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七 追憶関ヶ原

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 さて、同日。こちらは松前である。 

 幕府から松前藩を救出するため、出動を命じられた東北三藩のうち、弘前藩の兵士を率いるように命じられたのは、かの杉山吉成だった。彼は松前藩士がシャクシャインとの戦いのため、全て出払って空になる松前城下を守るように言われ、津軽海峡を渡って渡島へ赴いたわけだが、

(なんとまあ、大仰なことよ。話には聞いていたが、これほどまでとは)

 自分に割り当てられた松前藩邸の一室から眺めていると、松前藩士たちが、血相を変えて次から次へと船に乗り込み、慌しく出立していく。

 その光景をぼんやりと見つめながら、

(これは長引くと、アイヌが勝つかもしれぬ。だから、幕府も俺達にまで松前藩の救援に差し向けたのだ)

 複雑な気分で彼は密かにそう思った。

 もちろん、杉山としてはどちらが勝っても負けても、恩のある弘前藩にさえ害が及ばねばそれで良いし、

(アイヌ達が攻めて来れば、海を渡って逃げるまでよ)

 とも思っている。つまり、アイヌと戦う気はまるで無かった。恐らく、共に松前藩の救援にやってきた他の二藩の感情も、

(松前藩のために、わざわざアイヌと戦って自藩の兵士を傷つけるなど……)

 実は迷惑極まりない、と、この点は杉山と同じであったに違いない。

 何よりも、あの庄太夫が密かに寄越した書簡に、

「我ら、貴殿のいる弘前藩を決して攻めませぬ。我らは松前藩を追い出して、幕府が蝦夷アイヌ王国を認めたなら、それで良いのだ」

 とあるのだから、無理して戦う必要もないのだ。それに、

「こちらも松前城を守りに来ただけである。お前たちとは戦わぬことを約束する。形勢がこちらにとって不利になるなら、海を渡って引き上げる」

 と、杉山自身も密かに書き送っているのである。もちろん、この上ない造反行為である。

 庄太夫は蝦夷から松前藩を追い出した後、アイヌ王国を幕府に認めさせる交渉に入るつもりだとも書き添えていた。

(あの小僧は信頼するに足る)

 彼の記憶の中に在るのは、父庄左衛門に伴われて津軽に寄った際、あどけない目を見張っていた幼い折の庄太夫の面影でしかないわけであるが、

(あの小僧なら、これくらいのことはやっただろう)

 かの少年は、父を尊敬していると、幼く赤い唇で吉成に告げた。そしてこの「反乱」がおきた。ということは、庄太夫が彼の父への敬慕をそのまま持って成長した、何よりの証明にならないか。

(そして俺は、ここにいる)

 ふと畳へ視線を落として、吉成は苦笑した。愚痴をこぼし続けながら、それでも生きた父重成へ、冷めた思いしか抱けなくなった己自身も、

(長いものには巻かれるしかない……親父と同じ生き方をしている)

 そう思われたからである。

 そこへ、大勢の人間が畳を踏む音がして、

「お疲れ様にござりまする。このたびは我らにご協力いただくため、はるばる海を渡られて来られた由、まことに感謝しておりまする」

 彼と弘前藩兵士達に割り当てられたこの部屋に、家臣を左右に従えた松前藩主が現れて、ふと吉成は我に返った。
 恐らくは、それらいかつい顔をした家臣に言わせられているのだろう。当年とってまだ十一歳という、何とも幼い藩主、松前矩広は、

「戦いが始まるまでは、ごゆるりとお過ごしください」

 痛々しささえ感じさせる口ぶりでそう告げる。

(商人だろうが武士だろうが、子供というものはさして変わらぬもの)

「何の、これもお役目にござりまする。どうか気を使われまするな」

 苦笑を堪えて頭を下げながら、彼は、

(さて、俺は果たしてアイヌ達が羨ましいと思っているのか、それとも)

 アイヌと、話にしか聞かぬ祖父、双方に改めて思いを馳せた。

 杉山の祖父は、以前にも述べた石田三成である。三成は、徳川家康によって処刑された。なぜなら、関ヶ原の戦いで負けたからである。負けたから処刑されて、

「大規模な戦いを起こし、天下に混乱を招いた張本人」

 の汚名を着せられ、今の幕府によって悪者にされたのだ。

 祖父の次男である父、重成が、乳母の夫に伴われて、はるばる津軽に逃れねばならなかったのは、

(祖父が余計な野心を抱いたからだ)

 律儀で真面目なだけが取り得だった祖父、石田三成が分不相応に「秀吉が亡くなった後の天下は、自分が仕置きせねばどうにもならぬ」と思いこんだためである、と、杉山はあれから五十年以上経った今もなお、そう思っている。

 だから、

(悪者にされてしまわねばよいが)

 今回のアイヌ達の「蜂起」を、祖父のそれと重ねて杉山は思った。

 人づてに聞いたところと、庄太夫が言って寄越したところによると、シャクシャインはなるほど、その求心力、指導力、そしてカリスマという点において、祖父三成をはるかに上回っている。だが、

(関ヶ原と同じだ)

 父が彼の乳母の夫から聞き、杉山に伝えた関ヶ原の戦いと……今回の戦いにおいても、蜂起を呼びかけても、蝦夷全土のアイヌ達が集まったわけではなく、さらに集まったアイヌ達の中に、いつ松前藩側に寝返るか分からない者を含んでいる……事情が良く似ているようにも思えるのだ。

 どんな戦いにも言えることだが、勝つに決まっていると見える戦いでも、どこか一部分でも「渋り」を見せる人間がいる限りは到底勝てず、いずれそこから綻びて負けに繋がる。それに、鉄砲を持たないアイヌ達の戦いは、誰がどう見てもやはり無謀としか言いようが無く、従って勝とうとするならやはり、蝦夷全土のアイヌが団結せねばならない。

(さすれば、万に一つの勝ち目でもあったかもしれないが)

 戦いの渦中にいる当人には分からないかもしれないが、そこから一歩離れて冷静に見てみると良く分かる。関ヶ原の当時も、見る目のある人間は、やはり我が祖父を「天下を仕置きできる器量はない」といった風に評価していたに違いない。

 それからはや半世紀が過ぎて、己の小鬢はほとんど白くなってしまった。若い頃は、

「元は太閤殿下の膝元にいた我が家が、このような辺鄙なところで燻って…」

 というような、ともすれば父と同じように胸の中に煮えたぎった、江戸幕府に対する憎しみも、いつしか心の隅の澱ほどに小さくなってしまっている。誰がどう見ても、今の幕府は「磐石」で、それを覆そうとするなら、たちまち返り討ちに合うだろう。

(だが、俺もあともう二十も若ければ、どうしていたか分からぬ。もしか庄左衛門親子に初めて出会った折に、この戦いが起きていたら……俺と同年の、アイヌの英雄、か)

 己の年を思って、杉山は大きく息を吐きながら立ち上がり、窓へ寄ってそこから見える空を仰いだ。

 すると夏の蝦夷には珍しく、黒い雲が見る間に青い空を覆いつくして、

(雨になるな)

 窓の外へ顔を出しながら思った途端、滴が一つ、ぽたりと彼の頬を濡らした。同時に、窓の外でうろうろしていた松前家中の藩士達が、ついに松前泰広が到着したことを告げられて、一斉に騒ぎ始める。

(ついに始まってしまったか)

 思ってそれらを見ている杉山の隣に、彼の配下の者達も集まってきて、

「このような場所から失礼致す。緊急の折ゆえ」

 それに気付いたか、松前藩士の一人が窓を見上げて叫んだ。兵卒の中では、幾分か格が上なのだろう。その者が続けて、

「藩主大叔父、松前甚十郎泰広、鉄砲一五〇〇丁を持って到着いたしました。これより我ら松前藩士、国縫へ向かいまするゆえ、後のことをよろしくお頼み申す」

 叫び、頭を下げるのへ、

「分かり申した。後は我々が誓ってお守り申しあげまするゆえ、お心安う。存分にお勤めを果たされるが良い」

「かたじけない」

 杉山もまた叫び返すと、松前藩士たちは一斉に城外へと駆け出していく。

 この報せは恐らく、すでにアイヌ側にも伝わっているに違いない。

(鉄砲があるとなっても、蝦夷各地にこの「火種」が飛び火すれば戦いは長引く。しかし)

 少し髭の伸びた顎を、左手で無意識に撫でながら、

(終わらせる方法は無くもない)

 杉山は思った。何のかの言っても、戦いは大将が倒れたら終わりなのだ。となれば、

(シャクシャイン一人を倒せばよい)

 これは奇しくも、オニビシを倒した折のシャクシャインの考え方と一致していた。戦いが長引けば、松前藩も「アイヌの鎮圧に手こずった」というので、幕府から何がしかのお咎めがあるのは必至である。

 それだけに彼らも必死で、

(シャクシャインだけを何とかすれば、アイヌとの戦いは終わる。俺がわざわざ進言しなくとも、松前家中で思いつく輩が居よう)

 卑怯な手を使ってでも、何とかしようとするに違いない。何しろアイヌの間で……自分たち和人の間でも心の中では密かに軽蔑されている……「だまし討ち」という先例がある。それに倣えば、大仰な戦いなど展開せずとも、勝利はこちらのものになろう。

 そして杉山は窓から離れ、彼が率いてきた弘前藩兵が詰めている部屋へ向かった。

「聞いたか。俺達は松前城の守備任務に当たる。石狩、宗谷のアイヌ達は松前藩に従うと言って寄越してきたが、シャクシャインの有利を聞けば、どう転ぶか分からぬ。よって」

 彼の姿を見て、一気に緊張する弘前藩士の顔をぐるりと見渡しながら、

「他の二藩とも連絡を取りながら、警戒を怠らぬように城壁を守れ」

 命じた。命じながら、

(だが、そのようなことはあるまい)

 杉山は思った。先だってちらりと述べたが、俗にヘナウケの乱と呼ばれている戦いのことである。あの折にも、蜂起したものの、松前藩に叩きのめされて「懲りている」はずの道東アイヌ達が、松前に敵対するためにやってくることはまずあるまい。

 降り出した雨が瓦を叩いている凄まじい音が聞こえてくる。その音ははや、この戦いの終焉を告げているようで、

(こちらが和解を求めれば、アイヌ達は応じるだろう。彼らはお人よしだ。「太閤恩顧」を唱えて情に訴え、味方を集めようとした我が祖父と同じで、人は皆、根は善人なのだと信じている、どうしようもないお人よしなのだ)

 だが、江戸幕府への反抗が成功して成立された王国を、この目で見てみたいような気もする。もしも関ヶ原で西軍が勝っていたなら、と、己が密かに夢想することはあっても、到底実現不可能なことを、今回のアイヌ達の蜂起に託しているのか。

(だが、所詮は家を滅ぼされたものの感傷に過ぎぬわのう)

 思って杉山もまた、兵士達と共に城壁の守備に着くべくそちらへ向かいながら、彼らに気づかれぬように、こっそりと微苦笑を漏らしていた。


 
 八月下旬の雨は、国縫から撤退し、オシャマンベにあった味方のコタンへ一族ともどもこもったメナシクルアイヌ達の上にも、容赦なく降り注いだ。

「親父、だから俺は言った。種子島に弓矢で対抗するなど、燃え盛る火の中に素裸で入るようなものだと」

 急ごしらえの粗末な小屋の軒端から、その雨は小さな流れを作って地面へ落ちていく。その中で、

「先の見えないゲリラ戦など、もうやめよう。無駄だ。こちらから頭を下げれば、向こうも我らの命を奪おうとまではしないはずだ」

 先ほどから、カンリリカの怒号が響き続けている。

 まことに短い夏が終わって九月に入ると、蝦夷はいきなり寒くなる。従ってこの小さな小屋の中にも二、三、炭を入れた鉢が置かれてあるのだが、

(熱い)

 火の暖かさとはまた違う、後頭部をじりじりと焼かれるような感覚に身を任せたまま、その父に詰め寄るカンリリカを見つめて、庄太夫もまた押し黙っていた。

 元はといえば庄太夫の見通しが甘かったために「負けた」のであるが、国縫から戻ってきたシャクシャインはただ、

「これからは蝦夷各地に分かれて、我らの地の利を生かした戦いをする」

 とだけ娘婿に告げ、一族を伴って味方のコタンへやってきたのである。

 しかし、そんな父にカンリリカは、

「そもそも種子島に弓矢で立ち向かう馬鹿がどこにいる。このままだと、アイヌの血は全て失われてしまうぞ。それでも良いのか」

 言って、繰り返し罵るのだ。そしてそんな息子にシャクシャインはシャクシャインで、

「お前は、神と共に生きるアイヌの民としての誇りを忘れたか」

 と言い返す。

 こうして親子が言い争っている間にも、松前藩側は東蝦夷、すなわち松前藩に従うことを誓っているアイヌ達に、

「シャクシャインに味方すれば、お前達のコタンを容赦なく潰す」

 そんな脅しをかけ続けている。ばかりか、シャクシャインに味方しているコタンの部族長達にも使いを送って、

「これ以上シャクシャインに味方しなければ、お前たちを攻撃することはしない」

 揺さぶりをもかけ続けている。

 従って、

「ただ今の状況とあいまって、アイヌ達が離れていくのも時間の問題である」

 同じようにこのコタンへやってきた市座衛門が、顔をしかめてそう言うのも無理もない状況だったのだ。

 とはいえ、ここに至っては市座衛門も覚悟を決めているらしく、これも庄太夫を微塵も責めぬ。それが心苦しくてたまらず、

「小父、貴方だけでも逃げてください」

 庄太夫がつい言うと、

「今では私も反逆者だよ」

 市座衛門は、どこか悟りきったような、さばさばとした表情で言って微笑った。

「確かに」

 それを受けて、庄太夫も苦笑いする。今回の蜂起にどこか消極的であったとは言っても、市座衛門の立場もまたやはり、「メナシクルアイヌの相談役」なのだ。幕府や松前藩からしたなら、十把一絡げで反逆者と見なされているだろう。

 となれば、今更どこへ逃げたところで、蝦夷に来る以前のように商売が出来るわけもない。己の言葉の愚かさを悟って、口をつぐんだ庄太夫へ、

「苦しくなるが、我らにこっそりと物資を届けてくれる商売仲間もいることだ。長期戦に持ち込めば、なんとか暁光が見えてくるかもしれん」

「私もそう思っています」

 市座衛門は力強く言い、庄太夫も確信をこめて頷いた。敗戦の原因は、相手に鉄砲があったからであり、必ずしもこちらの気力や勢力が劣っていたからではない。よってシャクシャインの言うように、ゲリラ戦に持ち込んで和人の戦力を分散させ、さらにこちらの土地を良く知らぬ相手を誘い込んで壊滅する、ということも出来なくは無い、と庄太夫は考えていたのだ。

 そしてシャクシャインが徹底抗戦の構えを見せてから、さらに二週間後の寛文九(一六六九)年旧暦九月四日。国縫に松前藩の本隊が到着すると、松前泰広は、いよいよ日高方面へ向かって進軍を開始した。

 むろん、背後に江戸幕府がついていることをちらつかせつつ、

「シャクシャインに味方すれば、お前達のコタンなど揉み潰す」

 と、恫喝しながらの進軍で、これにより「アイヌは一枚岩である」と信じていた庄太夫の目論みは、もろくも崩れていくことになる。

「マシケからも連絡は途絶えた」

「トカチのアイヌも使いを寄越さなくなった」 

 このゲリラ戦で、さらに白髪の増えたシャクシャインに訴えるカンリリカの声も、どんどん張りがなくなっていく。戦いを好まぬ彼の頬は、彼の父よりも一段と落ち窪んでおり、

「親父。今ならまだ間に合う。降服を」

 繰り返し訴えるその顔の、両目だけがぎらぎらと光っているのを、

(幼馴染がこうなった原因は、俺の見通しの甘さ……)

 さすがに庄太夫も直視できず、目を反らしたものだ。

 九月に入ると、蝦夷の夜はもう、凍えるような寒さになる。市座衛門が言う、アイヌに同情している和人商人からの救援物資も途絶えがちで、ろくに食事も取れていないまま戦い続けなければならぬし、松前藩からの脅迫もあるしで、

「残念だが、これ以上は戦い続けられぬ」

 と言って寄越したコタンなどは、使いを寄越せる分、まだ余裕があるほうだとも言える。蜂起の総元締めであるシャクシャインのところにさえ、

「降服すれば命だけは助ける」

 といった蛎崎広林の書簡が届くようになっているのだ。

 従って、

「今ならまだ、アイヌの全滅は避けられる。だから親父。考え直してくれ」

 大げさではなく涙さえ滲ませながら、カンリリカがそう言うのも無理はない。

 それに対してシャクシャインは、老いて皺深くなった目を閉じたきり、何も言わぬ。

(また雨か)

 そんな親子の様子を見るに耐えず、庄太夫は窓の外へ目をやった。

 蜂起してからこのかた、なぜか妙に雨がよく降るような気がする。この分だと今年は、里に下りてくる鹿も少ないかも知れぬ。

(交渉は難しくなるな)

 ぼんやりそう考えて苦笑したところで、

「ともかく、俺はこれ以上戦を続けることに反対だ。親父が続けると言っても、俺は嫌だ」

 カンリリカが言い捨てて、小屋の外へ駆け出していったらしい様子に、やっと我に帰った。同時に、カンリリカの後を追ってアイヌの若者達も駆け出していく。

 その姿を追って目線を戻すと、シャクシャインも目を見開いて己を見ていた。庄太夫が思わず苦笑して頭をかくと、

「……雨は嫌いだ。雪はまだしも、な」

 この義父もまた、ぽつりと言って苦笑を漏らす。

「矢を射る手が強張って動けなくなる。降り込められて、どこへも行けぬような、そんな気分になる時さえある」

「長」

「ああ」

 市座衛門や助之丞らは、今日も「商売仲間からの救援物資」を受け取りに出かけている。期せずして二人きりになってしまったこの小屋の中で、

「お前も、逃げられるものなら逃げろ。お前はお前の見通しが甘かったせいで、こうなったと思っているようだが、そうではない。お前が気にすることではない。せっかくカムイから授かった命だ。無駄にするな」

 義父が言った言葉に、庄太夫は驚いて目を見張った。

「親父殿。貴方は」

(死ぬ、というのか)

 戦いに臨むからには、己の死を覚悟するのは当然のことだったはずなのに、いざそれを思うとやはり背筋が凍る。悲鳴のような息を呑みながら、思わず義父の側へにじり寄った彼に、

「お前がいつか俺に言った、蝦夷アイヌ王国……俺の手で建てられるものなら、とうの昔に建っていたさ。だが」

 シャクシャインはかすかに微笑って、

「今回の出来事で良く分かった。石狩と宗谷の奴らは知らんぷりを決め込んだ……俺には、統率者としての器量が欠けていたからだ。和人憎しとの思いで一杯になってしまって、周りを良く見ることが出来なかった。憎しみだけでは、和人に勝つことは到底出来ない。それはヘナウケの戦いの結末をよくよく考えたなら、分かったはずなのだがな」

 ごつごつと節くれだった己の両手に目を落とし、言ったのである。

「お前がいなくても、俺はきっと立ち上がっていた。ただ、それは蝦夷にアイヌだけの王国を作る、そのためだけではない」

「……はい」

 長年弓を射てきたシャクシャインの右手は、矢を摘む人差し指と親指の関節が、硬く瘤のように膨れている。庄太夫は、それを見つめながら頷いた。このような事態になってやっと、シャクシャインの気持ちが少し分かったような気がしたのである。

「どちらにせよ、俺はもう引き返すわけには行かない。クスリとアッケシの奴らも、俺をまだ支持してくれている。俺はそんな奴らのために、戦い続けなければならない。だが、そう思う一方で、な」

 シャクシャインは、そこでふと言葉を途切れさせ、この娘婿を見た。

「戦いのために、俺らの子が飢え、死ぬ。そう考えるとたまらなくなる。矛盾しているようだが、カンリリカの言うように、降参するなら今しかないかもしれん、とも考える。しかし今更後には引けぬ。俺達にはアイヌとしての誇りと意地がある。それをせめて、松前の奴らにだけでも示しておかぬと、俺の気が治まらぬ。俺の勝手で、女子供達をこれ以上死なせるわけにはいかん。だから、お前は逃げろと俺は言うのだ」

「しかし」

「なぜならお前は和人だ。アイヌではない。俺達には関係のない者だ。だから、俺の娘と孫を連れて逃げろ。そうすれば、和人の血を引いた俺の孫は、アイヌだからと蔑まれることもない。しかもアイヌの血も、後世に伝わる」

「……長」

「お前は和人だ。アイヌではないのだ。同情はいらん」

 繰り返し、きっぱりと言われて、庄太夫は愕然と目の前の義父を見た。

 生まれ着いてのアイヌではない者に、アイヌの本当の気持ちを理解することは出来ぬ。

(こういうことだったのか)

 以前に市座衛門が言っていたのと同じ言葉が、シャクシャインの口から出ると、何ともいえない重みを伴って彼の胸に迫る。

 返す言葉に詰まって、庄太夫は黙りこんだ。しばらくは雨の降る音だけが当たりに響き、やがて、

「本来ならば、そろそろカムイ・チェプ(鮭)を迎える祭りを……準備をしなければならぬというのにな。今年はこの雨のせいで、シベチャリも濁っていよう。カムイ・チェプも少ないのではないか」

 シャクシャインはぽつりと呟いた。

 その声は限り無い寂しさを含んでいるように思え、ために、

「私は、あなたの娘婿です。あなたの一族の者です」

 シャクシャインの側へさらにいざり寄りながら、庄太夫は思わず、まるきり答えになっていない答えを返していた。

「うん。そうだな」

 するとシャクシャインは、少しだけ驚いたような顔をした後、庄太夫を見て嬉しそうに頷く。きちんとした言葉にはなっていなくても、庄太夫の言いたいことはこの義父には伝わったらしい。

「悲観的な考えになるのは、この雨のせいです。クスリやアッケシばかりではなくて、マシケでもまだまだ、貴方の考えに共感して戦っているアイヌがいるではありませんか。貴方が掲げた明かりは、まだ蝦夷を照らしている」

 己を励まそうと懸命に言う娘婿の言葉へ、シャクシャインは熱心に耳を傾けている。その口元が少しずつほころんでいくのを見ながら、

「それに、戦いが始まって二月程度しか経っていない。勝敗の行方は分かりませぬが、少なくとも、士気の上で我らは相手を上回っている。ですから、戦いを続けるというのなら、最後まで希望を捨ててはなりません」

「……うん」

 庄太夫が彼の右手へ己の両手を重ねながら言うと、シャクシャインは素直に頷いた。

「少し休んで下さい。貴方はお疲れになっていらっしゃる」

 彼の勧めに、

「そうだな。俺としたことが、まさか商人であるお前に教えられるとはな」

 シャクシャインはまたかすかに微笑って、尻の下に敷いてある熊の皮の上へごろりと横になる。庄太夫に背を向けて、左腕を手枕にしたその姿からは、

(小さくなった)

 幼い頃から畏怖さえ覚えていたあの大きさがすっかり喪われているが、

(それでも、やはり大したものだ)

 間もなく、健やかな寝息が聞こえてきた。それと見てやはり庄太夫は、シャクシャインの胆力に感嘆せざるを得ぬ。予断を許さぬゲリラ戦の最中だというのに、こんな風に眠ることが出来るというのは、

(皆から慕われるだけのことはあるのだ)

 やはり大変に頼もしいと思える。

 とはいえ、

(このゲリラ戦には、将来が見えぬ)

 シャクシャインには励ましの言葉をかけておきながら、庄太夫でさえも、実はそう考えていた。何と言っても、松前藩に内浦湾アイヌとの間を分断されたのは大変に痛手で、そのために自分たちは後退を余儀なくされたと言って良く、さらに、

(種子島、旧式でも良いから種子島さえあれば……)

 規則正しい義父の寝息を聞きながら、庄太夫は唇を噛み締めて、己の拳を膝に力いっぱい打ち付けたい衝動にかられた。

(たかが一商人が、一藩とその後ろにある江戸幕府に対抗しようなどと)

 権力を手に入れた者は、傍若無人に振舞うことが許される。その理不尽さと権力に対する己の無力さを、彼はこの時、痛烈に感じていたのだ。

(この戦いは、俺達の負けだ。蝦夷のほとんどのアイヌが一致団結したというのに)

 そしてそれは、何よりシャクシャインが良く感じているに違いない。シャクシャインが眠っている間にもどんどん寒さは増し、食糧は少なくなっていく。ために、

「もうこれ以上は戦えぬ。よって味方は出来なくなった」

 と訴えに来るアイヌが増えてきているからだ。

 そんなわけで、やはりアイヌにとって戦況は芳しくない。気が付けば、少しずつ少しずつ追い詰められて、オシャマンベのチャシも危うくなり、

「……シベチャリへ戻ろう」

 シャクシャインが力なく言ったのは、ゲリラ戦が始まって三週間後の旧暦十月半ばである。

「シベチャリのチャシにこもって戦おう」

 彼の本拠地である、メナシクルコタンに篭って戦うとシャクシャインは告げた。メナシクルのチャシは、先に述べたように、静内川べりにある、高さ七十メートルもの断崖の上に建っているから、

「ここに篭っていれば、間もなく冬になる。押し寄せてきても、食い物のない松前の奴らは細るばかりだ」

 言葉と共に吐いた息が白い。彼の言うように、秋はいよいよ深まっている。というよりも、感覚としてはすでに初冬に近い。

 そしていつの間にか、ゲリラ戦の最中に、まるで盗むように束の間の眠りをむさぼる義父に、熊の皮をかけてやるのが庄太夫の役目になっていた。その日も義父を起こさぬよう、彼は熊の皮を老いた身体にかけてやり、足を忍ばせて、砦の中でひときわ大きなその小屋の外へ出る。

 空を見上げて額に手をかざし、

(また雨か。雨だと戦いが減るから、少しは助かるが)

 彼は思った。雨が降ると、種子島の火縄は湿る。するとわずかではあるが、弓矢や槍といった古代の方法で戦っているこちらに有利にはなる。それを知っているから、松前藩その他の兵士たちも、おいそれとこちらへは戦いを仕掛けてこないのだ。

(太平の世が続いたのと、種子島に頼りきっているのとで、武士もなまっているらしいから。そうであったほうが俺たちにはありがたい)

 思いながら苦笑しつつ扉を閉めたところで、

「やっと出てきたか」

 声をかけてきた者がある。

 外へ出て気が付けば、うっすらと辺りは明るくなっており、

「ああ、雨はもうすぐ止むな」

 空を見上げれば、灰色の雲の隙間から太陽の姿が覗いていた。

「お前は、弘前の杉山とやらと親交があると聞いた」

 しかし、どこか切羽詰ったような相手の気持ちをほぐそうとしてかけた、庄太夫のその言葉を、聞いていたのかいなかったのか、相手はおざなりに頷いて、

「だから、お前も杉山という和人と、もっと密に連絡を取ってくれないか。俺も、独自に蛎崎広林に書簡を出している。砂金堀の文四郎経由でな」

「お前は一体、何が言いたい。文四郎殿は生きていたのか」

 常の彼に似ずせかせかと続けたカンリリカの顔を、庄太夫は驚いて見上げた。

「生きていたらしい。今は松前の奴らのところにいる。文四郎から手紙が来たのだ。だが、奴が生きていようがいまいが、そんなことは大した問題ではない。問題は、その中身だ」

 カンリリカは、庄太夫が驚いているのを、それこそ「問題ない」ように続けて、懐から出した一巻きの紙片を、義弟へ差し出しながら、

「文四郎は言う。蛎崎広林は、今、俺達が降服したら、俺達の命を奪うこともしないと言っていたと。これは、戦いの最中に、松前藩に捉えられた元オニビシ配下のヤツから伝え聞いたことだ。文四郎は、それを文書に認めて俺宛に寄越したのだと」

 俺には和人の文字は分からないが、と、付け加えた。

 義兄の顔を呆然と見つめる庄太夫に、カンリリカは顎をしゃくる。どうやらその紙片を開け、ということらしい。ともかくもその巻き手紙を受け取り、中の文字を追い始めた庄太夫へ、

「オニビシの配下だったということなど、奴らに分かるはずがない。奴らにとって、アイヌは十把一絡げでアイヌなのだ。しかし、殺さずに解放した、ということからも、松前の奴らの言っていることは真実だと思わないか」

 カンリリカは熱を持って言い募った。

「……うむ……」

(やはり、こいつは降服したがっている)

 いつか見た文四郎の風貌を思い出しながら、割に達筆なその手紙を読むと、カンリリカの語るところと大体は似たようなことが書いてある。要するに、

「今すぐ戦いをやめたなら、アイヌ達をこれ以上追い詰めることはしない……」

 ということで、

(この戦いで、交易が滞っているからな)

 庄太夫は口を結び、鼻から大きく息を吐き出しながら、読み終えた手紙を巻いた。

 物語の最初でも述べたが、松前藩には米を生産する技術がない。よって収入はアイヌとの交易に頼らざるを得ず、ためにこの戦いで商人たちが逃げ出してしまっては、交易が成り立たない。これも大げさではなく、収入が激減しているのではなかろうか。

 メナシクルアイヌを攻める際に、松前藩はメナシクルとの交易を断った。しかしこれは藩にとっては、

「結局は自分の国の産物生産量が減る」

 といったような、自分で自分の首を絞める結果になるのだから、皮肉な話である。

 だから、松前藩側にしてみても、戦いを出来る限り早く終わらせたいのだ。政治上からも、弘前、久保田その他、近隣三藩の力を得てもアイヌの蜂起を鎮圧できないとなれば、

「蝦夷の統治能力がない」

 ということで、江戸幕府から改易されるほうが早いかも知れぬし、この戦いが長引けば長引くほど、助けに来てくれた東北三藩に頭が上がらなくなる。そうすると、この先の「友好関係」にも微妙なものが出てくるに違いない。

(松前藩は焦っている。それに文四郎は、ある程度こちらの「事情」を知っている)

 だから、もともとあまり戦というものをしたがらぬカンリリカの心から、突き崩すことにしたのではないか……。

「このままもっと寒くなれば、俺たちは飢え死にするか、凍え死ぬ。俺は、これ以上子供達が死ぬのを見たくないのだ」

 自分に手紙を返して、空の一点を見つめている風情の庄太夫へ、カンリリカが訴えるように言う言葉も、人情としてあまりにも当然だ。だが、

「親父はもう年寄りだ。いつカムイに召されてもおかしくはないから、この戦いで死んでもよいと思っているようだ。しかし俺は違う。まだまだ幼い俺の子らや若者らを見守らねばならんと思っている」

 こんな義兄に徹底抗戦を言い、さらには己の夢を語ることに少しの虚しさを覚えて、

(和人の癖に、どうやら俺のほうが、よほど松前藩に腹を立てているらしい)

 庄太夫は苦笑した。同時に彼にこの上ない不甲斐なさも覚えて、

「お前は和人ではない。アイヌなのだろう」

 思わずそう言ったのには、先だってシャクシャインに言われた言葉……「お前はアイヌではない」……が、己の心の中にまだ燻っているからに他ならぬ。

「それに、何故俺に言う。何故まっさきに、己の親父殿に告げぬ」

「……親父は、俺の言うことになど耳を傾けぬ。俺が幼い頃からそうだった。俺が文四郎から手紙をあずかったと聞けば、きっと激怒する」

「お前はお前の実の親父を恐れているというのか。お前は、いい年をして親父に叱られるのを恐れているというのか」

 呆れて庄太夫が問うと、

「そうだ。認めたくはないが、結局はそういうことだ。俺は、これ以上俺が親父に嫌われるのが怖いのだ」

 カンリリカは面目なさ気に目を伏せ、

「親父は、俺には大きすぎた。俺には親父の名を背負いきれぬ。俺には親父のように、メナシクルコタンを継ぐ事は出来ぬ」

 心を絞り取られるような、切ない声で小さく答えたのである。

 改めて述べるが、アイヌの族長は、いわゆる世襲制ではない。アイヌコタンの中で、最も人望の厚い、武勇に優れた者が、現族長の死に際して選ばれて次の族長になるのであり、

(それならそれでいいではないか)

 庄太夫も、ごく自然にそう思っている。シャクシャインの後を、カンリリカが無理して襲う必要はないのだ。それに、

(誰も、シャクシャインのような役割を、優しすぎるこいつには期待していない)

 彼がそうも考えるのは、決して悪意からではない。

 そもそもシャクシャインが英雄などと呼ばれたのは、大半の人間が見てみぬふりをして行き過ぎるだろう出来事を見過ごさぬ勇気があったからである。

 人というものは、基本的に冷酷なものなのだ。すぐ側で災いに遭っている人間がいても、自分に害が及びそうであると判断したなら、目をつぶってそのまま見なかったことにする生き物なのだ。

 アイヌの場合、その災いが和人によるものだった。アイヌにはない武力を背後にちらつかせての恫喝を、何とかしたいと思っていても行動に移せぬ人々の中で唯一人、シャクシャインだけが勇気を持って吠え、行動した。つまり、シャクシャインの行動力が際立って目立っていたために、それが「アイヌの英雄物語」と結びついた、という、

(ただそれだけの話なのだ。だから俺もそれを利用しようとした。だがそれは間違いではない。アイヌの人々にとっても有利に働くはずなのだから)

 と、庄太夫も己の心のどこかで、意外に冷静に思っている。蝦夷に住んでいるアイヌの人々の中で、シャクシャインほどある意味「人間臭い」人物はいないのではないか。

(だが、それをどうやって伝える)

 その感覚は恐らく、アイヌと和人の間で育ってきた庄太夫独自のもので、カンリリカにはきっと伝わらない。返す言葉に迷いながら義兄の顔を見ると、

「……そんな俺自身を、俺はずっと憎んでいた。母に一度そのことを告げたら、父は父、お前はお前なのだから、それで良いではないかと逆に笑われた。だが、俺にはそう考えることが何故か出来なかった」

 苦しそうに頬を染め、カンリリカは言うのである。

「俺は親父になりたくて、なれなかった。だから、俺は親父に好かれていない……俺には親父のように、部族を率いて戦いの先頭に立つだけの度胸はない。武術に秀でているわけでもない。争いは嫌だ。武器を用いる時など、ただ日々の糧を得る時だけで十分ではないかと思うのが、何故いけない」

 庄太夫の心を読んだように彼は言って俯き、唇を噛み締める。

(そんなにも苦しんでいたのか)

「……うん」

 そして庄太夫は、ようやくこの義兄の思いを知って、ため息と共に頷いたのである。現族長の子でありながら、誰も……実の父親でさえ……彼には期待していない。そのことに、カンリリカはいたく彼自身の矜持を傷つけられたのだ。

 武勇に優れたシャクシャインの子でありながら、己にはその親父を凌ぐ器量はないことも、彼は早くから重々承知していた。何より周囲が「シャクシャインの子であるから、何がしかの能に優れているに違いない」と勝手に期待し、カンリリカにそれがないと分かると、勝手に失望してしまった。

 周囲が何も言わなくても、そんな空気は得てして本人にはすぐ伝わるもので、

(それがこいつには、辛くてたまらなかったのだ)

 武器を取って戦うことのない商人ではあるが、同じ男として、その気持ちが分からないでもない。

 しかし、

(だが、こいつが親父に好かれていないというのは間違いだ)

 庄太夫は、シャクシャインが皆に隠れてこっそりと涙したことがあるのを見知っている。それに、カンリリカが思っているのとは正反対に、親として彼のことを心配しているのを知っている。

 それを告げようとして、カンリリカの顔へ視線を戻すと、

「だから、俺は俺なりに、アイヌにとって良いと思われることをしたい。それはやはり、アイヌの血を残すことを第一に考えることだ、と、俺は思う。種子島に弓矢で立ち向かうのは、火山の神の中へ素裸で入りに行くようなものだ。違うか。それに俺達アイヌの民は、そもそも他民族と戦うような手は持っておらぬはずなのだ。シュムクルの奴らが良い例ではないか」

 情熱を込め、日頃の彼に似ない饒舌で、カンリリカは言うのである。

 かつてオニビシ配下だったシュムクルコタンのアイヌ達は、松前藩相手のゲリラ戦が始まったと聞いた途端、アリが散らばるように逃げ出してしまった。元は「親松前藩派」だったアイヌ達だっただけに、

「松前藩の強さがどのくらいのものか、良く知っているからだろう」

 と、カンリリカは続けた。

「だから、お前は松前の奴らと和睦を結ぶと言うのか」

「そうだ。これ以上アイヌの血が減っていくのは、なんとしても止めなければならん」

「しかし、松前の奴らも現に飢えて、厭戦気分になっている者や逃亡しかけている者もいると聞くぞ。それに間もなく雪も降る。ここで踏ん張れば、雪に込められて奴らは凍え死ぬ。いずれは引き上げて行くだろう」

「だが、俺達が飢え死にする方が先だと俺は思う。砦の中の食料は、あと三日も保てばよいほうだろう」

 晩秋の風が、ざざっ、と彼らの間を吹き過ぎてゆく。その風は雨を降らせていた雲をも払って、

「幸い、向こうから和睦を求めてきているのだから、俺としてはそれにのりたい。親父とは違う俺に出来ることは、それだけだ。和睦というのだから、少なくとも表面上は対等の立場で、そして戦いが終われば今まで通りの生活に戻ることは出来るだろう」

「そうなればいいが」

 日の光を背に受けた義兄を眩しげに見ながら、庄太夫は苦笑してそう言った。

 今回の戦いは、あまりにも規模が大きすぎた。ヘナウケの場合はその範囲がごく狭い地域に限られていたため、「首謀者」であるところの彼も釈放されて、松前藩に従属を誓うことで許されている。しかし、

(今回は、それとは違う)

 和睦とは言い条、悪くするとシャクシャインはこの騒動の責任を取らされるかもしれない。責任を取るということは、つまり、

(彼の命と引き換え、ということにならないか)

 そんな恐れがあるということである。

(となれば、この和睦にのってはならぬ。しかし、ここでアイヌの英雄たるシャクシャインを殺してしまったら、それこそアイヌ達は激怒して松前藩へ攻め入るかもしれぬ。そうなれば藩にとっても得策ではないから、殺されはしない、とも考えられるが……)

 考え込んだ庄太夫へ、

「くどいようだが、この戦いで死んでいく奴らを、俺はもうこれ以上、見るに忍びないのだ。親父が怖いから、誰も面と向かって口にはしないが、俺の考えに同調する奴らも実は多数いる。それを親父に」

 太陽の光を受けて白く光っているその顔を見つめながらカンリリカは言い、ふと、庄太夫の後方を見て口をつぐんだ。

 庄太夫がつられて後ろを見ると、

「お前達の会話で起こされた」

 シャクシャインが、口辺にわずかな微笑を浮かべて、開いた扉の側に立っている。本人同士は気が付かなかったが、潜めていたはずの声は、激情に駆られたためにいつの間にやら大きくなっていたらしい。

「……俺の息子であるお前が、そういう考え方であるなら、これ以上戦っても仕方がない」

「親父殿」

 口をつぐんで俯いてしまったカンリリカを押しのけるようにして、庄太夫がその前に詰め寄ると、

「お前が言うように、このコタンの中にも、お前と同じ考えの奴が多数いるというのが真実であるのなら、尚更だ……怒りに任せて戦いを始めてやっと三月。だが、これがもう潮時で、怒りに目がくらんで、周りを見ようとしなかった俺の出来る限度なのだ、と、カムイが言っている。そういうことなのだろう」

 むしろさばさばしたような声で言って、シャクシャインは空を仰ぎ、カラカラと笑った。

 そして、矢を放ち続けた右手を、

「見せろ」

 言いながら、二人へ向かってにゅっと差し出す。

 それが手紙を指しているのだということは、すぐに分かる。シャクシャインとカンリリカの顔を等分に眺めた後、庄太夫はためらいながら、まだ手にしていた文四郎からの手紙を義父に差し出した。

 むろん、和人の言葉を学ぼうとしなかったシャクシャインに、そこに書いてある文字が解読できるはずがなく、
 
「……あの砂金堀は、和睦を勧めているのか」

 形だけ、ざっと目を通した後、シャクシャインはその手紙を片手でぶっきらぼうに庄太夫へ付き返し、問うた。そして、いかにもついでのように、

「生きていたのか」

 ぽつりと呟き、しばらく間を置いて、呟いたことにやっと気付いたらしく、ほろ苦く笑う。

「そうです。文四郎殿はどうやら、どさくさに紛れて松前まで逃げたらしい」

 老いてなお、木の根のようにがっしりしている手からそれを受け取り、カンリリカへ渡しながら庄太夫は答えた。

「それで、我らとの橋渡しを藩から依頼されたのでは、と思うのですが」

「なるほどな。それで」

 その答えに一応頷きながら、シャクシャインは息子へ向き直る。

「お前はどうしたいのだ。和睦という考えに傾いている者が、我がメナシクルにもいるというが、本当か?」

「本当だ」

 するとカンリリカは、父の視線を避けるかのように俯いたまま、辛うじてそう答えた。そんな息子に、

「お前は今なら、和人と対等に和睦が出来ると?」

 シャクシャインは念を押すように再度尋ねると、

「そうだ。俺はそう思っている。あちらから下手に出てきている今なら、松前の奴と台頭に話が出来るはずだ」

 カンリリカは父を恐れながら、しかしその時だけは顔を上げ、きっぱりと告げた。

(和人、か)

 その会話を傍らで聞きながら、庄太夫はシャクシャインの問いかけの中にあった言葉を、心の中で何度も繰り返していた。

 シャクシャインは、「松前藩の奴ら」と言わずに「和人」と言ったのだ。

(その意味を、こいつは分かっているのか)

 庄太夫がほろ苦い思いで傍らの義兄を見やると、

「幸いコイツ……庄太夫にも」

 その視線に力を得たように庄太夫へ頷いてから、

「弘前に、杉山吉成という知り合いがいるという。悪くは扱われぬのではないか。アイヌの誇りと意地なら、蝦夷全土のアイヌと共に松前藩と戦った親父が生きている……それだけで、松前藩の奴らと蝦夷のアイヌに伝わるではないか。何もこれ以上、無理して戦う必要はない」

 カンリリカはなおも訴えるのである。

 やがて彼らの上空を、再び灰色の雲が流れる。三人の姿が一瞬かげって、

「……それがお前の考え方か?」

 すぐにまた初冬の太陽が弱弱しく彼らを照らし出した時、微笑でもって、いつになく熱心に告げられた息子の訴えに耳を傾けていたシャクシャインは、ぽつりとそう言った。

 そして、口を挟もうとした庄太夫にその隙を与えず、

「良く分かった。俺はお前の父として、お前の考えを尊重しよう」

 メナシクル族長は続け、広く分厚い背中を息子達に見せたのである。

「義父殿!」

 ほっとしたような顔をするカンリリカとは対照的に、慌てたのは義理の息子のほうで、

「なぜ今更和睦など。もう少し待てば雪が降る。雪が降れば松前藩の兵士達は弱る。そこを打って出れば、我らは局地的ではあるが、勝利を収めることができるではありませんか。そして我等が勝てば、きっと他のアイヌ達の励みにも」

 義父の広い背中を追って彼が叫ぶと、

「庄太夫よ」

 部屋の中央の床に敷いてある熊の敷物へ、どっかりと腰を下ろして胡坐をかきながら、シャクシャインは己に詰め寄った庄太夫に向かって再び微笑った。

「誰にも言わなかったが、俺も一度、シュムクルアイヌらの言伝で、松前藩の奴らから和睦勧告とやらを受け取っていたのだ」

 何も言えず、ただ己の顔を見つめる義理の息子へ、全てを悟ったような穏やかな表情を向けながら、

「その時は松前の奴らに……和人の奴らに、逆に怒りが湧き起こった。あいつらのは、対等な立場同士での和睦とは言い条、実は降服だ。それゆえに、決して降服などしてなるものかと。神々とともに生きる俺達アイヌは、最後の最後まで和人と戦って、かつて楽園と言われたこの蝦夷を、アイヌの手に取り戻すのだと」

 シャクシャインは続けて、少し寂しい目をする。

 小屋の中が再び暗くなったと思うと、冷たい風が吹き込んできた。しかし、急速に気温が下がっていくと感じられるのは、そのためばかりではあるまい。

「だが、他でもない我が息子が、和人との和睦を望んでいるのであれば、父である俺はそれに従うしかあるまい。息子一人の心をつかめぬ者が、アイヌの民族をまとめられようか」

「義父殿」

「庄太夫よ、俺は今までに一度も、親父としてカンリリカと向き合ったことがない。アイツと向き合う時は、いつでもメナシクルコタンの族長としての冷たい義務感を伴っていた。実の息子だからと感情に走ってはならんと思ってな。だが、それは間違いだった。俺はアイツに対する負い目がある」

 老いてなお、力強い光を放っていたはずの瞳は今、穏やかに細められている。

「俺は、いつカムイに召されても良い老いぼれだ。だから、最後の最後くらい、親父らしいことをしようと思っても良いだろう。だから、俺は松前の奴らの言うように、松前まで出かけていって、奴らの詫びとやらを受け入れようと思う。カンリリカがアイツなりに、頭を振り絞って出した策だからな」

(危うい)

 その目を見、いつになく穏やかな声を聞いて、庄太夫の背筋に一瞬、冷たいものが走った。

(行ってはならない。彼を止めなければならない)

 心の中で、しきりにそんな声が響く。シャクシャインは、松前に行ってはならない。その理由は、そう思った庄太夫でさえ、何故だか分からない。

 しかし喉まで出かかったその言葉は、

「ああ、俺は行く。この茶番が終わったら、カンリリカに後を譲って、俺は隠居しよう。これからの時代には、カンリリカのようなヤツこそが長に相応しいのだ」

 自分に言い聞かせるように頷いたシャクシャインの姿を見て、ついに発せられなかった。そしてシャクシャインは立ち上がり、言葉を失ってしまった庄太夫の横を通り抜けて、

「戦いは終わりだ。皆、ご苦労だった!」

 扉を開き、そう叫んだのである。

(……終わってしまった)

 腹の底まで良く響く声は、庄太夫が幼い頃から聞いていたそれと少しも変わらない。

(終わってしまったのだ。果たしてこれで本当に良かったのか)

 限りない寂寞感に囚われて、しばらく呆然としたまま座り込む庄太夫へ、

「これから松前に行くぞ。お前も一緒に」

 変わらぬ信頼を込めてその肩を叩きながら、カンリリカが話しかけた。


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