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3章・動乱の大英帝国

燐介、マルクスにフットボールを勧める②

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 俺は、自称『真なる革命家』カール・マルクスに、労働者にフットボールをプレーさせることを提案してみた。
 当然ながら、マルクスは困惑している。
「うむむ……。労働者を団結させる何かが必要だということは理解できるが、それが聞いたこともない遊びなのだろうか?」
 フットボールやサッカーを「遊び」などと言ったら、令和のサッカーフリークが怒ることは間違いなしだが、まあ、この時代であれば仕方がない。知識階級には得体のしれない何か以上のものではないだろうからな。
 マルクスにも理解できるような説明をしよう……
「健全な精神は健全な肉体に宿ると言うじゃないか。労働者も適度に運動をして、リラックスすることでより活躍ができるはずだ……」
 と言った途端、「馬鹿者―!」という叫び声とともに強烈な右フックが飛んできた。
「ぐはっ!」
 ダウンした俺に、マルクスが馬乗りになる。
「小僧! 貴様、今の言葉は吾輩が運動も満足な仕事もせずに頭でっかちな生活をしていることへのあてつけか!? 許さん!」
 そんなことは言ってねぇよ!
 というか、重いんだよ! 40近い男が14の少年に馬乗りになるな!
 しかも殴りながら泣くな! 仕事少なくて恥ずかしいって思うなら、ちょっとは体を動かせよ!
「こら! やめろ!」
 デューイと総司が引き離してくれて、ようやく自由になれた。
 痛てて、本気で殴りやがって。
 よくよく考えればマルクスって、貧困のくせに使用人雇ったりしていたんだっけ。新聞に寄稿しているから完全なニートとはいえないが、それに近い気質もあるのかもしれないなぁ。
「とにかく、フットボールを見てみれば分かるだろう」
「……分かった。エンゲルスにシェフィールドまでの交通費を出してもらうように頼んでみよう」
 ……自分で稼げよ。
 喉の入り口近くまで来た言葉を俺は飲み込んだ。

 マルクスはエンゲルスから交通費を借りたら、また連絡をすると言って去って行った。
 労働者の団結のためには、理論だけでなくレクリエーションも必要だということはどうやら理解してくれたらしい。
 これで、共産主義に関する彼の考え方が多少修正されれば、ひょっとしたら世の中も変わるのかもしれないな。いや、実際に最初の共産主義国であるソ連が出来るのはマルクスの死後30年くらいが経ってからだから、希望的観測なのかもしれないが。
「燐介よ」
 と、松陰が声をかけてきた。腕組みをして何やら考えているような様子だ。
「……お主が先程言っていた”ふっとぼーる”というものは、いかなるものなのだ?」
「いかなるもの……と聞かれても、ちょっと説明が難しいな」
 サッカーとは22人が90分間ボールを追い続けて、最後はドイツが勝つ競技だ、と言ったのはJリーグでもプレーしたことのあるガリー・リネカーでしごく名言だが、これだけを聞いても果たしてどんな競技かというのは分からない。
 ルールは単純だから、実物を見せれば分かるとは思うのだが、まだロンドンでは頻繁にプレーされていることはないだろう。
 シェフィールドでなら試合が行われているかもしれないが、松陰と山口が日本へ帰国するタイミングもあるから、往復するのは難しそうだ。

 うーん。

「とりあえず、ロンドンの競技場にでも行ってみようか」
 ロンドンの最古の競技場はというと、これまたクリケットの競技場でローズ・クリケット・グラウンドだ。これは歴史が古く何と18世紀末に建設されたものである。
 サッカーのスタジアムに関してはもう少し歴史が新しい。前にも触れたが、この時代、スポーツの花形はまだクリケットだからな。
 サッカーが自前で収支を賄えるようになるのは20世紀に入ってからだ。
 ただし、クリケットのスタジアムの隅でサッカーに興じる人達がいたとしても不思議はないだろう。
「良かろう。イギリスの”ふっとぼーる”と”くりけっと”なるもの、非常に楽しみだ」
 松陰が満足げに頷いている。
 これは、もしかして、「面白い」と思えば松下村塾でもサッカーやクリケットが行われるようになるのだろうか。この二つの競技は広場とボールがあれば、それほど難しい競技ではないからな。
 ただ、どう影響するかは分からないが、それも悪いことではないように思える。
 少なくとも、リンカーンの共和主義を唱えだしたり、マルクスの共産主義哲学を語ったりするよりは穏当なのではないだろうか。

 翌朝。
 幸いにしてこの日は記者達も来ていない。さすがに日本人ネタも飽きてきたというところだろうか。
 かなり久しぶりに自由な時間が出来た。
「デューイ、ちょっとクリケットの競技場まで行きたいんだが先導してくれないか?」
「あ、あぁ。分かった」
 デューイはすぐに準備を始めた。日本人の俺達だけで動いていると予期せぬ事態が発生するかもしれない。アメリカ人の彼がついてくれないと動きにくいし、デューイもそのことを心得ている節がある。
 俺達はホテルを出て、ローズ・クリケット・グラウンドに向かうことにした。
 この時、俺達は周囲の奇異の視線ばかりを気にしていた。
 だから、俺達の後をこっそりつけてくる者がいることにはまるで気づくことがなかった。
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