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ね、遊ぼ。
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今、俺はあそこへ帰ろうとしている。
なんでだか、9歳より前の記憶は俺には無い。
両親も、俺の幼い頃のことを尋ねると話を逸らす。
海水浴の話題に必ず上る、風光明媚でシーズンになるといつも込む場所なのに、家族旅行ですら訪れたこともない。まるでわざと『故郷』だけを避けているみたいに。
確かに、毎年のように水の事故で人が亡くなるから縁起が悪いという噂もネットとかには上がってた。でもそんなの、どこの海水浴場にもある事故じゃないのかな。もし少しばかり件数が多いとしても、それはあの辺りの海岸の地形の影響で潮の流れが複雑らしいからという話もあるし、そういうのを気を付けてれば回避できる事故っていう気もしてた。
でも、両親は話題にしようとさえしない。子供心にも不自然に感じるほどに。
だから、俺もいつしか自分からは小さい時のことを尋ねるのを止めていたんだ。
そんな故郷から家族で引っ越してしまって10年。
両親から昔の話を聞くことを諦めた俺も、もう、小さな子供じゃない。バイトで金も貯めた。自分の力で全国どこにだって行ける。
だから空白の記憶をはっきりさせたくて、俺は両親に内緒でその街へ向かった。言えばきっと強く止められるからね。それに今さら親の顔色窺ってやりたいこともやれないなんてダサいし。
その街までは、俺が住んでいる今の市から特急電車に乗って、2時間足らず。
潮騒のざわめきが間近に聞こえるあの町で、俺が幼いときを過ごしたあの町で、俺はどうして記憶を無くしたのか。
それに、今も目をつぶれば、
『…ちゃん…。祐ちゃん…』
(君は、誰なんだ)
「お客さん、終点ですよ!」
「ああ、すみません」
車掌さんに揺り起こされて、いつの間にか眠っていた俺は目を覚ます。俺の遠い記憶の中にかすかに残る…女の子の声が、また夢の中で俺の名を呼んでいたのだと気づき、わずかに苦笑をもらしながら。
古いタイプのバックパック一つを肩に下げ、駅のホームへ降りる。
途端に、海の香りを含んだ風が、俺の耳を優しく撫でた。
(思い出せるだろうか)
海が、駅のすぐ近くに迫っているような、そんな…田舎。
まだ海水浴には早い時期だからだろうか、降り立った客は俺しかいなくて、昼下がりの太陽が鈍い光をホームに投げかけている。
覚えていなくても、どこか潮の香りが懐かしい。それを胸いっぱいに吸い込んだ時、
『祐ちゃん』
(え)
俺の名を呼ぶあの声がはっきり聞こえた。遠くから呼ばれているような、なのに耳のすぐ近くで囁かれたような、
そんな不思議な感覚。
辺りを見回しても、誰もいない。ただ陽炎の立ち昇る線路や、少しずつ影の形を変えていく樹があるだけだった。
けれど、
『ずっと待っていたんだよ。お帰り』
もう一度、その声は俺に語りかける。
幻聴と言い切ってしまうには余りにもリアルで、けれど、
「どうかしましたか? 探し物でも?」
「あ、いえ…」
いかにも『田舎の親切な駅員』っぽい係員さんが、親切に声をかけてくれたのへ、俺は曖昧に笑って首を振った。
記憶をなくしたのと多分同時期に、俺だけに聞こえるようになったその声。話したところで誰も信じちゃくれないから、
「今夜、この町に泊まりたいんですけれど。適当な旅館、紹介していただけませんか?」
俺は係員さんにそう言うのだ。
するとその係員さんは、
「はいはい、いい宿を知ってますよ。ここからでも手続きできます」
といかにもな営業スマイルをしてきた。それを見てピンとくる。
(あ、これは親族とかがやってる宿ってことだな)
でもまあ、手間が省けるのはちょうどいい。料金にしてもあからさまなボッタクリみたいのでなければ少々割高になっても構わない。そういう覚悟で余裕をもって用意してきた。
係員さんが自分の携帯で手続してくれるというので、
「それで、お客さんのお名前は?」
と尋ねてきたのにも、気軽にフルネームを答えてた。
だけどその瞬間、係員さんが怪訝そうな顔をしたのが分かった。
ただ、僕の苗字は全国探しても数件しかないという変わった苗字だから、名乗った時にそういう表情をされることも多いし、慣れていた。だからこの時もそれだろうと思って気にしなかったのだった。
チェックインの時間まではまだ余裕があるし、記憶が少しでも戻るかと思って、町中をぶらついていると、いつの間にか日が傾いていた。
そろそろ頃合いかなと思って駅の係員さんが手続してくれた宿でチェックインをする。いかにも家族経営って感じの民宿だった。
すると受付けの、六十くらいかなって感じの男性が僕を見るなり、何とも言えない表情をした気がした。あの駅の係員の人と同じ表情だと気付いたけど、それでも僕は気にしないようにした。
(これはあれかな。僕の苗字で昔ここにいた人間だってことに気付かれたのかな。で、ここを捨てて都会へ出て行った人間が物見遊山に郷里に帰ってきたのが何となく気に入らないみたいなあれかも)
そう考えると腑に落ちた。そういう狭隘な雰囲気がこの町にはあって、それが嫌で両親はここを出て、昔を思い出したくなくて避けてきたのかもと、一人納得してしまった。
(まあ、そういうことならもう二度とここには来ないでいいや)
正直、そんなことを思ってしまう。
実際、町中を軽くぶらついていても見るべきところもあるように感じないし、単純に海水浴場があるというだけで他には何の取り柄もないっていうのがよく分かったから、わざわざここまで海水浴に来る必要もないっていうのが結論だ。
とは言え、今回はせっかく来たんだから、のんびり羽休めだけさせてもらおう。
そう割り切って宿の人が敷いてくれた布団へ横になると、昼間も少し気になっていた波の音が耳について離れない。駅よりも海に一層近い旅館だからだろうか。
(出て、みようか)
少し疲れてはいるけれど、なぜだか気分が昂って眠れない。
だから、眠れないまま、俺は砂浜へ散歩に出かけた。
(ここに9年間、住んでいたのか)
旅館を出ると、午後9時を回ったばかりなのに、都会と違って町は既に暗い。恐らくこの町に一軒だけって感じであるんだろうなというコンビニの照明だけが煌々と照っていてやけに浮いて見える。しかもよく見ると、そのコンビニすら「午前7時開店・午後11時閉店」と表示が出てた。
(マジか…まあこんなとこじゃ夜に客なんていそうにないもんな。自販機さえあれば間に合いそうだ)
というのを裏付けるかのように、コンビニから少し離れたところに自動販売機ばかりがずらっと並んだプレハブの建物があった。その中にはカップラーメンの自販機も見えるから、それで何とかなるんだろう。
海の方に目をやれば、漁火が沖のあちこちで光を投げかけているのは素直に綺麗だと思えたけれど。
(やっぱりピンとこないな…)
ひょっとしたら、夏になったらこの海で泳いだこともあったかもしれない。けれど実感が全然湧いてこない。
両親がこの町を出て行ったのは、ここの閉鎖的な雰囲気とかを嫌ってというので納得できる。だが、俺の過去についての話を明らかに避けてることや、戻ってこない俺の記憶と何か関係があるんだろうか。
もっともそれも、田舎独特の陰湿な何かがあって、俺自身がそれでこの町を嫌ってしまって自分で思い出さないようにしてしまったとかいう話かもしれないとも思ったけどね。
夏になったら、さぞや花火客でうるさいだろうと思う真っ暗な砂浜にいるのは、今は俺だけ。寄せては返す波打ち際を、旅館からどれだけ歩いたろう。
もう真夜中近いのかもしれない。満月が中天にかかっていて、蒼い光を辺りに放っている。
本当に静かで、波の音だけが響いて、
(違う世界に迷い込んだみたいだ)
月の蒼い光もまた、一層そんな不思議さを募らせる。思わず苦笑すると突然、
「ね、遊ぼ…」
背後で小さな声がした。
「!?」
驚いてそちらを振り向く俺の目に、小さな女の子が映る。…小学校3年くらいだろうか。
「ね、遊ぼ」
背中の半ばまでくらいの長い髪の毛にヘアバンド。膝丈までのスカートを夜風にひらひらはためかせながら、女の子は真っ直ぐ俺を見上げ、再び誘ってくる。
「君は…おうちの人は?」
遊ぶとかどうとか以前に、こんな時間にこんな小さな女の子がどうしてこんな場所にいるんだろうというのが気になって、ほとんど無意識に問い掛けていた。
なのにこの時の俺は、不審に思うのと同時に、いや、それ以上に、
「いない。ね、遊ぼ?」
とにこにこしながら、いつの間にかもっと側へ来て俺の目を覗き込んでいる彼女が、
(懐かしい…?)
なんて思えてしまったのだった。そんな自分に首をひねる。捻りながら改めて問い掛ける。
「真夜中近くじゃないのかな。近所の子?」
「うん…この近く」
俺の問いに、彼女は海のほうを指差した。
(って、そっちは海じゃないか。人魚とかじゃあるまいし。からかってるのかな)
そんな風に戸惑う俺には構わず女の子の指を蒼い月の光は照らし続けていて、それを見ると、
(本当に別の世界に迷い込んだみたいだ)
とか、再び素直に俺はそう思えてしまった。だから、
「おうちの人が来るまでだよ」
普通に考えたら今時、夜中に小さな女の子を連れてたらそれだけで事案扱いになりそうなのに、するりと言葉が口をついて出た。
「うん」
すると彼女は顔を輝かせて頷いた。
(あ…れ?)
その表情を、いつかどこかで見たような気がする。そう思った瞬間、
(思い出しちゃいけない)
心の中で、誰かが囁いた。けれど、その言葉に耳を傾ける暇もなく、
「ほら、来て」
誘われるまま、俺は彼女に手を取られて歩き出している。
月の青、海の青、夜の闇の中でどこからがその境界線なのか、まるきり区別のつかない不思議な空間の中、
(その手を取っちゃいけない)
波のように俺の胸の中に打ち寄せる「誰か」の囁きは、けれど、
「遊ぼ?」
「…うん」
という彼女の問いに跡形もなく消えていってしまった。
まるで海の中にいるのかと錯覚するような蒼い蒼い闇の中、俺と女の子はどれだけ歩いたろう。不意に女の子が言った。
「やっと、来てくれたんだ」
「え?」
彼女の嬉しそうな声にふと気がつけば、辺りには一欠けらの明かりもなかった。
ここはどこなのだろうと改めて自分の周りを見回しても、聞こえるのは波の音ばかり。
「覚えてないの? 昔、よく遊んだじゃない」
そんな俺の様子がおかしいのか、彼女は空いている片方の手で自分の口元を覆って、クスクス笑った。
「いつの間にか、すごくお兄ちゃんになっちゃったんだね。私は…変わらない、ううん、変わることが出来なかったのに」
「君は、何を…」
彼女の言うことを正しく理解できないまま、いや、理解することを何故だか分からず拒否しようとしたまま、俺の心は早鐘を打ち始める。
何とも言えないゾワゾワした感覚が湧き上がってくるのが分かる。
(聞くな! 見るな!)
頭の中で「誰か」がまたそう声を上げる。その声を聞きながら、でも俺は耳を塞ぐことも目を瞑ることもできなかった。
雲が月を覆って辺りを真っ暗にした一瞬、彼女は言う。
「…やっと、帰ってきてくれたんだ…祐ちゃん」
瞬間、俺の頭の中で何かが繋がる感じがあった。その拍子に分かった。俺は今、海の上にいる。
「…アッコ…ちゃん?」
そして思い出した。記憶が抜け落ちてからいつも響いていた声の主のこと。さっきから俺に警告めいた言葉を掛けているのとは別の、俺がここに来るのを決心することになった「声」。
「ずっと、ずっと待ってたの。祐ちゃんだと思って、違う子ばかりをこうやって『遊ぼ』って誘って…。あの子たちには悪いことしちゃった」
言いながら、彼女はまたクスクス笑う。
「だけど、今ここにいるのは、ホントの祐ちゃんなのよね…来てくれたんだ、やっと」
「アッコちゃん…」
いつしか岸は遠く隔たっていて、俺と彼女は蒼い光につつまれて海の上にいる。
「私ね、寂しかったの。だけど、これからはずっと一緒よね? だって、私がずっとここにいなくちゃならなくなったのは」
アッコちゃんは、俺の手をものすごい力で握って、薄く笑った。
「貴方のせいなんだから」
覆っていた雲が溶け、月は再び俺たち二人を蒼い光で照らし出す。
(思い出した)
あの日…俺と彼女がこの砂浜で遊んでいた日。季節は思い出せないけれど、風が強い日だった。俺は彼女が被っている帽子を、わざと海へ落として、
「取ってこれないだろ?」なんてふざけて…。
泣いている彼女をそのまま置き去りにして、家へ帰った。
…それから数時間後、彼女がいなくなって大騒ぎになったんだ…。
俺は、俺の罪を思い出したくなくて、そのまま記憶の底に封じ込めてしまった。それと同時に悟った。俺の頭の中で俺に警告してたのは、あの頃の俺自身。自らの罪から目を背けさせようとする十年前の俺。
彼女と最後まで一緒にいたのが俺だというのは他の子供たちの証言からも分かって、でも俺は「知らない」ととぼけ続けて、それで両親もこの町にいられなくなって、逃げるように都会へと引っ越した。
「思い出した?」
クスクス笑いながら、月と同じ、蒼く光る目でアッコちゃんは俺を睨む。
「あの帽子ねえ」
俺の手を握る力が、ますます強くなる。なんとか振りほどこうとして、でもびくともしなくて、俺は額に汗をじっとりと浮かせていた。
「まだ見つからないの。一緒に探してくれるわよね? 海の底にあるのかもしれないわ」
彼女に引きずられるような形で、俺は海の上を歩いている。
ハッと振り向くと、岸がますます遠くなっていくのが分かる。
「ねえ、私の代わりに探してくれるわよねえ? だって私、お魚に突付かれて、こんなになっちゃったんだもん。
ふふ、うふふ、あはははは…」
彼女が笑った。途端に俺の腕を掴んでいた小さなその手は、耐え難い腐臭を発して溶け始め、眼球はどろりと流れて後に残ったのは黒々と開いた眼窩。
「―――――っ!!!」
俺は体の奥底から絞り出すように悲鳴を上げた。上げたつもりだった。だけどそれは声にならない。声の代わりにゴボゴボと無数の泡がこぼれただけなのだった。
そして俺は今、海の中で彼女の帽子を探し続けている。
ひょっとしたら、砂浜に落ちているのかもしれない。そんな風に考えて、時々明るい満月の晩に、砂浜へ出て、たまたま通りかかった人へ頼むのだ。
「帽子を、一緒に探してくれませんか?」
その日も、そうやって砂浜を歩いていた観光客らしい若い女性に声を掛けた。
なのに、その女性は月明りに照らされた俺の顔を見るなり、
「…祐ちゃん……?」
って。そう俺の名を口にした彼女の顔を見た俺の口からも……。
「…え…? アッコ、ちゃん……?」
それからすぐ、海岸に一人の男の水死体が打ち上げられた。
俺だった。
その後、浅瀬で何かを探そうとしてるかのように水中を覗き込んでる俺の姿を近所の人が目撃していたという証言もあり、海に落としたものを拾おうとして波にさらわれ、そのまま離岸流に巻き込まれて溺死した事故として処理された。
「祐ちゃん……」
そんな俺の月命日でもある満月の夜、花束を抱えて海に向かって佇むアッコちゃんの姿を、俺はただ黙って見ていたのだった。
どうやらもう、彼女には俺の姿は見えないらしい。
彼女を死なせてしまったかもしれないという自責の念に目を瞑り続けて、事実と自分の中で作り上げた空想との区別もつかなくなってしまった愚かな男の姿なんて、見えない方がいいのかもしれないけれど。
FIN~
なんでだか、9歳より前の記憶は俺には無い。
両親も、俺の幼い頃のことを尋ねると話を逸らす。
海水浴の話題に必ず上る、風光明媚でシーズンになるといつも込む場所なのに、家族旅行ですら訪れたこともない。まるでわざと『故郷』だけを避けているみたいに。
確かに、毎年のように水の事故で人が亡くなるから縁起が悪いという噂もネットとかには上がってた。でもそんなの、どこの海水浴場にもある事故じゃないのかな。もし少しばかり件数が多いとしても、それはあの辺りの海岸の地形の影響で潮の流れが複雑らしいからという話もあるし、そういうのを気を付けてれば回避できる事故っていう気もしてた。
でも、両親は話題にしようとさえしない。子供心にも不自然に感じるほどに。
だから、俺もいつしか自分からは小さい時のことを尋ねるのを止めていたんだ。
そんな故郷から家族で引っ越してしまって10年。
両親から昔の話を聞くことを諦めた俺も、もう、小さな子供じゃない。バイトで金も貯めた。自分の力で全国どこにだって行ける。
だから空白の記憶をはっきりさせたくて、俺は両親に内緒でその街へ向かった。言えばきっと強く止められるからね。それに今さら親の顔色窺ってやりたいこともやれないなんてダサいし。
その街までは、俺が住んでいる今の市から特急電車に乗って、2時間足らず。
潮騒のざわめきが間近に聞こえるあの町で、俺が幼いときを過ごしたあの町で、俺はどうして記憶を無くしたのか。
それに、今も目をつぶれば、
『…ちゃん…。祐ちゃん…』
(君は、誰なんだ)
「お客さん、終点ですよ!」
「ああ、すみません」
車掌さんに揺り起こされて、いつの間にか眠っていた俺は目を覚ます。俺の遠い記憶の中にかすかに残る…女の子の声が、また夢の中で俺の名を呼んでいたのだと気づき、わずかに苦笑をもらしながら。
古いタイプのバックパック一つを肩に下げ、駅のホームへ降りる。
途端に、海の香りを含んだ風が、俺の耳を優しく撫でた。
(思い出せるだろうか)
海が、駅のすぐ近くに迫っているような、そんな…田舎。
まだ海水浴には早い時期だからだろうか、降り立った客は俺しかいなくて、昼下がりの太陽が鈍い光をホームに投げかけている。
覚えていなくても、どこか潮の香りが懐かしい。それを胸いっぱいに吸い込んだ時、
『祐ちゃん』
(え)
俺の名を呼ぶあの声がはっきり聞こえた。遠くから呼ばれているような、なのに耳のすぐ近くで囁かれたような、
そんな不思議な感覚。
辺りを見回しても、誰もいない。ただ陽炎の立ち昇る線路や、少しずつ影の形を変えていく樹があるだけだった。
けれど、
『ずっと待っていたんだよ。お帰り』
もう一度、その声は俺に語りかける。
幻聴と言い切ってしまうには余りにもリアルで、けれど、
「どうかしましたか? 探し物でも?」
「あ、いえ…」
いかにも『田舎の親切な駅員』っぽい係員さんが、親切に声をかけてくれたのへ、俺は曖昧に笑って首を振った。
記憶をなくしたのと多分同時期に、俺だけに聞こえるようになったその声。話したところで誰も信じちゃくれないから、
「今夜、この町に泊まりたいんですけれど。適当な旅館、紹介していただけませんか?」
俺は係員さんにそう言うのだ。
するとその係員さんは、
「はいはい、いい宿を知ってますよ。ここからでも手続きできます」
といかにもな営業スマイルをしてきた。それを見てピンとくる。
(あ、これは親族とかがやってる宿ってことだな)
でもまあ、手間が省けるのはちょうどいい。料金にしてもあからさまなボッタクリみたいのでなければ少々割高になっても構わない。そういう覚悟で余裕をもって用意してきた。
係員さんが自分の携帯で手続してくれるというので、
「それで、お客さんのお名前は?」
と尋ねてきたのにも、気軽にフルネームを答えてた。
だけどその瞬間、係員さんが怪訝そうな顔をしたのが分かった。
ただ、僕の苗字は全国探しても数件しかないという変わった苗字だから、名乗った時にそういう表情をされることも多いし、慣れていた。だからこの時もそれだろうと思って気にしなかったのだった。
チェックインの時間まではまだ余裕があるし、記憶が少しでも戻るかと思って、町中をぶらついていると、いつの間にか日が傾いていた。
そろそろ頃合いかなと思って駅の係員さんが手続してくれた宿でチェックインをする。いかにも家族経営って感じの民宿だった。
すると受付けの、六十くらいかなって感じの男性が僕を見るなり、何とも言えない表情をした気がした。あの駅の係員の人と同じ表情だと気付いたけど、それでも僕は気にしないようにした。
(これはあれかな。僕の苗字で昔ここにいた人間だってことに気付かれたのかな。で、ここを捨てて都会へ出て行った人間が物見遊山に郷里に帰ってきたのが何となく気に入らないみたいなあれかも)
そう考えると腑に落ちた。そういう狭隘な雰囲気がこの町にはあって、それが嫌で両親はここを出て、昔を思い出したくなくて避けてきたのかもと、一人納得してしまった。
(まあ、そういうことならもう二度とここには来ないでいいや)
正直、そんなことを思ってしまう。
実際、町中を軽くぶらついていても見るべきところもあるように感じないし、単純に海水浴場があるというだけで他には何の取り柄もないっていうのがよく分かったから、わざわざここまで海水浴に来る必要もないっていうのが結論だ。
とは言え、今回はせっかく来たんだから、のんびり羽休めだけさせてもらおう。
そう割り切って宿の人が敷いてくれた布団へ横になると、昼間も少し気になっていた波の音が耳について離れない。駅よりも海に一層近い旅館だからだろうか。
(出て、みようか)
少し疲れてはいるけれど、なぜだか気分が昂って眠れない。
だから、眠れないまま、俺は砂浜へ散歩に出かけた。
(ここに9年間、住んでいたのか)
旅館を出ると、午後9時を回ったばかりなのに、都会と違って町は既に暗い。恐らくこの町に一軒だけって感じであるんだろうなというコンビニの照明だけが煌々と照っていてやけに浮いて見える。しかもよく見ると、そのコンビニすら「午前7時開店・午後11時閉店」と表示が出てた。
(マジか…まあこんなとこじゃ夜に客なんていそうにないもんな。自販機さえあれば間に合いそうだ)
というのを裏付けるかのように、コンビニから少し離れたところに自動販売機ばかりがずらっと並んだプレハブの建物があった。その中にはカップラーメンの自販機も見えるから、それで何とかなるんだろう。
海の方に目をやれば、漁火が沖のあちこちで光を投げかけているのは素直に綺麗だと思えたけれど。
(やっぱりピンとこないな…)
ひょっとしたら、夏になったらこの海で泳いだこともあったかもしれない。けれど実感が全然湧いてこない。
両親がこの町を出て行ったのは、ここの閉鎖的な雰囲気とかを嫌ってというので納得できる。だが、俺の過去についての話を明らかに避けてることや、戻ってこない俺の記憶と何か関係があるんだろうか。
もっともそれも、田舎独特の陰湿な何かがあって、俺自身がそれでこの町を嫌ってしまって自分で思い出さないようにしてしまったとかいう話かもしれないとも思ったけどね。
夏になったら、さぞや花火客でうるさいだろうと思う真っ暗な砂浜にいるのは、今は俺だけ。寄せては返す波打ち際を、旅館からどれだけ歩いたろう。
もう真夜中近いのかもしれない。満月が中天にかかっていて、蒼い光を辺りに放っている。
本当に静かで、波の音だけが響いて、
(違う世界に迷い込んだみたいだ)
月の蒼い光もまた、一層そんな不思議さを募らせる。思わず苦笑すると突然、
「ね、遊ぼ…」
背後で小さな声がした。
「!?」
驚いてそちらを振り向く俺の目に、小さな女の子が映る。…小学校3年くらいだろうか。
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「君は…おうちの人は?」
遊ぶとかどうとか以前に、こんな時間にこんな小さな女の子がどうしてこんな場所にいるんだろうというのが気になって、ほとんど無意識に問い掛けていた。
なのにこの時の俺は、不審に思うのと同時に、いや、それ以上に、
「いない。ね、遊ぼ?」
とにこにこしながら、いつの間にかもっと側へ来て俺の目を覗き込んでいる彼女が、
(懐かしい…?)
なんて思えてしまったのだった。そんな自分に首をひねる。捻りながら改めて問い掛ける。
「真夜中近くじゃないのかな。近所の子?」
「うん…この近く」
俺の問いに、彼女は海のほうを指差した。
(って、そっちは海じゃないか。人魚とかじゃあるまいし。からかってるのかな)
そんな風に戸惑う俺には構わず女の子の指を蒼い月の光は照らし続けていて、それを見ると、
(本当に別の世界に迷い込んだみたいだ)
とか、再び素直に俺はそう思えてしまった。だから、
「おうちの人が来るまでだよ」
普通に考えたら今時、夜中に小さな女の子を連れてたらそれだけで事案扱いになりそうなのに、するりと言葉が口をついて出た。
「うん」
すると彼女は顔を輝かせて頷いた。
(あ…れ?)
その表情を、いつかどこかで見たような気がする。そう思った瞬間、
(思い出しちゃいけない)
心の中で、誰かが囁いた。けれど、その言葉に耳を傾ける暇もなく、
「ほら、来て」
誘われるまま、俺は彼女に手を取られて歩き出している。
月の青、海の青、夜の闇の中でどこからがその境界線なのか、まるきり区別のつかない不思議な空間の中、
(その手を取っちゃいけない)
波のように俺の胸の中に打ち寄せる「誰か」の囁きは、けれど、
「遊ぼ?」
「…うん」
という彼女の問いに跡形もなく消えていってしまった。
まるで海の中にいるのかと錯覚するような蒼い蒼い闇の中、俺と女の子はどれだけ歩いたろう。不意に女の子が言った。
「やっと、来てくれたんだ」
「え?」
彼女の嬉しそうな声にふと気がつけば、辺りには一欠けらの明かりもなかった。
ここはどこなのだろうと改めて自分の周りを見回しても、聞こえるのは波の音ばかり。
「覚えてないの? 昔、よく遊んだじゃない」
そんな俺の様子がおかしいのか、彼女は空いている片方の手で自分の口元を覆って、クスクス笑った。
「いつの間にか、すごくお兄ちゃんになっちゃったんだね。私は…変わらない、ううん、変わることが出来なかったのに」
「君は、何を…」
彼女の言うことを正しく理解できないまま、いや、理解することを何故だか分からず拒否しようとしたまま、俺の心は早鐘を打ち始める。
何とも言えないゾワゾワした感覚が湧き上がってくるのが分かる。
(聞くな! 見るな!)
頭の中で「誰か」がまたそう声を上げる。その声を聞きながら、でも俺は耳を塞ぐことも目を瞑ることもできなかった。
雲が月を覆って辺りを真っ暗にした一瞬、彼女は言う。
「…やっと、帰ってきてくれたんだ…祐ちゃん」
瞬間、俺の頭の中で何かが繋がる感じがあった。その拍子に分かった。俺は今、海の上にいる。
「…アッコ…ちゃん?」
そして思い出した。記憶が抜け落ちてからいつも響いていた声の主のこと。さっきから俺に警告めいた言葉を掛けているのとは別の、俺がここに来るのを決心することになった「声」。
「ずっと、ずっと待ってたの。祐ちゃんだと思って、違う子ばかりをこうやって『遊ぼ』って誘って…。あの子たちには悪いことしちゃった」
言いながら、彼女はまたクスクス笑う。
「だけど、今ここにいるのは、ホントの祐ちゃんなのよね…来てくれたんだ、やっと」
「アッコちゃん…」
いつしか岸は遠く隔たっていて、俺と彼女は蒼い光につつまれて海の上にいる。
「私ね、寂しかったの。だけど、これからはずっと一緒よね? だって、私がずっとここにいなくちゃならなくなったのは」
アッコちゃんは、俺の手をものすごい力で握って、薄く笑った。
「貴方のせいなんだから」
覆っていた雲が溶け、月は再び俺たち二人を蒼い光で照らし出す。
(思い出した)
あの日…俺と彼女がこの砂浜で遊んでいた日。季節は思い出せないけれど、風が強い日だった。俺は彼女が被っている帽子を、わざと海へ落として、
「取ってこれないだろ?」なんてふざけて…。
泣いている彼女をそのまま置き去りにして、家へ帰った。
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彼女と最後まで一緒にいたのが俺だというのは他の子供たちの証言からも分かって、でも俺は「知らない」ととぼけ続けて、それで両親もこの町にいられなくなって、逃げるように都会へと引っ越した。
「思い出した?」
クスクス笑いながら、月と同じ、蒼く光る目でアッコちゃんは俺を睨む。
「あの帽子ねえ」
俺の手を握る力が、ますます強くなる。なんとか振りほどこうとして、でもびくともしなくて、俺は額に汗をじっとりと浮かせていた。
「まだ見つからないの。一緒に探してくれるわよね? 海の底にあるのかもしれないわ」
彼女に引きずられるような形で、俺は海の上を歩いている。
ハッと振り向くと、岸がますます遠くなっていくのが分かる。
「ねえ、私の代わりに探してくれるわよねえ? だって私、お魚に突付かれて、こんなになっちゃったんだもん。
ふふ、うふふ、あはははは…」
彼女が笑った。途端に俺の腕を掴んでいた小さなその手は、耐え難い腐臭を発して溶け始め、眼球はどろりと流れて後に残ったのは黒々と開いた眼窩。
「―――――っ!!!」
俺は体の奥底から絞り出すように悲鳴を上げた。上げたつもりだった。だけどそれは声にならない。声の代わりにゴボゴボと無数の泡がこぼれただけなのだった。
そして俺は今、海の中で彼女の帽子を探し続けている。
ひょっとしたら、砂浜に落ちているのかもしれない。そんな風に考えて、時々明るい満月の晩に、砂浜へ出て、たまたま通りかかった人へ頼むのだ。
「帽子を、一緒に探してくれませんか?」
その日も、そうやって砂浜を歩いていた観光客らしい若い女性に声を掛けた。
なのに、その女性は月明りに照らされた俺の顔を見るなり、
「…祐ちゃん……?」
って。そう俺の名を口にした彼女の顔を見た俺の口からも……。
「…え…? アッコ、ちゃん……?」
それからすぐ、海岸に一人の男の水死体が打ち上げられた。
俺だった。
その後、浅瀬で何かを探そうとしてるかのように水中を覗き込んでる俺の姿を近所の人が目撃していたという証言もあり、海に落としたものを拾おうとして波にさらわれ、そのまま離岸流に巻き込まれて溺死した事故として処理された。
「祐ちゃん……」
そんな俺の月命日でもある満月の夜、花束を抱えて海に向かって佇むアッコちゃんの姿を、俺はただ黙って見ていたのだった。
どうやらもう、彼女には俺の姿は見えないらしい。
彼女を死なせてしまったかもしれないという自責の念に目を瞑り続けて、事実と自分の中で作り上げた空想との区別もつかなくなってしまった愚かな男の姿なんて、見えない方がいいのかもしれないけれど。
FIN~
0
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