10 / 16
五 華一掬 5
しおりを挟む
告げながら、
(ああ、嫌だ。なんという嫌な人間だ)
韓琦はこの時、己自身を心の底からそう思った。
そんな言い方をすれば、狄青がきっと断ることをしないと、自分は誰よりもよく知っている。しかもその言い方は、己が彼の破滅を密かに望んでいるなど、誰にも微塵も悟らせない。
果たして韓琦の声が響くと、文官、武官を問わず、その場にいた人々皆が再び歓声を上げ、狄青の名を繰り返し呼んだ。
(参ったな。故郷に帰ろうと決めていたのに、これでは断れない)
彼の情の深さから来るものであろう。頼まれると断りきれぬ、といった、場合によってはまことに厄介な性癖が、どうやら顔を出したらしい。狄青はそんな己に思わず苦笑したが、
「適任者が俺以外にないというのであれば、俺は謹んでお受けいたします」
その大歓声に背中を押されるように、そう言ってしまったのである。
科挙を一度も経たことのない軍人が、宋における最初の枢密使(宰相)となった、という報せは開封だけでなく広く国内外に知れ渡ったに違いない。
そしてこう答えたことが、これ以降、急激に転落した彼の余生の第一歩となった。
それからというもの、兵士たちは、狄青が鍛錬場に現れると必ず歓呼の声を上げたし、狄青が城内を歩けば、人々は必ず彼の屈強な体を見つけて駆け寄り、その周りに群れを成す。
「……かほどまで、かの刺青殿に人気が出るとは思いませなんだ」
かくて半年も経たないうちに、官僚の中からは羨望交じりのため息が聞かれるようになった。
特に、先に狄青の家系図をでっち上げて、彼の覚えを良くしようとした某などは、
「頬に刺青がある、というだけで、兵士たちにも絶大な信頼を寄せられるとは、何が幸いとなるか分かりませんなァ。いや、宰相閣下は大いに得をしている」
率先してそう言い出している有様である。
そもそも、兵士が必ず逃亡するもの、と最初から決め付けて、まるきりその人間性を信じてもいなかったから、朝廷側は彼らの顔へ刺青を入れたはずなのだ。その兵士の気持ちが分かるのは、やはり同じ目に遭ったことのある狄青しかいない。
おまけに狄青は、宰相という身分になっていながら、未だに宿舎で一兵卒同様の暮らしを続けて、兵士たちと生活をほぼ共にしている。兵士たちが、彼に親しみと信頼を寄せるのも当然であろう。
(彼の頬に刺青があるから兵士たちに人望がある、か……一理という意味では間違っていないかもしれないが)
某が、誰彼構わず吹聴して回るのを、さすがの韓琦も苦笑いでもって聞いたものだ。
某が狄青のことをことさら悪く言おうとするのは、かの家系図の件が原因に違いなく、
「狄青に恥をかかされた」
と思い込んでいる、ということの他に、狄青によって己の媚を咎められたような気分を、何とか糊塗したいあら、ということも理由であろう。
要するに、結局は己の行動が恥ずかしくてたまらないのであり、それを狄青のせいにすることによってすり替えたいだけなのだ。
(ああ、嫌だ。なんという嫌な人間だ)
韓琦はこの時、己自身を心の底からそう思った。
そんな言い方をすれば、狄青がきっと断ることをしないと、自分は誰よりもよく知っている。しかもその言い方は、己が彼の破滅を密かに望んでいるなど、誰にも微塵も悟らせない。
果たして韓琦の声が響くと、文官、武官を問わず、その場にいた人々皆が再び歓声を上げ、狄青の名を繰り返し呼んだ。
(参ったな。故郷に帰ろうと決めていたのに、これでは断れない)
彼の情の深さから来るものであろう。頼まれると断りきれぬ、といった、場合によってはまことに厄介な性癖が、どうやら顔を出したらしい。狄青はそんな己に思わず苦笑したが、
「適任者が俺以外にないというのであれば、俺は謹んでお受けいたします」
その大歓声に背中を押されるように、そう言ってしまったのである。
科挙を一度も経たことのない軍人が、宋における最初の枢密使(宰相)となった、という報せは開封だけでなく広く国内外に知れ渡ったに違いない。
そしてこう答えたことが、これ以降、急激に転落した彼の余生の第一歩となった。
それからというもの、兵士たちは、狄青が鍛錬場に現れると必ず歓呼の声を上げたし、狄青が城内を歩けば、人々は必ず彼の屈強な体を見つけて駆け寄り、その周りに群れを成す。
「……かほどまで、かの刺青殿に人気が出るとは思いませなんだ」
かくて半年も経たないうちに、官僚の中からは羨望交じりのため息が聞かれるようになった。
特に、先に狄青の家系図をでっち上げて、彼の覚えを良くしようとした某などは、
「頬に刺青がある、というだけで、兵士たちにも絶大な信頼を寄せられるとは、何が幸いとなるか分かりませんなァ。いや、宰相閣下は大いに得をしている」
率先してそう言い出している有様である。
そもそも、兵士が必ず逃亡するもの、と最初から決め付けて、まるきりその人間性を信じてもいなかったから、朝廷側は彼らの顔へ刺青を入れたはずなのだ。その兵士の気持ちが分かるのは、やはり同じ目に遭ったことのある狄青しかいない。
おまけに狄青は、宰相という身分になっていながら、未だに宿舎で一兵卒同様の暮らしを続けて、兵士たちと生活をほぼ共にしている。兵士たちが、彼に親しみと信頼を寄せるのも当然であろう。
(彼の頬に刺青があるから兵士たちに人望がある、か……一理という意味では間違っていないかもしれないが)
某が、誰彼構わず吹聴して回るのを、さすがの韓琦も苦笑いでもって聞いたものだ。
某が狄青のことをことさら悪く言おうとするのは、かの家系図の件が原因に違いなく、
「狄青に恥をかかされた」
と思い込んでいる、ということの他に、狄青によって己の媚を咎められたような気分を、何とか糊塗したいあら、ということも理由であろう。
要するに、結局は己の行動が恥ずかしくてたまらないのであり、それを狄青のせいにすることによってすり替えたいだけなのだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
女の首を所望いたす
陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。
その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
珠光 ~一一の珠、一一の光~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
大和の杢市検校(もくいちけんぎょう)の子、茂吉は一休と邂逅し、一休から法名「珠光(しゅこう)」を授かる。そして出家した珠光は、修業先の寺で道賢という兄弟子と出会い、やがて父の死から寺を出る。寺を出て、一休の下で茶に勤しむ珠光は、足軽大将・骨皮道賢となった道賢と再会する。しかし道賢は応仁の乱の最中に討たれる。道賢の遺した茶碗を契機に、珠光は茶について悟りを開き……。
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
【完結】替え玉お殿様!
ジャン・幸田
歴史・時代
時は慶応年間。放浪の旅をしていた無宿人の忠治はある晩を境に殿様として生きて行かなければならなくなった。死んでしまった本物の殿様の替え玉として!
しかし、西からは薩長の討幕軍が迫ってきている! 藩内は恭順か徹底抗戦で分裂している! 忠治あらため綾部正宗の決断はいかに!
(あんまり人気がないので打ち切りにします。最終話は本当はこうしたかったという構想のダイジェストです)
犬鍋
戸部家尊
歴史・時代
江戸時代後期、伊那川藩では飢饉や貧困により民は困窮の極みにあった。
藩士加賀十四郎は友人たちと光流寺へ墓参りに行く。
そこで歴代藩主の墓の前で切腹している男を発見する。
「まさか、この男は……殿なのか?」
※戯曲形式ですので一部読みづらい点があるかと思います。
法隆寺燃ゆ
hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが………………
正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!
ニキアス伝―プルターク英雄伝より―
N2
歴史・時代
古代ギリシアの著述家プルタルコス(プルターク)の代表作『対比列伝(英雄伝)』は、ギリシアとローマの指導者たちの伝記集です。
そのなかには、マンガ『ヒストリエ』で紹介されるまでわが国ではほとんど知るひとのなかったエウメネスなど、有名ではなくとも魅力的な生涯を送った人物のものがたりが収録されています。
いままでに4回ほど完全邦訳されたものが出版されましたが、現在流通しているのは西洋古典叢書版のみ。名著の訳がこれだけというのは少しさみしい気がします。
そこで英文から重訳するかたちで翻訳を試みることにしました。
底本はJohn Dryden(1859)のものと、Bernadotte Perrin(1919)を用いました。
沢山いる人物のなかで、まずエウメネスの伝記を取り上げました。この「ニキアス伝」は第二弾です。
ニキアスというひとの知名度もかんばしいとは言えません。高校の世界史用語集に『ニキアスの和約』が載ってたっけな?くらいのものです。ご存じのかたでも、“戦わざるを得なかったハト派”という程度のキャラクターで理解されていることが多いように思いますが、なかなか複雑で面白い人生なのです。どうぞ最後までお付き合いください。
※区切りの良いところまで翻訳するたびに投稿していくので、ぜんぶで何項目になるかわかりません。
※エウメネス伝のほうはWEB版は註を入れませんでしたが、こちらは無いとなんのことやら文意がとれない箇所もありますから、最低限の解説はあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる