Ωの国

うめ紫しらす

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第一部

こころの在処

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 最初の日から、四日間、発情期は続いた。

「今宵、禰宜ねぎをお務めいたします。お側によってもよろしいでしょうか」
 二日目の夜、現れたのは仮面の男だった。
 αの香り。だがフェル先輩とは違う、香り。

「あなたは、誰」
「世俗の名を告げることは禁じられています。ただ禰宜とお呼びください」
 静かな声で告げる男は、すらりとした長身で、長く美しい黒髪をもち、ほっそりとした白い指を持っていた。
 荒事には向かない肢体も、怜悧れいりさをにじませる口調も、何もかも、先輩とは違う。

「なぜ仮面を?」
「この塔にいてはならぬ者ゆえ、とだけお答えしましょう。ですが、ご不快でしたら、神事の間はお外しします」
 そういって、男は白磁でできた仮面をそっと外した。
「幻影の魔術師さま・・・・・・?」
 長身に長い黒髪。そして、類い希なルビーの瞳。
 魔法史に残る魔術師として世に異名を馳せるその人の似姿そのままの顔立ち。
「いいえ」
 しぃっと指先を口元に当てて、彼は微笑む。

 幻影の魔術師といえば、数年前に国家反逆罪の罪を負って国外追放となったはずだった。そのため、いまは隣国の魔法大学校で教鞭を執っているという話で。
 確かに彼であるなら、この塔に、この国にいてはならぬ者に他ならなかった。

「なぜ、あなたがここに」
「さあ。なぜでしょう。実を言うと私にもよくわからない。ただ、神託があり、禰宜として選ばれた。それだけです」
「神託・・・・・・。それは、神が下すのですか」
 しぃっ、と彼はまた指を立てた。

「詳しくは私も存じません。ただ、αのなかでえにしのある者が選ばれると言われています。私に声がかかったのは初めてですが」
 ふふ、と面白そうに彼は笑った。
「神託をいただくのは初めてですが、もちろん、こういった経験がない訳じゃないですよ。どうぞ、ご心配なく」
 端正な顔立ちが、おどけたようなチャーミングな表情をしてみせる。
 最初の印象とは違う仕草に、ふ、と思わず声を漏らして笑った。

「お側にあがらせていただけますか」
 すっと立ち上がり、まるで舞踏会のダンスを申し込むように手を差し出して彼は聞く。
「・・・・・・ええ」
「ありがたき幸せ」
 軽やかな声で一礼すると、彼はゆっくりと寝台へと近づきながら言葉を紡ぐ。
「あなたには私を断る権利がある。忘れないでください。
 すこし、話をしましょう。この香りが消えるまで」

 彼が言ったのは、禰宜の到来を前に湯女たちが俺の身体にすり込んでいった香草の効果に違いないだろう。αの暴走を抑止するという香りは、俺にとってはただ安らぎを感じる香りだったが、αにとってはそうではないのかもしれない。
「この香りが、お嫌いですか」

「いいえ。むしろ好ましい。あなたの芳香に鈍りそうな私の意識を保ってくれるのですから。
 だからこそ、この一時を大事にしたいのです。香りが失われれば、もう私はあなたを貪るだけの獣に成り果てる。
 その前に、あなたのことを少しでも知りたい・・・・・・おかしいですか?」
 いいえ、と首を振ると、彼は赤い瞳をすっと細めて微笑んだ。

 ぎし、と寝台が鳴って、彼が自分のすぐ隣に腰掛ける。肩先が触れあい、それだけでじわりと身体の奥がうずいた。
 昨日、フェル先輩に感じた情欲と寸分変わらぬ身体の反応に、心の奥が冷たく凍り付いていく。
 これがΩであることのサガだとしたら。
 発情期のたびに、αの香りを嗅ぐたびに、こうなるのだとしたら。

 俺は、この身体を許すことができるのだろうか。

「Ωになって日が浅いと聞きました。本当ですか」
「はい。まだ、二日目です」
 正直に答えると、赤い瞳が目を見張り、こちらをのぞき込む。
「それは。さぞ大変なことでしょう。・・・・・・私を断っても、よいのですよ」

「ええ、もちろん、分かっています。
 ただ、・・・・・・禰宜との神事を断って、そのあと自分がどうなるのか……わからない、のです」
 Ωの身体は、近づいたαの気配に、香りに、甘い期待を膨らませている。
 はやく。はやく。
 そう鼓動が高まり、いまかいまかと、欲望を待ち望んでいる。

 その欲望を、まだ残っている理性は冷ややかに見ている。
 けれど、同時にまた、αの香りに包まれて浅ましく欲に溺れ、与えられる快楽の中で甘く鳴いた昨日の自分のことも、覚えている。

 心の中は揺れ動き、感情が混ざり合って、混乱を極めていた。
 もし、自分がこの昂ぶりを無視して、今宵の禰宜を断ったら。
 一体、どうなってしまうのか。

「完全に発情を抑える方法はないと聞きました。そして、発情を自ら慰める術もないと」
 発情の解消には必ずαとの交わりが必要だと。
 交わり、情欲が満たされれば、そのあと暫くは発情は抑えられる。

 朝方に神官がかけていった清めの印はあくまで、情交の残滓を清め、次の発情までの間隔を引き延ばす、そういった効果だそうだ。
 だから、αとの交わりを経ずに発情を抑え込むことは、と。そう告げたときの、マヤの悲しげな表情を思い返す。

 そして、αに抱かれず、発情を止められないまま発情期を過ごすことは、途方もない苦痛を伴う、とも彼女は言った。
『ほかにすべがあれば、どんなに良いでしょう。そう、多くの者が思っています。
実際に、何日も禰宜を断りつづけた巫女様をお世話したこともございます。・・・・・・ほんとうに、お可哀想なお姿でした。どれほど気丈に振る舞われても、最後には狂おしいほどαに飢えて、泣いて叫ぶのです。抱いて欲しいと。・・・・・・そうなってしまえば、もはや相手を選ぶことも、尊厳を保つこともままなりません。ですから、』

 どうか、禰宜をお頼りください。

 そう、マヤはさとした。
 俺の身体を、処遇を思いやり、気遣ってくれたマヤが、そう、言った。
その言葉を、その重さを、俺は無視することができない。

「もし禰宜をお断りして。・・・・・・そうして、ひとり、発情に耐えることが、自分にできるのか。・・・・・・わからないのです」

 率直な気持ちを言葉にして。
 思いがけず、片方の眼から涙がこぼれた。

神巫かんなぎ様」
 隣に腰掛けた彼の腕が、優しく自分を抱きしめる。
「つらいことをお伺いし、申し訳ありません。私がここに呼ばれたことを、今ほど誇りに思うことはないでしょう。もしあなたが、あなたの心が許すなら、どうぞ私にあなたをお慰めさせてください」
 美しい指先が、そっと頬をなぞって、こぼれ落ちた涙を拭き取る。
「ありがとう」
 微笑むと、抱きしめる腕がぎゅっと答えるように強くなる。
 すっぽりと抱き込まれてしまうと、心地よい安心感が広がる。フェル先輩とは違う、すこしスパイシーで、気高い香り。

「ぁぁ」
 ため息のように声が漏れる。
 αの香りに包まれて、身体中が悦びを感じている。
「かわいい人だ……」
 囁きが耳元で鳴る。

「あなたは、俺で、大丈夫ですか」
 その赤い瞳をのぞき込んで問いかける。
 神託で訳も分からぬまま呼び出され、芳香に理性を奪われ、見知らぬΩを抱く。
 禰宜とて――このことわりを易々と受け入れられる訳がなかった。

「ええ。もちろん」
 彼は優しく微笑んだ。
「私とて、Ωであれば誰でも良いわけではありません。けれど、αである限り、Ωの芳香には逆らうことができない――だから、少しでも理性のあるうちに、あなたのことを知りたい。あなたにも、私のことを知ってほしい」
 ふふ、と笑い声を漏らして、彼は続ける。
「神託を断ることもできた身が言うのは、傲慢ですね」
 断れば、禰宜としてこの場に臨む必要もなかったことを、自嘲的に彼は笑って見せた。

「・・・・・・あなたが来てくれて、良かった」
 思ったままの言葉をこぼすと、彼はそっと頭をなでてくれた。
「それは良かった」
「なぜ、来てくれたのですか」
 ごく素朴な気持ちで問いかける。国外追放となった身では、この地に足を踏み入れることにも困難が伴うはずだった。

「そうですね。なぜでしょう。
 ひとつは、あなたに興味があった。神巫さまといえば、めったにお会いできるものではありませんから。
 もうひとつは、私も――運命の番を、信じてしまっていたから、でしょうか」
「運命の番、ですか」

「ええ。αとして覚醒したものに教え込まれる物語です。この世には、神に定められた運命があり、すべてのαには、運命の番となるΩが存在する。そのものと交わり、子を成し、生涯連れ添うことこそが、αにとってもっとも重要な責務であり、幸福だと」
 そう言って、彼は封環に包まれたうなじを指先でたどった。触れられると、ぞくりと身体の奥が震える。
「もし運命の相手に出会えたら。そうしたら、うなじを噛んで契りを交わし、相手を自分のものとする――それが、αの間でまことしやかに紡がれる夢物語です」
 ロマンチックでしょう、と彼は付け加え、自嘲するように笑って見せた。

「禰宜の神託をいただいたとき、感じてしまったのです。この言葉に従うべきだと。
日頃、神を信じぬと放言し、そのために国を追われた自分が、神の決めた『運命』を感じるなど――滑稽だと思いました。
 けれど、私も、αの性を与えられた自分に、何か意味があると思いたかった。運命の相手がもし本当にいて、神託を断れば二度と出会えないとしたら――耐えられない、と思いました」

 彼の赤い瞳が、じっと俺をのぞき込む。
「あなたに会えて、嬉しく思います。それだけで、来て良かった。
 もちろん、あなたが私の運命の相手なのか、まだ私には知るよしがない。
 ただ、あなたの香りは私をこの上なく惹きつける・・・・・・」
 ため息のように息をついて、彼は俺の芳香を味わうように首筋に顔をうずめる。

「あなたが欲しい。あなたを抱きたい。あなたを、私のものにしてしまいたい」
 うわごとのような、囁き。
「・・・・・・この欲望が、本心なのか。それとも本能なのか、私には区別することができません。
 ――このような残酷な仕打ちを与えた神を、どうして恨まずにいられるでしょう」
 哀しい響きで、彼は囁く。

「そんな情けない、ただの獣でも、あなたは赦してくれますか」

 構わない、と思った。
 同じだけの哀しみを、もう俺は知っている。

「構いません」
 濡れたルビーのような瞳を見返し、答える。
 そっと、彼の口づけが落ちる。
 夜はまだ、始まったばかりだった。

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