刺青将軍

せんのあすむ

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五 華一掬 5

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 告げながら、

(ああ、嫌だ。なんという嫌な人間だ)

 韓琦はこの時、己自身を心の底からそう思った。

 そんな言い方をすれば、狄青がきっと断ることをしないと、自分は誰よりもよく知っている。しかもその言い方は、己が彼の破滅を密かに望んでいるなど、誰にも微塵も悟らせない。

 果たして韓琦の声が響くと、文官、武官を問わず、その場にいた人々皆が再び歓声を上げ、狄青の名を繰り返し呼んだ。

(参ったな。故郷に帰ろうと決めていたのに、これでは断れない)

 彼の情の深さから来るものであろう。頼まれると断りきれぬ、といった、場合によってはまことに厄介な性癖が、どうやら顔を出したらしい。狄青はそんな己に思わず苦笑したが、

「適任者が俺以外にないというのであれば、俺は謹んでお受けいたします」

 その大歓声に背中を押されるように、そう言ってしまったのである。

 科挙を一度も経たことのない軍人が、宋における最初の枢密使(宰相)となった、という報せは開封だけでなく広く国内外に知れ渡ったに違いない。

 そしてこう答えたことが、これ以降、急激に転落した彼の余生の第一歩となった。

 それからというもの、兵士たちは、狄青が鍛錬場に現れると必ず歓呼の声を上げたし、狄青が城内を歩けば、人々は必ず彼の屈強な体を見つけて駆け寄り、その周りに群れを成す。

「……かほどまで、かの刺青殿に人気が出るとは思いませなんだ」

 かくて半年も経たないうちに、官僚の中からは羨望交じりのため息が聞かれるようになった。

 特に、先に狄青の家系図をでっち上げて、彼の覚えを良くしようとした某などは、

「頬に刺青がある、というだけで、兵士たちにも絶大な信頼を寄せられるとは、何が幸いとなるか分かりませんなァ。いや、宰相閣下は大いに得をしている」

 率先してそう言い出している有様である。

 そもそも、兵士が必ず逃亡するもの、と最初から決め付けて、まるきりその人間性を信じてもいなかったから、朝廷側は彼らの顔へ刺青を入れたはずなのだ。その兵士の気持ちが分かるのは、やはり同じ目に遭ったことのある狄青しかいない。

 おまけに狄青は、宰相という身分になっていながら、未だに宿舎で一兵卒同様の暮らしを続けて、兵士たちと生活をほぼ共にしている。兵士たちが、彼に親しみと信頼を寄せるのも当然であろう。

(彼の頬に刺青があるから兵士たちに人望がある、か……一理という意味では間違っていないかもしれないが)

 某が、誰彼構わず吹聴して回るのを、さすがの韓琦も苦笑いでもって聞いたものだ。

 某が狄青のことをことさら悪く言おうとするのは、かの家系図の件が原因に違いなく、

「狄青に恥をかかされた」

 と思い込んでいる、ということの他に、狄青によって己の媚を咎められたような気分を、何とか糊塗したいあら、ということも理由であろう。

 要するに、結局は己の行動が恥ずかしくてたまらないのであり、それを狄青のせいにすることによってすり替えたいだけなのだ。

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