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End of the despair(絶望の果てに)
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「先輩、ルイスバーグとの同盟が無事に締結されたようですよ」
今日もラチアの家に遊びにきているパイラが手で自分を扇ぎながら教えてくれた。
近くの雑木林のほうから蝉の鳴き声がジージワ、ジージワ、と降り注いでいる。
空の青さはどこまでも高く、照りつける日光は痛いくらいに眩しい。
作業小屋の全ての窓を大きく開けてできるだけ風通しが良くなるようにしているのだけれど小屋の中はうだるような暑さだ。
「スゴイですよねアルベルト先輩。交戦していた国と停戦しただけじゃなく一気に軍事同盟締結までもっていくなんて魔術のような外交ですよ。しかもそれを半年足らずでやっちゃうんですから」
暑さが苦手なパイラは子供が穿くような半ズボンを穿いて腹部を大胆に晒した丈の短いシャツを着ていた。
それほどの薄着でも汗が止めどなく滲み出て、首から伝った汗がパイラの胸の谷間を通ってお腹へ流れている。
「アイツが交渉に行ったんだ。失敗するはずがない」
汗止めの布を頭に巻いて木片を削っているラチアの鼻の先にも玉のような汗が浮いていた。
「やっぱり有能ですよね、アルベルト先輩って」
ラチアとアルベルトは士官学校の同期生なのでアルベルトもパイラには先輩にあたる。
「宰相なんて職位に就く野郎は性格が悪いほど優秀らしいからな。その意味でならアイツは最高の宰相だ。あの腹黒さは筋金入りだからな、水面下でどんな卑劣な策を弄しているかわかったものじゃない。こうしている今も何か仕掛けられているんじゃないかと思えるくらいだ」
そう言いながらもラチアは『まさか、いくら奴でもそんな事はないか』と思っていた。
しかし、ラチアが冗談で言ったアルベルトへの疑いは大正解だった。
アルベルトは数年前から用意周到にラチアを嵌めるための罠を仕込んでいた。
そして今、アルベルトが仕掛けた爆弾のような罠が現在進行形でラチアの側にある。
それはまだラチアたちが士官学校の学生だった頃。
ラチアに恋するパイラにアルベルトが《恋の軍師》を自称して接近した。
「キミ、ラチアのことが好きなんだって?」
そう言ってパイラに近づいたアルベルトは彼女に恋の協力を申し出て《まるで自分の事のように》親身になって色々とアドバイスをしたり、ラチアに近づきやすいように場を提供したり、とにかく全力でパイラをサポートした。
不気味なくらいに親切なのでパイラが警戒感を露わにしながら訊いた。
「どうしてそんなに協力してくれるんですか? あたしラチア先輩オンリーだからどんなに優しくされてもアルベルト先輩に鞍替えしたりしませんよ?」
「うん、僕に惚れられても困るのでそういう感情はみんなあいつに向けてくれ。僕はアイツが姫様以外の誰かとくっつけばそれでいいんだ」
「あぁ、なるほど。了解です」
そう言われてピンとこないほどパイラも馬鹿じゃない。パイラとアルベルトの利害関係は完全に一致していた。
「で、次にあたしは何をすればいいですか?」
「アイツはかなりシャイで鈍感だからね。攻略する方法はただ一つ。押して押して押しまくれ。嫌がっているように見えても気にするな。本心では嬉しいはずだ。照れているだけなんだよ」
「了解っす!」
パイラはアルベルトの言葉を信じて、出会って十年目の今でも攻撃力の高いアタックを続けている。
ラチアはある時点からパイラが急に積極的になったことをずっと不思議に思ってはいたが、それが幼馴染の宰相が何年も前から周到に仕掛けた罠だということにまだ気付いていない。
「もぅ、先輩ったら。アルベルト先輩は案外いい人ですよ。いくら幼馴染みでも言いすぎです」
パイラは彼に対して悪いイメージがない。
なにしろ彼女の恋の軍師なのだから。
「言いすぎなものか。あの野郎、俺には物騒極まりない仕事を押しつけておいて、自分は同盟締結の条項に自分の身の安全を保証する一文を混ぜやがったんだぞ?」
パーツの大まかな削り出しを終えたラチアはそれを口元に持ってきてふっと息を吹きかけた。
細かな削り滓が宙に舞って小屋の隙間から射し込んでいた光の筋を際立たせる。
「自分の命が懸かってるんですからアルベルト先輩じゃなくてもそれくらいの手は打ちますよ。普通ですよ、フツー。功績を立てた直後に首チョンパだなんて誰だって嫌ですもん」
「しかしだな……」
ラチアは反論しようとしたがパイラが言うことも一理あるので不機嫌そうに口を閉ざし、持っていた鑿を置いて代わりにヤスリを手にとった。
「でも……今回の件で一番功があったのは、おチビちゃんですよね」
話題がラヴィのことになった途端、ラチアの顔に後悔と自責の色が浮かんだ。
「あの晩の事、あたしきっと一生忘れません」
「……」
「あたし、先輩があんなに泣いちゃう人だって知りませんでした」
「……」
「ねぇ先輩? あたしが死にそうになっても、あんなふうに泣いてくれますか?」
「……」
「先輩、聞いてます?」
「聞いてない」
「もぅ! 聞いてるじゃないですか」
こういう会話には簡単に乗ってこない人だと知っているパイラは諦めの溜息を零して話題を変えた。
「先輩。おチビちゃんは今どこに?」
「裏庭で安らかに眠っている」
「そうですか……」
パイラは声のトーンを落として顔を横に向けて窓の外を遠い目で眺めた。
夏の空の青さが目に染みて目細めながら室内に視線を戻すと、窓の傍に小さな本棚があるのを見つけた。
何気なくその中の一冊を手に取ってみた。
パイラはその本に見覚えがあった。
パイラがラヴィと初めて会った日にパイラが選んであげた本だった。
パラパラとページをめくって絵本を黙読するパイラ。
急に黙ったパイラが気なったラチアはヤスリ掛けをする手を止めて肩越しに振り返った。
「ボロボロですね、この本」
「それはアイツにとって初めての本だったからな。どの本よりも愛着があったようだ」
「《シンデレラ》……。先輩、前に言ってましたよね。これって元々はガラスの靴じゃなくって、毛皮の靴だったのを間違えて翻訳したんだって」
「あぁ、よほど無能な奴が翻訳したんだろうな。もしソイツに会う機会があったら本気でブン殴るぞ俺は」
ラチアは肩が震えるほど強く拳を握っている。
「そこまで憎いですか」
「あぁ憎い。俺はそいつを一生許さない。どこをどう読み違えたら『毛皮の靴』が『ガラスの靴』になるんだ。一文字も合ってないだろうが」
「ウチの国の言葉では全然違っていても、原作の国の言葉だと似たようなスペルなんじゃないんですか?」
「それにしたって……」
それだけの説明では納得しれないラチア。
でも、ここにはいない翻訳者に対して怒りを滾らせていても仕方がないと思ったのか、ぶつぶつと文句を言いながらヤスリ掛けを再開した。
ゴリッゴリッ。
木片の削れる音がするたびにラチアの背中の筋肉が僅かに伸縮を繰り返す。
少年の頃から武技の修練に明け暮れていたラチアは脂肪が普通の人に比べて極端に少なく、そこに汗で濡れたシャツが張りついているので筋肉の凹凸がくっきりと浮き出ている。
パイラはラチアの背中を眺めながら思った。
『本当はこんなところで靴作りをしているような人じゃないのに……』
どう見ても戦士向きな体格だ。
適性にも才能にも恵まれていて経験も実績もある。
なのに、こんな人里離れたところでちまちまと靴を作っている。
そんなラチアを見ていると、パイラは『惜しい』と思わずにはいられなかった。
「それより先輩、気分転換にあたしとチューしませんか?」
自分の背後で不穏なことをほざく後輩が不審者過ぎてラチアは手を止めて振り返った。
「……すまん、話の流れが唐突過ぎて意味不明なんだが?」
「照れてるんですか?」
「いや、呆れてる。なぜそんな話になるのか俺にもわかるように説明してくれ」
「先輩の広くて逞しい背中に濡れたシャツがピッタリ張りついてるのを見てたらムラムラしてきたからです」
『……どうしよう』
ラチアは真剣な顔で悩んだ。
発言の内容の羞恥心の無さ、
それを躊躇わずに発言した行為、
普通の淑女ならば恥ずかしがるであろう場面なのになぜか本人がドヤ顔になっている。
そんなパイラの行動の全てがラチアの理解の範疇を超えていて、どう突っ込んで良いのか分からない。
「今の発言にいろいろ言いたいことはあるが、あえて一つだけ言わせてもらおう。せめて雰囲気くらい考慮したらどうだ? 発情期の獣じゃあるまいし」
「じゃぁ先輩はどんなシチュエーションだとあたしとチューしてくれるんです? 参考までに教えて下さいよ」
「そうだな……」
例えば。と前置きをしてラチアは具体的なシチュエーションを語り出した。
「フクロウの声さえ大きく聞こえるほどに静かな夜――」
「ふむふむ。フクロウの声さえ大きく聞こえるほどに静かな夜?」
「満天の星空に――」
「ふむふむ! 満天の星空に? それで、それで!?」
「月が二つ昇ったときかな」
「ないから! 月は二つもないから!」
「そうか、残念だな」
ラチアはそう言って口の端を少しだけ綻ばせるとパイラに背中を向けて作業を再開した。
どうやらパイラをからかったらしい。
『先輩が珍しく踏み込んだ内容を言い出した! これは心に刻み込んでおかなければ!』
そう思って真剣に聞いていただけにパイラの落胆は大きく、段々とムカついてきた。
「そんな憎らしいことを言う先輩なんか……こうだ!」
我慢しきれなくなったパイラは背後からラチアに飛びかかった。
「うわっ!?」
ガターンと派手な音で椅子が倒れて作業台の上にあった道具類も床に散らばる。
不意をつかれて仰向けに転がされたラチアは慌てて起き上がろうとするけれど、それよりも早くパイラが馬乗りになって覆い被さってきた。
「こら、やめろ! いきなりなんのつもりだ!?」
「力尽くでチューしちゃうつもりです!」
口を3にして顔を近づけるパイラ。
ラチアがパイラのおでこを押して離そうとするのだけれど、その腕力に勝るパイラの背筋力と気迫。
じわじわとパイラの顔が近づいてくる。
「ふ、不埒なことを得意気な顔で言うな!」
「そうですね! これから先は言葉なんて要らないですよね!」
「そういう意味で言ったんじゃないっ!」
グイグイと近づいて来るパイラの鼻息が荒い。
血走った目でふしゅるふしゅると顔を寄せてくる様子は軽くホラーだ。
ラチアが望む甘い雰囲気なんて微塵もない。
パイラの唇が目前にまで迫った瞬間、
「ダメー!」
「おふっ!?」
パイラは横から思いっきり体当たりをされて床の上を転がった。
「ったたた……。あれ? おチビちゃん起きちゃったの? 裏庭で寝てたんじゃ?」
「パイラがうるさいから目が覚めちゃったんだよ!」
ラヴィは本当に今起きたばかりのようで頭に寝癖がついていた。
「こんなことなら無言で襲い掛かればよかった……反省」
大きな物音をたててラチアに襲い掛かったことを後悔したパイラは、のろのろと起き上がって、近くの椅子を引き寄せて大人しく座った。
さすがのパイラでもラヴィの見てる前で再び襲うつもりは無いらしい。
「俺を襲ったことに対する反省はないのか……」
ラチアが起き上がりながらパイラを睨んだがパイラはちっとも気にしていないようだ。
「もう、パイラったら油断も隙もないよ!」
ラヴィは倒れた椅子を定位置に戻すとかいがいしくラチアをそこに座らせて、それから「よいしょ」とラチアの膝の上に乗った。
「って、当然のように俺の膝に乗るな」
「ダメ?」
「ここに座られたら暑いし仕事ができん」
ラチアが「ほら、降りろ」と、ラヴィの背中を押すと、肩越しに振り返ったラヴィがニマーと微笑んでラチアを見上げた。
「じゃあしょうがないね、《お願い》発動だよ。ボクの頭をなでなでして」
「ぐっ!?」
ラヴィの脇に手を入れて膝からどかそうとしていたラチアの手が硬直した。
「いいよねマスター? あの夜『いくらでも願いを言え』って言ったよね? で『全部全力で叶える』って言ったよね?」
「……くっ。あれからもう半年経ってる。そろそろ時効ってことでいいだろ」
「あれは無期限に有効だよ。マスターは期限を言わなかったからね。それに、約束は犯罪じゃないから時効はないんだよ。いわば《誓い》だね。騎士の誓いに期限がないように、あの時の言葉はずっと継続するんだよ。マスターは騎士だったんだから《誓い》がどれほど大切か……わかるよね?」
「うぐっ……」
ラチアがしぶしぶラヴィの頭を撫で始めたのでラヴィは満足そうに微笑んだ。
ラヴィは毎晩貪るように本を読んでいるので半年前と比べて飛躍的に語彙(ボキャブラリー)が増えている。
元々頭の回転は悪くないラヴィ。
文字を知らない頃は簡単にラチアに言いくるめられていたけれど、語彙が増えた今ではラチアの方が言い負かされることが多くなっていた。
「ちょっと前まではあんなに子供子供してたのに、今ではもうすっかり駆け引き上手になっちゃって。成長の早さはさすがアニオンってとこ? あの時の回復力にも驚かされたけど」
パイラは駆け引き上手なラヴィに感心しながら苦笑した。
短い夏毛に生え替わっているラヴィの胸には半年前まではなかった傷跡がある。
傷跡といってもうっすらとした線があるだけで、よく目を凝らさなければ見えないくらいのものだ。
「そう? でも、あの時は自分でも本当に死んじゃうかと思ったよ。目が覚めたとき自分でビックリしたくらいだもん。『あれ? まだ生きてる!?』って」
ラチアはふたりの会話を聞きつつ苦しそうな顔で黙り込んでいるが、心の中では『騙された! コイツの小っこい見かけに騙された!』と呻いていた。
思い返してみればラヴィと初めて出会ったあの晩もラヴィは瀕死の状態だった。
けれどラヴィは脅威の回復力で持ち直している。
『人間なら致命傷に至っていたあの時だって、たった半月でコイツはケロリと全回復したじゃないか。どうしてそれを忘れていたんだ俺!?』
ラヴィが助かると分かっていたら、あれ程とりみだしはしなかった。
……と、思う。
ラヴィが助かると分かっていたら、あんな約束なんてしなかった。
……と、信じたい。
もし今の自分があの時の自分に会うことができるのなら全力で教えてやりたい。
『コイツは本当にただ《眠い》だけなんだ! 三日寝ていなかったのと貧血のせいで寝ているだけなんだ! 致命傷に見えるこの怪我だって一ヶ月後にはけろっと治るんだぞ!』と。
あの時。
心臓の鼓動に合わせてラヴィの胸から流れ出ていた血が急に止まって、ラチアは本気でラヴィが天に召されたのだと思った。
――けれどそれは違った。
出血が止まったのは急速に傷が塞がったからで、心臓は変わらずに元気に動いていた。
気が動転していなければラヴィの鼓動が止まっていないのはすぐにわかったはずなのだ。
ラチアはあの晩の醜態を思い出す度に、耐えきれないほどの羞恥で身悶えしてしまう。
『それを知っていたら! それさえ知っていたら! くっそお!』
「ちょっと、痛いよマスター。もっと優しくなでなでしてよ」
「あ、すまん。こうか?」
「うん」
あの時のラチアは運も悪かった。
ラチアの家に届けられた最後の材料を記したメモは誤訳されたもので【緑眼兎の心臓のなめし革】は、【緑眼兎の冬毛で織った布】が正しい翻訳だった。
誤訳をした学者たちには殺意を覚えるほど腹が立ったが、とことん真面目な性格のラチアは為すべき事はきちんと為した。
ラヴィが寝起きしていた木箱のベッドから抜け毛を拾い集めて布を織って《神代の遺物》の靴を完成させた。
あの誤訳がなければ、すんなりと魔法の靴は完成していたはずで、ラヴィは大怪我を負うこともなく、ラチアも一生の汚点となるような醜態を晒さずに済んだはず。
だけど、やらかしてしまった醜態はどんなに原因を怨んだところでラヴィの胸の傷と同様に消えてくれない。
時間がこの記憶を過去に押しやって薄れてくれるのを待つだけだ。
しかし、ここにいるふたりが事あるごとに記憶の引き出しからあの夜のことを引っ張り出してきてはラチアの恥ずかしがる顔を愉しもうとするので、なかなか過去に追いやることができないでいる。
さっきもパイラは神妙な声で「あの晩の事、あたしきっと一生忘れません」って言っていたが、金打ち台の鏡面に映ったパイラの顔はニヤニヤしていた。
きっとこれからもあの晩のことをからかい続けるという意味での《忘れません》宣言なのだろう。
「そういえば先輩。先日姫様が王様を怒鳴りつけた話って聞きました?」
「いや? 姫が何かやらかしたのか?」
「知らないんですか先輩? 当事者なのに」
「当事者? 俺が?」
「先輩はもう少しで処断されるところだったんですよ。それを姫様が守ってくれたんです」
「はぁ? どういう流れでそうなったんだ」
姫がラチアを守ってくれたとパイラは言うけれどラチアには全く身に覚えがない。
「どうもこうもないですよ。先輩は勝手に《神代の遺物》を作った張本人じゃないですか」
「…………もしかして、王にバレたのか?」
「バレないと思っていた先輩にあたしはビックリです」
「なぜだ!? 俺があれを作ったのを知っているのは…………あ!」
ラチアが《神代の遺物》を作ったことを知っていて、それをバラすような者。
バレたらただじゃ済まないと知っていて、それでもなお、いや、《だからこそ》ラチアを陥れようとする下衆な野郎。
ラチアはそんな人物に一人だけ心当たりがあった。
「アルベルト先輩が普通にぺろっと喋ったらしいですよ」
「あ、あの外道ぉぉー!」
ラチアに靴のオーダーをしに来たあの日、アルベルトは別れ際にこう言っていた。
《おそらくこれからもずっと、俺はキミのことが大嫌いだ》
幼馴染みで腹黒の宰相が言ったあのツンデレな言葉は友情の裏返しなんかではなく裏の裏、つまり本気で言った言葉だった。
「で、靴を作ったのが先輩だって知った王様が先輩を処断するための捕縛隊を送ろうとしていたんですけど、それを姫様が止めたんですよ」
「姫が?」
王女は王がラチアを処断することにしたと伝え聞くと謁見室に飛び込んで王に掴みかかったらしい。
『あれはマインナイトが私の願いをきいてやってくれたことなんです。聞いた話ではマインナイトは靴を作る材料を集めるためにあの赤竜を相手に一人で戦ったとか。それほどの危険を冒してまで我が国の新しい同盟のきっかけとなった靴を作り上げたのです。本来ならその勇気と忠義を称えて元の地位に戻しても良いくらいなのに、それを無視して逆にまた罰を与えるなんてどういう判断なのですか! そのようなことをしていたら王家に忠誠を尽くす臣は一人として居なくなります!』
「――って、王様を怒鳴りつけたらしいですよ」
「姫がそんなことを……」
ラチアはそのエピソードを聞いて今までの苦労が報われた気がした。
なにしろそれまでは姫と交わした約束を守ることができたのだと自分の心の中だけで満足していた。
でも、今は違う。
ラチアが約束を果たしたことを王女は知ってくれている。
その喜びはただの自己満足と比較することができないくらいに大きい。
たとえ逢えなくてもお互いの気持ちがこうして通じ合っているのだから。
声を上げるような大きな喜びではなく、ほんのりと湧いてくる喜びにラチアは我知らず静かな笑顔になっていた。
「そうか……姫が……。そうか……」
「マスター」
「ん? どうした?」
さっきまで気の抜けるふにゃ顔をしていたラヴィが、なんだか不機嫌そうにぷぅと頬を膨らませてラチアを見上げている。
「姫様の話なんてどうでもいいよ。それよりボク、またマスターが絶望している顔を見たいな。ボクのために絶望してよ」
「いきなりなんて事を言いやがる!?」
なんだか色々と痛い。
心が痛いし、笑うのを堪えているパイラの視線もかなり痛い。
その視線が不本意でならなかったラチアは、ふと何かを思いついたらしくニッとく口の端を吊り上げてイジワルな顔で微笑んだ。
「そうかそうか、そんなに俺の絶望が見たいか。だが、それならもう叶っているぞ」
「叶ってる?」
「そうやって俺をからかう悪い子に育ってしまったオマエに俺は深く深く絶望して、こんなにも心がかき乱されている。こんなにも深い悲しみに俺の心は引き裂かれてしまいそうだ」
そう言われてきょとんとしているラヴィがこれからどんな表情に変化していくのかと、ラチアが意地悪な喜びと期待でワクワクしていたら「あ、だからなのかぁ。納得」ラヴィは花が咲くような可憐な笑みを浮かべた。
「……は? 何が納得なんだ?」
「あのね、ボク、今とても幸せなんだけど、その理由がようやくわかったんだ。そっか、姫様の事じゃなくて、ボクのことでマスターの心が大きく揺れているんだね。マスターはいつだってボクの事を一番に考えてくれているってことだよね。ありがとう、嬉しいよ」
主人の絶望を喜ぶと言われている緑眼兎のラヴィは緑色の目をきゅっと細めて蕩けるような笑顔をラチアに向けた。
「ぐうっ……」
まるで振り下ろした剣を弾かれて逆に深々と胸を刺されたような心境だった。
『なんなんだ、この切り返しの上手さは!?』
イジワルのつもりで言った言葉を逆手に取られて、なんだかめちゃくちゃ恥ずかしい。
ラチアたちをニマニマとした顔で眺めていたパイラが「うわぉ! 言うようになったわね。成長したねぇ、おチビちゃん」と感心しているのも恥ずかしさに拍車をかけている。
確かにパイラが言う通りラヴィは成長した。
身長が伸びたし言う事がひどく大人びてきている。
それでもまだラヴィは小さくて、成長途中の子供だ。
手は獣の形のままだし、人間用の服を着なくてもいいくらいにまだ体に体毛も残っている。
逆に言えば、それはこの先もっと成長するのだという証明でもある。
今でさえラヴィはラチアの手に負えなくなりつつあるのに、この先どうなるのかと考えたラチアは……頬に一筋の冷たい汗が流れた。
自分にとっては嬉しくない未来の予感。
それが回避不可のものであった場合、人は落胆し、希望を失う。
その状態をもっと短い言葉で説明するならたった一言、とてもシンプルな単語に凝縮することができる。
いわゆる《絶望》だ。
「ねぇ、マスター」
「……な、なんだ」
膝の上にちょこんと座っているラヴィが甘えた声でラチアの注意を引き、天使のように無垢な笑顔で「えへへ……」と照れながら小悪魔のように言った。
「ご主人様が絶望しているからボクはとても幸せだよ」
ラチアは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
今日もラチアの家に遊びにきているパイラが手で自分を扇ぎながら教えてくれた。
近くの雑木林のほうから蝉の鳴き声がジージワ、ジージワ、と降り注いでいる。
空の青さはどこまでも高く、照りつける日光は痛いくらいに眩しい。
作業小屋の全ての窓を大きく開けてできるだけ風通しが良くなるようにしているのだけれど小屋の中はうだるような暑さだ。
「スゴイですよねアルベルト先輩。交戦していた国と停戦しただけじゃなく一気に軍事同盟締結までもっていくなんて魔術のような外交ですよ。しかもそれを半年足らずでやっちゃうんですから」
暑さが苦手なパイラは子供が穿くような半ズボンを穿いて腹部を大胆に晒した丈の短いシャツを着ていた。
それほどの薄着でも汗が止めどなく滲み出て、首から伝った汗がパイラの胸の谷間を通ってお腹へ流れている。
「アイツが交渉に行ったんだ。失敗するはずがない」
汗止めの布を頭に巻いて木片を削っているラチアの鼻の先にも玉のような汗が浮いていた。
「やっぱり有能ですよね、アルベルト先輩って」
ラチアとアルベルトは士官学校の同期生なのでアルベルトもパイラには先輩にあたる。
「宰相なんて職位に就く野郎は性格が悪いほど優秀らしいからな。その意味でならアイツは最高の宰相だ。あの腹黒さは筋金入りだからな、水面下でどんな卑劣な策を弄しているかわかったものじゃない。こうしている今も何か仕掛けられているんじゃないかと思えるくらいだ」
そう言いながらもラチアは『まさか、いくら奴でもそんな事はないか』と思っていた。
しかし、ラチアが冗談で言ったアルベルトへの疑いは大正解だった。
アルベルトは数年前から用意周到にラチアを嵌めるための罠を仕込んでいた。
そして今、アルベルトが仕掛けた爆弾のような罠が現在進行形でラチアの側にある。
それはまだラチアたちが士官学校の学生だった頃。
ラチアに恋するパイラにアルベルトが《恋の軍師》を自称して接近した。
「キミ、ラチアのことが好きなんだって?」
そう言ってパイラに近づいたアルベルトは彼女に恋の協力を申し出て《まるで自分の事のように》親身になって色々とアドバイスをしたり、ラチアに近づきやすいように場を提供したり、とにかく全力でパイラをサポートした。
不気味なくらいに親切なのでパイラが警戒感を露わにしながら訊いた。
「どうしてそんなに協力してくれるんですか? あたしラチア先輩オンリーだからどんなに優しくされてもアルベルト先輩に鞍替えしたりしませんよ?」
「うん、僕に惚れられても困るのでそういう感情はみんなあいつに向けてくれ。僕はアイツが姫様以外の誰かとくっつけばそれでいいんだ」
「あぁ、なるほど。了解です」
そう言われてピンとこないほどパイラも馬鹿じゃない。パイラとアルベルトの利害関係は完全に一致していた。
「で、次にあたしは何をすればいいですか?」
「アイツはかなりシャイで鈍感だからね。攻略する方法はただ一つ。押して押して押しまくれ。嫌がっているように見えても気にするな。本心では嬉しいはずだ。照れているだけなんだよ」
「了解っす!」
パイラはアルベルトの言葉を信じて、出会って十年目の今でも攻撃力の高いアタックを続けている。
ラチアはある時点からパイラが急に積極的になったことをずっと不思議に思ってはいたが、それが幼馴染の宰相が何年も前から周到に仕掛けた罠だということにまだ気付いていない。
「もぅ、先輩ったら。アルベルト先輩は案外いい人ですよ。いくら幼馴染みでも言いすぎです」
パイラは彼に対して悪いイメージがない。
なにしろ彼女の恋の軍師なのだから。
「言いすぎなものか。あの野郎、俺には物騒極まりない仕事を押しつけておいて、自分は同盟締結の条項に自分の身の安全を保証する一文を混ぜやがったんだぞ?」
パーツの大まかな削り出しを終えたラチアはそれを口元に持ってきてふっと息を吹きかけた。
細かな削り滓が宙に舞って小屋の隙間から射し込んでいた光の筋を際立たせる。
「自分の命が懸かってるんですからアルベルト先輩じゃなくてもそれくらいの手は打ちますよ。普通ですよ、フツー。功績を立てた直後に首チョンパだなんて誰だって嫌ですもん」
「しかしだな……」
ラチアは反論しようとしたがパイラが言うことも一理あるので不機嫌そうに口を閉ざし、持っていた鑿を置いて代わりにヤスリを手にとった。
「でも……今回の件で一番功があったのは、おチビちゃんですよね」
話題がラヴィのことになった途端、ラチアの顔に後悔と自責の色が浮かんだ。
「あの晩の事、あたしきっと一生忘れません」
「……」
「あたし、先輩があんなに泣いちゃう人だって知りませんでした」
「……」
「ねぇ先輩? あたしが死にそうになっても、あんなふうに泣いてくれますか?」
「……」
「先輩、聞いてます?」
「聞いてない」
「もぅ! 聞いてるじゃないですか」
こういう会話には簡単に乗ってこない人だと知っているパイラは諦めの溜息を零して話題を変えた。
「先輩。おチビちゃんは今どこに?」
「裏庭で安らかに眠っている」
「そうですか……」
パイラは声のトーンを落として顔を横に向けて窓の外を遠い目で眺めた。
夏の空の青さが目に染みて目細めながら室内に視線を戻すと、窓の傍に小さな本棚があるのを見つけた。
何気なくその中の一冊を手に取ってみた。
パイラはその本に見覚えがあった。
パイラがラヴィと初めて会った日にパイラが選んであげた本だった。
パラパラとページをめくって絵本を黙読するパイラ。
急に黙ったパイラが気なったラチアはヤスリ掛けをする手を止めて肩越しに振り返った。
「ボロボロですね、この本」
「それはアイツにとって初めての本だったからな。どの本よりも愛着があったようだ」
「《シンデレラ》……。先輩、前に言ってましたよね。これって元々はガラスの靴じゃなくって、毛皮の靴だったのを間違えて翻訳したんだって」
「あぁ、よほど無能な奴が翻訳したんだろうな。もしソイツに会う機会があったら本気でブン殴るぞ俺は」
ラチアは肩が震えるほど強く拳を握っている。
「そこまで憎いですか」
「あぁ憎い。俺はそいつを一生許さない。どこをどう読み違えたら『毛皮の靴』が『ガラスの靴』になるんだ。一文字も合ってないだろうが」
「ウチの国の言葉では全然違っていても、原作の国の言葉だと似たようなスペルなんじゃないんですか?」
「それにしたって……」
それだけの説明では納得しれないラチア。
でも、ここにはいない翻訳者に対して怒りを滾らせていても仕方がないと思ったのか、ぶつぶつと文句を言いながらヤスリ掛けを再開した。
ゴリッゴリッ。
木片の削れる音がするたびにラチアの背中の筋肉が僅かに伸縮を繰り返す。
少年の頃から武技の修練に明け暮れていたラチアは脂肪が普通の人に比べて極端に少なく、そこに汗で濡れたシャツが張りついているので筋肉の凹凸がくっきりと浮き出ている。
パイラはラチアの背中を眺めながら思った。
『本当はこんなところで靴作りをしているような人じゃないのに……』
どう見ても戦士向きな体格だ。
適性にも才能にも恵まれていて経験も実績もある。
なのに、こんな人里離れたところでちまちまと靴を作っている。
そんなラチアを見ていると、パイラは『惜しい』と思わずにはいられなかった。
「それより先輩、気分転換にあたしとチューしませんか?」
自分の背後で不穏なことをほざく後輩が不審者過ぎてラチアは手を止めて振り返った。
「……すまん、話の流れが唐突過ぎて意味不明なんだが?」
「照れてるんですか?」
「いや、呆れてる。なぜそんな話になるのか俺にもわかるように説明してくれ」
「先輩の広くて逞しい背中に濡れたシャツがピッタリ張りついてるのを見てたらムラムラしてきたからです」
『……どうしよう』
ラチアは真剣な顔で悩んだ。
発言の内容の羞恥心の無さ、
それを躊躇わずに発言した行為、
普通の淑女ならば恥ずかしがるであろう場面なのになぜか本人がドヤ顔になっている。
そんなパイラの行動の全てがラチアの理解の範疇を超えていて、どう突っ込んで良いのか分からない。
「今の発言にいろいろ言いたいことはあるが、あえて一つだけ言わせてもらおう。せめて雰囲気くらい考慮したらどうだ? 発情期の獣じゃあるまいし」
「じゃぁ先輩はどんなシチュエーションだとあたしとチューしてくれるんです? 参考までに教えて下さいよ」
「そうだな……」
例えば。と前置きをしてラチアは具体的なシチュエーションを語り出した。
「フクロウの声さえ大きく聞こえるほどに静かな夜――」
「ふむふむ。フクロウの声さえ大きく聞こえるほどに静かな夜?」
「満天の星空に――」
「ふむふむ! 満天の星空に? それで、それで!?」
「月が二つ昇ったときかな」
「ないから! 月は二つもないから!」
「そうか、残念だな」
ラチアはそう言って口の端を少しだけ綻ばせるとパイラに背中を向けて作業を再開した。
どうやらパイラをからかったらしい。
『先輩が珍しく踏み込んだ内容を言い出した! これは心に刻み込んでおかなければ!』
そう思って真剣に聞いていただけにパイラの落胆は大きく、段々とムカついてきた。
「そんな憎らしいことを言う先輩なんか……こうだ!」
我慢しきれなくなったパイラは背後からラチアに飛びかかった。
「うわっ!?」
ガターンと派手な音で椅子が倒れて作業台の上にあった道具類も床に散らばる。
不意をつかれて仰向けに転がされたラチアは慌てて起き上がろうとするけれど、それよりも早くパイラが馬乗りになって覆い被さってきた。
「こら、やめろ! いきなりなんのつもりだ!?」
「力尽くでチューしちゃうつもりです!」
口を3にして顔を近づけるパイラ。
ラチアがパイラのおでこを押して離そうとするのだけれど、その腕力に勝るパイラの背筋力と気迫。
じわじわとパイラの顔が近づいてくる。
「ふ、不埒なことを得意気な顔で言うな!」
「そうですね! これから先は言葉なんて要らないですよね!」
「そういう意味で言ったんじゃないっ!」
グイグイと近づいて来るパイラの鼻息が荒い。
血走った目でふしゅるふしゅると顔を寄せてくる様子は軽くホラーだ。
ラチアが望む甘い雰囲気なんて微塵もない。
パイラの唇が目前にまで迫った瞬間、
「ダメー!」
「おふっ!?」
パイラは横から思いっきり体当たりをされて床の上を転がった。
「ったたた……。あれ? おチビちゃん起きちゃったの? 裏庭で寝てたんじゃ?」
「パイラがうるさいから目が覚めちゃったんだよ!」
ラヴィは本当に今起きたばかりのようで頭に寝癖がついていた。
「こんなことなら無言で襲い掛かればよかった……反省」
大きな物音をたててラチアに襲い掛かったことを後悔したパイラは、のろのろと起き上がって、近くの椅子を引き寄せて大人しく座った。
さすがのパイラでもラヴィの見てる前で再び襲うつもりは無いらしい。
「俺を襲ったことに対する反省はないのか……」
ラチアが起き上がりながらパイラを睨んだがパイラはちっとも気にしていないようだ。
「もう、パイラったら油断も隙もないよ!」
ラヴィは倒れた椅子を定位置に戻すとかいがいしくラチアをそこに座らせて、それから「よいしょ」とラチアの膝の上に乗った。
「って、当然のように俺の膝に乗るな」
「ダメ?」
「ここに座られたら暑いし仕事ができん」
ラチアが「ほら、降りろ」と、ラヴィの背中を押すと、肩越しに振り返ったラヴィがニマーと微笑んでラチアを見上げた。
「じゃあしょうがないね、《お願い》発動だよ。ボクの頭をなでなでして」
「ぐっ!?」
ラヴィの脇に手を入れて膝からどかそうとしていたラチアの手が硬直した。
「いいよねマスター? あの夜『いくらでも願いを言え』って言ったよね? で『全部全力で叶える』って言ったよね?」
「……くっ。あれからもう半年経ってる。そろそろ時効ってことでいいだろ」
「あれは無期限に有効だよ。マスターは期限を言わなかったからね。それに、約束は犯罪じゃないから時効はないんだよ。いわば《誓い》だね。騎士の誓いに期限がないように、あの時の言葉はずっと継続するんだよ。マスターは騎士だったんだから《誓い》がどれほど大切か……わかるよね?」
「うぐっ……」
ラチアがしぶしぶラヴィの頭を撫で始めたのでラヴィは満足そうに微笑んだ。
ラヴィは毎晩貪るように本を読んでいるので半年前と比べて飛躍的に語彙(ボキャブラリー)が増えている。
元々頭の回転は悪くないラヴィ。
文字を知らない頃は簡単にラチアに言いくるめられていたけれど、語彙が増えた今ではラチアの方が言い負かされることが多くなっていた。
「ちょっと前まではあんなに子供子供してたのに、今ではもうすっかり駆け引き上手になっちゃって。成長の早さはさすがアニオンってとこ? あの時の回復力にも驚かされたけど」
パイラは駆け引き上手なラヴィに感心しながら苦笑した。
短い夏毛に生え替わっているラヴィの胸には半年前まではなかった傷跡がある。
傷跡といってもうっすらとした線があるだけで、よく目を凝らさなければ見えないくらいのものだ。
「そう? でも、あの時は自分でも本当に死んじゃうかと思ったよ。目が覚めたとき自分でビックリしたくらいだもん。『あれ? まだ生きてる!?』って」
ラチアはふたりの会話を聞きつつ苦しそうな顔で黙り込んでいるが、心の中では『騙された! コイツの小っこい見かけに騙された!』と呻いていた。
思い返してみればラヴィと初めて出会ったあの晩もラヴィは瀕死の状態だった。
けれどラヴィは脅威の回復力で持ち直している。
『人間なら致命傷に至っていたあの時だって、たった半月でコイツはケロリと全回復したじゃないか。どうしてそれを忘れていたんだ俺!?』
ラヴィが助かると分かっていたら、あれ程とりみだしはしなかった。
……と、思う。
ラヴィが助かると分かっていたら、あんな約束なんてしなかった。
……と、信じたい。
もし今の自分があの時の自分に会うことができるのなら全力で教えてやりたい。
『コイツは本当にただ《眠い》だけなんだ! 三日寝ていなかったのと貧血のせいで寝ているだけなんだ! 致命傷に見えるこの怪我だって一ヶ月後にはけろっと治るんだぞ!』と。
あの時。
心臓の鼓動に合わせてラヴィの胸から流れ出ていた血が急に止まって、ラチアは本気でラヴィが天に召されたのだと思った。
――けれどそれは違った。
出血が止まったのは急速に傷が塞がったからで、心臓は変わらずに元気に動いていた。
気が動転していなければラヴィの鼓動が止まっていないのはすぐにわかったはずなのだ。
ラチアはあの晩の醜態を思い出す度に、耐えきれないほどの羞恥で身悶えしてしまう。
『それを知っていたら! それさえ知っていたら! くっそお!』
「ちょっと、痛いよマスター。もっと優しくなでなでしてよ」
「あ、すまん。こうか?」
「うん」
あの時のラチアは運も悪かった。
ラチアの家に届けられた最後の材料を記したメモは誤訳されたもので【緑眼兎の心臓のなめし革】は、【緑眼兎の冬毛で織った布】が正しい翻訳だった。
誤訳をした学者たちには殺意を覚えるほど腹が立ったが、とことん真面目な性格のラチアは為すべき事はきちんと為した。
ラヴィが寝起きしていた木箱のベッドから抜け毛を拾い集めて布を織って《神代の遺物》の靴を完成させた。
あの誤訳がなければ、すんなりと魔法の靴は完成していたはずで、ラヴィは大怪我を負うこともなく、ラチアも一生の汚点となるような醜態を晒さずに済んだはず。
だけど、やらかしてしまった醜態はどんなに原因を怨んだところでラヴィの胸の傷と同様に消えてくれない。
時間がこの記憶を過去に押しやって薄れてくれるのを待つだけだ。
しかし、ここにいるふたりが事あるごとに記憶の引き出しからあの夜のことを引っ張り出してきてはラチアの恥ずかしがる顔を愉しもうとするので、なかなか過去に追いやることができないでいる。
さっきもパイラは神妙な声で「あの晩の事、あたしきっと一生忘れません」って言っていたが、金打ち台の鏡面に映ったパイラの顔はニヤニヤしていた。
きっとこれからもあの晩のことをからかい続けるという意味での《忘れません》宣言なのだろう。
「そういえば先輩。先日姫様が王様を怒鳴りつけた話って聞きました?」
「いや? 姫が何かやらかしたのか?」
「知らないんですか先輩? 当事者なのに」
「当事者? 俺が?」
「先輩はもう少しで処断されるところだったんですよ。それを姫様が守ってくれたんです」
「はぁ? どういう流れでそうなったんだ」
姫がラチアを守ってくれたとパイラは言うけれどラチアには全く身に覚えがない。
「どうもこうもないですよ。先輩は勝手に《神代の遺物》を作った張本人じゃないですか」
「…………もしかして、王にバレたのか?」
「バレないと思っていた先輩にあたしはビックリです」
「なぜだ!? 俺があれを作ったのを知っているのは…………あ!」
ラチアが《神代の遺物》を作ったことを知っていて、それをバラすような者。
バレたらただじゃ済まないと知っていて、それでもなお、いや、《だからこそ》ラチアを陥れようとする下衆な野郎。
ラチアはそんな人物に一人だけ心当たりがあった。
「アルベルト先輩が普通にぺろっと喋ったらしいですよ」
「あ、あの外道ぉぉー!」
ラチアに靴のオーダーをしに来たあの日、アルベルトは別れ際にこう言っていた。
《おそらくこれからもずっと、俺はキミのことが大嫌いだ》
幼馴染みで腹黒の宰相が言ったあのツンデレな言葉は友情の裏返しなんかではなく裏の裏、つまり本気で言った言葉だった。
「で、靴を作ったのが先輩だって知った王様が先輩を処断するための捕縛隊を送ろうとしていたんですけど、それを姫様が止めたんですよ」
「姫が?」
王女は王がラチアを処断することにしたと伝え聞くと謁見室に飛び込んで王に掴みかかったらしい。
『あれはマインナイトが私の願いをきいてやってくれたことなんです。聞いた話ではマインナイトは靴を作る材料を集めるためにあの赤竜を相手に一人で戦ったとか。それほどの危険を冒してまで我が国の新しい同盟のきっかけとなった靴を作り上げたのです。本来ならその勇気と忠義を称えて元の地位に戻しても良いくらいなのに、それを無視して逆にまた罰を与えるなんてどういう判断なのですか! そのようなことをしていたら王家に忠誠を尽くす臣は一人として居なくなります!』
「――って、王様を怒鳴りつけたらしいですよ」
「姫がそんなことを……」
ラチアはそのエピソードを聞いて今までの苦労が報われた気がした。
なにしろそれまでは姫と交わした約束を守ることができたのだと自分の心の中だけで満足していた。
でも、今は違う。
ラチアが約束を果たしたことを王女は知ってくれている。
その喜びはただの自己満足と比較することができないくらいに大きい。
たとえ逢えなくてもお互いの気持ちがこうして通じ合っているのだから。
声を上げるような大きな喜びではなく、ほんのりと湧いてくる喜びにラチアは我知らず静かな笑顔になっていた。
「そうか……姫が……。そうか……」
「マスター」
「ん? どうした?」
さっきまで気の抜けるふにゃ顔をしていたラヴィが、なんだか不機嫌そうにぷぅと頬を膨らませてラチアを見上げている。
「姫様の話なんてどうでもいいよ。それよりボク、またマスターが絶望している顔を見たいな。ボクのために絶望してよ」
「いきなりなんて事を言いやがる!?」
なんだか色々と痛い。
心が痛いし、笑うのを堪えているパイラの視線もかなり痛い。
その視線が不本意でならなかったラチアは、ふと何かを思いついたらしくニッとく口の端を吊り上げてイジワルな顔で微笑んだ。
「そうかそうか、そんなに俺の絶望が見たいか。だが、それならもう叶っているぞ」
「叶ってる?」
「そうやって俺をからかう悪い子に育ってしまったオマエに俺は深く深く絶望して、こんなにも心がかき乱されている。こんなにも深い悲しみに俺の心は引き裂かれてしまいそうだ」
そう言われてきょとんとしているラヴィがこれからどんな表情に変化していくのかと、ラチアが意地悪な喜びと期待でワクワクしていたら「あ、だからなのかぁ。納得」ラヴィは花が咲くような可憐な笑みを浮かべた。
「……は? 何が納得なんだ?」
「あのね、ボク、今とても幸せなんだけど、その理由がようやくわかったんだ。そっか、姫様の事じゃなくて、ボクのことでマスターの心が大きく揺れているんだね。マスターはいつだってボクの事を一番に考えてくれているってことだよね。ありがとう、嬉しいよ」
主人の絶望を喜ぶと言われている緑眼兎のラヴィは緑色の目をきゅっと細めて蕩けるような笑顔をラチアに向けた。
「ぐうっ……」
まるで振り下ろした剣を弾かれて逆に深々と胸を刺されたような心境だった。
『なんなんだ、この切り返しの上手さは!?』
イジワルのつもりで言った言葉を逆手に取られて、なんだかめちゃくちゃ恥ずかしい。
ラチアたちをニマニマとした顔で眺めていたパイラが「うわぉ! 言うようになったわね。成長したねぇ、おチビちゃん」と感心しているのも恥ずかしさに拍車をかけている。
確かにパイラが言う通りラヴィは成長した。
身長が伸びたし言う事がひどく大人びてきている。
それでもまだラヴィは小さくて、成長途中の子供だ。
手は獣の形のままだし、人間用の服を着なくてもいいくらいにまだ体に体毛も残っている。
逆に言えば、それはこの先もっと成長するのだという証明でもある。
今でさえラヴィはラチアの手に負えなくなりつつあるのに、この先どうなるのかと考えたラチアは……頬に一筋の冷たい汗が流れた。
自分にとっては嬉しくない未来の予感。
それが回避不可のものであった場合、人は落胆し、希望を失う。
その状態をもっと短い言葉で説明するならたった一言、とてもシンプルな単語に凝縮することができる。
いわゆる《絶望》だ。
「ねぇ、マスター」
「……な、なんだ」
膝の上にちょこんと座っているラヴィが甘えた声でラチアの注意を引き、天使のように無垢な笑顔で「えへへ……」と照れながら小悪魔のように言った。
「ご主人様が絶望しているからボクはとても幸せだよ」
ラチアは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
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