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プロローグ
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ジャングルの奥地である。彼らの研究室は、アマゾン川沿いで人間の住む最後の都市と言われている
マナウスの、さらにその奥にある急ごしらえの「掘ったて小屋」で、
(すまないな)
熱帯のこともあり、室内は夜も蒸し暑い。じっとりと額に湧く汗を吸いにやってくる小さなハエを無意識に追いながら、白いものの混じった前髪を綺麗に額の後ろへ撫で付けた初老の男は、
『先生!』
つい数時間前にはそう叫んでいた、彼の「教え子」を見下ろした。
『先生、これは進化の法則に反します。美佐さんが知ったら』
(君を、使わせてもらうよ)
鼻の穴からどす黒い一筋の血を流して、物言わぬ肉塊となった教え子には、
(まさかあの薬に耐性を持っている人間が、身近にいるとは思わなかった。それが君だったなんて)
彼が今、開発したばかりの薬が、全く効かなかった。
(…早くしなければ…人間は)
力を失った人間の体は、驚くほどに重い。床に横たわったその肉塊を、必死に側のベッドへ横たえた時には、全身から汗が噴き出していた。
(我々がここで見つけた成果が本物になるなら、人間は)
かつての教え子を、彼はぎらぎらと光るメスを片手に再び見下ろす。
(人間は、より一層素晴らしい進化を遂げる)
…乏しいランプの明かりの下で、赤い液体が壁へさっと飛び散った。
T大学農学部、植物病理学研究室に所属している日野美佐の元へ、一本の電話がかかってきたのは、その出来事があって一日経った、日本時間七月二十一日、午後八時のことである。
「…はい、父は一週間前ほどに日本を発ったはずです。…はい、まだ帰ってきません」
実験の手を止めて出た電話の受話器を、耳に押し当てるようにしながら、美佐は向こうの声に答えた。
ショートカットにしている髪の毛から、見えるか見えないかといった風な白い耳朶の小さなイヤリングが細かく震えている。いつも陽気に笑う、少しふっくらしたその頬がどんどん血の気を失っていくのを、研究室の後輩達は心配そうに眺めていた。
「外務省からだった。…お父さん…日野教授と、山川君が、行方不明になったんだって」
やがて電話を切って、美佐は彼らを振り向く。同じように心配して詰めてくれていたらしい中野助教授が、
「それで? 落ち着いて。いいからゆっくり話しなさい」
と促すのへ、
「…ですから、すぐにブラジルへ来るようにって…万が一のことがあった時の、身元確認のために」
震える声で答えて、美佐は声を詰まらせた。
…『世界の日野』。農学の分野なら、その名を知らないものはいない。植物病理の権威でもある彼は、常日頃からまさに世界中を飛び回っていて、今回は、
「どうやらインフルエンザに耐性を持つ植物成分は、アマゾンにあるらしいよ。だから探しに行ってくる」
と、パイプを片手に豪快に笑っていたように、ブラジルヘ「飛んでいた」のだ。
思い立ったがすぐ行動、が、日頃からの日野教授のモットーである。もう六十を越えた高齢だが、そのフットワークの軽さと情熱は、若い頃から少しも変わっていないと評判なのだ。
「大丈夫だ。私が研究室を守っているよ。だから、安心して行って来なさい。大学当局にも君の事はきちんと話しておく。大学院はしばらく休学することになるが、これは致し方ないだろう」
「はい、そうですね…ありがとうございます」
今年の春、美佐は農学部の大学院、「博士課程」に進学したばかりである。
(山川君も、どうしちゃったんだろう)
同じように進学した恋人の顔を思い浮かべながら、美佐は、
「じゃあ、私。これで」
「パスポートの手配は?」
「大丈夫です。父と一緒にインドへ行った時のが残ってます」
もう一度、中野へ頭を下げ、後輩達へも「よろしくね」と言い置いて、研究室を後にした。
マナウスの、さらにその奥にある急ごしらえの「掘ったて小屋」で、
(すまないな)
熱帯のこともあり、室内は夜も蒸し暑い。じっとりと額に湧く汗を吸いにやってくる小さなハエを無意識に追いながら、白いものの混じった前髪を綺麗に額の後ろへ撫で付けた初老の男は、
『先生!』
つい数時間前にはそう叫んでいた、彼の「教え子」を見下ろした。
『先生、これは進化の法則に反します。美佐さんが知ったら』
(君を、使わせてもらうよ)
鼻の穴からどす黒い一筋の血を流して、物言わぬ肉塊となった教え子には、
(まさかあの薬に耐性を持っている人間が、身近にいるとは思わなかった。それが君だったなんて)
彼が今、開発したばかりの薬が、全く効かなかった。
(…早くしなければ…人間は)
力を失った人間の体は、驚くほどに重い。床に横たわったその肉塊を、必死に側のベッドへ横たえた時には、全身から汗が噴き出していた。
(我々がここで見つけた成果が本物になるなら、人間は)
かつての教え子を、彼はぎらぎらと光るメスを片手に再び見下ろす。
(人間は、より一層素晴らしい進化を遂げる)
…乏しいランプの明かりの下で、赤い液体が壁へさっと飛び散った。
T大学農学部、植物病理学研究室に所属している日野美佐の元へ、一本の電話がかかってきたのは、その出来事があって一日経った、日本時間七月二十一日、午後八時のことである。
「…はい、父は一週間前ほどに日本を発ったはずです。…はい、まだ帰ってきません」
実験の手を止めて出た電話の受話器を、耳に押し当てるようにしながら、美佐は向こうの声に答えた。
ショートカットにしている髪の毛から、見えるか見えないかといった風な白い耳朶の小さなイヤリングが細かく震えている。いつも陽気に笑う、少しふっくらしたその頬がどんどん血の気を失っていくのを、研究室の後輩達は心配そうに眺めていた。
「外務省からだった。…お父さん…日野教授と、山川君が、行方不明になったんだって」
やがて電話を切って、美佐は彼らを振り向く。同じように心配して詰めてくれていたらしい中野助教授が、
「それで? 落ち着いて。いいからゆっくり話しなさい」
と促すのへ、
「…ですから、すぐにブラジルへ来るようにって…万が一のことがあった時の、身元確認のために」
震える声で答えて、美佐は声を詰まらせた。
…『世界の日野』。農学の分野なら、その名を知らないものはいない。植物病理の権威でもある彼は、常日頃からまさに世界中を飛び回っていて、今回は、
「どうやらインフルエンザに耐性を持つ植物成分は、アマゾンにあるらしいよ。だから探しに行ってくる」
と、パイプを片手に豪快に笑っていたように、ブラジルヘ「飛んでいた」のだ。
思い立ったがすぐ行動、が、日頃からの日野教授のモットーである。もう六十を越えた高齢だが、そのフットワークの軽さと情熱は、若い頃から少しも変わっていないと評判なのだ。
「大丈夫だ。私が研究室を守っているよ。だから、安心して行って来なさい。大学当局にも君の事はきちんと話しておく。大学院はしばらく休学することになるが、これは致し方ないだろう」
「はい、そうですね…ありがとうございます」
今年の春、美佐は農学部の大学院、「博士課程」に進学したばかりである。
(山川君も、どうしちゃったんだろう)
同じように進学した恋人の顔を思い浮かべながら、美佐は、
「じゃあ、私。これで」
「パスポートの手配は?」
「大丈夫です。父と一緒にインドへ行った時のが残ってます」
もう一度、中野へ頭を下げ、後輩達へも「よろしくね」と言い置いて、研究室を後にした。
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