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せんのあすむ

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狂宴

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空を仰ぐと、日は西へ傾きかけている。まもなく夕暮れだというのに、密林の中はうだるような蒸し暑さで、
(…疲れた)
見栄も何もなく、美佐は大きく口を開けて喘ぐ。
「…もう少しだ。だから頑張れ」
時折、田垣が振り向いて言うのへも、何も答えられずに彼女はただ頷くだけである。
あれらがいつまた襲い掛かってくるか分からない。周囲が全て緑なのであるから、それが保護色になって余計に見分けがききづらいから、
(しっかり歩いて、早く密林から抜け出さないと)
「緑の中」へ留まることだけは避けたい。それは誰よりも美佐本人が良く知っているのだ。
「頑張って」
そしてまた一人。彼女を励ましてくれる人物が、その傷の痛みを騙し騙し彼女に同行してくれている。それもまた申し訳なくて、
「…はい」
ようようその言葉だけを返し、美佐は大きく息を着いた。
道は相変わらずぬかるんでいて、一歩一歩を踏みしめないとすぐに足が滑る。視界の四方全てに気を配っていないと、蛇や毒クモなど、いつ「あれ」以外の生き物に襲われるか分からない。
(もう、どうでもいいかもしれない)
体力的にも精神的にも限界に近づいた頃、
「…あれ…ですかね。しっかし、あの前に『いる』のって」
再び、密林が途切れた。先頭を歩いていた田垣の足が止まり、美佐もうつろな目をそちらへ向ける。そちらはちょっとした岩山のようになっていて、その肌をくりぬいたように、何かの設備らしきものがあるのが見える。それは明らかに「廃墟」ではない、誰かがつい最近から内部を整え始めた雰囲気を漂わせているばかりでなく、
(あ…あれって)
力を失っていた美佐の目は、たちまち驚愕に見開かれた。
「…燃やせ」
一瞬息を呑んだ後に、田垣が命じる。
「跡形もなく燃やしちまえ。もうすぐ日が暮れる! でないと俺らがやられんぞ!」
粗末な小屋を観てきた後では、その古臭い、ツタに護られた建物でさえ近代的に見える。
日没が近い薄暗がりの中、その建物を護るかのように前でかすかに蠢く緑のものは、田垣の声にふと気付いたかのような風情で、こちらへ向かって気だるそうに『頭』をもたげた。
「燃やせ!」
田垣の号令で、隊員たちが手にした火炎放射器が一斉に火を吹く。まるで寝とぼけて頭がはっきりしていない人間のように揺らめいていたそれらは、たちまち苦悶するように蠢いて、次々に炎を上げて燃えていった。
岩穴の前で繰り広げられる『殺戮』。美佐の腰の辺りまでしかない緑の生き物が、炎の中でのたうちながら燃えていくその有様を、
(なんて綺麗なんだろう)
額から滲み出る汚れた汗を手の甲で拭いながら、ぼんやりした目で見ながら美佐は思った。
「…少し残っちまいましたね」
やがてそれは終わった。大部分が無残に焦げてしまった緑の生き物の中の数体は、しかし田垣が言うように、緑の色のままミイラのように干からびていて、
「水分が抜けただけ、ってな風に見えます。ひょっとすると雨が降ったら復活、なんてことになっちまったりして」
「ありえない話じゃないわね」
これが大学の中や、日本での出来事だったら、二人の会話をきっと何かの冗談として笑い飛ばしていたに違いない。
「徹底的に燃やして。これの始末を終えたら、私達の後を追ってきて頂戴」
真紀子も真面目な顔のまま、二、三の隊員へ指示して、
「行きましょう、中へ。そのためにここまで来たんだものね」
美佐を促した。
すると田垣が、
「いいんっすか? お嬢さんにはここで待っていてもらったほうが…だって、きっと」
同じような言葉を、しかし初めてそう言った時に比べて余程情の篭った口ぶりで、
「中にはコイツと似たようなのがウヨウヨしてますよ。反光合成するんだったら、しかも
岩の中なら太陽光だって射さないし、中へお嬢さんを入れるのはヤバいんじゃ? 
もしもお嬢さんが入るなら、せめて俺らの手である程度始末をつけてからのほうが」
「ありがとうございます、田垣さん」
今では美佐も、心からの感謝の念でそう答えられる。彼へ向かってぺこりと頭を下げて、
「でも、あれは私のことを分かってるんでしょ?」
「おいおい」
言うと、田垣は呆れたように苦笑した。
「そりゃ俺もそうは言ったけど…そんなおとぎ話みたいな確証の持てないこと、科学者のアンタが言うなよ。中は危険であることには変わりないんだ。逃げたヤツらだっているんだし、まさか密林ごと燃やしちまうわけにはいかないし」
「だったら、外でも中でも、危険なのは同じじゃないですか」
美佐が笑って続けると、真紀子も思わず微苦笑を漏らす。
確かに、これから日がすっかり沈んでしまうと、外も中も日が射さないという状況はあまり変わらなくなる。「あれ」らの活動期に入ることには違いなく、
「…一尉。貴女はもう、ここに残っていたほうがいいっすよ」
しばらくして、田垣が大きなため息と共に言った。
「二、三人、ここへ残していきますから、せめて俺らの後を他の『アレ』が追っかけて来ないように警戒していてください」
「了解。正直、助かるわ」
すると真紀子も苦笑して、右手を己の左肩へ持っていく。薬の効き目はとうに切れているらしく、時折彼女が顔をしかめていたのを、美佐でさえ気づいていたのだから、
「…気をつけて。残念だわ。もしここにいらっしゃるなら、私も先生にお会いしたかった」
真紀子自身も、このままでは自分が足手まといになると判断したらしい。言葉どおり、少し悔しさを滲ませて笑う彼女へ、
「行って来ます」
美佐はきっぱりと言い放った。
「もしも中に父がいるんなら、行って、はっきりさせてきます」

…外で人の話し声が聞こえたような気がして、彼はふと顔を上げた。
(気のせいか)
一応、建物の形をしているのは岩肌に面している部分だけで、少し中へ踏み込んでしまうともうそこは、まるで戦前の防空壕のように、ただ岩をくりぬいただけのそっけない「研究室」に変わってしまう。右手の壁には大きな瓶がいくつもならんでいて、
(気のせいだったらしいな)
耳を傾けると、曲がりくねった『通路』からかすかに聞こえてくるのは、いつものように瓶の中に「いる」
植物達が奏でるざわめきばかりのようだ。
(こんなところまで、誰が来るものか)
綺麗に撫で付けていた髪の毛も、いつも手入れしていた小洒落た鼻髭も、今ではもう伸び放題である。
まさに『髭で覆われた』顔を歪めて、彼はかすかに笑い、再び『作業』に没頭し始めた。
『確かに人間は、先生の仰るように地球へ毒を垂れ流しています。ですが』
(そうだよ、山川君。まさにその通りなんだ。だからね)
かつて彼の弟子が彼へ向かって「吐いた」無礼な言葉を思い出し、彼は今度は「ククッ」などと少し声を上げて笑う。
『先生は、薬の成分を抽出しに来られたんでしょう! そんな恐ろしいことをしに来られたはずでは』
(私にも予想外だったよ。いやしかし、君は重かった)
彼の弟子が、口を利かなくなって久しい…ように思える。ずっと外に出ていないので、今が昼なのか夜なのかすら、いや、昼夜の感覚だけでなく、時間が過ぎていく感覚すら亡くなってしまったような、そんな『彼だけの世界』の中で、目の前の机に横たわった彼の弟子は、
(いい『人間』だ。まだ腐りもせずに)
ひんやりとした洞窟の中に置かれているせいだろうか、ただ懇々と眠り続けているように見えた。
(君のDNAは大変に貴重だった)
それから、つ、と背を背け、彼は壁面にずらりと並んでいる器具の一つへ目をやった。
どこかに動力源でもあるのだろうか、その遠心分離機はかすかに耳障りな音を立てながら、セットされている6つもの試験管をぐるぐると回し続けている。
本来ならば植物液の成分を分離させるために使われるそれは、今は赤い液体を分離させるために使われていて、
「さて」
しばらくその動きを眺めていた彼は、再び弟子へ目をやった。
(ずいぶんと役に立ってくれたが、もはや用済みになった。邪魔だな)
まるでそこらへんのゴミと同じような感覚で思いながら、
(さて、どうやって始末しよう)
「…その前にコーヒーでも…あれらも呼び集めなければ」
呟いて、その部屋から出て行ったのである。その背中を追うように、並んだ瓶の中の生き物達はそちらへ一斉に向きを変えた。

(中はこんな風になってるんだ)
心配そうに見送る真紀子とその他数人へ手を振って、その建物の中へ入っていった美佐は、
「わ、冷たい」
「鍾乳洞みたいだな」
時折、天井から垂れてくる水滴に悲鳴を上げた。
建物らしき箇所はほとんど岩肌だけで、あとはほとんど洞窟をくりぬいてそのまま使用していた、といった風情の『研究室』である。しかし、
「単純だが、はぐれるなよ。変なトコに踏み込んだら、一生出られなくなる可能性が高いぜ」
相変わらず美佐の前に立つ田垣が言うように、そこはどうやら天然の鍾乳洞らしく、つい先ほどまで密林の中にいたとは思えないほど、美佐の肌に冷えが這い登ってくる。
しばらく歩くとちょっとした平たい場所になっており、そこで休憩を取るように皆に言ってから、
「どうだ、お嬢さん」
田垣は美佐へ水筒を差し出した。ほんのりと明るいのは、天井のどこかが空に通じているせいかもしれない。
「はい?」
「センセイがもしもこの中にいるとして…いそうな場所、検討つくか?」
「それはちょっと」
尋ねる田垣のほうも、本気ではないらしい。苦笑しながら言った彼へ、美佐も苦笑で返しながら、
「でも、いるとしたらもっと冷えた場所かも。あ、『検体』を保存するための冷蔵庫みたいなところだと思います」
「ま、ここは全部が天然の冷蔵庫みたいなモンだしな。教授センセイ、よくもまあこんなところを見つけたもんだ。一体どんな研究をしていたのやら」
「…薬は、冷暗所で開発しないとすぐに成分が変化しますから…」
辺りは不気味なほどにしんと静まり返っている。どこかで水が流れる音がするほかは、田垣と美佐の会話だけがしばらく洞窟の中に反響していて、
「暗くなってきたな」
見えるはずもない空を仰いで、田垣がぽつりと言った。
「ライト点灯! 各自、火器の用意を怠らないように!」
立ち上がって彼が言うと、隊員たちが一斉にライトをつけた。ほんのりと明るいと思っていた洞窟の中は、やはり暗かったらしい。目が慣れていたためにそう思えたのだろうか、その眩しさに目を細めた美佐は、
「田垣さんっ!」
叫んで、石灰柱が途中で途切れている場所にいた隊員のほうを指差した。
あっという間もなく、その隊員の姿は「緑」に囲まれて消えてしまう。恐らくその隊員でさえ、自分に何が起こったのか分からなかったに違いない。
「全員、固まれ! こっちへ来い!」
田垣の叫びに、皆が美佐を囲んで円形を組んだ。銃の留め金を外す音が一斉にした後、戻ってきた静寂の中で、
(…あ…聞こえる)
かすかだが、ざわざわという木の葉ずれのような音が聞こえてきた。
右手から聞こえていたばかりのそれは、やがて彼らの四方から聞こえるようになり、
「ライト! くまなく照らせ!」
田垣の合図で、その一帯の様子がほぼ明らかになる。途端、彼らは一斉に息を呑んで立ちすくんだ。
丸いライトの輪の中で照らされたそこにいたのは、人間の腰ほどの高さのある緑の生き物である。
一体、何体いたのだろう。それらはライトを向けられると一斉に怯み、キイキイと耳障りな音を立てながらとある方向へ逃げていく。
「追え! ライトを手放すな!」
ライト片手に銃を背負いなおして、田垣が叫んだ。
「お嬢さん、走れるな?」
「はい!」
差し出された田垣の手をつかんで、美佐も共に走り出す。緑の体液を鍾乳洞の床に撒き散らして逃げながら、それらは時折、反撃のつもりなのか、緑の蔓をこちらへ伸ばしてくる。
「気をつけろ!」
ひんやりとした洞窟の中、田垣の声と彼らの足音がわんわんと響き続けた。

「背後にも気を配れ! 暗いところに踏み込むな!」
先頭に立って緑の集団を追いかけつつ、田垣は時折火炎をそれらへ向かって吐き散らす。
その都度、蔓をこちらへ伸ばそうとしていたそれらはひるみ、さらに奥へと、意外な素早さで逃げ続けた。
それを、美佐の手を引っ張りながら、田垣もまた素晴らしい速さで追いかけていく。
が。
「二尉…!」
「どうした!」
一行の後部で田垣を呼ぶ悲鳴が上がり、全員が一斉にそちらを振り向いた瞬間、一行の最後尾を走っていた隊員の姿が、再び緑に包まれた。
「くそ…っ!」
どうやら少しでも暗がりがあると、それに乗じて活動が旺盛になるらしい。
田垣も焦りと恐怖を含んだ叫びを小さく上げて、そちらへ火炎放射器を振り向ける。
しかし、それより一瞬早く、緑の蔓がその隊員を解放した時には、その中に包まれたはずの隊員の姿は『一欠けらも』残ってはいなかった。
「…走れ!」
そして気がつけば、その方向からさらに何かがざわめく音がする。肩で息を着いていた田垣が再び叫んだ。もはやその声は金切り声に近い。
(…真紀子さんたちは大丈夫なんだろうか)
恐怖と焦燥で、時折足をもつれさせそうになりながら、美佐は田垣について必死に走った。
ライトに照らされる洞窟の床には、やはり緑の体液が吐き気を催すほど大量に落ちている。
それははっきりと、とある方向へ向かって伸びていて、
「何かが回ってる音がするぜ」
とある場所で、田垣はふと足を止めた。そこは道が斜めに左右に分かれていて、緑の液体は右へ向かって点々と落ちている。『音』は、どうやら反対側の左から聞こえてくるらしい。
「…行ってみるか?」
彼の言葉に、美佐はこっくりと頷いた。あれだけ大量の緑の液体が落ちているのだから、少しの『寄り道』をしても後は追える。そして、
(山川君…!)
左の道の先は行き止まりになっていて、そこにはぽっかりと穴が穿たれていた。
その中には、つい先ほどまで人のいた気配がしている。それに何よりも、『部屋』の中に置かれた大きな机の上に横たわっていたのは、
「…死んでんな」
田垣がぽつりと呟くように、青白い光を放つ山川の死体だった。
「首、に、何か鋭いモンで着られたような痕と、締められた痕。こいつは多分」
自衛隊員に『入口』を警戒するように言ってから、田垣は山川の死体を厳しい目で
検分し始める。
「首を絞められて意識を失った痕で、切られた。そんなトコだろ。教授センセイの弟子か?」
「…死んでる、ん、ですか」
「ん…ああ」
呆然と呟く美佐へ、気の毒そうな目をして田垣は頷いた。
「どうして…」
「アンタにも想像つくだろ、お嬢さん。しっかりしろ」
床へヘタヘタと崩折れそう彼女の腕を取り、支えながら、彼は逆に厳しい声で、
「一番最初に俺ら発見した『研究室』の中の血は、多分コイツのもんだ。コイツは、人間に首を絞められて、切られた…殺された、それは確実だ。そしてを殺すことが出来た『人間』は? 酷な言い方だけど、そいつは一人しかいないじゃねえか」
「…」
(…お父さん!)
田垣に腕をとられたまま、美佐は思わず両手で顔を覆った。
(あれだけ気に入っていた山川君を、どうして)
美佐は何も言わなかったが、父もいずれは山川を美佐の『婿』にしてもいいと、そういう目で見ていたに違いないのに、
(どうして)
「お嬢さん。お取り込み中悪いんだが、こいつも見てくれ」
冷徹とも思える田垣の言葉が、こういう状況の中では反ってありがたい。とりあえず大きく深呼吸をして目を開けると、田垣は遠心分離機の中を覗き込んでいる。それは今もかすかな音を立てて、中の物を忠実に回転させ続けており、
「動力源とか、まだあったんだな。旧日本軍のを転用したのか…?」
田垣が珍しそうにそれを見ながら言う。美佐が中を覗き込むと、そこにあるのは六本の試験管で、
「…血…」
「やっぱりそうか」
美佐が呟いた言葉に、田垣もまた確信を得たように頷いた。
どうやら『処置』を施されてかなりの時間が経っているらしい。美佐は震える手を伸ばしてそのスイッチを切った。
「…俺が取り出してもいいか?」
「はい」
しばらくして回転を止めた機器の中へ、手を伸ばしながら田垣が言う。美佐が頷くと、彼はさらにその中へ手を突っ込んで、試験管の一本を取り出した。
乏しい明かりの中にすかすと、試験管の中の液体は透明な部分と赤い部分とにほぼ分離されている。
「こりゃまた見事に分かれたもんだ」
ふざけたように言う田垣の表情は、しかし依然厳しい。
彼もまた、今はその血が誰のものであるかを十二分以上に知っているわけだが、
「何に使うつもりだったんだろう」
呟くように言うように、その『用途』は美佐にも分からない。が、
「…ここで待っていれば、父はまた戻って来るでしょう」
美佐が呟いたように、それだけは確実に言える。
入口の左手には、『研究室』で見たのと同じような大きな瓶が、それこそ壁面を覆うばかりに並んでいる。その反対側には粗末な机と、椅子にかかっている見覚えのある白衣があって、
(お父さん…)
娘の恋人を殺したのは、紛れもなくその父なのだと、嫌でも美佐も認めざるを得ない。
「そうだな。てめえの研究室なんだから、戻ってくるだろう。だが、その前に」
田垣もその、少し分厚い唇を歪めて、
「燃やせ。壊せ。跡形もなく消滅させちまえ」
ずらりと並んだ瓶を指差して、隊員へ号令をかけたのである。
途端に、隊員たちその瓶へ火炎放射器を向けた。一斉にその先から激しい炎が噴出して、ガラスの割れる凄まじい音がする。中から飛び出してきた緑のものが苦悶する姿が見える。
その有様と、『燃えカス』を隊員たちが軍靴で踏んで消滅させているのを、美佐はぼんやりと眺めていた。
(…こうするために、私はここに来たはずなのに)
父の研究の成果。それはこの世にあってはならないものを生み出すためのものだった。
それを止めるのは娘の自分の役目だと、田垣にも言ったし自分でも決意していたはずなのに、
(お父さんの、研究が)
妙な寂しさに襲われたのもまた事実。田垣たちが『後始末』をしているのを、ただぼんやりと美佐は眺める。
「…とんでもないことをしてくれたね、君たち」
そこへ、入口から突然声がかかった。美佐を除く全員が、はっとしてそちらへ目をやると、そこには、
「お父さん…?」
うつろな目をぼんやりと向けた美佐が、怪訝そうに尋ねる。あれだけ「おしゃれ」だった父が、変わり果てた姿でそこに立っているのだ。
「なんだ。誰かと思ったら美佐か。どうしてこんなところまで、お前がわざわざ」
その人物のほうも、自分の娘を認めたらしい。喉の奥で「ククッ」といった笑いを漏らしながら、
「私のことなら心配は要らないと言っているだろう。いつものことじゃないか」
言ったのは、まことに微笑ましい言葉である。しかし、今の状況において、
「私のことは心配要らない。今すぐ日本に帰りなさい。いいね?」
やけに『普通の』その言葉は、逆に、
(…狂ってる…?)
その人物…日野教授の精神が、すでにまともではないことを暗示していた。
「お父さん…」
父の背後から、あのおぞましいざわめきが聞こえてくる。足の隙間から、時折ちらちらと見える緑のものに戦慄しながら、
「お父さんは、山川君を」
美佐は乾いた口の中へ何度も唾を流し込みつつ、ようやくそれだけを言った。
「ああ、彼か。彼には気の毒なことをしてしまった」
すると、返ってきた言葉はこれである。田垣を含む自衛隊員たちも、今更ながらこの高名な教授の、尋常ではない言葉に思わずすくんだ。
「だが、私は彼をすぐに生き返らせた…君たちが壊した大きな瓶は、いわば山川君そのものとも言えるんだ。
そして今、私の後ろにいる彼らもね。人間に怯えて逃げ回るだけの、動く植物。新種の生き物かと思っていたそれを捉えて、動物ではない彼らを発見した時は驚いたよ。だが、私はすぐにそれを制御するすべを発見した。今や彼らは、私の思うとおりに動いてくれるのだ」
一体、彼は何を言っているのだろう。娘や自衛隊員を前に、まるで大学の講義を展開しているような口ぶりで、教授はむしろ嬉々としたように話し続ける。
「ほら、そこの遠心分離機」
教授の少し太い指が、彼らの背後を指し示した。思わずそちらへ目をやる彼らの方へ、
「山川君の血を分離して、血漿からDNAを取り出した。タミフル耐性患者の遺伝子を含む血漿を、彼らから抽出した成分と混ぜ合わせてみたら、思った以上の成果が出たんだ」
教授は一歩、踏み出しながら、
「自分で栄養分を作りだしながら、意志を持ち、なおかつ自力で動く…そんな生き物へ、人間も進化するべきだ。そうすれば、くだらない食物争いも起こらず、温暖化が進むこともない…ただ、誤算だったのは」
遠心分離機から試験管の一つを出し、田垣がしたように明かりの中にそれをすかした。
「唯一の誤算だったのは、それらが反光合成をするということだった。太陽の光の中で光合成をしないと、意味がない。『人間』はやはり基本的には昼間、活動する生き物だからね。さて」
そして彼らなどいないかのように背を向け、床に散らばった無残な生き物達の焼け跡へ目を落とし、
「また一から作り直しか。山川君の血液も、もうこれで最後なんだよ。もしや君らの中に」
再び顔を上げた彼のその目は、ぎらぎらと光り輝いていた。
「君らの中に、山川君と同じタミフル耐性患者がいたら」
「お父さん!」
美佐はたまらず、父へ抱きついてその名を呼んだ。
アマゾンで発見した、光合成をしながらかつ動ける『植物』に、父は自分が手を下した山川のDNAを注入し、進化させたのだ。その結果、出来た生き物は…。
「おい! もういい、仕掛けろ!」
田垣が、油断なく美佐と教授を見つめながら、隊員たちを促す。たちまち散らばった隊員たちは、数人で教授を抑え、残った人数で爆発装置を仕掛け始めた。
白いゴムのようなものを室内のあちこちへ張り始めて、そこへ電気の導線のようなものを接続させるのを見て、
「こら、何をする! 私の研究を、まだ邪魔するつもりか!」
教授は、手足をじたばたさせながら叫んだ。科学者の狂気は、もはや留まるところを知らないらしい。
「お前達、私を助けなさい!」
そして教授は叫ぶ。
「教授から離れろ!」
田垣が美佐をもぎ放しながら、かつ隊員たちへも叫ぶ。
美佐や隊員たちが教授から離れるか離れないかといった瞬間に、教授の背後から大量の緑の蔓が一斉に伸びてきて、
「悪い、お嬢さん! 俺を恨むなら、後でたっぷり恨め!」
田垣はそれへ火炎放射器を向けた。出力を最大にしたそれは、勢いよく帯状の炎を教授と緑の蔓へ向け、
「お父さん…!」
「今だ、出ろ!」
緑の蔓は、一斉になりを潜める。顔を抑えながら悲鳴を上げて仰け反った教授を抱え上げ、もう一方の手で美佐の手を引っ張りながら、田垣は走り始める。
「爆破していけ!」
「はっ!」
つられて走りながら美佐が振り向くと、隊員たちは白いゴム状の起爆剤を、彼らの後ろへつぎつぎに投げつけていく。
それは地面へ打ち付けられた衝動で、そのたびに小規模な爆発を起こした。揺れ動き続ける鍾乳洞の中を、
走っているうちに、
「田垣君、美佐ちゃん!」
どうやら出口付近まで出てきていたらしい。辺りの様子は先刻見た建物の中に変わっており、真紀子が叫ぶ声がして、
「一尉、爆破の用意をお願いします!」
美佐の手を離し、教授の体を地面へ放り出すようにしながら田垣が叫ぶのへ、真紀子も頷いた。
いつの間にか、外はうっすらと明るくなってきている。夜明けが近いらしい。
爆発にも怯まずに彼らの後を追ってこようとしていた緑の生き物達は、山の向こうから射し始めた眩しい光に怯み、建物の中へ蔓を引っ込める。
その隙に、外に残っていた真紀子を含む隊員たちが、建物の壁に手早く起爆剤を装着し、
「全員、退避! スイッチ、オン!」
見守る美佐の前で、『旧日本軍研究室』の建物は、跡形もなく崩れ去った。
細かい石の粒が辺りに舞って、思わず美佐は強く目を閉じる。
やがて、
「…ま、これが一番いい方法じゃないかと思ったもんで」
「そうね」
田垣と真紀子が、苦笑しながらする会話を耳にし、美佐は再び目を開けた。
「後でまた別の隊員を派遣してもらって、コンクリート詰めにでもしてもらえば完璧じゃないかしら」
(…終わったんだ。終わったんだよね?)
大きく息を吐きながら、ふと地面へ目をやると、父は気を失ったまま、そこに転がっている。
「お父さん」
美佐はそっと声をかけながら、その側に膝をついた。
思わず顔をかばったせいで、両手に火傷をしたらしい。だが、それ以外は擦り傷程度といった軽いもので、
(帰ろうね、一緒に)
心の中で話しかけていると、空からかすかにヘリコプターの音が聞こえてくる…。

そして、ようやくやってきた大型のヘリコプターは、美佐たちや負傷した自衛隊員を乗せて飛び立った。
(…あ)
ヘリのカーゴルームへ通じる扉が閉まる音がする。それと同時に美佐が下を見ると、爆破された衝撃なのだろうか、あの『旧日本軍研究室』があった岩肌が、その建物部分だけではなく他の部分も全て、凄まじい音を立てて崩れていく。
(お父さん…!)
傍らに横たえられている父へ思わず目をやると、両手に真っ白な包帯を巻かれて点滴さえ打たれている彼は、未だに懇々と眠り続けていた。
(本当に終わってしまったんだ…お父さんの研究は、全部)
「美佐ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい」
ちょうどそこへ、同じようにヘリの医療室で手当てを受け終えた真紀子がやってきて、美佐へ声をかける。
「先生…怪我は軽いはずなんだけどね」
そして同じように美佐の側へ腰を下ろし、変わり果てたかつての恩師を痛ましそうに見た。
「無理かもしれないけど、田垣君を恨まないでやってね」
「そんな! あんな場合は仕方ないですよ」
真紀子も、田垣や隊員からあの時の状況を詳しく聞き知っている。日野教授の怪我は、軍医の見立てによると両手の火傷のみであるらしいのに、
「意識が戻らないなんて」
重苦しいため息を着きながら真紀子が言うように、彼の意識は戻る気配がない。
暗いところで十分な栄養も取らず、不規則な生活をしていたのだ。それが祟ったのかもしれないとは同じ軍医の見立てだったが…。
「ともかく、ブラジリアへ。全ては戻ってからよ、ね」
「はい」
包帯が巻かれた父の右手へそっと触れながら、美佐は頷いた。気がつけば夜はとうに明けきっている。
今日も熱帯は蒸し暑くなるのだろう。ぎらぎらと輝く太陽は、昏々と眠り続ける父の顔をヘリの窓越しに照らし出す



…to be continued.
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