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密林行
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『六月二日。先生と一緒にアマゾン密林一帯に入る。地元の日系人たちに手伝ってもらって、粗末ではあるが研究室を建てた。先生は早速、顕微鏡を覗いている。簡単な夜食を作って食し、その日は就寝』
(…山川君の字だ)
真紀子を含む自衛隊員たちの調査は続いている。『研究室』から発見された研究日誌を渡され、邪魔にならないように木陰の側へ移動しながら、美佐はそれへ目を通した。
日本でなら、どこにでも売っているようなありふれた大学ノートである。そこへ書き付けられたボールペンの、綺麗とはいえないが角ばった文字は、
『六月五日。食料を差し入れてくれる人たちと共に昼食を取る。このジャングルの奥には、なんと旧日本軍が使おうとして半ば完成しかけていた『秘密の』研究室があるらしいと、冗談交じりに言っていた。地図もあるのだがと言いつつ、わざわざ持ってきてくれたらしい古い模造紙を机の上へ広げもする。先生と僕は、ありがたくそれを受け取ることにした。研究の合間に探してみるのも一興かもしれない』
研究のことばかりではなく、そんな風なことも彼らしい語り草で几帳面に書き付けられていた。
「美佐ちゃん」
次のページをめくりかけると、真紀子が話しかけてくる。木の根っこに腰掛けていた美佐が顔を上げると、真紀子は固い表情で、
「先生と山川君の血液型は?」
「父はO型で、山川君はAです」
美佐の答えを聞いて、綺麗に縁取られたルージュの唇はさらに歪んだ。
「…残されていた血痕の型は、Aよ」
少しためらった後、真紀子は続ける。息を呑んだ美佐へ、
「気をしっかり持って。二人に何があったのか知りたいなら、これからも私たちについてこなきゃいけないでしょう? 村田さんがああなったみたいに」
真紀子も一瞬、ぐっと口を結んで言葉を途切れさせ、
「…何が起きるか…またあの何かが襲ってくるかもしれないんだから。美佐ちゃんは、ヘリと一緒に帰ったほうがいいかもしれないわ」
「でも!」
「そうそう、はっきり言わせてもらうけどね、やっぱりお嬢さんは足手まといなんだ」
反論しかける美佐に、新たな声が答える。美佐の背後へ立ちながら、田垣は、
「そりゃ最初は、教授センセイのところへお嬢さんを連れて行くだけだから、実地訓練のつもりでいてもいいと思ったさ。けど」
担いだショットガンで、トントンと自分の肩を鳴らして、
「俺も実際に見たわけじゃない。暗かったし、突然だったから。だけど村田をあんな風にした何かが、この辺りにいるってのは確実なのさ。ひょっとしたら、一匹だけじゃなくて、わんさといるかもしれない。そんな中、お嬢さんを守りながら教授センセイとその助手を探すなんて器用な真似、俺達には出来ませんよ。大尉だって、ホントのところはそんな風に思ってるくせに」
「…田垣君。貴方は調査を続けなさい。それともそんなことだけを言いに来たの?」
俯いてしまった美佐を庇うように、真紀子も立ち上がって田垣を睨む。すると彼は肩をすくめて、
「あの薄っ気味悪い植物を、お嬢さんにもう一度見てもらおうと思ったんです。
分析してもらえば、何か分かるんじゃないかってね」
「…じゃあ、私は必要ですよね!? 私、役に立てますから!」
美佐が立ち上がって叫ぶと、田垣は髪を短く刈り上げた自分の頭を、空いている片手の拳でゴリゴリと掻いて、
「…分析とやらの結果が出たらジャングルから出て、せめてマナウスヘ戻るとかね。そうしてくれっとありがたいんですがね」
「その保障は出来かねるわね。そうね?」
代わりに真紀子が答える。彼女が水を向けるのへ、美佐は大きく頷いた。
「美佐ちゃんは私がついてるから。貴方達はその『何者か』へ警戒を怠らないで。それくらいはできるでしょうよ」
「…了解」
すると田垣は呆れたといった風に肩をすくめ、研究室のほうへ向かっていく。その後を真紀子と共に追いながら、
(山川君の血…ひょっとしたら、お父さんと山川君も、あの『何か』に襲われて村田さんみたいに)
今更ながら、美佐は戦慄した。
田垣の言うように、父を探し続けるということは、自衛隊員と行動を共にするということで、より一層密林の奥へ入ることになる。そうなると、村田隊員を襲った正体不明の何者かに再び襲われる危険性が高まるということにもなる。本当のところはやはりマナウスへ戻って彼らの報告を待つのが一番なのだろう。
「じっと待っているのなんて嫌でしょ。心配ですものね」
「…ごめんなさい」
そんな美佐の気持ちを見抜いたように、真紀子は微笑う。
「二人の間に何があったのかは分からないわ。だけど」
研究室の床へ登ると、その床はぎしぎしと嫌な音を立てる。先ほどちらりと見ただけの『温室』のビニールをそっと開いて、
「先生と山川君が残していったものを見届けるのは、美佐ちゃんの義務よね?」
言う真紀子へ、
「はい」
美佐は大きく頷いた。
その『植物たち』は、液体付けの大きな瓶の中で今も不気味に蠢き続けている。
「…どんなことになるか分からないので、よろしくお願いします」
研究用の白衣とマスク、手袋に身を固めた美佐は、その瓶のフタに手をかけながら、自分の周りに集まった自衛隊員へそう告げた。
「いつだってぶっ放せるぜ。大丈夫だから開けな」
「はい」
美佐の左にいる田垣へ頷いて、美佐はゆっくりとフタを回転させていく。徐々にフタが緩んで、中の植物の『頭』が直接眺められるようになったかと思うと、
「わあっ!」
美佐の右手にいた和田が悲鳴を上げた。
瓶の中から突然伸びてきた緑色の蔓のようなものは、液体を周りへ噴出させながら、和田の両目の辺りへベトリと貼り付き、覆い隠す。たちまちそこから赤い血が周りへ飛び散り、大きなビンもたちまち横倒しになって、中の液体を机の上へ撒き散らした。
「美佐ちゃん!」
呆然と突っ立っている美佐を、真紀子が抱きつくようにしてその場から引き剥がす。
「討て! 植物には火だ。燃やせ! 切っちまえ!」
田垣の上ずった声の合図で、辛くも立ち直ったほかの自衛隊員たちが銃を構える。
辺りにはたちまち銃声が轟いた。
震えている美佐の肩を、真紀子がそっと抱き寄せる。悲鳴と怒号、そして銃声は、やがてやっと静かになって、
「…お嬢さん、大尉」
肩で息を着きながら、田垣が二人の元へやってきた。
「和田は、やられました。眼球及び前頭葉に穴が空いて溶かされて…一瞬だったようです」
「…昨日の何かも、ヘビじゃないことがこれで確かめられたってわけね」
真紀子が、空いている手で美佐の右手をぐっと握り締めながら、唇を歪めてそれに答える。
「ただし」
さすがに田垣も大きなため息を着いて、
「その『植物』は、和田を襲った後、溶けて消えました。どうやらあの液体から出ると
長く存在し得ない模様。つまり」
「不完全個体だった、ということ?」
「おそらく」
(お父さんは、一帯何を研究していたの?)
眩暈がしそうになるのを懸命に堪えながら、美佐は二人の会話を聞いていた。
あの得体の知れない、植物とも動物ともつかない『生き物』を作るのが目的だったのだろうか。
液体の中でしか存在できない『不完全個体』ですら、あれだけの殺傷能力を持っているのだ。
(お父さん、山川君…もしかしてもう)
そんなものを研究していれば、よほど取り扱いに注意しないと無事ではすまないだろう。
最悪の事態を想像しかけた美佐は、
「あ、ヘリ。どうします?」
田垣が空を仰ぐのにつられてそちらを見た。
なるほど、先日テントを張ったと思しき場所の上空にヘリコプターが止まっていて、ロープにくくりつけられた人間が二、三、上へ運ばれていくのが見える。
「一応、連絡を。こちらにも負傷者がいますってことを伝えないと。それから医療物資及び弾薬と銃の手配と確認、大使館へ連絡して隊員の増員を要請して頂戴」
「了解」
真紀子が下した命令へ敬礼で答えて、田垣は無線へ飛びついた。
「ここに長く留まっているのは危険だし、増員を要請したところで到着するのは恐らく一週間後。となると」
美佐の側で呟くように言って真紀子が考え込んでいると、
「大尉殿! こちらに何かを引きずったような後と、乾いた血の痕があります!」
引き続き、『研究室』の左手を調査していた自衛隊員が叫んだ。真紀子がちらりと美佐を見て、そちらへ走っていく。美佐も後をついていくと、
「美佐ちゃん、見覚えは?」
自衛隊員から何かを受け取った真紀子が、右の手のひらを見せる。そこには、
「…お父さんのパイプです」
父がエジプトを旅行した時、カイロ大学で親交を結んだ教授からもらったのだと嬉しそうにしていた愛用のパイプがあった。
「…確かに、先生がいつも吸っていた葉巻の匂いはするわね。しかもまだ、そんなに古くはなってないような気がするわ」
それへ鼻を近づけて、真紀子は顔をしかめる。
「どちらにしても、新しく他の隊員が来るまで手をつかねてるわけにはいかない。先生と山川君の命が優先だからね。せめて二人がどこへ行ったかだけでも分かれば」
「真紀子さん!」
「ど、どうしたの?」
突然叫んだ美佐へ、真紀子は驚いて尋ねる。その前に、美佐は手にしていた『日記』の頁を開いて、
「山川君の日記なんですけど。ここに、旧日本軍の研究室かなんかがあったんですか?」
「…そういう話は聞いてるわ。戦前から移民を奨励されていた土地だったから、軍もいざという時にはアメリカへ対抗するつもりで作ったんだって。だけど、そうならない前に終戦になってしまったんで、そのままうち捨てられて、って…よくある話よ。それに、もしもあったとしても、使い物にならないんじゃないかしら」
「だけど大尉」
すると田垣が、少し馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべながら、
「何かを引きずったような跡は、確かにそっち方面へ向かって続いてるんっすけどね」
「…なんですって」
「ほら、これ」
真紀子の鼻先へ、黄色く変色した模造紙を広げて差し出す。それは手書きではあるが、確かにこの辺りの地形を示した絵で、
「さっき研究室から見つかったんですよ。その山川ナニガシとやらの日記と一致しません?」
「確かに、ね。美佐ちゃん、ちょっと待ってて」
そこで大きく息を着き、真紀子はそう言い置いて田垣を促す。『研究室』では未だに調査が続いているが、彼女は机の周りに自衛隊員を呼び集めて、何かの打ち合わせを始めたようだ。
(山川君の…日記)
六月五日以降も、当然ながらまだ日記は続いている。毎日のように一定時間降るスコールに驚いたこと、ナメクジが大発生したこと、そして毒ヘビに脅かされたこと…。
『六月二十七日。今日、先生は例の研究室を探すと言い出した。言い出すときかない先生のこととて、なんと僕が昼食の支度をしているうちに探ってきてしまったらしい。こっちは、どこへ行ったのか心配していたのに。
あまりのことに、つい先生を責めてしまったが、先生はなんてことないようにあっけらかんと笑う。
そして「大発見をしたから、君も着いて来い」と仰った』
『六月三十日。まさか本当にあれを先生が発見するとは思わなかった。ここはどうやら普通種だけではなくて、突然変異種の植物の宝庫でもあるらしい。その植物から抽出したエキスが、どうやらタミフル耐性を持つ僕のような人間が、インフルエンザにかかったときに効くらしい。この研究室では手狭だからと…』
そこまで目を通したところで、
「きゃ!?」
どすり、と音を立てて、美佐の右頬の横にナイフが突き刺さった。
「…毒虫。油断するなよ」
近づいてきた田垣に、何をするのかと文句を言い掛けた美佐は、
「…すみません」
ちらりと横を見て、また鳥肌を立てたのである。
「どっちにしても、このまんまじゃ分析すらできないんじゃねえの?」
すくんでしまった美佐へ近づいて、田垣はからかい半分、侮蔑半分の笑みを口元に浮かべた。
「教授センセイがどうやってアレを扱ってたのか知らないけどさ。ビンを開けたら飛び掛ってくるなんてさ。お嬢さん、アンタってほんと、悪運が強いよな」
「…」
言われて、美佐は唇を少し噛み締め、俯く。確かにあの時、実際に「動く植物」の被害を受けて命を落としていたのは彼女かもしれないからだ。
同時に、和田というあの隊員の倒れた姿を思い出してしまって、彼女はノートを開いたまま、思わずぶるりと体を震わせた。
「田垣さん」
「あん?」
彼女につかつかと近づいて、刺さったナイフをぐいっと引き抜いた彼は、美佐が話しかけるとそのナイフを二、三度振って腰のベルトへ戻す。
そんな彼を見ながら、
「田垣さん、は…平気なんですか?」
「んなわけねえだろ? これでも自分に『水になれ』って必死で言い聞かせてんのさ」
「水?」
「冷静になれ、ってこと。いつでも頭を冷やしておけってことだよ」
「そう…そう、ですよね。ごめんなさい」
ノートを閉じて、美佐はぺこりと頭を下げる。既に二名の犠牲者を出しているのに、他の自衛隊員には全く動揺している気配が見えないので、さすがは軍人だと思っていたのだが、
「俺らだって人間だしな。人間相手ならともかく、あんな気味悪いブツとかが相手じゃ、どう対策を練っていいやら」
田垣がそう言うのも無理はないだろう。
「植物相手なら火。燃やすかブった切る。それが一番だと思うんだが、結構素早く動いたしな。ま、最初に村田をやったヤツはアレじゃないかもしれないし、別モンかもしれねえけど」
「…はい」
「だから」
そこで、田垣はぐっと美佐へ近づいたかと思うと、
「ひっ!」
再び大きな音を立てて、美佐の頭上へナイフを突き立てた。
「…お嬢さんは、今来てるヘリと一緒に大使館へ戻んな。ま、言っても聞かないだろうけどさ」
彼がそう言いながらナイフを引き抜くと、今度はその刃に大きなクモが突き刺さっている。
「忠告はしたぜ? 俺らについてくんなら、自分の身は、可能な限り自分で守れ」
「…はい」
「一応、後続のヘリももう一台、こっちに向かうように要請はしてある。だから、もしも
それに乗るんならのれ。アンタの自由だ」
「ありがとうございます!」
美佐が頭を下げると、田垣は忌々しげに「フン」と鼻を鳴らして彼女の側から去っていく。
いつの間にか、また周囲は薄暗くなっていて、自衛隊員たちが研究室の前で火を焚いている。
そっちへ向かっていった田垣は、ナイフをその火へ無造作にかざして突き刺さったクモを焼いた。
たちまちそれは火に焼かれて、ナイフからぼろぼろと剥がれ落ちていく。
「美佐ちゃん。こっちへ。そんなところにいつまでも独りでいちゃだめよ」
「はぁい」
なんとなくそれを見ていた美佐を、火のそばから真紀子が呼んだ。美佐が走り寄っていくと、
「インスタントだし、食欲は無いかもしれないけど、とにかく何か胃に入れておきなさい」
「ありがとうございます」
渡されたアルミの容器を押し頂くようにして受け取り、美佐は真紀子の側へ腰を下ろした。
火の明かり引き寄せられて集まってきた大きな蛾や、名も知らない夜行性の虫たちが、焼かれては消えていくのを見つめながら、
「お父さんは…お父さんが、アレを作ったんでしょうか」
美佐が尋ねると、
「美佐ちゃんはどう思う?」
真紀子は逆に尋ね返してくる。火を囲んだ彼女らの周りを、田垣を含む自衛隊員たちが銃を構えつつ警戒していて、
「…お父さんなら、やったかもしれません。そういう技術を持っている人ですから」
彼女の側を通り過ぎた田垣が、一瞬、ぴくりと体を震わせた。美佐は続けて、
「瓶の中の液体は、あれを育てるための培養液でしょう。お父さんがもしも『無事に』あれを培養していたなら…もしもあれの中に、タミフル耐性患者さんにも効く成分が入っているなら、お父さんがそれをなんとか抽出しようと考えないわけがありませんから」
「そうね」
すると真紀子は頷いて、
「私もそう思うわ。ひょっとしたら、教授があれを培養し始めた頃にはまだ、あれは成長しきっていなかったのかもしれない。だから、あんな風に素早く動くことも無くて」
「はい」
「気付いてた?」
すっと顔を引き締め、彼女は美佐を見る。
「大きな瓶、内側から割られたみたいなものもいくらかあったってこと」
「…え…」
「中の培養液も、ほとんどなくなっていた。あれが先生の開発した成果だとしたら、私も分析してみたいところだけれど」
驚く美佐へ、真紀子は苦笑して、
「…滅ぼすべきものでしょうね」
「はい」
美佐もそこで大きく頷いた。あれを外に出してはいけない、そのことだけは分かる。
緑色をしているのだから、密林や森林に紛れてしまえば、ちょっと見ただけではそれだと分からないのだ。
近づいていく人間が、たちまち被害にあってしまうことは想像に難くない。
一番最初に村田隊員の足を溶かした「もの」とはまた別かもしれないが、
「でも、お父さんはあれを育てていました。ちゃんとビンを開けられていたってことですよね」
「そうね」
「…一体どうやって」
呟くように美佐が言うと、真紀子は大きくため息を着いて首を振った。
「とにかく、暗くなってからの移動は余計に危険だわ。あまり気は進まないけど、今夜はこの研究室に泊まるしかないでしょうね」
彼女にとっても予想外のハプニングに違いない。少し疲れたような顔をして真紀子が言うのへ、
「はい」
美佐も神妙に頷いた。
その深夜である。
(蒸し暑いなあ)
密林のこととて、当然ながらシャワーを浴びるなどという贅沢は出来ない。水も貴重だからというのでほぼ全員がシャツに簡易ズボンの上から水を浴びるという「行水」で、
(体がベトベトしてる)
その上に何者かによる自衛隊員二人の惨殺、そして得体の知れない「何か」を父が培養していたという発見は、美佐を容易に眠らせてはくれない。
寝袋は、片付けられた研究室の床へのべられている。その中央からむっくりと起き上がって、美佐はふと周りに目をやった。
警戒のために研究室周囲に焚かれている火の明かりは、真っ暗な周囲から浮き上がっているようで、その明かりの中で時々、見回っている自衛隊員の姿がうっすらと見える。
(少しでも眠っておかなきゃ)
覚えず大きなため息を着いた時、部屋の片隅で小さく音がしたような気がして、美佐は何気なくそちらへ上半身をひねった。
暗がりでよく見えないが、そこから何かがあわ立つような音と、ガラスが割れるようなピキピキといった音が同時に響いてきており、
「…真紀子さん!!」
思わず美佐が叫ぶと、彼女の周りで眠っていた自衛隊員が一斉に跳ね起きて、外で警戒していた隊員たちも駆け寄ってくる。
「どうしたの!?」
ついさっきまで美佐の隣で寝息を立てていた真紀子が、素早く彼女の側へ近づいて尋ねる。
それへ美佐が、
「あれ…」
指差して答えると、懐中電灯の明かりがそちらへ向けられた。
「あ…!」
懐中電灯の震える輪の中で、それはぼうっと浮かび上がる。
培養液の入った大きな瓶。とうに腐っているのだろう液体が激しくかき回されて、内側からその瓶の表面にヒビが入り始めていた。
しかしそれは、
「もっとよく照らせ! それから、火の用意!」
田垣の合図で7つばかりの懐中電灯に照らされると、なぜかその動きを潜めた。
「なんで…さっきまで」
「真紀子さん」
呆然と呟く真紀子へ、美佐は意外に冷静な表情で、
「一度、懐中電灯を消してみてもらえませんか」
「美佐ちゃん!?」
「一瞬だけ。一瞬だけでいいんです」
「…消して」
美佐が真剣に言うのへ、真紀子は頷いた。そして明かりが消されると、再びガラスの割れる音と液体のあわ立つ音が、今度ははっきりと聞こえてくる。
研究室の外で焚かれている火の乏しい明かりの中で、確かに瓶の中の何かは息づいていて、外へ出ようとしているのが確かめられた。
「いいです、懐中電灯をつけてください。早くこれに向けて!」
美佐が言うと再び懐中電灯はそれへ向けられ、その場所だけが真昼のような明るさになる。
明かりを向けられると、瓶は再び静かになった。
「…強いて言うなら反光合成(アンチひかりごうせい)ですね。暗いところで増殖するんでしょう」
美佐が大きく息を吐きながら言うと、
「ええ? でもそれって、あり得ることなの?」
「あり得ないわけではないんです。どこで読んだのかは忘れたけど、ずっと昔、どこかの砂漠の墓場で発見されたコケが例として挙げられていた文献のことを覚えてますから。だけど」
信じられないといった風に真紀子は首を振っている。それは他の自衛隊員も同様で、そんな彼らに苦笑しながら、
「私も実際に見たのはこれが初めてです」
「…明かりを当てていればいいのね?」
「はい」
これまでの常識では考えられないことだけど、などと言いながら、それでも真紀子は美佐の言葉を信じたらしい。たちまち予備用の大型懐中電灯までもが、一斉にそれらの瓶を照らす。
「でないと、私達が襲われてしまうでしょう」
「そうですね」
真紀子と美佐が苦笑して顔を見合わせたとき、
「あ…ヘリが!」
田垣が叫ぶ。どうやら彼が呼んだ後続のヘリが到着したらしい。密林上空すれすれに、こちらへ向かって飛んでくるヘリコプターを見上げて、
「美佐ちゃん、貴女はもうお帰りなさい。これ以上は危険だわ」
真紀子が言った途端、辺りを揺るがすような爆発音が響いた。
「危ない! 伏せて!」
爆風で、たちまち木々がなぎ倒される。ぱらぱらと何かが焦げた残骸が落ちてくるのから、とっさに真紀子は美佐を押し倒してその上へ覆いかぶさった。
しばらくして、ようやく辺りは静まり返り、
「…真紀子さん!」
何か暖かいものが自分の頬へぽたりと落ちてくるのを感じて、美佐が目を開けると、
「美佐、ちゃん。…貴女は大丈夫?」
真紀子は苦痛を堪えて笑った。飛んできた何かの残骸がかすめたらしい。左肩がざっくりと避けて血があふれ出している。
「真紀子さんこそ!」
「一尉!」
「私は大丈夫。手当てをお願い」
大きく呼吸を繰り返しながら、真紀子はよろよろと立ち上がる。それへ隊員の一人が肩を貸すと、真紀子は額に汗を滲ませながら、美佐へ向かって苦笑いをした。
「大丈夫よ。それより、さっきの爆発は何?」
早速、医療の心得のある隊員が彼女の治療を始める。時々顔をしかめながら、真紀子はそれでも「隊長」としての使命を果たすつもりらしい。
「ヘリが爆発したんすよ。まあ明日にでも調査するべきでしょうね」
田垣が答えると、一瞬、全員の顔に狼狽と緊張が走った。
「これでまた当分、帰れなくなったわけだ。調査班に何名か残して、センセイを探しに行ったほうがいいと思いますがね」
「…それでいいわ」
「隊長。隊長は動かないほうがいいんじゃ」
「何を言ってるの、大丈夫よ。神経や骨までやられてないもの。行くわ。痛み止め、お願いね」
真紀子の言葉に、田垣は黙って肩をすくめる。
「今の爆発で負傷した隊員は、調査班としてここに残ること。昼の間に行動して、夜は明かりを絶やさないこと。睡眠は交代で昼に取ること。いいわね?」
苦しげに呼吸をしながら真紀子が下した命令へ、隊員たちは敬礼で答えた。
…to be continued.
(…山川君の字だ)
真紀子を含む自衛隊員たちの調査は続いている。『研究室』から発見された研究日誌を渡され、邪魔にならないように木陰の側へ移動しながら、美佐はそれへ目を通した。
日本でなら、どこにでも売っているようなありふれた大学ノートである。そこへ書き付けられたボールペンの、綺麗とはいえないが角ばった文字は、
『六月五日。食料を差し入れてくれる人たちと共に昼食を取る。このジャングルの奥には、なんと旧日本軍が使おうとして半ば完成しかけていた『秘密の』研究室があるらしいと、冗談交じりに言っていた。地図もあるのだがと言いつつ、わざわざ持ってきてくれたらしい古い模造紙を机の上へ広げもする。先生と僕は、ありがたくそれを受け取ることにした。研究の合間に探してみるのも一興かもしれない』
研究のことばかりではなく、そんな風なことも彼らしい語り草で几帳面に書き付けられていた。
「美佐ちゃん」
次のページをめくりかけると、真紀子が話しかけてくる。木の根っこに腰掛けていた美佐が顔を上げると、真紀子は固い表情で、
「先生と山川君の血液型は?」
「父はO型で、山川君はAです」
美佐の答えを聞いて、綺麗に縁取られたルージュの唇はさらに歪んだ。
「…残されていた血痕の型は、Aよ」
少しためらった後、真紀子は続ける。息を呑んだ美佐へ、
「気をしっかり持って。二人に何があったのか知りたいなら、これからも私たちについてこなきゃいけないでしょう? 村田さんがああなったみたいに」
真紀子も一瞬、ぐっと口を結んで言葉を途切れさせ、
「…何が起きるか…またあの何かが襲ってくるかもしれないんだから。美佐ちゃんは、ヘリと一緒に帰ったほうがいいかもしれないわ」
「でも!」
「そうそう、はっきり言わせてもらうけどね、やっぱりお嬢さんは足手まといなんだ」
反論しかける美佐に、新たな声が答える。美佐の背後へ立ちながら、田垣は、
「そりゃ最初は、教授センセイのところへお嬢さんを連れて行くだけだから、実地訓練のつもりでいてもいいと思ったさ。けど」
担いだショットガンで、トントンと自分の肩を鳴らして、
「俺も実際に見たわけじゃない。暗かったし、突然だったから。だけど村田をあんな風にした何かが、この辺りにいるってのは確実なのさ。ひょっとしたら、一匹だけじゃなくて、わんさといるかもしれない。そんな中、お嬢さんを守りながら教授センセイとその助手を探すなんて器用な真似、俺達には出来ませんよ。大尉だって、ホントのところはそんな風に思ってるくせに」
「…田垣君。貴方は調査を続けなさい。それともそんなことだけを言いに来たの?」
俯いてしまった美佐を庇うように、真紀子も立ち上がって田垣を睨む。すると彼は肩をすくめて、
「あの薄っ気味悪い植物を、お嬢さんにもう一度見てもらおうと思ったんです。
分析してもらえば、何か分かるんじゃないかってね」
「…じゃあ、私は必要ですよね!? 私、役に立てますから!」
美佐が立ち上がって叫ぶと、田垣は髪を短く刈り上げた自分の頭を、空いている片手の拳でゴリゴリと掻いて、
「…分析とやらの結果が出たらジャングルから出て、せめてマナウスヘ戻るとかね。そうしてくれっとありがたいんですがね」
「その保障は出来かねるわね。そうね?」
代わりに真紀子が答える。彼女が水を向けるのへ、美佐は大きく頷いた。
「美佐ちゃんは私がついてるから。貴方達はその『何者か』へ警戒を怠らないで。それくらいはできるでしょうよ」
「…了解」
すると田垣は呆れたといった風に肩をすくめ、研究室のほうへ向かっていく。その後を真紀子と共に追いながら、
(山川君の血…ひょっとしたら、お父さんと山川君も、あの『何か』に襲われて村田さんみたいに)
今更ながら、美佐は戦慄した。
田垣の言うように、父を探し続けるということは、自衛隊員と行動を共にするということで、より一層密林の奥へ入ることになる。そうなると、村田隊員を襲った正体不明の何者かに再び襲われる危険性が高まるということにもなる。本当のところはやはりマナウスへ戻って彼らの報告を待つのが一番なのだろう。
「じっと待っているのなんて嫌でしょ。心配ですものね」
「…ごめんなさい」
そんな美佐の気持ちを見抜いたように、真紀子は微笑う。
「二人の間に何があったのかは分からないわ。だけど」
研究室の床へ登ると、その床はぎしぎしと嫌な音を立てる。先ほどちらりと見ただけの『温室』のビニールをそっと開いて、
「先生と山川君が残していったものを見届けるのは、美佐ちゃんの義務よね?」
言う真紀子へ、
「はい」
美佐は大きく頷いた。
その『植物たち』は、液体付けの大きな瓶の中で今も不気味に蠢き続けている。
「…どんなことになるか分からないので、よろしくお願いします」
研究用の白衣とマスク、手袋に身を固めた美佐は、その瓶のフタに手をかけながら、自分の周りに集まった自衛隊員へそう告げた。
「いつだってぶっ放せるぜ。大丈夫だから開けな」
「はい」
美佐の左にいる田垣へ頷いて、美佐はゆっくりとフタを回転させていく。徐々にフタが緩んで、中の植物の『頭』が直接眺められるようになったかと思うと、
「わあっ!」
美佐の右手にいた和田が悲鳴を上げた。
瓶の中から突然伸びてきた緑色の蔓のようなものは、液体を周りへ噴出させながら、和田の両目の辺りへベトリと貼り付き、覆い隠す。たちまちそこから赤い血が周りへ飛び散り、大きなビンもたちまち横倒しになって、中の液体を机の上へ撒き散らした。
「美佐ちゃん!」
呆然と突っ立っている美佐を、真紀子が抱きつくようにしてその場から引き剥がす。
「討て! 植物には火だ。燃やせ! 切っちまえ!」
田垣の上ずった声の合図で、辛くも立ち直ったほかの自衛隊員たちが銃を構える。
辺りにはたちまち銃声が轟いた。
震えている美佐の肩を、真紀子がそっと抱き寄せる。悲鳴と怒号、そして銃声は、やがてやっと静かになって、
「…お嬢さん、大尉」
肩で息を着きながら、田垣が二人の元へやってきた。
「和田は、やられました。眼球及び前頭葉に穴が空いて溶かされて…一瞬だったようです」
「…昨日の何かも、ヘビじゃないことがこれで確かめられたってわけね」
真紀子が、空いている手で美佐の右手をぐっと握り締めながら、唇を歪めてそれに答える。
「ただし」
さすがに田垣も大きなため息を着いて、
「その『植物』は、和田を襲った後、溶けて消えました。どうやらあの液体から出ると
長く存在し得ない模様。つまり」
「不完全個体だった、ということ?」
「おそらく」
(お父さんは、一帯何を研究していたの?)
眩暈がしそうになるのを懸命に堪えながら、美佐は二人の会話を聞いていた。
あの得体の知れない、植物とも動物ともつかない『生き物』を作るのが目的だったのだろうか。
液体の中でしか存在できない『不完全個体』ですら、あれだけの殺傷能力を持っているのだ。
(お父さん、山川君…もしかしてもう)
そんなものを研究していれば、よほど取り扱いに注意しないと無事ではすまないだろう。
最悪の事態を想像しかけた美佐は、
「あ、ヘリ。どうします?」
田垣が空を仰ぐのにつられてそちらを見た。
なるほど、先日テントを張ったと思しき場所の上空にヘリコプターが止まっていて、ロープにくくりつけられた人間が二、三、上へ運ばれていくのが見える。
「一応、連絡を。こちらにも負傷者がいますってことを伝えないと。それから医療物資及び弾薬と銃の手配と確認、大使館へ連絡して隊員の増員を要請して頂戴」
「了解」
真紀子が下した命令へ敬礼で答えて、田垣は無線へ飛びついた。
「ここに長く留まっているのは危険だし、増員を要請したところで到着するのは恐らく一週間後。となると」
美佐の側で呟くように言って真紀子が考え込んでいると、
「大尉殿! こちらに何かを引きずったような後と、乾いた血の痕があります!」
引き続き、『研究室』の左手を調査していた自衛隊員が叫んだ。真紀子がちらりと美佐を見て、そちらへ走っていく。美佐も後をついていくと、
「美佐ちゃん、見覚えは?」
自衛隊員から何かを受け取った真紀子が、右の手のひらを見せる。そこには、
「…お父さんのパイプです」
父がエジプトを旅行した時、カイロ大学で親交を結んだ教授からもらったのだと嬉しそうにしていた愛用のパイプがあった。
「…確かに、先生がいつも吸っていた葉巻の匂いはするわね。しかもまだ、そんなに古くはなってないような気がするわ」
それへ鼻を近づけて、真紀子は顔をしかめる。
「どちらにしても、新しく他の隊員が来るまで手をつかねてるわけにはいかない。先生と山川君の命が優先だからね。せめて二人がどこへ行ったかだけでも分かれば」
「真紀子さん!」
「ど、どうしたの?」
突然叫んだ美佐へ、真紀子は驚いて尋ねる。その前に、美佐は手にしていた『日記』の頁を開いて、
「山川君の日記なんですけど。ここに、旧日本軍の研究室かなんかがあったんですか?」
「…そういう話は聞いてるわ。戦前から移民を奨励されていた土地だったから、軍もいざという時にはアメリカへ対抗するつもりで作ったんだって。だけど、そうならない前に終戦になってしまったんで、そのままうち捨てられて、って…よくある話よ。それに、もしもあったとしても、使い物にならないんじゃないかしら」
「だけど大尉」
すると田垣が、少し馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべながら、
「何かを引きずったような跡は、確かにそっち方面へ向かって続いてるんっすけどね」
「…なんですって」
「ほら、これ」
真紀子の鼻先へ、黄色く変色した模造紙を広げて差し出す。それは手書きではあるが、確かにこの辺りの地形を示した絵で、
「さっき研究室から見つかったんですよ。その山川ナニガシとやらの日記と一致しません?」
「確かに、ね。美佐ちゃん、ちょっと待ってて」
そこで大きく息を着き、真紀子はそう言い置いて田垣を促す。『研究室』では未だに調査が続いているが、彼女は机の周りに自衛隊員を呼び集めて、何かの打ち合わせを始めたようだ。
(山川君の…日記)
六月五日以降も、当然ながらまだ日記は続いている。毎日のように一定時間降るスコールに驚いたこと、ナメクジが大発生したこと、そして毒ヘビに脅かされたこと…。
『六月二十七日。今日、先生は例の研究室を探すと言い出した。言い出すときかない先生のこととて、なんと僕が昼食の支度をしているうちに探ってきてしまったらしい。こっちは、どこへ行ったのか心配していたのに。
あまりのことに、つい先生を責めてしまったが、先生はなんてことないようにあっけらかんと笑う。
そして「大発見をしたから、君も着いて来い」と仰った』
『六月三十日。まさか本当にあれを先生が発見するとは思わなかった。ここはどうやら普通種だけではなくて、突然変異種の植物の宝庫でもあるらしい。その植物から抽出したエキスが、どうやらタミフル耐性を持つ僕のような人間が、インフルエンザにかかったときに効くらしい。この研究室では手狭だからと…』
そこまで目を通したところで、
「きゃ!?」
どすり、と音を立てて、美佐の右頬の横にナイフが突き刺さった。
「…毒虫。油断するなよ」
近づいてきた田垣に、何をするのかと文句を言い掛けた美佐は、
「…すみません」
ちらりと横を見て、また鳥肌を立てたのである。
「どっちにしても、このまんまじゃ分析すらできないんじゃねえの?」
すくんでしまった美佐へ近づいて、田垣はからかい半分、侮蔑半分の笑みを口元に浮かべた。
「教授センセイがどうやってアレを扱ってたのか知らないけどさ。ビンを開けたら飛び掛ってくるなんてさ。お嬢さん、アンタってほんと、悪運が強いよな」
「…」
言われて、美佐は唇を少し噛み締め、俯く。確かにあの時、実際に「動く植物」の被害を受けて命を落としていたのは彼女かもしれないからだ。
同時に、和田というあの隊員の倒れた姿を思い出してしまって、彼女はノートを開いたまま、思わずぶるりと体を震わせた。
「田垣さん」
「あん?」
彼女につかつかと近づいて、刺さったナイフをぐいっと引き抜いた彼は、美佐が話しかけるとそのナイフを二、三度振って腰のベルトへ戻す。
そんな彼を見ながら、
「田垣さん、は…平気なんですか?」
「んなわけねえだろ? これでも自分に『水になれ』って必死で言い聞かせてんのさ」
「水?」
「冷静になれ、ってこと。いつでも頭を冷やしておけってことだよ」
「そう…そう、ですよね。ごめんなさい」
ノートを閉じて、美佐はぺこりと頭を下げる。既に二名の犠牲者を出しているのに、他の自衛隊員には全く動揺している気配が見えないので、さすがは軍人だと思っていたのだが、
「俺らだって人間だしな。人間相手ならともかく、あんな気味悪いブツとかが相手じゃ、どう対策を練っていいやら」
田垣がそう言うのも無理はないだろう。
「植物相手なら火。燃やすかブった切る。それが一番だと思うんだが、結構素早く動いたしな。ま、最初に村田をやったヤツはアレじゃないかもしれないし、別モンかもしれねえけど」
「…はい」
「だから」
そこで、田垣はぐっと美佐へ近づいたかと思うと、
「ひっ!」
再び大きな音を立てて、美佐の頭上へナイフを突き立てた。
「…お嬢さんは、今来てるヘリと一緒に大使館へ戻んな。ま、言っても聞かないだろうけどさ」
彼がそう言いながらナイフを引き抜くと、今度はその刃に大きなクモが突き刺さっている。
「忠告はしたぜ? 俺らについてくんなら、自分の身は、可能な限り自分で守れ」
「…はい」
「一応、後続のヘリももう一台、こっちに向かうように要請はしてある。だから、もしも
それに乗るんならのれ。アンタの自由だ」
「ありがとうございます!」
美佐が頭を下げると、田垣は忌々しげに「フン」と鼻を鳴らして彼女の側から去っていく。
いつの間にか、また周囲は薄暗くなっていて、自衛隊員たちが研究室の前で火を焚いている。
そっちへ向かっていった田垣は、ナイフをその火へ無造作にかざして突き刺さったクモを焼いた。
たちまちそれは火に焼かれて、ナイフからぼろぼろと剥がれ落ちていく。
「美佐ちゃん。こっちへ。そんなところにいつまでも独りでいちゃだめよ」
「はぁい」
なんとなくそれを見ていた美佐を、火のそばから真紀子が呼んだ。美佐が走り寄っていくと、
「インスタントだし、食欲は無いかもしれないけど、とにかく何か胃に入れておきなさい」
「ありがとうございます」
渡されたアルミの容器を押し頂くようにして受け取り、美佐は真紀子の側へ腰を下ろした。
火の明かり引き寄せられて集まってきた大きな蛾や、名も知らない夜行性の虫たちが、焼かれては消えていくのを見つめながら、
「お父さんは…お父さんが、アレを作ったんでしょうか」
美佐が尋ねると、
「美佐ちゃんはどう思う?」
真紀子は逆に尋ね返してくる。火を囲んだ彼女らの周りを、田垣を含む自衛隊員たちが銃を構えつつ警戒していて、
「…お父さんなら、やったかもしれません。そういう技術を持っている人ですから」
彼女の側を通り過ぎた田垣が、一瞬、ぴくりと体を震わせた。美佐は続けて、
「瓶の中の液体は、あれを育てるための培養液でしょう。お父さんがもしも『無事に』あれを培養していたなら…もしもあれの中に、タミフル耐性患者さんにも効く成分が入っているなら、お父さんがそれをなんとか抽出しようと考えないわけがありませんから」
「そうね」
すると真紀子は頷いて、
「私もそう思うわ。ひょっとしたら、教授があれを培養し始めた頃にはまだ、あれは成長しきっていなかったのかもしれない。だから、あんな風に素早く動くことも無くて」
「はい」
「気付いてた?」
すっと顔を引き締め、彼女は美佐を見る。
「大きな瓶、内側から割られたみたいなものもいくらかあったってこと」
「…え…」
「中の培養液も、ほとんどなくなっていた。あれが先生の開発した成果だとしたら、私も分析してみたいところだけれど」
驚く美佐へ、真紀子は苦笑して、
「…滅ぼすべきものでしょうね」
「はい」
美佐もそこで大きく頷いた。あれを外に出してはいけない、そのことだけは分かる。
緑色をしているのだから、密林や森林に紛れてしまえば、ちょっと見ただけではそれだと分からないのだ。
近づいていく人間が、たちまち被害にあってしまうことは想像に難くない。
一番最初に村田隊員の足を溶かした「もの」とはまた別かもしれないが、
「でも、お父さんはあれを育てていました。ちゃんとビンを開けられていたってことですよね」
「そうね」
「…一体どうやって」
呟くように美佐が言うと、真紀子は大きくため息を着いて首を振った。
「とにかく、暗くなってからの移動は余計に危険だわ。あまり気は進まないけど、今夜はこの研究室に泊まるしかないでしょうね」
彼女にとっても予想外のハプニングに違いない。少し疲れたような顔をして真紀子が言うのへ、
「はい」
美佐も神妙に頷いた。
その深夜である。
(蒸し暑いなあ)
密林のこととて、当然ながらシャワーを浴びるなどという贅沢は出来ない。水も貴重だからというのでほぼ全員がシャツに簡易ズボンの上から水を浴びるという「行水」で、
(体がベトベトしてる)
その上に何者かによる自衛隊員二人の惨殺、そして得体の知れない「何か」を父が培養していたという発見は、美佐を容易に眠らせてはくれない。
寝袋は、片付けられた研究室の床へのべられている。その中央からむっくりと起き上がって、美佐はふと周りに目をやった。
警戒のために研究室周囲に焚かれている火の明かりは、真っ暗な周囲から浮き上がっているようで、その明かりの中で時々、見回っている自衛隊員の姿がうっすらと見える。
(少しでも眠っておかなきゃ)
覚えず大きなため息を着いた時、部屋の片隅で小さく音がしたような気がして、美佐は何気なくそちらへ上半身をひねった。
暗がりでよく見えないが、そこから何かがあわ立つような音と、ガラスが割れるようなピキピキといった音が同時に響いてきており、
「…真紀子さん!!」
思わず美佐が叫ぶと、彼女の周りで眠っていた自衛隊員が一斉に跳ね起きて、外で警戒していた隊員たちも駆け寄ってくる。
「どうしたの!?」
ついさっきまで美佐の隣で寝息を立てていた真紀子が、素早く彼女の側へ近づいて尋ねる。
それへ美佐が、
「あれ…」
指差して答えると、懐中電灯の明かりがそちらへ向けられた。
「あ…!」
懐中電灯の震える輪の中で、それはぼうっと浮かび上がる。
培養液の入った大きな瓶。とうに腐っているのだろう液体が激しくかき回されて、内側からその瓶の表面にヒビが入り始めていた。
しかしそれは、
「もっとよく照らせ! それから、火の用意!」
田垣の合図で7つばかりの懐中電灯に照らされると、なぜかその動きを潜めた。
「なんで…さっきまで」
「真紀子さん」
呆然と呟く真紀子へ、美佐は意外に冷静な表情で、
「一度、懐中電灯を消してみてもらえませんか」
「美佐ちゃん!?」
「一瞬だけ。一瞬だけでいいんです」
「…消して」
美佐が真剣に言うのへ、真紀子は頷いた。そして明かりが消されると、再びガラスの割れる音と液体のあわ立つ音が、今度ははっきりと聞こえてくる。
研究室の外で焚かれている火の乏しい明かりの中で、確かに瓶の中の何かは息づいていて、外へ出ようとしているのが確かめられた。
「いいです、懐中電灯をつけてください。早くこれに向けて!」
美佐が言うと再び懐中電灯はそれへ向けられ、その場所だけが真昼のような明るさになる。
明かりを向けられると、瓶は再び静かになった。
「…強いて言うなら反光合成(アンチひかりごうせい)ですね。暗いところで増殖するんでしょう」
美佐が大きく息を吐きながら言うと、
「ええ? でもそれって、あり得ることなの?」
「あり得ないわけではないんです。どこで読んだのかは忘れたけど、ずっと昔、どこかの砂漠の墓場で発見されたコケが例として挙げられていた文献のことを覚えてますから。だけど」
信じられないといった風に真紀子は首を振っている。それは他の自衛隊員も同様で、そんな彼らに苦笑しながら、
「私も実際に見たのはこれが初めてです」
「…明かりを当てていればいいのね?」
「はい」
これまでの常識では考えられないことだけど、などと言いながら、それでも真紀子は美佐の言葉を信じたらしい。たちまち予備用の大型懐中電灯までもが、一斉にそれらの瓶を照らす。
「でないと、私達が襲われてしまうでしょう」
「そうですね」
真紀子と美佐が苦笑して顔を見合わせたとき、
「あ…ヘリが!」
田垣が叫ぶ。どうやら彼が呼んだ後続のヘリが到着したらしい。密林上空すれすれに、こちらへ向かって飛んでくるヘリコプターを見上げて、
「美佐ちゃん、貴女はもうお帰りなさい。これ以上は危険だわ」
真紀子が言った途端、辺りを揺るがすような爆発音が響いた。
「危ない! 伏せて!」
爆風で、たちまち木々がなぎ倒される。ぱらぱらと何かが焦げた残骸が落ちてくるのから、とっさに真紀子は美佐を押し倒してその上へ覆いかぶさった。
しばらくして、ようやく辺りは静まり返り、
「…真紀子さん!」
何か暖かいものが自分の頬へぽたりと落ちてくるのを感じて、美佐が目を開けると、
「美佐、ちゃん。…貴女は大丈夫?」
真紀子は苦痛を堪えて笑った。飛んできた何かの残骸がかすめたらしい。左肩がざっくりと避けて血があふれ出している。
「真紀子さんこそ!」
「一尉!」
「私は大丈夫。手当てをお願い」
大きく呼吸を繰り返しながら、真紀子はよろよろと立ち上がる。それへ隊員の一人が肩を貸すと、真紀子は額に汗を滲ませながら、美佐へ向かって苦笑いをした。
「大丈夫よ。それより、さっきの爆発は何?」
早速、医療の心得のある隊員が彼女の治療を始める。時々顔をしかめながら、真紀子はそれでも「隊長」としての使命を果たすつもりらしい。
「ヘリが爆発したんすよ。まあ明日にでも調査するべきでしょうね」
田垣が答えると、一瞬、全員の顔に狼狽と緊張が走った。
「これでまた当分、帰れなくなったわけだ。調査班に何名か残して、センセイを探しに行ったほうがいいと思いますがね」
「…それでいいわ」
「隊長。隊長は動かないほうがいいんじゃ」
「何を言ってるの、大丈夫よ。神経や骨までやられてないもの。行くわ。痛み止め、お願いね」
真紀子の言葉に、田垣は黙って肩をすくめる。
「今の爆発で負傷した隊員は、調査班としてここに残ること。昼の間に行動して、夜は明かりを絶やさないこと。睡眠は交代で昼に取ること。いいわね?」
苦しげに呼吸をしながら真紀子が下した命令へ、隊員たちは敬礼で答えた。
…to be continued.
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