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緑の襲撃
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続けざまに起きた「人の死」と「得体の知れないもの」の発見。眠れないと思っていたのに、
(あれ?)
言われるまま、寝袋に潜り込んで目を閉じていると、いつの間にか眠っていたらしい。
気がつけば辺りはすっかり明るくなっていて、
「真紀子さん」
「おはよう」
美佐が起き上がると、研究室の前の「広場」では、真紀子が顔をしかめながら肩の治療を受けていた。
「ごめんなさい」
「…ふふ。だから、気にしないでって言ってるじゃないの。ああいう場合、民間人が咄嗟に避けられるなんてこと、出来ないもの。ね?」
近づいていって顔を伏せる美佐へ、真紀子は笑う。胸が露になるぎりぎりの位置までめくり上げたシャツの下で、白い包帯が何とも痛々しい。
「熱とか出ません?」
「大丈夫。解熱剤と鎮静剤、打ってもらってるから。これでも軍人よ? 鍛えてるんだから、心配しないで。右手は使えるし、銃だっていつでも撃てるわ」
「ありがとうございます」
美佐が頭を下げると、真紀子はその右手で彼女の頭を軽く二つ叩いた。
「今日もキツいわよ? 覚悟は出来てる?」
「はい」
今日も変わらず太陽は登る。
連日のスコールで林のなかに篭った蒸気がたちまち辺りに立ち込めて、
「じくじくしませんか?」
「ちょっと、ね」
負傷した隊員たちをヘリの調査へ向かわせるように指示している真紀子へ美佐が尋ねると、彼女は片目をキュッとつぶって答えた。
「だけど、思ったよりは傷は浅いらしいわ。七針縫うだけですんだもの」
「七針…」
(かなり痛いんじゃないのかな)
「はいはい、気にしない気にしない。消毒がちょっとウザいけどね」
呆然と呟く美佐の肩を叩いて、
「この際だから、日野先生が行きたがっておられたところに行ってしまいましょうよ、ね。美佐ちゃんの前でナンだけど、あの先生、どこか子供みたいなところがおありだったから」
「そうですね」
言う真紀子へ、美佐も苦笑して頷く。真紀子は恐らく、山川の日記にあった「旧日本軍の研究室」とやらのことを想像しているに違いない。
「だから、もう一度日記を見せて。パソコンも」
「はい」
美佐が大学ノートを広げると、真紀子がそれへ頭を寄せる。すると田垣が寄ってきて、
「ヘリの救助要請及び、この場からの撤退準備、終了しました。いつでも出発できます」
言いながら、これもノートを覗き込んだ。
旧日本軍研究室に関する山川の記事は、
『先生は時々、散歩と称して数時間いなくなる。どうやら研究室を探しているらしく、地元の人が僕にくれた古い地図がちょくちょく消えていることがあり…』
のようなものや、
『先生がこのところ何か嬉しそうなので、おかしいと思っていたが、とうとう近々「引っ越す」と言い出した。どうやらお目当ての物を探し当てたらしい。言い出したら聞かない先生の事だから、恐らく引っ越すことになるのだろうが』
などというようなものがあり、それらを三人が目で追っていると、めくったノートの間から紙切れがはらりと落ちた。
「…地図、ですかね」
素早くかがんでその紙切れを拾い上げた田垣は、黄色く変色したそれを広げて呟く。
スペイン語でかかれたそれは端のあちこちが擦り切れていて、なんともいえない色あせ具合がその年月を物語っていた。
「スキャンして、パソコンへ保存して頂戴。いいわね、美佐ちゃん」
「はい」
田垣から地図らしきその紙切れを受け取り、一瞥して、真紀子は美佐へそれを渡す。
「その作業が終わったら、そこへ向かいましょう。直線距離にするとどれくらいかしら」
田垣がデジカメでそれを撮ったものを、美佐がパソコンへつなぐ。その作業の合間も、研究室の外で、残った自衛隊員たちが銃を構えながら辺りを徘徊している。
「…直線距離だと、3キロくらいなんですけど」
ヘリが爆発してしまったため、負傷した和田隊員の『遺体』は、布をかけられた状態でまだ研究室の床へ横たえられたままだ。極力それから目を逸らすようにしながら、
「ちょっとした丘みたいになっていて、沼も越えないといけないみたいです」
その紙切れの地図と、現在の地形状況を見比べつつ、美佐は答える。
「沼…に出ると、少しは安全かしら」
すると真紀子が、大きく息を吐きながら、
「とにかく、見通しのいい場所に着くまでは休めない、と思っていたほうがいいわね。
もしも…」
「…はい」
パソコンを閉じて、自分の顔を神妙に見上げる美佐へ、
「もしも村田さんや和田さんを襲ったものが同じものだとしたら、反光合成するんでしょう。つまりは夜行性…だったら、夜は動くべきではない…彼らに意志というものがあるのかは分からないし、どういうつもりで動く生き物へ攻撃を仕掛けてくるのかも分からないけど、あれが普通の植物とは違って、夜に行動することは間違いない。まずは日野先生に会って、詳細を問いただすことが第一だわ」
「はい」
真紀子が言うことについては、美佐も全く異論はない。
父は一体、どういうつもりでこのような「生き物」を作ったのか。どのようにして培養していたか、そしてどういった研究をしていたのかということを考え、突き詰めていくと、結局全てはそこに帰結するのだ。
(お父さん)
インフルエンザの薬に耐性を持つ患者のための薬を開発する。それが当初の目的だったはずなのに、
(一体何が起こったの)
父の顔を思い浮かべながら、美佐は思わず俯いた。視界に飛び込んできた粗末な研究室の木の床がたちまちぼやけて見えて、
「行きましょう」
真紀子が、その動く右手でそっと美佐の手を取りながら言うのへ、
(…山川君…会えるよね、きっと。泣いてる場合じゃないって)
力なく頷き、彼女もまた荷物を背負って歩き始めたのである。
「結構蛇行してるから、実際の道のりにしたらその倍くらいでしょうねえ」
歩き出してほんの十分くらいで、もう汗は沸く。道なき道を遮る蔓や植物をナイフで切りながら先頭を歩く田垣が、手の甲で思い切り汗を拭いながら振り向いた。
「しかし、参ったな。ちょっと心細いかも」
そして、苦笑する。ヘリの爆発によって負傷した隊員は、総員のほぼ半数にのぼり、比較的怪我の軽い者を入れても、今、美佐や真紀子と一緒に歩いている隊員たちは十名にも満たない。
そういう田垣も、ヘリの小さな鉄片が手の甲を掠めたらしい。彼の左の手に白い包帯が巻かれているのを、目を細めながら美佐は見つめた。
美佐と真紀子を除いて、ほぼ全員がショットガンと火炎放射器の両方を担いでいる。道がいつもぬかるんでいるせいもあってか、行軍は遅々として進まなかった。
「ヘビや毒グモのが、よっぽど敵としてはマシと思えてきますねえ」
「確かにね」
やがて太陽は中天に昇った。美佐と並んで歩いている真紀子は、田垣が話しかけると少し苦しそうに息を吐きながら苦笑する。
「…一尉。この地図が正確だとしたら、もう少しで沼に出ますから。そこでちょっと休みましょうや」
「真紀子さん、しっかり」
田垣の意外な優しい言葉と、美佐の励ましの双方へ、真紀子は黙って頷いた。
出発してから、かれこれ二時間が経とうとしている。病院に入院して、動かずに手当てを受けているわけではなく、美佐を護る、その一念で体をずっと動かしているのだから、いくら鎮痛剤や解熱剤を打った所ですぐに効果は消えてしまうに違いない。
それを見かねて、美佐は無理に真紀子の右腕を取り、自分の肩へ回した。
「…ありがとう。ごめんなさいね、貴女を護るためにいるのに、逆に貴女に助けてもらうなんて…ブザマだわ」
「そんなこと!」
額に、暑いせいとはまた違う汗をじっとりとにじませて真紀子が苦笑するのへ、美佐は首を振る。
「まだまだ何が起きるのか分からないでしょ? だったら自衛隊だから民間人だからって関係なく、協力し合わないと」
「ほんと、その通りね。ありがとう」
「早くお父さんが見つかってくれたら、それが一番手っ取り早いんでしょうけど」
「あらあら」
そして二人は顔を見合わせ、クスクス笑った。
そこへ突然密林が途切れて、沼が現れる。
「…一尉の傷を診てくれ。解熱剤と鎮痛剤!」
美佐の肩から真紀子を奪い取るように抱え上げ、田垣は沼のほとりの岩へ彼女を座らせた。
心得た風に隊員が二名、その側へ駆け寄って早速『処置』を始める。
「…ここまでで、やっとこ半分だぜ」
密林が途切れると、太陽は再び容赦なく彼らを照らす。片手を目の上へかざして空を見上げながら、田垣は美佐へ話しかけてきた。
「あと三キロか。ちょうど俺の家から最寄の駅くらいまでの距離だが、慎重に進まねえと…ってことで、旧日本軍の研究室まで、上手く進んで夕暮れだろうよ」
「上手く行かなかった場合は?」
「そうだなあ。ま、決まってんだろうよ」
そこで田垣はまた、小ばかにしたように鼻から息を漏らし、美佐を見る。
「密林の中でテントを張ることになって、また誰かがやられるわけだ。その誰かは、お嬢さんかもしれねえぜ?」
「…はい。そうかもしれません」
「おいおい、半分以上、ジョーダンのつもりだったのによ」
美佐が真に受けて頷くので、てっきり彼女がムキになると思っていた田垣は、少し驚いたらしい。
「そんなことさせたら、俺らのセキニンモンダイってやつになるからな。いざとなったら俺が守ってやるって」
「いえ…そういうことじゃないんです」
「あん?」
「上手く言えないんだけど…そうなってもいいかなって、覚悟は決めてますから。だってもしも父が原因であんなものが出来たのなら、その責任を取るのは娘の私の役目ですし」
「…やれやれ。参っちまったね」
すると田垣はまた呆れたように肩をすくめ、自分の足元においてあった大きなリュックサックの口を開けたかと思うと、
「ま、食え。どっちにしても腹にモノを入れて、いつでもいざとなりゃ自力で逃げられるくらいの体力は保っておいてくれ」
「あ…」
美佐へ彼が差し出したのは、ラップに包んだオープンサンドだった。
「田垣さんが作ったんですか?」
「ま、な。腐るようなモンは入れてない。アンチョビが入れてあるから、携帯食にも使えると思って」
「…わあ…すごい。ありがとう、いただきます」
「そんな大したモンじゃねえよ。一尉だって、こんくらいはちゃちゃっと作っちまうんだから」
美佐が礼を言うと、田垣は少し頬を膨らませて言う。どうやら照れているらしい。
(意外だなあ)
頼りにはなるかもしれないが、カッコつけで、邪険で…そういった彼のイメージが、少しだけ良くなったような気がして、美佐は思わずニコニコしながら彼を見た。すると田垣は美佐からぷいと頬を背けてしまう。その横顔は、彼女と同年代の若者の、いかにも、なそれで、
(山川君とはまた違うけど、同じだよね)
「美味しいです!」
「そっか。まあ…メシが美味く食えるんなら、まだ大丈夫だな」
サンドイッチを口にした美佐が思わず言うと、田垣もまた嬉しそうに頷いた。
「…お? 無線」
その時、彼の胸ポケットからかすかな音がして、
「はい、こちら田垣…どうぞ」
そこから取り出した携帯へ向かった田垣の顔は、しかし瞬時に引きしまる。
「どうしたんですか?」
尋ねる美佐に「ちょっと待て」と言った風に片手を挙げ、
「一尉! ヘリが墜落した原因が判明しました!」
田垣は、ちょうど手当てが終わったらしい真紀子へ向かって叫んだ。
「報告して! そこからでいいから」
「はっ!」
(どうしたんだろう)
田垣の緊張した顔と、生色の戻った真紀子の顔を美佐が見比べていると、
「ヘリの尾翼部及びエンジン動力部に、溶解した痕跡あり。ヘリの残骸に残っていた、溶解液と思しきもの、色は緑。成分分析のための液体採取は、採取用器具も溶けるため現時点では不能。調査中、夜間に隊員が二名、正体不明の何者かに右手及び左足を溶かされ負傷。その二名は現在、船において治療中」
「…ヘリはまだ? 呼んだなら、そのヘリに隊員と医薬品の補充も要請して」
「はっ!」
険しい顔で真紀子がした命令を、これも緊張しきった顔で田垣が受ける。
真紀子は言い終えると、大きく息を吐いて右手で左肩を抑えた。それを見ながら、
(お父さん)
美佐もまた、大きく息を吐いて身震いする。
「っち、やっぱりもう電波は届かないか」
そんな美佐を尻目に、田垣は舌打ちをして自分の携帯をポケットへしまった。
おそらく、日野教授の「研究室」が、電波の届くぎりぎりの範囲だったのだろう。うっそうと茂る密林の中を再び歩き始めて、
(マナウスから少し離れただけで、もうこんな)
時折、足元をヘビや大きな虫が通り抜けていくのを見ながら、美佐は大きくため息を着いた。
日は刻一刻と西へ移動していき、
「ヤバいな。スコールが来そうだ。どうします?」
田垣の言葉に気がついて空を仰げば、なるほど、日が移動していく方角から雲が湧き上がっている。
スコールそのものは日本の夕立と似たようなもので、ほんの数時間ほどで止むのだが、
「視界が効かなくなる…そんな時にアレに襲われたらヤバいですもんね」
「そうね」
田垣が振り向いて話しかけると、真紀子も歩きながら頷いて、少し首をかしげた。
本当にあるのかどうか定かではないが、地図が指し示す「旧日本軍研究所」までは、地図上の距離であと二キロ。
「無理して行けない距離ではないけれど?」
と、真紀子が美佐を見ると、美佐も頷く。そこへ、
「来た」
ぽつり、と、大粒の雨が田垣の肩を打った。ごつい手のひらを上に向けて、彼が空を仰ぐ。
みるみるうちに空を黒い雲が覆い隠して、まだ昼間だというのに、辺りはまるで夕暮れ前のような暗さになった。
「ライトを。…進むわね?」
「はい」
指示した真紀子が確認するように話しかけるのへ、美佐もまた再び頷いた。
「左右及び前後の警戒を怠らないように。それから、美佐ちゃんは私の側から離れないように」
てきぱきと命令をする真紀子に従って、自衛隊員たちが動き始める。どしゃぶりになったスコールの中、小型サーチライトが幾つも照らして、
「これでちょっとは安心できるかもしれないけど」
彼らの周りだけ、昼間の明るさが蘇る。再び歩き出しながら、田垣が呟くように、
「…ヘリを襲ったのも、やっぱりアレの仕業なんでしょうかね」
「そうだと思っておいたほうがいいわね」
真紀子も「ふーっ」などと息を吐きながら言う。
「緑色の粘液状物質が、ヘリの動力部を溶かして大破させた。村田さんや残った隊員たちを襲ったのもその液体でしょう」
二人の会話を聞いていると、美佐の脳裏にもそれらの出来事が鮮明に浮かび上がる。
「おそらくそれは、『研究室』の中にあった瓶を、中から破って出てきた個体。壊れた瓶は三つあったから、一体だけではない」
「残りの瓶は、一尉がおっしゃるように始末しましたけど…三体もいるのか」
「不完全個体なら、瓶から出るだけで消滅させられる。だから瓶を地面に叩きつけて、素早くその場を離れたら、それで良かったんだけれどね。美佐ちゃん」
と、そこで真紀子は、右肩に担いでいた荷物から何かを取り出して、
「あの『植物』の、乾いたサンプルよ」
「…採取できたんですか!?」
「溶けて消えるかと思ったんだけれど、繊維部分だけは残ったらしいわ。うっかり触れても大丈夫。乾いてミイラ状態になってしまっているから、これなら安心して分析できるでしょう」
その長細いものは、白い紙に包まれている。おずおずとそれを受け取った美佐へ、
真紀子は微笑んで、
「ま、先生に会えば全部がはっきりでしょうから、サンプルを採取するまでも無かったかも」
言い掛けた途端、隊の後列から悲鳴が上がった。
思わずそちらへ目をやると、隊員の一人の腕に、その近くにいる緑のものが蔓らしきものを絡ませている。地面には電球の割られたハンドサーチライトが転がっていて、
「来やがった! 早速だな、コイツら! 一尉、俺の後ろを頼みます!」
「了解」
待ち構えていたらしい田垣が、火炎放射銃を構えて彼女たちの前へ立ちふさがる。
「ライト! 照らせ!」
彼の怒鳴り声で、我に帰った自衛隊員たちが一斉にそれへライトを向ける。すると緑のものは、たちまちひるんだように、その隊員の腕に絡めていた蔓を解いた。
藪の中へ逃げようとするそれへ、田垣が銃を向け、火炎を放射する。
するとキイキイといった風な悲鳴を上げて、それは火の中で人が悶え苦しむような様子を見せ、やがて地面へハタリとくず折れた。
「…無事か? 命までは取られてないみたいだな」
「…はい…」
田垣が話しかけると、右腕からジュウジュウと煙を立ち上らせながら、その隊員は答える。
その場所に付着している緑の液体は、服の袖部分どころか隠されていた腕の皮膚をも
瞬時に焼いたらしい。
「ちょっと痛むけど、辛抱してね。水! それと、消毒液と包帯を早く」
真紀子もまた、硫酸をかけて出来た火傷のような、赤くただれたその傷から目を逸らすこともなくてきぱきと指示を下す。
腕の皮膚に付着している緑の液体は、付着場所を未だに溶かし続けているらしい。
隊員たちがそれへ水を流しかけ、消毒液や薬を塗布するのを眺めながら、
「骨まで行くとコトだわ。美佐ちゃん、大丈夫?」
真紀子は空を仰いで大きく嘆息し、美佐を振り返った。
「…大丈夫、です」
すると彼女もまた、隊員の無残な傷跡から目を逸らさないまま、健気に頷く。
(もしもこれが、お父さんの研究の結果なら)
真紀子から渡された「サンプル」へ一瞬だけ目を落とし、再び治療を受けている隊員へ目をやって、
(見届けなきゃ…後始末は私の義務だから)
美佐はぐっと口を結び、そのありさまを見つめ続けた。
「まさかライトを狙ってくるとはな。歩けるか?」
「はっ!」
田垣の問いに、その隊員は白い包帯を巻いた右手で敬礼をして答える。
「あの、ごめんなさい」
再び『行軍』は始まった。美佐の前になって黙々と歩き続ける田垣へ、美佐がおずおずと声をかけると、
「お嬢さんのせいじゃないだろ。それよか、黙って歩け。あんなのはまだ二体もいるんだ。
話しているとそっちに気を取られて、いつアイツらが来るか分からなくなる」
「は、はい…」
「謝るなら、俺にじゃなくて、さっきの川島に謝ってやれ。俺に謝るのは筋違いもいいとこだ」
彼の言っている事はもっともであるが、少し口調が強すぎる。思わず首をすくめてしまった美佐の肩を、
「さ、もう少しよ。『見届ける』んでしょ。だったら前を向きなさい」
真紀子が励ますように二つ叩いた。
それへ頷いて、美佐はもう一度、手の中の『サンプル』へ目を落とした。
基本的に、植物の成分を分析するのは、含まれている水分を全て蒸発させてから、つまり、乾燥させてからである。乾燥させても抜けるのは水だけであり、その他の栄養分、例えばデンプンやコルチコイド、核などといった生物の基本要素が破壊されるわけではない。よって、きちんとした研究設備さえあれば、この「生き物」の成分を分析し、かつ核を抜きとって培養するということも可能なのだ。
極端に言えば、遺伝子情報を伝えるDNAさえ無事なら、いくらでもクローンを作ることが出来るということで、
(DNA…ひょっとしたら、お父さんはDNA操作をして)
美佐がそう推測するのも無理はない。古くは「ポマト」という植物も、遺伝子組み換え技術を利用して作られたものだからだ。
二本で形成されている二重らせん構造の片方を、別の遺伝子と組み替えてやれば、理屈上ではまた違った新しい個体が出来る。『研究室』の瓶に並んでいた個体は、おそらく日野教授がそうやって作成したものではないか。
タミフル耐性を持つ患者のための、新しい薬品成分を持つ植物。日野教授ほどの技術があれば、そんな植物を作るための遺伝子組み換えなど、簡単な設備さえ整っていれば朝飯前だろう。
(多分、その研究の途中で突然変異が起こった…とか)
植物繊維にも、核は残っているのである。だから、美佐がもしもこれを大学へ持ち帰って核のみを取り出せば、培養することも出来る。だが、培養するためには無菌操作の出来る設備が必要で、無菌状態でなければ他の胞子やカビが、培養しようとしている植物に取って代わって培養液の中で成長してしまう。
(私だって、それで何度か試験管の中にアオカビを生やしたこと、あるものね)
よって、
(失礼だけど、こんな…カビとか細菌がうようよしてそうな密林の中で培養出来た、なんてとても思えないもの)
雨は以前、激しい。頬を指先で乱暴に殴られている、と形容すべきか。下手をすると目の前の田垣の背中すら見えない、そんなスコールの中を黙々と歩き続けていると、
「もう少しで抜けそうだ。頑張れよ、お嬢さん」
「え?」
田垣が前方を指差しながら、美佐を振り返った。
「スコールも林も抜けるってこと。ほら、見ろよ」
「ほんとだ」
見れば雨の降っている範囲が明らかに違う。今歩いている林が、ちょうど途切れたところには太陽の光が差している。
「そこで休憩して、一尉の包帯とか取り替えなきゃ…お嬢さん!」
安心したように呟く田垣の顔は、しかし一瞬にして引き締まった。美佐の腕を取ろうとした彼と真紀子の手は宙を掻き、美佐は驚きのあまり声も出せないまま、
(なに…これ)
背丈は美佐ほどくらいだろう。だが、先ほど見た緑のものよりもよほど大きく見えるそれの蔓が腰に巻きついて、たちまちそこからはジュウジュウといった音と煙が立ち上り始める。
「くそ。ライト! それとナイフだ!」
美佐の体がふわりと宙に浮いた。焦りと苛立ち、そして恐怖の入り混じった声で田垣が叫ぶと、自衛隊員たちも一斉に、美佐を捕らえたそれへ向かう。
が、
(…あ、あれ?)
しかし、その緑のものは何を思ったか、美佐を再び地面へ下ろした。そしてそのまま、巻きついていた蔓を解いて、驚くほどの素早さで茂みの中へ姿を消したのである。
「お嬢さん!」
「美佐ちゃん! 大丈夫? 傷はっ!? なんともないのっ!?」
「…なんとも…はい、なんともないみたい、です」
田垣や真紀子、そして他の自衛隊員が一斉に駆け寄ったのへ、美佐は半ば呆然としたまま答えた。
実際に『被害』を受けたのは、美佐のズボンのベルトだけで、しかも溶けた範囲はその表面だけである。
「触れないでね。動かないで…今、ナイフで切るから」
「は、い…」
真紀子がナイフを取り出して、そのベルトを切り始めるのを、美佐はやはり呆然と見ていた。
(あの植物は、どうして)
どうしてあの緑の生き物は、彼女を襲わなかったのだろう。
溶けたベルトを切り離して、真紀子はそれを汚い物を捨てるように地面へ放り投げる。田垣はそれを見ながら、
「…なんだかアイツ、お嬢さんのことをちゃんと認識してるみたいだったな」
「どういうことよ。美佐ちゃんが襲われたは事実でしょう。私達は美佐ちゃんを守れなかったのよ」
珍しく強い口調で真紀子が言うのへ、
「違う、違いますよ。そういうことじゃなくて」
田垣は苦笑して、なだめるように両手を挙げた。
「なんていうのかな…お嬢さんを襲った時のアイツ、なんだか『慌ててた』みたいだったから」
「…慌ててた?」
「そうですよ。だって」
睨む真紀子へ田垣は肩をすくめ、
「俺らには容赦なしに手とか足とか溶かすくせに、お嬢さんにはほとんど何もしないで逃げてったじゃないっすか。お嬢さん、体には傷一つついてないっしょ。ね?」
「あ…はい。どこもなんともない、みたいです」
美佐は頷いた。
「…まさかとは思うけど」
すると真紀子は、彼女に似合わずぶるりと体を震わせて、
「あれには意志…つまり、知能はとりあえず備えているってこと?」
「…そこは分析してもらわないと何とも言えませんけどね。つか」
田垣はまた苦笑して、
「早いとこ教授センセイに会って、どういうことなのか締め上げないと。でないと、こっちの『被害』は大きくなるばかりっすよね」
「…ごめんなさい」
「いいから、謝んなって」
泣きそうな顔をして俯く美佐を見て、田垣はいささか慌てたらしい。
「…歩けるか? 引っ張ってってやるよ」
言ってぶっきらぼうに差し出したその手を、美佐が少し笑って取ると、
「もう少しだ、頑張れ!」
照れくささを隠すように、彼は大きな声で叫んだのである。
…to be continued.
(あれ?)
言われるまま、寝袋に潜り込んで目を閉じていると、いつの間にか眠っていたらしい。
気がつけば辺りはすっかり明るくなっていて、
「真紀子さん」
「おはよう」
美佐が起き上がると、研究室の前の「広場」では、真紀子が顔をしかめながら肩の治療を受けていた。
「ごめんなさい」
「…ふふ。だから、気にしないでって言ってるじゃないの。ああいう場合、民間人が咄嗟に避けられるなんてこと、出来ないもの。ね?」
近づいていって顔を伏せる美佐へ、真紀子は笑う。胸が露になるぎりぎりの位置までめくり上げたシャツの下で、白い包帯が何とも痛々しい。
「熱とか出ません?」
「大丈夫。解熱剤と鎮静剤、打ってもらってるから。これでも軍人よ? 鍛えてるんだから、心配しないで。右手は使えるし、銃だっていつでも撃てるわ」
「ありがとうございます」
美佐が頭を下げると、真紀子はその右手で彼女の頭を軽く二つ叩いた。
「今日もキツいわよ? 覚悟は出来てる?」
「はい」
今日も変わらず太陽は登る。
連日のスコールで林のなかに篭った蒸気がたちまち辺りに立ち込めて、
「じくじくしませんか?」
「ちょっと、ね」
負傷した隊員たちをヘリの調査へ向かわせるように指示している真紀子へ美佐が尋ねると、彼女は片目をキュッとつぶって答えた。
「だけど、思ったよりは傷は浅いらしいわ。七針縫うだけですんだもの」
「七針…」
(かなり痛いんじゃないのかな)
「はいはい、気にしない気にしない。消毒がちょっとウザいけどね」
呆然と呟く美佐の肩を叩いて、
「この際だから、日野先生が行きたがっておられたところに行ってしまいましょうよ、ね。美佐ちゃんの前でナンだけど、あの先生、どこか子供みたいなところがおありだったから」
「そうですね」
言う真紀子へ、美佐も苦笑して頷く。真紀子は恐らく、山川の日記にあった「旧日本軍の研究室」とやらのことを想像しているに違いない。
「だから、もう一度日記を見せて。パソコンも」
「はい」
美佐が大学ノートを広げると、真紀子がそれへ頭を寄せる。すると田垣が寄ってきて、
「ヘリの救助要請及び、この場からの撤退準備、終了しました。いつでも出発できます」
言いながら、これもノートを覗き込んだ。
旧日本軍研究室に関する山川の記事は、
『先生は時々、散歩と称して数時間いなくなる。どうやら研究室を探しているらしく、地元の人が僕にくれた古い地図がちょくちょく消えていることがあり…』
のようなものや、
『先生がこのところ何か嬉しそうなので、おかしいと思っていたが、とうとう近々「引っ越す」と言い出した。どうやらお目当ての物を探し当てたらしい。言い出したら聞かない先生の事だから、恐らく引っ越すことになるのだろうが』
などというようなものがあり、それらを三人が目で追っていると、めくったノートの間から紙切れがはらりと落ちた。
「…地図、ですかね」
素早くかがんでその紙切れを拾い上げた田垣は、黄色く変色したそれを広げて呟く。
スペイン語でかかれたそれは端のあちこちが擦り切れていて、なんともいえない色あせ具合がその年月を物語っていた。
「スキャンして、パソコンへ保存して頂戴。いいわね、美佐ちゃん」
「はい」
田垣から地図らしきその紙切れを受け取り、一瞥して、真紀子は美佐へそれを渡す。
「その作業が終わったら、そこへ向かいましょう。直線距離にするとどれくらいかしら」
田垣がデジカメでそれを撮ったものを、美佐がパソコンへつなぐ。その作業の合間も、研究室の外で、残った自衛隊員たちが銃を構えながら辺りを徘徊している。
「…直線距離だと、3キロくらいなんですけど」
ヘリが爆発してしまったため、負傷した和田隊員の『遺体』は、布をかけられた状態でまだ研究室の床へ横たえられたままだ。極力それから目を逸らすようにしながら、
「ちょっとした丘みたいになっていて、沼も越えないといけないみたいです」
その紙切れの地図と、現在の地形状況を見比べつつ、美佐は答える。
「沼…に出ると、少しは安全かしら」
すると真紀子が、大きく息を吐きながら、
「とにかく、見通しのいい場所に着くまでは休めない、と思っていたほうがいいわね。
もしも…」
「…はい」
パソコンを閉じて、自分の顔を神妙に見上げる美佐へ、
「もしも村田さんや和田さんを襲ったものが同じものだとしたら、反光合成するんでしょう。つまりは夜行性…だったら、夜は動くべきではない…彼らに意志というものがあるのかは分からないし、どういうつもりで動く生き物へ攻撃を仕掛けてくるのかも分からないけど、あれが普通の植物とは違って、夜に行動することは間違いない。まずは日野先生に会って、詳細を問いただすことが第一だわ」
「はい」
真紀子が言うことについては、美佐も全く異論はない。
父は一体、どういうつもりでこのような「生き物」を作ったのか。どのようにして培養していたか、そしてどういった研究をしていたのかということを考え、突き詰めていくと、結局全てはそこに帰結するのだ。
(お父さん)
インフルエンザの薬に耐性を持つ患者のための薬を開発する。それが当初の目的だったはずなのに、
(一体何が起こったの)
父の顔を思い浮かべながら、美佐は思わず俯いた。視界に飛び込んできた粗末な研究室の木の床がたちまちぼやけて見えて、
「行きましょう」
真紀子が、その動く右手でそっと美佐の手を取りながら言うのへ、
(…山川君…会えるよね、きっと。泣いてる場合じゃないって)
力なく頷き、彼女もまた荷物を背負って歩き始めたのである。
「結構蛇行してるから、実際の道のりにしたらその倍くらいでしょうねえ」
歩き出してほんの十分くらいで、もう汗は沸く。道なき道を遮る蔓や植物をナイフで切りながら先頭を歩く田垣が、手の甲で思い切り汗を拭いながら振り向いた。
「しかし、参ったな。ちょっと心細いかも」
そして、苦笑する。ヘリの爆発によって負傷した隊員は、総員のほぼ半数にのぼり、比較的怪我の軽い者を入れても、今、美佐や真紀子と一緒に歩いている隊員たちは十名にも満たない。
そういう田垣も、ヘリの小さな鉄片が手の甲を掠めたらしい。彼の左の手に白い包帯が巻かれているのを、目を細めながら美佐は見つめた。
美佐と真紀子を除いて、ほぼ全員がショットガンと火炎放射器の両方を担いでいる。道がいつもぬかるんでいるせいもあってか、行軍は遅々として進まなかった。
「ヘビや毒グモのが、よっぽど敵としてはマシと思えてきますねえ」
「確かにね」
やがて太陽は中天に昇った。美佐と並んで歩いている真紀子は、田垣が話しかけると少し苦しそうに息を吐きながら苦笑する。
「…一尉。この地図が正確だとしたら、もう少しで沼に出ますから。そこでちょっと休みましょうや」
「真紀子さん、しっかり」
田垣の意外な優しい言葉と、美佐の励ましの双方へ、真紀子は黙って頷いた。
出発してから、かれこれ二時間が経とうとしている。病院に入院して、動かずに手当てを受けているわけではなく、美佐を護る、その一念で体をずっと動かしているのだから、いくら鎮痛剤や解熱剤を打った所ですぐに効果は消えてしまうに違いない。
それを見かねて、美佐は無理に真紀子の右腕を取り、自分の肩へ回した。
「…ありがとう。ごめんなさいね、貴女を護るためにいるのに、逆に貴女に助けてもらうなんて…ブザマだわ」
「そんなこと!」
額に、暑いせいとはまた違う汗をじっとりとにじませて真紀子が苦笑するのへ、美佐は首を振る。
「まだまだ何が起きるのか分からないでしょ? だったら自衛隊だから民間人だからって関係なく、協力し合わないと」
「ほんと、その通りね。ありがとう」
「早くお父さんが見つかってくれたら、それが一番手っ取り早いんでしょうけど」
「あらあら」
そして二人は顔を見合わせ、クスクス笑った。
そこへ突然密林が途切れて、沼が現れる。
「…一尉の傷を診てくれ。解熱剤と鎮痛剤!」
美佐の肩から真紀子を奪い取るように抱え上げ、田垣は沼のほとりの岩へ彼女を座らせた。
心得た風に隊員が二名、その側へ駆け寄って早速『処置』を始める。
「…ここまでで、やっとこ半分だぜ」
密林が途切れると、太陽は再び容赦なく彼らを照らす。片手を目の上へかざして空を見上げながら、田垣は美佐へ話しかけてきた。
「あと三キロか。ちょうど俺の家から最寄の駅くらいまでの距離だが、慎重に進まねえと…ってことで、旧日本軍の研究室まで、上手く進んで夕暮れだろうよ」
「上手く行かなかった場合は?」
「そうだなあ。ま、決まってんだろうよ」
そこで田垣はまた、小ばかにしたように鼻から息を漏らし、美佐を見る。
「密林の中でテントを張ることになって、また誰かがやられるわけだ。その誰かは、お嬢さんかもしれねえぜ?」
「…はい。そうかもしれません」
「おいおい、半分以上、ジョーダンのつもりだったのによ」
美佐が真に受けて頷くので、てっきり彼女がムキになると思っていた田垣は、少し驚いたらしい。
「そんなことさせたら、俺らのセキニンモンダイってやつになるからな。いざとなったら俺が守ってやるって」
「いえ…そういうことじゃないんです」
「あん?」
「上手く言えないんだけど…そうなってもいいかなって、覚悟は決めてますから。だってもしも父が原因であんなものが出来たのなら、その責任を取るのは娘の私の役目ですし」
「…やれやれ。参っちまったね」
すると田垣はまた呆れたように肩をすくめ、自分の足元においてあった大きなリュックサックの口を開けたかと思うと、
「ま、食え。どっちにしても腹にモノを入れて、いつでもいざとなりゃ自力で逃げられるくらいの体力は保っておいてくれ」
「あ…」
美佐へ彼が差し出したのは、ラップに包んだオープンサンドだった。
「田垣さんが作ったんですか?」
「ま、な。腐るようなモンは入れてない。アンチョビが入れてあるから、携帯食にも使えると思って」
「…わあ…すごい。ありがとう、いただきます」
「そんな大したモンじゃねえよ。一尉だって、こんくらいはちゃちゃっと作っちまうんだから」
美佐が礼を言うと、田垣は少し頬を膨らませて言う。どうやら照れているらしい。
(意外だなあ)
頼りにはなるかもしれないが、カッコつけで、邪険で…そういった彼のイメージが、少しだけ良くなったような気がして、美佐は思わずニコニコしながら彼を見た。すると田垣は美佐からぷいと頬を背けてしまう。その横顔は、彼女と同年代の若者の、いかにも、なそれで、
(山川君とはまた違うけど、同じだよね)
「美味しいです!」
「そっか。まあ…メシが美味く食えるんなら、まだ大丈夫だな」
サンドイッチを口にした美佐が思わず言うと、田垣もまた嬉しそうに頷いた。
「…お? 無線」
その時、彼の胸ポケットからかすかな音がして、
「はい、こちら田垣…どうぞ」
そこから取り出した携帯へ向かった田垣の顔は、しかし瞬時に引きしまる。
「どうしたんですか?」
尋ねる美佐に「ちょっと待て」と言った風に片手を挙げ、
「一尉! ヘリが墜落した原因が判明しました!」
田垣は、ちょうど手当てが終わったらしい真紀子へ向かって叫んだ。
「報告して! そこからでいいから」
「はっ!」
(どうしたんだろう)
田垣の緊張した顔と、生色の戻った真紀子の顔を美佐が見比べていると、
「ヘリの尾翼部及びエンジン動力部に、溶解した痕跡あり。ヘリの残骸に残っていた、溶解液と思しきもの、色は緑。成分分析のための液体採取は、採取用器具も溶けるため現時点では不能。調査中、夜間に隊員が二名、正体不明の何者かに右手及び左足を溶かされ負傷。その二名は現在、船において治療中」
「…ヘリはまだ? 呼んだなら、そのヘリに隊員と医薬品の補充も要請して」
「はっ!」
険しい顔で真紀子がした命令を、これも緊張しきった顔で田垣が受ける。
真紀子は言い終えると、大きく息を吐いて右手で左肩を抑えた。それを見ながら、
(お父さん)
美佐もまた、大きく息を吐いて身震いする。
「っち、やっぱりもう電波は届かないか」
そんな美佐を尻目に、田垣は舌打ちをして自分の携帯をポケットへしまった。
おそらく、日野教授の「研究室」が、電波の届くぎりぎりの範囲だったのだろう。うっそうと茂る密林の中を再び歩き始めて、
(マナウスから少し離れただけで、もうこんな)
時折、足元をヘビや大きな虫が通り抜けていくのを見ながら、美佐は大きくため息を着いた。
日は刻一刻と西へ移動していき、
「ヤバいな。スコールが来そうだ。どうします?」
田垣の言葉に気がついて空を仰げば、なるほど、日が移動していく方角から雲が湧き上がっている。
スコールそのものは日本の夕立と似たようなもので、ほんの数時間ほどで止むのだが、
「視界が効かなくなる…そんな時にアレに襲われたらヤバいですもんね」
「そうね」
田垣が振り向いて話しかけると、真紀子も歩きながら頷いて、少し首をかしげた。
本当にあるのかどうか定かではないが、地図が指し示す「旧日本軍研究所」までは、地図上の距離であと二キロ。
「無理して行けない距離ではないけれど?」
と、真紀子が美佐を見ると、美佐も頷く。そこへ、
「来た」
ぽつり、と、大粒の雨が田垣の肩を打った。ごつい手のひらを上に向けて、彼が空を仰ぐ。
みるみるうちに空を黒い雲が覆い隠して、まだ昼間だというのに、辺りはまるで夕暮れ前のような暗さになった。
「ライトを。…進むわね?」
「はい」
指示した真紀子が確認するように話しかけるのへ、美佐もまた再び頷いた。
「左右及び前後の警戒を怠らないように。それから、美佐ちゃんは私の側から離れないように」
てきぱきと命令をする真紀子に従って、自衛隊員たちが動き始める。どしゃぶりになったスコールの中、小型サーチライトが幾つも照らして、
「これでちょっとは安心できるかもしれないけど」
彼らの周りだけ、昼間の明るさが蘇る。再び歩き出しながら、田垣が呟くように、
「…ヘリを襲ったのも、やっぱりアレの仕業なんでしょうかね」
「そうだと思っておいたほうがいいわね」
真紀子も「ふーっ」などと息を吐きながら言う。
「緑色の粘液状物質が、ヘリの動力部を溶かして大破させた。村田さんや残った隊員たちを襲ったのもその液体でしょう」
二人の会話を聞いていると、美佐の脳裏にもそれらの出来事が鮮明に浮かび上がる。
「おそらくそれは、『研究室』の中にあった瓶を、中から破って出てきた個体。壊れた瓶は三つあったから、一体だけではない」
「残りの瓶は、一尉がおっしゃるように始末しましたけど…三体もいるのか」
「不完全個体なら、瓶から出るだけで消滅させられる。だから瓶を地面に叩きつけて、素早くその場を離れたら、それで良かったんだけれどね。美佐ちゃん」
と、そこで真紀子は、右肩に担いでいた荷物から何かを取り出して、
「あの『植物』の、乾いたサンプルよ」
「…採取できたんですか!?」
「溶けて消えるかと思ったんだけれど、繊維部分だけは残ったらしいわ。うっかり触れても大丈夫。乾いてミイラ状態になってしまっているから、これなら安心して分析できるでしょう」
その長細いものは、白い紙に包まれている。おずおずとそれを受け取った美佐へ、
真紀子は微笑んで、
「ま、先生に会えば全部がはっきりでしょうから、サンプルを採取するまでも無かったかも」
言い掛けた途端、隊の後列から悲鳴が上がった。
思わずそちらへ目をやると、隊員の一人の腕に、その近くにいる緑のものが蔓らしきものを絡ませている。地面には電球の割られたハンドサーチライトが転がっていて、
「来やがった! 早速だな、コイツら! 一尉、俺の後ろを頼みます!」
「了解」
待ち構えていたらしい田垣が、火炎放射銃を構えて彼女たちの前へ立ちふさがる。
「ライト! 照らせ!」
彼の怒鳴り声で、我に帰った自衛隊員たちが一斉にそれへライトを向ける。すると緑のものは、たちまちひるんだように、その隊員の腕に絡めていた蔓を解いた。
藪の中へ逃げようとするそれへ、田垣が銃を向け、火炎を放射する。
するとキイキイといった風な悲鳴を上げて、それは火の中で人が悶え苦しむような様子を見せ、やがて地面へハタリとくず折れた。
「…無事か? 命までは取られてないみたいだな」
「…はい…」
田垣が話しかけると、右腕からジュウジュウと煙を立ち上らせながら、その隊員は答える。
その場所に付着している緑の液体は、服の袖部分どころか隠されていた腕の皮膚をも
瞬時に焼いたらしい。
「ちょっと痛むけど、辛抱してね。水! それと、消毒液と包帯を早く」
真紀子もまた、硫酸をかけて出来た火傷のような、赤くただれたその傷から目を逸らすこともなくてきぱきと指示を下す。
腕の皮膚に付着している緑の液体は、付着場所を未だに溶かし続けているらしい。
隊員たちがそれへ水を流しかけ、消毒液や薬を塗布するのを眺めながら、
「骨まで行くとコトだわ。美佐ちゃん、大丈夫?」
真紀子は空を仰いで大きく嘆息し、美佐を振り返った。
「…大丈夫、です」
すると彼女もまた、隊員の無残な傷跡から目を逸らさないまま、健気に頷く。
(もしもこれが、お父さんの研究の結果なら)
真紀子から渡された「サンプル」へ一瞬だけ目を落とし、再び治療を受けている隊員へ目をやって、
(見届けなきゃ…後始末は私の義務だから)
美佐はぐっと口を結び、そのありさまを見つめ続けた。
「まさかライトを狙ってくるとはな。歩けるか?」
「はっ!」
田垣の問いに、その隊員は白い包帯を巻いた右手で敬礼をして答える。
「あの、ごめんなさい」
再び『行軍』は始まった。美佐の前になって黙々と歩き続ける田垣へ、美佐がおずおずと声をかけると、
「お嬢さんのせいじゃないだろ。それよか、黙って歩け。あんなのはまだ二体もいるんだ。
話しているとそっちに気を取られて、いつアイツらが来るか分からなくなる」
「は、はい…」
「謝るなら、俺にじゃなくて、さっきの川島に謝ってやれ。俺に謝るのは筋違いもいいとこだ」
彼の言っている事はもっともであるが、少し口調が強すぎる。思わず首をすくめてしまった美佐の肩を、
「さ、もう少しよ。『見届ける』んでしょ。だったら前を向きなさい」
真紀子が励ますように二つ叩いた。
それへ頷いて、美佐はもう一度、手の中の『サンプル』へ目を落とした。
基本的に、植物の成分を分析するのは、含まれている水分を全て蒸発させてから、つまり、乾燥させてからである。乾燥させても抜けるのは水だけであり、その他の栄養分、例えばデンプンやコルチコイド、核などといった生物の基本要素が破壊されるわけではない。よって、きちんとした研究設備さえあれば、この「生き物」の成分を分析し、かつ核を抜きとって培養するということも可能なのだ。
極端に言えば、遺伝子情報を伝えるDNAさえ無事なら、いくらでもクローンを作ることが出来るということで、
(DNA…ひょっとしたら、お父さんはDNA操作をして)
美佐がそう推測するのも無理はない。古くは「ポマト」という植物も、遺伝子組み換え技術を利用して作られたものだからだ。
二本で形成されている二重らせん構造の片方を、別の遺伝子と組み替えてやれば、理屈上ではまた違った新しい個体が出来る。『研究室』の瓶に並んでいた個体は、おそらく日野教授がそうやって作成したものではないか。
タミフル耐性を持つ患者のための、新しい薬品成分を持つ植物。日野教授ほどの技術があれば、そんな植物を作るための遺伝子組み換えなど、簡単な設備さえ整っていれば朝飯前だろう。
(多分、その研究の途中で突然変異が起こった…とか)
植物繊維にも、核は残っているのである。だから、美佐がもしもこれを大学へ持ち帰って核のみを取り出せば、培養することも出来る。だが、培養するためには無菌操作の出来る設備が必要で、無菌状態でなければ他の胞子やカビが、培養しようとしている植物に取って代わって培養液の中で成長してしまう。
(私だって、それで何度か試験管の中にアオカビを生やしたこと、あるものね)
よって、
(失礼だけど、こんな…カビとか細菌がうようよしてそうな密林の中で培養出来た、なんてとても思えないもの)
雨は以前、激しい。頬を指先で乱暴に殴られている、と形容すべきか。下手をすると目の前の田垣の背中すら見えない、そんなスコールの中を黙々と歩き続けていると、
「もう少しで抜けそうだ。頑張れよ、お嬢さん」
「え?」
田垣が前方を指差しながら、美佐を振り返った。
「スコールも林も抜けるってこと。ほら、見ろよ」
「ほんとだ」
見れば雨の降っている範囲が明らかに違う。今歩いている林が、ちょうど途切れたところには太陽の光が差している。
「そこで休憩して、一尉の包帯とか取り替えなきゃ…お嬢さん!」
安心したように呟く田垣の顔は、しかし一瞬にして引き締まった。美佐の腕を取ろうとした彼と真紀子の手は宙を掻き、美佐は驚きのあまり声も出せないまま、
(なに…これ)
背丈は美佐ほどくらいだろう。だが、先ほど見た緑のものよりもよほど大きく見えるそれの蔓が腰に巻きついて、たちまちそこからはジュウジュウといった音と煙が立ち上り始める。
「くそ。ライト! それとナイフだ!」
美佐の体がふわりと宙に浮いた。焦りと苛立ち、そして恐怖の入り混じった声で田垣が叫ぶと、自衛隊員たちも一斉に、美佐を捕らえたそれへ向かう。
が、
(…あ、あれ?)
しかし、その緑のものは何を思ったか、美佐を再び地面へ下ろした。そしてそのまま、巻きついていた蔓を解いて、驚くほどの素早さで茂みの中へ姿を消したのである。
「お嬢さん!」
「美佐ちゃん! 大丈夫? 傷はっ!? なんともないのっ!?」
「…なんとも…はい、なんともないみたい、です」
田垣や真紀子、そして他の自衛隊員が一斉に駆け寄ったのへ、美佐は半ば呆然としたまま答えた。
実際に『被害』を受けたのは、美佐のズボンのベルトだけで、しかも溶けた範囲はその表面だけである。
「触れないでね。動かないで…今、ナイフで切るから」
「は、い…」
真紀子がナイフを取り出して、そのベルトを切り始めるのを、美佐はやはり呆然と見ていた。
(あの植物は、どうして)
どうしてあの緑の生き物は、彼女を襲わなかったのだろう。
溶けたベルトを切り離して、真紀子はそれを汚い物を捨てるように地面へ放り投げる。田垣はそれを見ながら、
「…なんだかアイツ、お嬢さんのことをちゃんと認識してるみたいだったな」
「どういうことよ。美佐ちゃんが襲われたは事実でしょう。私達は美佐ちゃんを守れなかったのよ」
珍しく強い口調で真紀子が言うのへ、
「違う、違いますよ。そういうことじゃなくて」
田垣は苦笑して、なだめるように両手を挙げた。
「なんていうのかな…お嬢さんを襲った時のアイツ、なんだか『慌ててた』みたいだったから」
「…慌ててた?」
「そうですよ。だって」
睨む真紀子へ田垣は肩をすくめ、
「俺らには容赦なしに手とか足とか溶かすくせに、お嬢さんにはほとんど何もしないで逃げてったじゃないっすか。お嬢さん、体には傷一つついてないっしょ。ね?」
「あ…はい。どこもなんともない、みたいです」
美佐は頷いた。
「…まさかとは思うけど」
すると真紀子は、彼女に似合わずぶるりと体を震わせて、
「あれには意志…つまり、知能はとりあえず備えているってこと?」
「…そこは分析してもらわないと何とも言えませんけどね。つか」
田垣はまた苦笑して、
「早いとこ教授センセイに会って、どういうことなのか締め上げないと。でないと、こっちの『被害』は大きくなるばかりっすよね」
「…ごめんなさい」
「いいから、謝んなって」
泣きそうな顔をして俯く美佐を見て、田垣はいささか慌てたらしい。
「…歩けるか? 引っ張ってってやるよ」
言ってぶっきらぼうに差し出したその手を、美佐が少し笑って取ると、
「もう少しだ、頑張れ!」
照れくささを隠すように、彼は大きな声で叫んだのである。
…to be continued.
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