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第一幕 子猫は勝手気ままに散歩に出かける
子猫は勝手気ままに散歩に出かける 2
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……痛い。
心配で胃が痛い。
霧と百合丸の姿を見てからもう一刻(二時間)が経っている。
『あの二人はいったいどこに? まさか本丸に潜入したのではあるまいな?』
そんな不安と焦燥。
『今頃は不審者として無礼討ちなんてことになっているのでは……』
そんな最悪な想像がいくつも頭の中に浮かび上がって余三郎の胃を痛ませている。
とぉーん。とぉーん。とぉーん。
解散の合図である太鼓が本丸のほうから聞こえた。
どうやら今回も将軍の謁見は大広間詰めの大名までで切り上げたらしい。
今の三つ太鼓は七つある詰め所の中でも上位三つまでの謁見で今回は終わるという合図だ。
菊の間に詰めていた旗本たちが揃って安堵の息を吐き、凝り固まった体の筋肉を伸ばしながら立ち上がる。
三々五々に下城する大名たちの間を余三郎は足早に「御免。御免」と言いながらすり抜けて家臣の詰め所に急いだ。
下馬場を小走りで抜け、百合丸たちが本来いるはずの大手門へ向かう途中――。
「おや、そこに行くは余三郎ではないか」
人垣の向こうから朱漆の大扇を手中で弄びながら気軽に声を掛けてくる青年がいた。
京の公家のように歯を黒く染めて顔に白粉を塗った下ぶくれの男。
「鶴宗兄者」
余三郎は振り返り、思わず舌打ちしそうになるのをなんとか堪える事が出来た自分を褒めたくなった。
わざとかと思うほどゆっくりと余三郎に向かってくる副将軍鶴宗。
名前の音がそうだからなのか三十を手前にして早くも頭の上がつるっとしていて小指の先ほどの小さなちょんまげが頭頂付近でふらふらと揺れている。
鶴宗は普段から美食を摂っているらしく全身が樽のようにだらしなく膨らんでいて歩くのも難儀しているようだった。
長兄の亀宗と違って武芸を全然やっていないことは彼の体型を見ただけでわかる。
「どうしたのじゃ余三郎、そのように慌てて?」
「い、いえ別に慌ててなど……」
余三郎はこの次兄がどうにも苦手だった。
京の公家文化に傾倒して京風の物ならなんでも有り難がる鶴宗は、それと同等以上の熱意で権力に執着していて、一時は長兄の亀宗と将軍職の後継を争った事もある。
「ふむ……」
鶴宗は余三郎の少し手前で足を止めると、腕の長さほどもある大扇をちょいちょいと上下させて余三郎に歩み寄らせた。
最後の数歩を相手に歩かせる。そうさせることでどちらが目上なのかを分からせるためだ。
余三郎は昔から鶴宗のそうしたところが嫌いだった。
「暫く見ぬ間に随分と窶れたのではないか? 余三郎が継いだのは……確か猫柳という名の家だったのう?」
「は、その通りでござる」
余三郎が身につけている裃の紋を見て鶴宗がにまりと頬を弛ませた。
「滑稽な家紋じゃな。まぁ、おぬしには似合うておるが、わしなら遠慮したい紋じゃ。ほほほっ」
「……」
猫柳家の紋の図柄は『大一小四黒丸』。簡単に表現すると猫の肉球をぺたんと押しつけたような紋なので世間では『肉球紋』と呼ばれている。
「いやはや、しかしあれじゃな。兄上は酷い仕打ちをなさる。仮にも血を分けた弟に足軽程度の禄しかない家を継がせるとは。ほほほほっ可哀想にのぉ」
「……」
鶴宗のあからさまな侮辱。それでも余三郎はぐっと唇を噛んで耐えた。
余三郎にとっては耐え難い面罵だが、これは鶴宗の挨拶のようなものだと余三郎は理解している。
自分がこの世で最も偉いと思い込んでいる鶴宗とって、これくらいの侮慢は気の利いた冗談だと思っているのだ。
ただ、この兄がそういう人柄なのだと理解していても不快であることは変わりない。
「ときに余三郎。おぬしは次代の将軍になる者は誰だと思う?」
渋柿を口に含んだような顔をしている余三郎に対して鶴宗が突然おかしなことを訊いてきた。
「……は?」
「も、し、も、じゃ。もしも兄上が突然の病死や事故死にでも遭った場合、次代の将軍は誰が相応しいかと訊いておるのじゃ」
「そのように不吉な事など考えたこともありませぬ。亀宗兄者はまだ三十路になったばかりの若さ。そもそもあの兄上が斃れるほどの病気などこの世にあるでしょうか? 亀宗兄者が相手では病気の方が悲鳴を上げて逃げ出しそうでござるが」
「ふむぅ、確かにそうじゃな。あの男には附子の毒(トリカブト)でも効きそうにないし、刀で斬りつけても刀のほうが折れてしまいそうじゃ……」
「あ、兄上……よもや……」
不逞な企てをしているのではと余三郎が腰を引きそうになったのを見て、鶴宗はもう充分とばかりに朱漆の大扇を閉じて話を切り上げた。
「ふん。何が『よもや』じゃ。木っ端な旗本とはいえ家臣を持つ身になったゆえ、余三郎も多少はマシになったかと思えば……まだこの程度だとはのぉ」
可哀想な子を見るような憐れんだ目でもう一度余三郎を見つめなおすと「ふん。見込み違いじゃったか」吐き捨てるように呟いてそのまま立ち去った。
一人で取り残された余三郎は遠ざかる鶴宗の背中を眺めながら『えー?』と困惑しながら目を眇めた。
『わからん。鶴宗兄者は何が言いたかったのだ? もしかして「いやぁ、鶴宗兄者こそ次の将軍ですよ~」とヨイショして欲しかったのか? そんな事をわしにさせるためにわざわざ呼び止めたのか? ……ううむ、まさかねぇ』
余三郎は鶴宗がわざわざ自分に声をかけた鶴宗の真意を量りかねて首を傾げながら唸っていたが、ハッと百合丸たちのことを思い出して再び家臣の詰め所へと足を早めた。
心配で胃が痛い。
霧と百合丸の姿を見てからもう一刻(二時間)が経っている。
『あの二人はいったいどこに? まさか本丸に潜入したのではあるまいな?』
そんな不安と焦燥。
『今頃は不審者として無礼討ちなんてことになっているのでは……』
そんな最悪な想像がいくつも頭の中に浮かび上がって余三郎の胃を痛ませている。
とぉーん。とぉーん。とぉーん。
解散の合図である太鼓が本丸のほうから聞こえた。
どうやら今回も将軍の謁見は大広間詰めの大名までで切り上げたらしい。
今の三つ太鼓は七つある詰め所の中でも上位三つまでの謁見で今回は終わるという合図だ。
菊の間に詰めていた旗本たちが揃って安堵の息を吐き、凝り固まった体の筋肉を伸ばしながら立ち上がる。
三々五々に下城する大名たちの間を余三郎は足早に「御免。御免」と言いながらすり抜けて家臣の詰め所に急いだ。
下馬場を小走りで抜け、百合丸たちが本来いるはずの大手門へ向かう途中――。
「おや、そこに行くは余三郎ではないか」
人垣の向こうから朱漆の大扇を手中で弄びながら気軽に声を掛けてくる青年がいた。
京の公家のように歯を黒く染めて顔に白粉を塗った下ぶくれの男。
「鶴宗兄者」
余三郎は振り返り、思わず舌打ちしそうになるのをなんとか堪える事が出来た自分を褒めたくなった。
わざとかと思うほどゆっくりと余三郎に向かってくる副将軍鶴宗。
名前の音がそうだからなのか三十を手前にして早くも頭の上がつるっとしていて小指の先ほどの小さなちょんまげが頭頂付近でふらふらと揺れている。
鶴宗は普段から美食を摂っているらしく全身が樽のようにだらしなく膨らんでいて歩くのも難儀しているようだった。
長兄の亀宗と違って武芸を全然やっていないことは彼の体型を見ただけでわかる。
「どうしたのじゃ余三郎、そのように慌てて?」
「い、いえ別に慌ててなど……」
余三郎はこの次兄がどうにも苦手だった。
京の公家文化に傾倒して京風の物ならなんでも有り難がる鶴宗は、それと同等以上の熱意で権力に執着していて、一時は長兄の亀宗と将軍職の後継を争った事もある。
「ふむ……」
鶴宗は余三郎の少し手前で足を止めると、腕の長さほどもある大扇をちょいちょいと上下させて余三郎に歩み寄らせた。
最後の数歩を相手に歩かせる。そうさせることでどちらが目上なのかを分からせるためだ。
余三郎は昔から鶴宗のそうしたところが嫌いだった。
「暫く見ぬ間に随分と窶れたのではないか? 余三郎が継いだのは……確か猫柳という名の家だったのう?」
「は、その通りでござる」
余三郎が身につけている裃の紋を見て鶴宗がにまりと頬を弛ませた。
「滑稽な家紋じゃな。まぁ、おぬしには似合うておるが、わしなら遠慮したい紋じゃ。ほほほっ」
「……」
猫柳家の紋の図柄は『大一小四黒丸』。簡単に表現すると猫の肉球をぺたんと押しつけたような紋なので世間では『肉球紋』と呼ばれている。
「いやはや、しかしあれじゃな。兄上は酷い仕打ちをなさる。仮にも血を分けた弟に足軽程度の禄しかない家を継がせるとは。ほほほほっ可哀想にのぉ」
「……」
鶴宗のあからさまな侮辱。それでも余三郎はぐっと唇を噛んで耐えた。
余三郎にとっては耐え難い面罵だが、これは鶴宗の挨拶のようなものだと余三郎は理解している。
自分がこの世で最も偉いと思い込んでいる鶴宗とって、これくらいの侮慢は気の利いた冗談だと思っているのだ。
ただ、この兄がそういう人柄なのだと理解していても不快であることは変わりない。
「ときに余三郎。おぬしは次代の将軍になる者は誰だと思う?」
渋柿を口に含んだような顔をしている余三郎に対して鶴宗が突然おかしなことを訊いてきた。
「……は?」
「も、し、も、じゃ。もしも兄上が突然の病死や事故死にでも遭った場合、次代の将軍は誰が相応しいかと訊いておるのじゃ」
「そのように不吉な事など考えたこともありませぬ。亀宗兄者はまだ三十路になったばかりの若さ。そもそもあの兄上が斃れるほどの病気などこの世にあるでしょうか? 亀宗兄者が相手では病気の方が悲鳴を上げて逃げ出しそうでござるが」
「ふむぅ、確かにそうじゃな。あの男には附子の毒(トリカブト)でも効きそうにないし、刀で斬りつけても刀のほうが折れてしまいそうじゃ……」
「あ、兄上……よもや……」
不逞な企てをしているのではと余三郎が腰を引きそうになったのを見て、鶴宗はもう充分とばかりに朱漆の大扇を閉じて話を切り上げた。
「ふん。何が『よもや』じゃ。木っ端な旗本とはいえ家臣を持つ身になったゆえ、余三郎も多少はマシになったかと思えば……まだこの程度だとはのぉ」
可哀想な子を見るような憐れんだ目でもう一度余三郎を見つめなおすと「ふん。見込み違いじゃったか」吐き捨てるように呟いてそのまま立ち去った。
一人で取り残された余三郎は遠ざかる鶴宗の背中を眺めながら『えー?』と困惑しながら目を眇めた。
『わからん。鶴宗兄者は何が言いたかったのだ? もしかして「いやぁ、鶴宗兄者こそ次の将軍ですよ~」とヨイショして欲しかったのか? そんな事をわしにさせるためにわざわざ呼び止めたのか? ……ううむ、まさかねぇ』
余三郎は鶴宗がわざわざ自分に声をかけた鶴宗の真意を量りかねて首を傾げながら唸っていたが、ハッと百合丸たちのことを思い出して再び家臣の詰め所へと足を早めた。
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