夜警国家

多々良

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四話 暗腔膜

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パイプの傾斜が強くなってきた。弧裂も稼頭も、どうしても手足に力をこめてしまう。その度に、ぎしりぎしりとパイプが唸った。
ようやく蓋が見えて、弧裂は肬幽灯のネジをひねった。じりじりと断末魔の音がして、光源はゆっくりと力を失っていく。体の表面を焼いていた高温と、パイプ中に充満していた匂いがようやく消えた。二人はより慎重に、残りの暗闇を這いあがった。
この蓋が開かなければ全てが終わる、という心配を、ずっと弧裂は抱いていた。杞憂に終わった。律脂庁を出る前、弧裂がそっと入れておいた切り込みは、半年の間、誰にも気づかれることはなかったようだ。
ゆっくりと蓋を上げる。冷たい空気が流れ込んでくる。蓋の隙間から、ぱらぱらと何世紀分もの砂埃が落ちた。
目を凝らした。パイプの先は、断崖の隙間の、宙に浮いている。左右は高い壁。その隙間に僅かに、暗腔膜の空。壁を無秩序に這いまわるケーブルやパイプに手足をかけて、弧裂はパイプからはい出た。稼頭は、弧裂よりもよほど身軽に外壁にとりついたが、不安と好奇心の両方を抑えきれないようで、ぐるぐると首を回すことが止められないようだった。
「ここはもう、律脂庁のなかだよ」
弧裂は、ひそひそと囁いた。
「律脂庁の中は、いたるところが壁で区切られてる。その壁だ」
「このケーブルとかパイプは、どこに繋がってるんだ」
「どこにも」
「え?」
「大昔に、律脂庁自体を夜警みたいな精式生物にしようっていう試みがされたことがあるんだ。この壁も、ケーブルやパイプも、その時に生えてきたらしい。ずいぶん人が死んで、計画はなくなったらしいけれど」
「弧裂。顔がある」
稼頭は、流石に優れた狩人だった。壁と一体化し、叫びの表情のままで沈黙している人の顔を見つけても、叫びをあげなかった。
「そこらじゅうにある。何もしてこないよ」
「あれが、空……」
「そうだよ」
稼頭は、壁と壁の隙間にある、真っ暗な空を見上げた。
「あの向こうが、ずっと真っ青で、太陽とか、月とかがあるんだな」
「そうだよ。でも今は急がなきゃあ」
二人は、パイプやケーブルを頼りに、壁をよじのぼった。隙間が狭い上に、ケーブル類がびっしりと密集しているので、足場には困らないが身動きは取りにくい。何度か細いパイプが折れて、致命的なほどの音をたてることがあった。その度、二人は壁に貼りついて、呼吸も心音もないかのように振る舞ったが、誰も様子を見に来ることはなかった。
時折、宙を歪ませる鐘の音や、大きくなり、また小さくなりして聞こえてくるずろずろという得体の知れない轟音が、こちらの音を掻き消してくれたのだろう。弧裂は自分にそう言い聞かせたが、同時にある予感が、腹の底から湧いてくることに気がついていた。移動のし続けで、息があがっている。心臓が鳴るのは身体の所為だけであると、己に言い聞かせなくてはならなかった。
壁の上に着いた。
稼頭が受けた衝撃は、空を目にした時と比べものにならなかった。
壁が幾重にも覆う都市。
壁と一体化した、建造物の尖塔。ケーブルの群れ。何百もの空中通路。
その下に、地面に密着してより固まる、小さな棘のようなもの。
そして、壁の外には、大地が広がっていた。
地下で生きてきた稼頭にとって、生まれて初めて目にする大地だった。
ひたすらに平らなものが、ひたすらに平らに広がっている。まっすぐなような、歪曲しているような、把握しきれないほどに巨大な。全体像が見えない。果てが読めない。
「すごい」
暗腔膜の空と重なる地平線へ続く、どこまでも暗黒の大地だった。撃たれたように、稼頭は声を漏らした。弧裂は、しばらくの間だけ、稼頭の感動を許してやった。それから、そっと袖を引くと、稼頭はもうためらわなかった。
二人は、身を屈めて、壁の上を急いだ。
真っ黒いマトイ布を身に着けているが、万が一見つかっては元も子もない。弧裂は記憶を頼りに、十五番の番所を目指した。たとえ、八十二年に一度の嘗精祭しょうせいさいの間でも、あの番所にだけは、臚士が残っているはずだ。
眼下には、周囲の建造物に比べれば小さい、だが人が入れるほどの、巨大な棘が密集していた。臚士たちの居住区域だ。棘の中は空洞になっており、見えない地下部分に通路がある。己の家はどうなっただろうかと、今更ながらに弧裂は思った。十年を超える時間を過ごしたが、慣れない情動に突き動かされて、律脂庁を脱走してから、思い出したのは今が初めてだ。
居住区の向こうに、腆宗たちの儀式用の建造物があり、動物たちの気配がもれる第一次脂力区域があった。建物の向こうに建物があり、その隙間にはびっしりと棘が、それからパイプやケーブルが這っていた。走りながら、稼頭がときおり驚愕の息を呑んだ。壁面に密着した事務用の集合所に、びっしりと並ぶ窓が等間隔であることすら、稼頭にとっては驚きの対象だった。
壁は、場所によって高さが変わった。地面から背丈ほどもない時もあれば、目もくらむような高所に出る時もある。柵も手摺もない。恐怖を感じる暇もなかった。
稼頭に手で合図して、弧裂はそろそろと速度を落とした。
目当ての番所の、すぐ近くに辿りついた。両手をついて、そっと地上を覗き込む。あがる呼吸を、強いて押し殺した。違和感があった。
壁から、タフタ芋のような瘤がいくつも盛り上がる中に、埋もれるように入り口があるのが、十五番番所だった。
扉が半開きだ。中が明るい。肬幽灯の、黄白書の光。
扉の隙間から、棒のようなものがはみだしていた。
弧裂には、それは人間の手首から先に見えた。稼頭にそう言うと、稼頭もそう見える、と言った。
「中で誰か、倒れてるみたいに見えるけど」

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