸めが!! パルマのじいさんが、俺たち二人のどちらかが落としたように見せかけて、賭けがバレないように互いをかばい合い、交渉人に名乗りを上げるよう仕組んだわけか」
 なんとずる賢い。おまけに天気まで奴に味方して、ステンドグラスから差し込んできた日差しが舞台効果をあげるとは!
「ですが何も教皇の甥であるあなたが、そんな危険な場所へ行く必要などないと思うのです。聖下に事情をお話しして……」
「いや、いいんだ」
 笑みを浮かべたレオナルドを見て、ヴィドー枢機卿は腑に落ちないという表情になる。
「今さら決定は翻せないし、俺じゃなくてはダメな理由もあるって叔父上に後で言われたから」
「サヴォイア枢機卿でなくてはならない理由?」
「それより、もうろうそくも消えそうだから調べ物は終わりにしませんか? ……フィレンツェの公会議では、ギリシャ正教も『聖霊は父と子より発する』説に同意したと記録にありますから、これ以上知識を深めなくてもいいでしょう? 向こうでもてなされても、たぶん俺に議論する権限なんてなさそうだし」
「その『三位一体説』は後で覆されることになったんです。いつものことですが、西欧の公会議で正教会の主教は『父と子』にいったんは同意しましたけど、参加者がギリシャに戻ったとたんに猛反対されました」
 当然といえば当然だ。もとはといえばこのフィリオクェ問題が、キリスト教の東西分裂の理由だったのだから、公会議に参加しなかった聖職者たちから帰国後に反対されるのも無理はない。
「それより、うかがっても構いませんか、あなたでなければならない理由を?」
「ああ、教皇がコンスタンティノポリスの支援として私有財産からも寄付をしたんだけど」
「ええ、あの美しい剣でしたよね? 聖下の持っておられた」
「ん……なんていうか、もう一振りあれによく似たサヴォイア家の家宝の剣っていうのが存在するんです。ただ古いだけなんだけど、それが……何をどう間違ったのかイシドロス枢機卿が我が家の家宝のほうを持って行ってしまって……」
「な、なんと、それは!」
 だからユリウス・シルウェステルはレオナルドに、資産価値の高いほうの剣を持参して、古いのと取り替えてくるように頼んだ。
 それに……神に仕える身でありながら、心を寄せていた人のことなんて考えている自分は、枢機卿にふさわしくないんじゃないかという罪の意識がある。確かにレオナルドは、もともと聖職の道に入ることを希望していたわけではない。幽閉されていた地下室から抜け出すには、それしか選択肢がなかったからだ。けれどこのヴァティカンで暮らすうちに、少しずつ敬虔な信徒に傾き始めたのかもしれない。
 クラウディアにとらわれる心をローマに置いて東欧へ旅立つ――そうすべきだからではなくて、少しだけそうしたい自分もいる。
「ま、それでなくとも、俺がヴァティカンでぬくぬくと出世していくのを快く思わない人が多いみたいだし」
 教皇反対派との諍いをおさめるためにも、彼が名乗り出なくてはあの場が治まらなかった。
「もし年配の人に長旅をさせることにでもなったら、お気の毒だし」
 夜も更けたので、文書を片付けて二人が古文書館の外に出たところでレオナルドは鍵束を取り出した。
 なぜ、みんな同じに見えるんだ。
 いつも疑問に思う。他の部屋のものと少しは形を変えればもっと探しやすいのだが、金属の輪には似たような鍵が二十個近くついている。
「あ……」
 ふいに風が起きて、ろうそくの明かりが消えてしまった。まだこの扉の鍵を選んでいないというのに……。
「すみません。すぐに明かりを持ってきます」
「いや、大丈夫だ……と思う。たぶん」
 ろうそくをかざしていたヴィドー枢機卿を制すと、指先の記憶を頼りにレオナルドはひとつだけ選びだした。鍵穴にあて、左に回す。かちゃりと確かな手ごたえ。
「十九分の一の確率で、当たった」
 言いながら嬉々としたそぶりで、レオナルドは鍵束を宙に高く掲げる。教皇と彼の暮らすヴァティカン宮殿へ続く廊下の曲がり角まで来ると、月の明かりが差し込んで互いの顔が見えるようになった。
「奇遇ですね。十九分の一……」
 ヴィドー枢機卿の顔には希望の光が差していた。
「え、何が?」
「行方不明になった人が、生きて見つかる確率です。もちろん平民も含めたら確率は下がるでしょうが、貴族に限ればその数字だそうで、この間見た裁判所の資料に書いてありました。まるでクラウディア王女が、無事に見つかることを予言しているような……」
 ヴィドー枢機卿は「おやすみなさい、サヴォイア枢機卿」と明るい声を残し、自分の宿舎へ帰って行った。

 ローマから三六〇キロ北の、アドリア海に面した王国ラヴェンナに、早馬に乗ったヴァティカンの使者が着いたのは、レオナルド・ディ・サヴォイアが東ローマ帝国との交渉人に決まってまもなくのことだった。
 ダヴィード王は、教皇の勅書を恭しく受け取り、分厚い羊皮紙の巻物を広げる。と、そこには王太子ユージェニオへのユリウス・シルウェステルからの勅令が、重々しくラテン語で記されていた。
 “Ad Constantinopolis.”
 「コンスタンティノポリスへ参ぜよ」と。
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