この溺愛は極上の罠

日向そら

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1巻

1-2

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 定型文みたいなやりとりをして玄関まで見送る。靴をいてもう一度振り返った彼は、窓から差し込む逆光がまぶしかったのか、微かに目を細めて私を見た。

「……?」
「じゃあまた近い内に」

 ニッコリと笑みを浮かべて別れの言葉を口にした相良さんに、一瞬違和感を覚える。妙にいた間も気になるけれど、近い内って? あれ、もしかしてお盆以外にも来ようとか思ってくれているのかな?
 それを確かめる前に扉が閉まり、後にはあの甘い香りが残る。相良さんが階段を下りる音が遠のいていったのを確認してから、私は首を傾げた。だけどすぐに言葉のあやだろう、と思い直して溜息をつく。

「はー……なんか凄い人と知り合いになっちゃったなぁ……」

 なんともいえない高揚感と脱力感。やらなきゃいけないことは山ほどあるのに、やる気が出ない。
 イケメン、というか相良さん恐るべし……。部屋に入ってもらった時は、本当に緊張したもんなぁ。後半、特に私の失言で笑ってくれてからは、随分マシになったけれど。
 もう何もかも面倒になって、お昼ご飯はカップ麺という究極のズボラで済ませる。
 そして溜まっていた洋服を洗濯機に突っ込んで、洗い終わるのを待つ間にお母さんの遺品の整理に取りかかった。
 お知らせ音が鳴り洗濯物を干してからは、叔父おじさんが持たせてくれた野菜を小分けにして、ご近所さんにお裾分けへ向かう。人当たりのよかったお母さんのおかげで、今も何かと気にかけてくれる人が多いのでそのお返しだ。喪服のクリーニングは明日、仕事に行く時に持っていこう。
 一通り片づけを終えて一息ついた頃には、窓の外は暗くなっていた。取りかかり始めたのが遅かったのもあって、すでに夜の八時だ。もうちょっと余裕があったら、貰った野菜で常備菜を作ろうとか、雑誌の新刊をチェックしようとか思っていたのに、そこまで手が回らなかった。まぁ、突然の来客もあったことだしね。そう考えたら上出来だろう。
 それにしても明日から出勤かと思うと気が重い。

「つかれたぁ……」

 最後は掃除機をかけて処分する段ボールを玄関まで運び、り固まった腰を指で押しつつ、電子レンジでカフェオレを作る。
 和室に行って、ちょっと温めすぎて膜が張ってしまったカフェオレを炬燵こたつの天板に置いた。炬燵こたつ布団に足を突っ込み、寝転がって思いきり身体を伸ばす。
 ちょうど視界に入ってきた豪華な果物かごに、あれもなんとかしなきゃなぁ、とぼんやり思う。
 あまりにも立派すぎてそのまま飾っているけれど、お裾分けするなら早くバラさなければ。
 うとうとしていたらいつの間にか本格的に眠っていたらしい。夜中に目が覚めたものの、あまり寒くないのをいいことに、私はそのまま炬燵こたつ布団を顔まで引き寄せて眠り直してしまった。


 そして案の定――

「身体痛い……」

 翌日。今日は一週間ぶりの出勤だというのに、炬燵こたつで眠ってしまったので身体のあちこちが痛い。
 前日だって夜行バスで仮眠を取っただけだし、ちゃんと眠らなきゃ体力にもお肌にもくる年齢なのに、痛恨のミスである。

「しかも変な夢まで見ちゃったし……」

 れぼったいまぶたこすりながらそう呟く。私の中で昨日訪ねてきた相良さんのことがよほど印象に残っていたのか、夢にまで出てきてしまった。そのせいで眠りが浅くてすっきりしない。
 その夢もお母さんと私と相良さんの三人で、お母さんが作ったパンケーキを食べているだけっていうよく分からない内容だった。
 でもお母さんが生きていたら実現した光景だったかもしれない。小躍りこそしなかったものの、満面の笑みを浮かべていた夢の中のお母さんを思い出して、朝からちょっと切なくなってしまった。
 欠伸あくびをしながらシャワーを浴びて、髪を巻いてゆるくまとめる。社割で買った春物のワンピースを身に着け、クマを隠すために念入りにメイクをすれば出勤準備完了だ。
 季節はまだ冬だけど、お店で取り扱っている商品の半分はもう春物だ。店員としてはお店に並べているアイテムを身につけないといけないので、寒いけれど仕方がない。コートの上からストールを羽織はおってなんとか寒さを誤魔化す。
 鏡の前で前髪をいじり、髪の毛のカラーはもうちょっと明るい色がいいな、と流行の色とのバランスを考える。そして茶色のショートブーツに足を突っ込み、いつもより早い時間に家を出た。
 電車に揺られて到着したのはお店の最寄り駅。
 まだ早いので周囲のお店は閉まっている。それでも灯りが落ちたままのディスプレイのボディや雑貨をチェックしつつ歩く。うちのお店がある通りはレディース中心のアパレルショップが並んでいて、なかなかの激戦区なのである。ライバル店のセール情報や、新商品の入荷被りのチェックは欠かせないのだ。
 そんなことをしながらようやくお店の前に到着すると、スタッフの麻衣まいちゃんが扉の鍵を開けているところだった。彼女はアルバイトさんだけど、私の次にこのお店に長く勤めている頼れるスタッフなのである。

「麻衣ちゃん、おはよう」
「わっ真希さん! おはようございます! そっか、今日から出勤でしたもんね」

 驚いた様子で振り返った麻衣ちゃんは、納得したように頷いて「お帰りなさい」と言ってくれた。

「ただいま。長いお休みを取ってごめんね。お土産みやげ買ってあるからみんなで食べて」

 某銘菓の名前を口にすれば、甘党の麻衣ちゃんははしゃいでお店の中に入っていく。もこもこのショートファーのアウターを羽織はおっているから、まるで子犬みたいだ。可愛いなぁ、と年寄りめいたことを思って目を細めてしまう。まぁ、この店の女の子の中では私が最年長だし、実際麻衣ちゃんはまだ二十二歳と若くて可愛い子だ。
 連れ立って更衣室兼、スタッフルームに向かう途中で、麻衣ちゃんが思い出したように立ち止まり、声をひそめて教えてくれた。

「そういえば最近、店長がずっと出勤してるんですよ。スッゴイ機嫌悪くてピリピリしてるから、新人が怖がって大変です。しばらくオーナーも来なかったし、やりたい放題ですよ」
「あー……そうなんだ。お疲れ様」

 また何かあったのかな。そう心の中で呟いて、こっそりと溜息をついた。
 アルバイト時代から何かと私を可愛がってくれたこのお店のオーナーは、六十過ぎの素敵なマダムだ。
 四年前までは売場には出ないものの店長として毎日お店に来ていたので、つき合いも長いし、その人となりもよく知っている。だけど、オーナーは私が専門学校を卒業し、アルバイトから正社員として雇ってもらった年に、店長業をおいである今の店長に譲ったのだ。ついでにアパレルで働いたことのなかった店長の補佐として、私は副店長という肩書を頂いたのである。あの頃に戻れるのならば、微々びびたる役職手当に釣られて簡単に頷いてしまった自分を、殴ってでも止めたい……

「あーいつもみたいにサボって来なきゃいいのに。うわ、うわさをすれば」
「あぁ、堤さん。やっと来たんだ」

 車の鍵を指で回しながらお店に入ってきたのは、うわさの店長だった。お店のスタッフにはその傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりから、蛇蝎だかつごとく嫌われている。
 それにしても、また車で来たな。お客様用の駐車場だっていうのに。

「おはようございます。長いお休みありがとうございました」

 休みの日数を巡って店長とめたことを思い出して、溜息をつきたくなる。ちなみに休みを許可してくれたのは、ちょうどその時来ていたオーナーで、渋る店長を叱り飛ばしてくれた。

「リフレッシュできてよかったね。店はその間大変だったけど」

 溜息混じりのあからさまな嫌味に、隣で麻衣ちゃんが顔を引きらせたのが分かった。
 もちろん私もむっとしたものの、いちいち反応はしない。溜まりに溜まった有給消化も兼ねていたし、そこまで言われる理由はないのだけど、反論すればするほど面倒くさくからんでくるのだ。彼への対処方法はたった一つ。受け流す。それ以外はない。

「私の休み中、何かありましたか?」
「……あー、まぁ、ここじゃあな。ちょっと店長室に来て」

 そう命令されて、私まで感情を顔に出してしまいそうになった。経験上、こんな感じで呼び出しを受けて聞かされるのは愚痴ぐちしかない。正直そんな無駄な時間を過ごすなら、バックヤードの在庫をチェックして、ボディを着せ替えて発注をかけたいのに……

「分かりました。コートと荷物を置いたらすぐに伺います」
「早くね」

 私の顔も見ずにそれだけ言って、店長は奥の部屋に入っていく。そこはもともと店長室ではなく、問屋さんやメーカーさんとの商談やスタッフ同士のミーティングに使っていた部屋だった。けれどいつの間にか店長がパソコンやらソファを持ち込み、私物化してしまったのだ。

「あー無理! 腹立つわー。オーナーのおいだからってなんであんなに偉そうなんですかね!?」

 扉が閉まってから麻衣ちゃんは鼻息を荒くしていきどおる。せっかくの可愛い顔が台無しになる形相だ。
 まぁまぁとそれをなだめて、今度こそスタッフルームに向かう。
 ロッカーに鞄をしまって、紙袋からお土産みやげのお菓子を出してテーブルに置く。大きめの付箋ふせんに『みんなで食べてください』と書いて蓋にぺたっと貼りつけた私は、麻衣ちゃんに小物の在庫チェックをお願いしてから、店長室に足を向けた。

「遅いよ、堤さん」

 開口一番そう言われて、溜息をつきたくなる。
 謝りはしたけれど、気持ちがともなっていないのが分かったのかもしれない。私を見た店長はソファの背にだらしなくもたれかかり、大袈裟おおげさに溜息をついてみせた。そして前に座るように言われる。いつもは立たせたまま話すのに珍しいなと思うと同時に、長くなりそうな予感にげんなりする。
 上着脱げばいいのに。せっかくの高いスーツがしわになりますよー。
 店長が着ているのはイタリア製の某有名高級スーツである。裏地も見ていないのに何故分かるのかと言うと、本人がスーツはそれしか着ないと日頃から口にしているためだ。
 ……そういえば相良さんは、高そうなスーツを嫌味なく着こなしていたなぁ。
 背景をヨーロッパの街並に変えれば、そのまま広告になりそうな完璧さだった。
 まぁ、アレと比べるのはさすがに可哀想だよね。スーツに着られている感じすらしている店長を観察しながら、心の中でそんな感想を抱いた。

「……ちゃんと聞いてんの?」
「え、あ、はい!」

 しまった。ぼうっとしていた。
 慌てて返事をした私に、店長は胡乱うろんげな視線を向ける。私がもう一度謝ると、少しだけ気が収まったのか、芝居がかった動作で肩をすくめ、再び口を開いた。

「オーナー代わったから」
「……あー……はい、……え!?」

 自動的に相槌あいづちを打つだけのマシンになりかけていた私は、だるそうに放り投げられた言葉をキャッチし損ねた。慌てて拾い上げた内容に驚いて店長の顔を見れば、丁寧かつ嫌味っぽく、同じ言葉を繰り返される。

「オー・ナー・代・わっ・た・か・ら」

 ……オーナーが代わった? 嘘。
 反芻はんすうして言葉を失う。

「どうしてですか!?」
「売ったんだよ。叔母おばさんが。この建物と店の権利書を」

 思わず腰を浮かせて叫んでしまった私に、ようやく満足したらしい。店長は唇をゆがめて鼻を鳴らし、組んでいた足を外した。

「ほんっと勝手だよな。俺が聞いたのも三日前! なんで急に、って聞いても奥歯にものが挟まったような言い方ばっかりでさぁ。突っ込んだら身体の調子が悪いって部屋にこもって、それっきり」
「でも! そんな急に決まることじゃないですよね? お店の権利を譲る手続きとか、色々時間がかかるんじゃないんですか?」
「だからそういうの全部聞いても、ちゃんと答えないんだって。逆に堤さんさぁ、なんか理由聞いてないの? 叔母おばさんと仲よしじゃん」

 きっと長期休みの件でかばってもらったことを当てこすっているのだろう。ぐっと言葉に詰まる。

「……いえ、何も聞いてません」
「そうなんだ。意外と堤さんも叔母おばさんに信頼されてなかったんだね」

 ぐさっと突き刺さるけれど、店長だって同じ立場なのだ。あらかじめ言ってくれなかったのはやっぱりショックだけど……やむを得ない事情があったんじゃないかな、と思う。
 オーナーはそういうことも含めてきっちりしている人だったから。……ただ、その事情が何なのかは想像もできないけれど。

「いっそだまし取られたとかだったら納得できるけどさぁ。なんでこんな大事なこと、店長である俺に相談もしないで決めたのか、ホント理解できないよ」

 店長の物騒な言葉にぎょっとしたものの、その可能性もなくもない気がしてくる。
 だって、服が大好きなオーナーは、このお店を大事にしていた。なのにお店を手放すなんて、ピンと来ない。オーナーはこの辺りの地主さんでもあるし、お金に困って売り渡したという可能性も低い。
 さっき私が言った通り、お店や土地の権利の手続きもあっただろうから、半月前ここで顔を合わせた時には、すでにお店を譲ることは決まっていたはずだ。それなのに私や店長に黙っている理由なんてあるだろうか?

「堤さん、反応薄いよね。なに、もしかして冗談だと思ってるの? 別にそれならそれでいいけどさ、堤さんが恥をくだけだし。あぁ、でも今日のお昼にその新しいオーナーが挨拶あいさつに来るから、今日休みの子達も含めてスタッフ集めといて」

 だまされたかどうかは分からないけれど、オーナーが代わったのは確からしい。さすがにスタッフ全員を巻き込んで冗談でした、なんてことは許されない。

「てっきり俺に譲ってくれるもんだと思ってたから、今まで我慢してたのに」

 本格的に愚痴ぐちり出した店長の話は、右から左へと流しつつ考える。オーナーに直接電話してみようかな。でも店長が言った通り、代わることも言ってもらえなかったのだから、迷惑に思われるかもしれない……、それならそれでお詫びをするとして、今までお世話になったお礼だけでも言っておきたい。

「オーナーは、今どうされているんですか?」
「あー今日から友達の家があるヨーロッパに旅行だって。こんなに引っき回して優雅なもんだろ? ホントもうボケちゃってんじゃないかな。よっぽど楽しいのか、何度も電話してるけど全然つながらない」

 あまりの言いようにむっとしたものの、一つ深呼吸して心を落ち着かせる。
 海外に行っても使える携帯はあるだろうけど、オーナーがそれを持っているとは限らない。
 とりあえず電話してみて……ああ、もう。納骨も終わってようやく色々落ち着いたってほっとしたところだったのに、まさか休んでいる間にオーナーが代わるなんて思いもしなかった。
 でもどれだけ動揺していても副店長である以上、私は少なからず困惑するに違いないスタッフのフォローをしなければならない。オーナーが代わるってことは、スタッフの削減なんかもあるのだろうか。赤字ではないけれど、ただでさえここ数年の売り上げは伸び悩んでいるし……嫌だな。みんないい子なのに。
 というか、一番お給料が高いであろう店長や、そこそこ貰っている副店長の私のクビの方が危ないかも。
 うわ、ここに来てまさかの職を失う展開!? 一人暮らしに突然の失職は死活問題だ。

「あの、新しいオーナーってどんな人なんですか」

 私の質問を今更と感じたのか、店長は鼻白はなじろみ、「さぁ?」と軽く肩をすくめた。

「俺もこの前電話で話しただけだから顔は知らないけど、声は若かったな。名前は――なんだっけ。スマホに登録しておいたと思う」

 そう言って足を組み直し、隣に置いていた鞄を探り始める。
 ……呑気のんきだなぁ。身内がお店をだまし取られたとは思えない態度だし、だまされた云々うんぬんはやっぱり店長の勘違い? そもそも店長は自分の進退にも関わるって分かっているのかな? 今まではオーナーのおいだからって許されていたことが通らなくなるってことなのに。
 あれ、そう考えるとそこまで悪い展開じゃない……? って違う! お世話になったオーナーが辞めてしまったことを喜ぶとか、なんて恩知らずなんだろう!
 オーナーごめんなさい、と心の中で謝罪したところで、ようやく店長が鞄からスマホを取り出した。画面をタップしていた彼がぴたっと指を止める。そして思い出したように「そうそう」と頷いた。

「相良。相良大貴」

 相良……
 そう反芻はんすうして――私は耳を疑った。


「初めまして。相良大貴です。アパレルは本当に素人しろうとなので、教えていただくことも多いと思いますが、よろしくお願いします」

 わぁっと女の子達の黄色い声が上がる。お昼近く、突然の呼びかけだった上に時給は発生しないにもかかわらず、ほぼ全員が集まってくれたので、お店の中は賑やかだ。お客さんがちょうどいなくてよかった。
 相良さんの隣に並んでいる店長は、超仏頂面である。
 まぁ若い女の子はイケメンが大好物ですからね……
 昨日見た時と寸分変わらない、まぶしいくらいの相良さんの美貌に溜息が出てくる。
 店長から名前を聞いたものの、同姓同名の別人という可能性もあったので、実際に顔を合わせるまでは信じ難かった。だけど約束の時間に現れた新オーナーは、間違いなく昨日、我が家を訪ねてきた『相良大貴』その人だったのである。

「堤さんもよろしくお願いします」
「よ、……よろしくおねがいしマス」

 動揺が思いきり声に出てしまった。詰まって抑揚よくようがおかしくなった挨拶あいさつに、麻衣ちゃんがぷっと噴き出す。

「真希さん、緊張しすぎですよぉ。まぁイケメンなんて、この辺じゃ見ないですもんね!」
「あ、ははっ、つい」

 悪気のない麻衣ちゃんに乗って笑ってみせたものの、未だ事態を処理しきれない。
 そして麻衣ちゃん、自分はイケメンだと思っている店長をさりげなくディスるのはやめよう?
 ほら、ますます顔が強張こわばっちゃってるからさ!
 でも本当に相良さんがオーナーなの? 偶然? いやまさかそんなのありえる?
 さっきも思ったけれど、お店と建物の権利者の変更なんて、昨日の今日でできるものじゃない。偶然だったとしても、じゃあどうして昨日お線香をあげに来てくれた時に言ってくれなかったのか疑問が残る。店名が入った名刺を渡したのだから、気づかない方がおかしいだろう。
 ……今すぐ問い詰めたいけれど、ここで話せば集まっているスタッフにも聞かれてしまう。店長の口ぶりからして、新オーナーと知り合いだと知られたら、物凄い因縁いんねんをつけられそうだ。
 それにさっきの女の子達の反応から考えるに『仲を取りもってください!』なんて頼まれて、ややこしいことになりそう。そして恐らく、さっき挨拶あいさつした感じでは相良さんも私と初対面のていでいく気なのだろう。

「現場は堤に任せているので、何か質問があれば彼女に聞いてください。堤さん、オーナーを案内してあげて」

 挨拶あいさつもそこそこにそう言った店長は、そそくさと自分の巣、もとい店長室へ戻っていった。
 その背中を見送った相良さんはちょっと困ったように笑う。
 彼の笑顔に、側にいたスタッフの女の子が、きゅんっとした顔になったのが分かった。罪作りな相良さんにまた溜息をつきたくなる。この人が来るたびに、女の子がソワソワして仕事にならなそうだ。

「……どこから案内しましょうか」

 スタッフの手前、動揺は隠して平坦な声で尋ねる。
 相良さんも「仕事の邪魔をしてすみません」と前置き、すぐに本題へ入った。お互い昨日と違って終始敬語で、間合いも仕事相手らしいものだ。
 どこか白々しらじらしさを抱えつつ、私は言われるまま各売場を案内していく。

「二階もあるんですよね?」

 一階の案内を一通り終えたところで、相良さんは視線を上げてすぐ側の階段を指さした。
 大きな螺旋らせん階段の半分まではトルソーを置いて、ディスプレイとして使っているけれど、その先はスタッフオンリーのプレートとチェーンをかけて立ち入り禁止にしている。

「昔は二階も売り場として使っていたんですが、売り上げが下がったので縮小しようと閉鎖したんです。今はほぼ倉庫になっています」

 様子をうかがいながらそう説明する。やっぱり相良さんが、昨日のことについて触れる気配はない。ああもう! 気になるんですけど!

「そうなんですか。見ても構いませんか?」
「はい、定期的に掃除はしていますし大丈夫です」

 表面上は淡々と返して、キャッシャーの後ろにある二階のブレーカーに手を伸ばす。だけど手前に積んでいる荷物のせいで、微妙に届かずかかとを浮かしかけたその時、後ろから大きな手が伸びてきた。

「これですか?」

 背中におおい被さってくる微かな重さを感じてから一拍後、昨日もいだあのさわやかだけど、どこか甘い香りに包まれる。

「……っ!」

 背後の存在にぎょっとして、飛び上がりそうになるのを必死にこらえた。
 かろうじて首だけ上下に動かして返事をすると、相良さんがブレーカーのスイッチを押し上げてくれる。

「じゃあ行きましょう」
「あ、ありがとうございました……」

 すっと身体を離して階段に向かう背中を慌てて追うものの、未だ心臓がうるさい。
 ……びっくりした。いや、うん……ときめいたとかじゃなくてね! あんなに男の人とくっついたのなんて久しぶりだったから、ちょっとびっくりしてしまった。
 まぁ、これまでだって満員電車で似たような状況はあったけれど、それと一緒にするのは違うだろう。
 ……いやいや、だからそんな場合じゃないってば! と、相変わらずドキドキしている胸をぎゅっと押さえ、自分を叱咤しったしチェーンを外す。そのまま先に階段を上がって照明のスイッチを入れた。
 壁に寄せた棚と、壊れたハンガーラック、季節限定のショップ袋の段ボールを置いているだけなので、全体的にがらんとしていてどこかかびくさい。

「下と同じ間取りなんですね」

 相良さんはくるりと部屋を見回して、納得した様子で頷いた。

「もったいないですね。この辺りは賃料が高いせいか小規模のお店が多い中で、こんなにスペースがあるのに。扱っているブランドにはベーシックなデザインも多いですし、品揃えを多くした方が客足も伸びるんじゃないかと思うんですけど、どうですか?」
「え? あ――そうですね……」

 さっきの衝撃から抜け切れず返事が遅れた。慌てて仕事モードに頭を戻して、言われた内容を考える。
 一店員としては、商品が増えるのは単純に嬉しい。せっかく来店してくださったお客さんを品切れでがっかりさせたくないし、現状ではカラー展開の多い商品が出たとしても、定番色しか発注できないことも多いからだ。ただ副店長としては売れ残りリスクを無視できない。
 正直にそう言えば、相良さんは少し考えるみたいに形のよい唇にこぶしを当てた。

「在庫を抱えるのが不安なら、半分賃貸にして、軽いスナックが食べられるようなカフェに入ってもらってもいいかもしれませんね。滞在時間も延びるだろうし、配置を考えれば、ここから商品も見える造りにできるでしょう」

 それはきっと店の子も喜ぶ。この辺には手頃にコーヒーが飲める場所がないって言っていたし。
 それにしてもカフェか。ここ最近ショッピングモールに、カフェが併設されたアパレルショップも増えてきたよね。……うん、悪くない。

「いいですね! でも、できればカフェはうちから出した方がよくありませんか? ユニフォームはなしでソムリエエプロンだけにして、うちの商品を着て接客してもらった方が宣伝になるだろうし」
「確かにその方が、ショップの雰囲気が伝わるからいいですね」

 頷きながら、カフェのスタッフを引き受けてくれそうな子を頭の中でピックアップしていた途中で、はっと気づいた。
 今、二人っきりだ……!

「あ、あの」
「椅子やテーブルの備品は心当たりがあるから任せてくれますか? ああ、一応店長にも話を通しておきますね」
「え、あぁ……、そ、そうですね……」

 きっ……聞けない。そうよね、だって仕事中だし。

「真希さん! すみません、お電話です!」

 不意に下から呼びかけられて慌てて返事をすると、相良さんが腕時計を見た。

「私も一緒に下ります。案内ありがとうございました」

 彼はそう言うと、先導するように階段を下りていく。
 階段の途中まで来てくれていたスタッフが、ちょっと頬を染めて相良さんに会釈えしゃくしてから、私に電話の子機を差し出した。

『お世話になっております。先程発注していただいた分の――』

 受話器を耳に当てるものの、自然と視線は相良さんを追いかけて店の奥へ向かう。恐らく店長にさっきの話をしに行ったのだろう。

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