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水の底には誰がいる?
22 割烹みかみ
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『割烹みかみ』は松島夫妻行きつけの店である。
この店のオーナーの三上麻由子は、孝介の中学時代の同級生でもある。つまり、彼と同じ42歳。しかし本当に40代なのかと真夜が疑ってしまうほどの若作りで、紺色の着物に水色の法被が彼女の美しさをさらに引き立てている。
「コウちゃん、この前のデイラボッチの記事読んだわよ。ああいう感じの内容、コウちゃんにとっては珍しいんじゃないかしら?」
麻由子はそう話しかけながら、カウンター席に着いた夫妻の前に鳥取県の銘酒『三朝正宗 上撰』の熱燗を置く。
「コウちゃんって、普段はもっと現実的な記事書くでしょ? 世界経済とか、成長してる企業とか」
「まあな。そんな俺が何で歴史メディアで書いてるのか、よく分からねぇ。俺が相撲取りだったからか? そんなのは遥か昔のことなのによ」
「あら、コウちゃんが趣味の歴史研究で配信してる記事、結構面白いわよ。江戸時代の金融システムの話、とても勉強になったわ」
「そりゃどうも」
「あと、この前コウちゃんが書いた日米飛脚対決の話も——」
孝介と麻由子の会話は弾む一方。その様子を傍らで見つめる真夜は、若干ながら妬いている。
何よ、いくら幼馴染だからって他の女とイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャ!
コウの身体をつねってやろうかしら? 真夜がそう思い立った直後、
「あたしもよく松島先生の記事読んでますよ。おかげでいろんなことを学ばせてもらってます」
と、仕込み場から白衣姿の板前が大きな刺身皿を両手にやって来た。
細い目が特徴のこの板前は、割烹みかみの板長黒崎仙次。35歳の小ざっぱりとした印象の男で、刺身から天ぷらまであらゆる和食に精通する職人だ。
「さ、召し上がれ」
仙次は松島夫妻の座るカウンター席に、2人前の刺身盛り合せを置いた。
「おおっ! 相変わらず仙次はいい腕前だな。こいつを眺めるだけで味が舌に伝わってくるぜ」
「これはどうも。しかし、あたしの腕前は松島先生の筆の達者さに比べたらまだまだでござんすよ」
「ん? そりゃどういう意味だ?」
「何たって松島先生の記事は、学のないあたしでも読めるくらいに分かりやすい文章でござんしょ? それはなかなかできるもんじゃないと思いますよ。あたしも老若男女や身の上を問わず“美味しいね”と言われるような板前にならないと……」
そう言われた孝介は「はっ!」と笑い飛ばし、
「その代わりお前ぇ、俺は敵も多いんだぜ。松島孝介はトンデモライターだなんて言う奴がたくさんいらぁな。それに俺は、ヤクザ者だしよ。仙次、お前は俺のようになるんじゃねぇぞ」
孝介はそうせせら笑いながら、徳利を真夜のお猪口に傾ける。
「真夜、お前この酒は初めてだったか?」
「別に初めてじゃないわよ。日本酒でしょ?」
「そうじゃねぇよ。日本酒の中でも三朝正宗は初めてかって聞いてるんだ」
「聞いたことない名前だから、多分初めてね」
「飲んでみな」
孝介は自分のお猪口にも酒を注ぎながら、真夜にそう促す。
騙されたつもりで一口飲んでみると、真夜は驚愕してしまった。清涼感と舌の上にすっと広がる浸透の早さ、そしてどこか甘みのある味わい。これは本当にお酒なの? と一瞬疑ってしまうほどの爽やかさである。
「これ……美味しい!」
「だろ? こいつはな、昔山木田のボスと三朝温泉に行った時に出会った酒だ。今回は俺が麻由子に無茶言って都合をつけさせたんだがな」
「このお酒、冗談抜きで凄く美味しいわよ! たまにはコウも気の利いたことするわね」
「そりゃあ、お前ぇ……今日は記念日じゃねぇか」
「え?」
「俺と真夜が初めて会った日の日付、なぜか俺はよく覚えてるんだよ。……今日がちょうど10周年ってわけだ」
孝介は明らかに照れ臭そうに言葉を発した。直後、真夜も赤面しながら「ば、ば、バカ!」と返す。
「こ、こんなところでそんなこと言わないの! は、恥ずかしい……」
「て、てやんでぇ! 俺だってこんなセンチなこたぁ言いたかねぇや! ただ、まあ、何つぅか……女は記念日を祝うのが好きだって話を聞いたからよ。たまにはこういう理由をつけて、ここでちょっとした酒を飲むってぇのも悪くねぇかなと……」
お世辞にも器用とは言えない2人のやり取りを見て、麻由子と仙次は微笑んだ。
「ああいうところは昔から変わらないのよ、コウちゃんは」
「はははは、見てるこっちが腹一杯になっちまいそうだ」
この店のオーナーの三上麻由子は、孝介の中学時代の同級生でもある。つまり、彼と同じ42歳。しかし本当に40代なのかと真夜が疑ってしまうほどの若作りで、紺色の着物に水色の法被が彼女の美しさをさらに引き立てている。
「コウちゃん、この前のデイラボッチの記事読んだわよ。ああいう感じの内容、コウちゃんにとっては珍しいんじゃないかしら?」
麻由子はそう話しかけながら、カウンター席に着いた夫妻の前に鳥取県の銘酒『三朝正宗 上撰』の熱燗を置く。
「コウちゃんって、普段はもっと現実的な記事書くでしょ? 世界経済とか、成長してる企業とか」
「まあな。そんな俺が何で歴史メディアで書いてるのか、よく分からねぇ。俺が相撲取りだったからか? そんなのは遥か昔のことなのによ」
「あら、コウちゃんが趣味の歴史研究で配信してる記事、結構面白いわよ。江戸時代の金融システムの話、とても勉強になったわ」
「そりゃどうも」
「あと、この前コウちゃんが書いた日米飛脚対決の話も——」
孝介と麻由子の会話は弾む一方。その様子を傍らで見つめる真夜は、若干ながら妬いている。
何よ、いくら幼馴染だからって他の女とイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャ!
コウの身体をつねってやろうかしら? 真夜がそう思い立った直後、
「あたしもよく松島先生の記事読んでますよ。おかげでいろんなことを学ばせてもらってます」
と、仕込み場から白衣姿の板前が大きな刺身皿を両手にやって来た。
細い目が特徴のこの板前は、割烹みかみの板長黒崎仙次。35歳の小ざっぱりとした印象の男で、刺身から天ぷらまであらゆる和食に精通する職人だ。
「さ、召し上がれ」
仙次は松島夫妻の座るカウンター席に、2人前の刺身盛り合せを置いた。
「おおっ! 相変わらず仙次はいい腕前だな。こいつを眺めるだけで味が舌に伝わってくるぜ」
「これはどうも。しかし、あたしの腕前は松島先生の筆の達者さに比べたらまだまだでござんすよ」
「ん? そりゃどういう意味だ?」
「何たって松島先生の記事は、学のないあたしでも読めるくらいに分かりやすい文章でござんしょ? それはなかなかできるもんじゃないと思いますよ。あたしも老若男女や身の上を問わず“美味しいね”と言われるような板前にならないと……」
そう言われた孝介は「はっ!」と笑い飛ばし、
「その代わりお前ぇ、俺は敵も多いんだぜ。松島孝介はトンデモライターだなんて言う奴がたくさんいらぁな。それに俺は、ヤクザ者だしよ。仙次、お前は俺のようになるんじゃねぇぞ」
孝介はそうせせら笑いながら、徳利を真夜のお猪口に傾ける。
「真夜、お前この酒は初めてだったか?」
「別に初めてじゃないわよ。日本酒でしょ?」
「そうじゃねぇよ。日本酒の中でも三朝正宗は初めてかって聞いてるんだ」
「聞いたことない名前だから、多分初めてね」
「飲んでみな」
孝介は自分のお猪口にも酒を注ぎながら、真夜にそう促す。
騙されたつもりで一口飲んでみると、真夜は驚愕してしまった。清涼感と舌の上にすっと広がる浸透の早さ、そしてどこか甘みのある味わい。これは本当にお酒なの? と一瞬疑ってしまうほどの爽やかさである。
「これ……美味しい!」
「だろ? こいつはな、昔山木田のボスと三朝温泉に行った時に出会った酒だ。今回は俺が麻由子に無茶言って都合をつけさせたんだがな」
「このお酒、冗談抜きで凄く美味しいわよ! たまにはコウも気の利いたことするわね」
「そりゃあ、お前ぇ……今日は記念日じゃねぇか」
「え?」
「俺と真夜が初めて会った日の日付、なぜか俺はよく覚えてるんだよ。……今日がちょうど10周年ってわけだ」
孝介は明らかに照れ臭そうに言葉を発した。直後、真夜も赤面しながら「ば、ば、バカ!」と返す。
「こ、こんなところでそんなこと言わないの! は、恥ずかしい……」
「て、てやんでぇ! 俺だってこんなセンチなこたぁ言いたかねぇや! ただ、まあ、何つぅか……女は記念日を祝うのが好きだって話を聞いたからよ。たまにはこういう理由をつけて、ここでちょっとした酒を飲むってぇのも悪くねぇかなと……」
お世辞にも器用とは言えない2人のやり取りを見て、麻由子と仙次は微笑んだ。
「ああいうところは昔から変わらないのよ、コウちゃんは」
「はははは、見てるこっちが腹一杯になっちまいそうだ」
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