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四 春風、玉門ニ渡ル
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南のほうで、太平天国がようよう衰える兆しを見せ始めていた頃、北のほうでは未だに農民反乱軍、捻匪が暴れまわっていた。これは、「太平天国を恐れて団錬を組織し、防衛した漢人」を恐れて武装した回民が背後にいたせいもあって、かなりの勢力を誇っている。
回民は回族とも呼ばれる。イスラム教を信仰する、中国において少数の、しかし最大のムスリム民族で、甘粛省や陝西省など、主に中国大陸の西部に居住していた。
漢民族と姿形はさほど変わらず、漢民族となんとなく共に暮らしながら、生活習慣はイスラムの教えにのっとっていた。よって、考え方にも違いが出るのは当たり前で、
「武装した漢人は、勢いに乗ってこちらへも略奪を行いに来るのではないか…」
もともと、略奪したりされたりを繰り返していた両民族であるから、回族がそう勘違いして、武装したのだと考えても不自然ではない。要するに自衛本能が働いたのだろう。
相手が武装したのだから、こちらもいつ攻め込まれるか分からない。両者の間に信頼がそもそもないのだから、清側に回族を攻めるつもりはなくても、回族側にはそう受け取られてしまうし、回族側が武装したのだから清帝国のほうも危険だというわけで、両者は勝手にお互いを誤解したまま、対立の溝を深めたものと見える。
そういった意味で、太平天国の乱は、回民にはまたとない好機だった。彼らが太平天国とほぼ同時期を狙って蜂起したものだから、清帝国が太平天国側の処置にまごまごしている間に、渭水流域の陝西中部にまで一気に進出してきたのである。それに困窮した清帝国内の農民達が加わって、大規模な反乱になってしまったのだ。
今回、左宗棠が北京へ呼び出されたのは、太平天国を滅ぼした曽国藩の片腕だからであり、何よりも、
「わが王朝への忠誠心は類を見ません」
当時、軍機大臣を務めていた文祥が、そう申し述べていたせいもあったかもしれない。
軍機大臣、軍部機密大臣といえばいいだろうか。軍隊に関する仕事のうち、主に皇帝が軍に対して発する命令文などの作成や、情報収集を担当していた役職であり、通常六、七人で構成されている。軍部に所属していながら、直接軍隊を動かすことはなく、どちらかというと文官に近い役割を担っていた。
熱河へ咸豊帝を逃がした際、同僚の桂良と共に、後に残った恭親王を助けて西欧列強と和睦の交渉を行ったのが文祥である。旧満州出身の彼の人となりは清廉潔白で勤勉、その生活は質素そのものであると、なかなかに周囲の評判は良い。
もっとも、文祥はただ清廉潔白なだけの人間ではない。咸豊帝崩御後すぐに起きた、いわゆる辛酉政変では、西太后を助けて反対派を一掃した上でその子の同治帝を立て、
「幼い帝には、母后の助けが必要です。母君が摂政になられるべきです」
と、垂簾聴政を奏上して西太后の機嫌をとっている。こうすることで、彼女の粛清の嵐をちゃっかりと避けて政権に居座り続けたのだから、相当にやり手で食えぬ一面も持っていたと言えよう。
そんな文祥は、曽国藩や宗棠と同じ洋務運動派である。特に宗棠に対しては、まだ会ったこともないのに、
「彼はいい。きっと我らの役に立ってくれる」
噂を聞いてそんな風に大きな期待を抱き続けるうち、政府中枢にいる役人の中で一番の左宗棠贔屓になっていた。
(何よりも、先帝を好きであるところがいい)
それに彼も、若くして死んだ咸豊帝へ限り無い同情を抱いている。得てして、同じような感傷を抱いているというだけで、人の心の天秤はより好意へと傾くものだ。
また、生前は不仲で、その存在を疎ましく思っていた咸豊帝から遠ざけられていた西太后の手前、大きな声ではいえないが、
(左宗棠は清朝廷に忠誠を誓っているのではなく、咸豊帝に限りない恩と義理を感じている、そのために動くのだ)
とも、文は冷静に思っている。
もともと清も、漢民族にとっては野蛮な国の一つだった金の女真族が、明の後を襲って建てた国だ。中華を治める便宜上、制度は明のものを踏襲して、支配階級となった漢民族に親しまれやすいようにはしたが、建国二百年余りが過ぎた今でも、
(漢民族は、心の底から我ら異民族を好きなわけではない)
と、これは瓜爾佳(グワルギャ)氏出身の彼だけではなくて、朝廷中枢にいた異民族出身者全員の、共通の考えである。そんな中で、清の皇帝に好意を抱く漢民族は、まさに稀有な貴重品であり、
「お越しを待ちかねておりました」
よって、宗棠が到着した際の彼を含む政府官僚たちの出迎えは、大変に丁重なものだった。
時に、同治六(一八六六)年十一月、北京ではそろそろ初霜を見ようか、という季節である。皮膚へきりきりと鋭い穴を開けられそうな湿り気のない強い風に吹かれて、節くれだった両手で思わずごしごしと己が頬を擦った宗棠は、
(おやおや、これはこれは)
紫禁城の正面玄関にあたる午門にまで出た百官が、それこそずらりと並んで頭を下げるのを見て、大いに面食らったものだ。
この午門に至るには、後世、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した天安門をくぐって左右に社稷壇及び太妓を見、さらにその次の端門を抜けなければならない。そうして到着したこの門からがやっと宮殿内であり、
(俺はやはり田舎者だった)
それだけでも、宗棠この城の広さに圧倒されている。
「閩浙総督には」
迎えにでた文祥は、前の官職名で彼を呼び、丸い帽子を被った頭を深々と下げた。
「すぐにでも賊の討伐に出かけて頂きたいところですが、まずは旅の汚れを落とされたがよい。これより、皇帝陛下と母后お二人にお引き合わせいたしましょう」
「…よろしくお願い申し上げます」
穏やかな声に、いささかホッとしながら、宗棠もまた彼へ向かって頭を下げ、
(これは懐かしい)
改めて文祥をつくづくと見、ふと首を傾げて目を細めた。
繰り返し述べるが、文祥の先祖は異民族である。大陸北部の満州にいついているうち、漢民族とも交わって、いつしかその血は漢民族の血に凌駕されてしまったのだろうか、
(胡のヤツに似ている)
己自身よりも六歳年下ではあるが、穏やかなその風貌に亡き友の面影を見出して、
(存外、上手くやれるかもしれん)
理解者がいないと己の意思が上手く周囲に伝わらない宗棠は、その点でも胸を撫で下ろしながら、相変わらずの自分に苦笑した。
「初めて拝見するが、まことに壮大なものですな」
「ははは、そもそも、われわれが造ったものではないのだが」
そして彼は、文祥に導かれるまま、乗っていた馬から降りて歩き始める。素直な宗棠の感慨に、文祥は好意的な笑い声を上げ、
「この午門にて、我ら百官、毎朝午前四時に太和殿へ向かいまして、遥拝する慣わしで」
「毎朝ですか」
コの字型に両脇がせり出した、独特の形をしているこの門を見上げながら宗棠が言うと、
「左様、毎朝。その他にも」
文祥は頷いて、
「この門前において、罪人どもへ百叩きなどの軽い刑を執行することもあります」
と、そこで掌を翻して前方の大きな門を指し、
「あちらが太和門。その奥に見えるのが太和殿。それを通り抜けて左手に折れた養心殿にて、皇帝陛下とご母堂殿下は貴殿の到着を待っておられる」
綺麗に敷き詰められた石畳の上をゆるゆると踏みながら、にこやかに宗棠を振り返る。
城内には人工的に作られた小川(御河)が城の内部をぐるりと囲むように流れており、その川には金水橋と呼ばれた橋までかけられている。
ご存知だろうが、と付け加えた上で、
「ご覧のように、太和門の前を東へ横切って、皇太子殿下が暮らす文華殿へと流れていくように設計されています。あいにくと今は戦争のせいで修復中ですが」
文祥がそう説明するのを、宗棠はいちいち頷いて聞いていた。
彼が見た宮殿の内部は、彼が若い頃に勉強し、教養のひとつとして聞き知っている明代の様子とさほど変わらず、
(明代に造られたこの宮殿を、我ら漢民族が野蛮視していた異民族が、かくも丁寧に使っているとは思いもよらなかった)
心の中で、密かに女真族を見直したものだ。
「円明園へも機会があればぜひご案内したいが、あいにくと先だっての戦争で、完膚なきまでに破壊されてしまいまして」
「アア」
話し続ける文祥へ、宗棠も顎を引く。
アロー戦争において北京へ攻め入ってきたイギリス・フランスが、皇帝がいなくなった北京において略奪の限りを尽くしたらしいことは、当然彼も知っていた。特に名高い庭園であった円明園へ押し入った際には、その建物内にあった工芸品や織物などを、
「引き裂き、壊し、可能な限り略奪した」
と、イギリス側のエルギン伯が日記に残しているほどだから、彼らが行った破壊活動は、味方同士でも目に余るものであったに違いない。
帰国後、両者は互いに互いの略奪や破壊行為を非難しあったというが、第三者に言わせればどっちもどっち、というところであろう。その折に欧州へ持ち去られてしまった美術品を民間企業が買い戻すなど、中国が本格的にその修復活動に乗り出したのは、つい最近(二〇〇七年)のことだ。
宗棠が北京を訪れたのは、アロー戦争が終結してからほんの五年後であるから、当時はまだ傷跡も大層生々しかったに違いない。破壊された当時の西洋館などの写真を見ても、いかにイギリスとフランスのやり方が徹底的であったかが用意に分かるのである。
「落ち着けば、ぜひ」
「はい、ぜひ」
二人はそう言って顔を見合わせ、同時ににこりと笑った。
「さても、そのイギリスとフランスですが」
太和門をくぐると、ようやくその先に太和殿が見えてくる。三段重ねの巨大な台座の上に建てられた、幅六十三メートル、奥行き三十三メートル、高さが三十五メートルのこの中国最大の木造建築物は、近づけば近づくほど、ただ巨大なだけではない何かを伴って宗棠の胸に迫った。
(かつて、俺はここを目指していた)
それを見上げながら、
(そして俺は、今、これを護るべくここへ来た)
ごく自然に思い、「イギリスとフランス、ですか」鸚鵡返しにしながら頷く宗棠へ、
「貴殿は、どう思われますか」
文祥は熱を持って問いかけた。
「どう、とは」
「貴殿もご存知だろうが、魏殿が記された海国図志、私も何度も拝読しました」
「…ああ、なるほど」
故林則徐のブレーンだった人物の名が文祥の口から飛び出して、宗棠は再び懐かしい目をした。
彼の若い頃の師、賀長齢とも親交があったと聞いているから、彼らが亡くなってしまった今でも、自分にとっては満更他人でもないような気がするのだ。
「ですから、西洋に学ぶべきところは我が国もくだらん矜持を捨て、貪欲に学ぶべきである。私もまた、亡き林大臣の考えに、深く共鳴するものです」
「ふむ、それは俺…私にも心強い」
「しかし、太平天国の鎮圧にも手を貸してくれながら、一方では呵責のない略奪をする…夷人のすることは良く分かりません」
文祥が微苦笑を漏らすと、宗棠もまた「そうですな」と苦笑して頷く。
太平天国の乱の鎮圧には、宗棠や大将、曽国藩も大いに活躍しているが、最初のうちは太平天国に好感を抱いていたイギリス、フランスが、太平天国側の態度に失望して清帝国側に協力しなければ、
「もっと乱は続いたでしょうから」
(イギリスやフランスの最新式武器やその他もろもろ、彼らの援助はどうしても必要だった。協力を求めざるを得なかった)
その点は、宗棠も悔しがりながら、素直に認めている。すると文祥も深く頷いて、
「お気をつけて。ご承知であろうが、中央部分は皇帝陛下のみが使われる場所です」
と、注意を促した。
太和殿が乗っている白い三つの台座の真正面には、中央の幅の広い階段を挟んで左右に二つ、計三つの長い階段が伸びている。
雲と龍の美しい彫刻を施された、従って雲竜階石と呼ばれたレリーフのある中央階段は、皇帝が輿に乗って上下する所だという。従って、この部分の階段を通った人間は、いかなる理由があろうと死刑にされてしまうのだ。
そう説明しながら一番左の階段へ足をかけようとして、文祥は、そこでぴたりと立ち止まる。
「お聞かせ願いたい」
そして、努めて無難な返事をしようと心がけている宗棠を振り返り、
「貴殿は、わが国にとっての本当の脅威は、何処の国だと思われますか」
ずばりとそう問いただした。
「いや、それは、今この場所では」
「うむ。いや、確かに。これは失敬」
さすがに宗棠がためらうのを見て、文祥も年甲斐もなく熱くなってしまったのが恥じられたらしい。
(私が宗棠へ好意を抱いているほど、宗棠は私へ好意を抱いてはおらぬだろうに)
己が勝手に抱く宗棠贔屓の感情が高じて、つい長年の知己であったかのように遠慮なく談じてしまったが、
「初対面の方に、大変無礼であった、お許しください」
「いや、何…かほどまでされずとも」
文祥が頭を下げて丁重に詫びるのへ、慌てて両手を挙げながら、宗棠は内心、
(これは意外に骨がある)
逆に大いに頼もしく思え、ついで、
(やはり北京における「外国人嫌い病」の根は深い。西洋に学ばねばならぬと理性では分かっているはずの穏やかそうな彼でさえ、やはり頭に血を上らせているではないか)
文祥の態度によって、鋭くそう推察した。同時に、
(初対面の俺に、早速国策を問うとは)
己に好意を寄せてくれている宮廷中枢の役人達の、己に期待するところが、予想外に大きいものであることに気付いたのである。
「このたび、総督におかれましては」
そして文祥は、ゆるゆると石段を上がりながら、
「捻匪討伐をお願いすることになります。太平天国軍掃討で見せられた手腕を、ぜひとも我らにもお示し下さるよう」
言って、正面の大きな扉を開けた。途端、目に飛び込んでくるきらびやかな内装に、思わず息を呑んだ宗棠を見てわずかに微笑みながら、彼は太和殿内部を通り抜ける。
太和殿と変わらぬほどに贅を尽くした養心殿内部へと案内しつつ、
「皇帝陛下、及び両皇太后殿下、お待ちかね。どうぞ失礼のなきよう」
文祥は再び掌を上へ向け、奥を指した。宗棠が目を眇めると、そちらにはさらに光り輝く大きな玉座があり、玉座の左右には、
「…東太后及び西太后殿下におわす」
御簾が下がっている後ろに人の気配を感じて、刹那、怪訝な顔をした宗棠は、文祥が耳元に口を寄せて囁くのへ、すぐに納得して頷いた。
(なるほど。これが噂に聞く垂簾聴政か)
皇帝がまだ幼いか、病気がちなどの理由のため、形式上の摂政としてその母、妻が代わりに政治を執り行うことが垂簾聴政であり、有名な例として漢の高祖の妻呂后と、唐代、一時的に帝位に就いた武則天が挙げられる。その先例があったため、同治帝即位時における文祥の提案も、非常識とはされなかったのだろう。
「お召しにより、湖南の今臥龍左宗棠、参上致しました」
玉座に近づくと、文祥は床へ膝を就き、さらに額を床へつけて上奏した。
臣下は玉座の間において、立ったまま皇帝に物申すことは許されていない。よって、膝をついたまま玉座ににじり寄り、床に叩頭するような形で言上するわけで、
「ご苦労」
それに答える声は、当然ながら正面にちょこなんと座っている幼い皇帝のものではなく、女性のものである。
しかし、その声が一つしか聞こえてこないことに気付き、さらには、
(これが悪女の声か)
その声に張りばかりではなく、意外にも甘い響きが含まれていることに、宗棠は少なからず驚いていた。
「そなたが、今臥龍ですか」
簾の向こうから、その声は続けて響く。宗棠もまた、「はっ」と答えながら、ごく自然に床へ叩頭していた。
叩頭しながらも、
(やはり舞台効果とは大したものだ)
と、心の中では彼一流のひねくれ精神を忘れてはいない。あの大仰な門をくぐり、壮麗な構造物を通った後で、とどめのようにきらびやかな宮殿に案内されたなら、
(たとえ下げるに値せぬ相手でも、なあ)
誰しも頭が自然に下がってしまうかもしれぬ。
ことに、今彼が頭を下げているのは、彼が内心で密かに「女ごときが表の世界に」と軽蔑していた、年齢的には彼の娘ともまごう相手である。それなのに、
「このたび、そなたを陝甘総督に任命する。精出して賊の征伐に勤しまれるよう」
簾越しとは言いながら、女にしては張りのある、よく通る声で言われると、雷に打たれたような畏怖を感じてしまうのは不思議なことだ。
「皇帝陛下の御為、謹んでお受け致します」
言われて、宗棠は再び床に額をつけながら答えた。
陝甘総督は、中国大陸の西北に位置していた陝西、甘粛二省の民事及び軍事を管轄する。その創立は順治元(一六四四)年に遡り、固原市(二〇〇一年現在、寧夏回族自治区の南部に位置する)に総督府があった。
その後、総督府は漢中、西安などを点々としながら、康煕三(一六六四)年に山西省、雍正十三(一七三六)年に四川省、乾隆二十四(一七五九)年に陝西省と、周囲の省を続々と管轄下に加えて、やっと蘭州にその居場所を定めた。異民族と矛を交えあう最前線の土地といえるだろう。治める難しさは南京と変わらない。
中国大陸の歴史は、異民族と中華との戦いの歴史とも言える。今回は、捻匪鎮圧のためにそちらへ赴くわけだが、正確にはその背後にあって、捻匪を煽っている回族討伐を任ぜられたというべきかもしれぬ。
さて、一旦は西安にまでやってきた回族だが、同治二(一八六三)年には、当時陝西将軍であった呼爾拉特(チチハル)氏出身の多隆阿(トルンア)に追い払われて、今は西方に引っ込んでいる。多隆阿は、かつて、宗棠の親友であった胡林翼と共に太平天国とも戦い、湖北省を護りきった人物であるが、同治三(一八六四)年三月の回族との戦いで受けた流れ弾が元で、同年五月十八日、まだ四十七歳という若さで亡くなってしまっていた。
玉座の間を辞した後、
「ぜひ一度なりとお会いして、話を伺いたかったですな」
己の前任者であるから、というだけではなく、胡林翼ともつながりがあり、しかも似たような年で亡くなった人物ということで、宗棠がこの上ない親しみを含んだ声でしみじみと言うと、
「うむ。われわれとしても、実に惜しい人物を亡くしたと思っています」
文祥は、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
(やはり、彼は大丈夫だ)
そう思うと、さいぜんの情熱もまた、心に蘇ってくる。
「イギリス、フランスのことも気になるが、南京でも、捻匪どもの活動はやはり盛んでしょうか」
出発の期日にまで間があるから、ということで、宮中に与えられた部屋へ戻ろうとする宗棠を、「お疲れであろうが」たってと我が部屋へ招きながら、文祥は熱く問いかけた。
「わが同郷(旧満州)人である官文が、湖広総督の任にあること九年余りですが、良い成果を上げたという噂はあまり聞きません」
「ふむ、そうですな」
問いかけられて、宗棠は苦笑した。官文は、かつて彼と彼の上役であった駱秉章とを「それぞれの職の分を越えている」ということで、弾劾したことのある人物である。
腐っても官吏であるから、戦略を立て、それを実戦に生かすという点でも、教養という点でも優秀ではなかったとは言い切れない。
だが、駱と宗棠にしたのと同じような妨害を曽国藩にもしていたところを見ると、人間としての器量には疑問符がつく。曽の方も、たびたび仕事を邪魔されたからということで、官文を「平凡な人物である」の一言で片付けてしまっていた。
(大将も、かなり鬱憤がたまっていたようだから)
遠く離れてしまった恩人の顔を思い浮かべながら、宗棠の胡麻塩髭の中にはこらえきれぬ苦笑が浮かんでは消えた。
宗棠がどんなに恩知らずな言葉を投げつけていても、曽国藩はやはり彼を心配して定期的に兵糧を送ってくるのだ。心の中では感謝しつつも、やはり実際に曽と会うと、(余計なことをしやがって)と、意地っ張りな面と甘えた感情が、つい顔に出てしまうだろう。
曽国藩は、宗棠と違って人間関係にはソツがないはずであるし、教養も深く兵略にも通じている。だから大将として祀り上げられる素質は十分以上にある。
人間関係にソツがないことを示す例として、太平天国が滅亡した後、彼が湘軍を解散させることで清政府から睨まれることを避けたという件の話が挙げられる。後世の人間はそれを「適切な処世術である」と高く評価した。しかし戦いの間、戦況が悪化して追い詰められる都度、自殺を考えたらしいという噂からすると、その処世は実は、かつて宗棠が指摘したように、多分に国藩の小心から来るものだったのではなかろうかと思える。
その癖、一方では、宗棠のような個性の強い人物を容れる太っ腹な度量もあった。そんな「大将」も、その折はかの満州出身の異民族を随分もてあましたらしい。
「実は今、曽侯爵のご舎弟、国荃殿から、弾劾状が届いております」
「なんですと」
文祥が声を潜めて言うのへ、しかし宗棠は言葉ほど驚かなかった。
(あの曽国荃殿なら、それくらいはやるだろう)
曽国荃は、太平天国の拠点である南京(太平天国側は天京と称していた)を攻め落とした際、その兵士が殺戮と略奪を行ったということで非難を浴びた、軍の実質的指揮者である。宗棠にとっては、かつて湖南巡撫だった駱秉章のもとで共に戦った同僚でもある。
駱と宗棠が弾劾されたと聞いた折にも、
「己の無能を棚に挙げ、功績のある人間を謗るのは下衆のやることだ」
湖広総督の地位にいながら、なんら功績を挙げていない人間の妬みである、と、はっきり述べて憚らなかった。
(彼にも俺は、よく怒鳴り散らしたものだ。大将と兄弟二人揃って、よくもまあ、このような俺に我慢強く付き合ってくれたものよ)
曽国藩そっくりの国荃の、濃い眉と口ひげを思い出しながら、
「官文殿に、どういった罪があると?」
宗棠が問い返すと、文祥は「これはまだ上奏していないのだが」と、ますます声を潜め、
「湖広総督の地位にいながら、捻軍との戦いでいっかな成果を上げられないでいる。これを罪と言わずして何と言おう、と」
「いやはや」
宗棠は、思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。それに気付いているのかいないのか、文祥は軽く目を閉じ、鼻の穴から深く息を吸い込んで、
「曽国藩侯爵の力は大きいゆえに、その弟御からの訴えとなると看過出来ない。それが悩みのタネです。ともかく、曽殿を直隷総督に任じることで、なんとかなだめようというのが私の策なのだが、他の者どもが聞き入れてくれぬので、大層難議している」
と、正直なところを打ち明けた。
首都北京もその管轄下に入っているため、地方長官の中で筆頭の地位にあった直隷総督に曽国藩を任じることで、その一族の鬱憤を晴らす、という手が一番妥当だという意見が大半を占めている一方で、これ以上、漢民族である曽に権力を握らせるのは危険だという意見もあるらしい。
「ひとまずは官文を解任する、ということで怒りを静めてもらおうとしたのだが、これだけではなかなか納得してくれないでいますな」
「ははは。何と申しても、あの大将の弟ですからなあ」
「なるほど、あの、ですか」
ついに笑ってしまった宗棠につられて、文祥も苦笑いをした。
結果的には、官文は湖広総督を解任されて、この小さな政変は終わっている。その数年後には、曽国藩は直隷総督に任じられ、清朝に支配されていた当時の漢民族としては例外的に最高の地位に就いた。それで一応は決着がついたように見えるこの事件は、ある意味、漢民族が再び異民族に取って代わるきっかけだったとも言えよう。
中国大陸南部では、太平天国の主力がようやく衰えたと思った時に、その残党が捻匪を後押しする形で、再び十万もの大軍に膨れ上がっていた。戦いに継ぐ戦いで、人々は全く息をつく間もなかったに違いない。
大陸北部でも同治四(一八六五)年、捻軍らはかつて太平天国から北京を護りきった勇将、センゲリンチンの騎馬隊を破って、北京の人々の心胆を大いに寒からしめている。よってここで再び曽国藩、李鴻章の出番となって、東西に別れた捻軍のうち、東捻軍に対することになった。そして宗棠のほうは、陝西省に侵入してきた西捻軍討伐を任せられた、といった具合だったのである。
このような折、味方の足を引っ張る役立たずがいては、
「確かに具合が悪いですからな」
「致し方ありません。解任もやむなし、と我らも思います」
宗棠の言葉に、文祥は大きくため息を着いた。
彼の目から見ても、アヘン戦争から続く一連の戦いにおいて、同胞である「異民族」はあまり役に立っていない。反って漢民族の力に縋る結果になってしまっているから、
(返す言葉も無い。いずれ我らに代わって、漢民族が再びこの地を支配することになったとしても、その力を借りるしかない)
この西太后お気に入りの政治家は、少し俯いてほろ苦く笑った。すると、
「兵は神速を尊ぶ」
少し沈んだ空気を振り払うように宗棠は立ち上がり、
「私にお任せくださったからには、全力で事に当たるつもりでいます。まずは国内で暴れまわる不届き者退治から。明日にでも皇帝陛下の御前で軍議を開きたいと思いますが」
にこりと笑って、文祥へ片手を差し出したのである。
こうして宗棠は、陝甘総督に就任した。北京に滞在したのはわずか一週間あまりでしかないが、この間にかつて彼が目をかけていた部下、譚鍾麟と再会している。
「なぜ君が北京にいるのだ」
と、尋ねる宗棠に、
「貴方をお助けせよということで、文祥殿に呼び出されました。駱殿からも、先生の手足として働くように言い付かっています。どうぞ先生の思うまま、こき使ってください。いや、もう閣下とお呼びせねばなりませんね」
彼より十歳若い譚鍾麟がニヤリと笑って答えたものだから、
「いや、先生で良い。古くからの知り合いなのだから、そんな君に改まって閣下などと呼ばれると、尻がなにやらこそばゆくなる」
文祥の好意に深く感謝しながら、さすがに宗棠も照れて苦笑したものだ。
宗棠と文祥が新たな友情を築きつつある間にも、当然ながら捻軍は決してじっとしていない。東の河南省において、これまた宗棠が目をかけていた武将、劉松山に破れると、彼らは西にある陝西省へ向きを変えてこちらへやってきた。
劉もまた、それを追撃してこちらへ向かっていると聞き、宗棠は奮い立った。
「劉松山を助けねばならん。彼を助けることで、今なら捻軍を挟撃できる」
こう思うと、若かりし時に劣らず行動は早い。早速、文祥へ慌しい別れを告げ、
「西安を護れ」
彼は西捻軍へ対するため、古くから従っている湖南出身の兵を率いて、陝西へ向かった。
陝西には、先に巡撫に任じられていた同僚、劉蓉もいて、こういった面々が続々と宗棠の配下に加わっている。
劉蓉はかつて太平天国と戦った際、湘軍所持の水軍を焼き払った翼王石達開を、四川大渡河の戦いで捕らえるという手柄を立てた。同じ敵と戦っていながら、部署が大きく離れていたため、お互いに会うのはこれが初めてである。
しかし、互いに駱秉章の下で戦ったことがある、こちらへやってくるだろう劉松山とも面識がある、という話で親しみを抱きあった後、
「貴君は数年、ここに住んでいる。よって西安の地理をよくご存知だろう」
戦の最中であるからとその後の挨拶を省き、宗棠は早速、劉蓉に尋ねた。
「このあたりで、最も戦いに適した場所は」
劉蓉も、宗棠の良い噂を駱から飽きるほどに聞かされている。眩しい物がそこにあるかのような目で新しい上役を見つめながら、
「適した、とはいえぬかもしれませんが、重要な場所であると言える区はあります。灞(は)橋区です」
と告げた。
灞橋区は、陝西省西安市にある市轄区のうちの一つである。陝西省という省自体が中国大陸北部の中央付近に位置しているため、灞橋にも紡織城街道、洪慶街道、紅旗街道といった主要街道の九つが通っていた。
他に軍を通せるほどの道がないため、捻軍に限らず、どんな軍隊でもこれら街道のうち、どれかを使って攻めてくるに違いない、よって、
「この区を我等が護れるか否かが、西安の命運を決めましょう」
劉蓉が言い切ると、宗棠は深く頷いて、
「なるほど。では、君がやってくれるか」
と言った。
彼の兵は、湖南、つまり中国大陸南部の温暖な気候に慣れた者たちばかりである。曽国藩が心配したように、寒風吹きぬける中、ほんの一週間ばかりの北京の滞在で、はや体調を崩す者がいた。疲れた兵でもって敵に当たるのは愚の骨頂である。
「俺が連れてきた兵達の中から、今すぐ使えて、特に頑強な者を提供する。その者どもと、陝西の者たちを合わせれば、兵力になるだろう」
「はい、それならば」
劉蓉も頷き、早速それらの兵を率いて向かった。
だが、彼は捻軍を少し甘く見ていたらしい。東からは勇猛で知られた劉松山が来るし、自らが率いている兵は
(あの、今臥龍が育てたのだから)
気候に慣れていないといっても、宗棠が育てた屈強な兵士達ばかりである。だから、多少の損害はあっても破れることはないと思ってしまった。
それに、
(俺にも石達開を捕らえられただけの軍才はある。今臥龍には負けぬ)
劉蓉自身、男の考えることらしく、そういった矜持も無論ある。ただ、石達開を捕らえた折には、もうすでに太平天国の勢いはかなり衰えていた、だから己にも捕らえられたのかもしれない、ということを考えなかったのは彼の不幸だったかもしれない。
陝西省へやってきた張宗禹率いる西捻軍は、彼らを迎え撃つのがやり手の左宗棠ではなくて、その部下だということを知ると、一度彼らの兵の大部分を灞橋それぞれの街道に埋伏させてしまった。そして、劉蓉が通りかかった街道へ、わざとその少数兵を見せて誘ったのである。
敵が少ないのを見て奢った劉蓉の軍隊は、深く考えずにそれらへ襲い掛かり、隠れていた捻軍兵士に叩きのめされた。古くから、あまりにも使い古されてきた単純な手「埋伏」に、わけもなく引っかかってしまったということだ。
そしてこれにより、宗棠は西安市街への撤退を余儀なくされた。その後を追うように、西捻軍は一気に西安まで向かってきたのであるから、
「君には軍隊を率いる才能はまるきりない。何を油断していたのか。なぜ事前に物見を出すなりしない」
西安市の城壁内へ逃げ込みながら報告を受けた宗棠は、劉蓉をいつもの調子で口汚く罵った上で、陝西巡撫の任から解いてしまった。
この中で、譚鍾麟の働きが冷静で目覚しかったのが、唯一の救いだったかもしれない。結局、包囲される形になった西安市城壁での激しい攻防戦は、翌同治六(一八六七)年になっても続いていたが、
「左先生、いえ、総督閣下、お久しぶりです。お助けすると約しておりましたのに、大変に遅れました。申し訳ございません」
西捻軍を追いかけてきた劉松山がようやくやってきて、
「山東省では、李殿が東捻軍を包囲して、散々に打ち破ったようです」
白い歯を見せて笑ったように、劉がやってくるとほどなく、張宗禹は西安の包囲を解いた。これは劉が告げたように、山東省で李鴻章が東捻軍を破ったということも一因である。
張宗禹らがそちらの救出に向かった時期と、劉松山が西安へやってきた時期が一致し、
「結果的に西安の囲みが解けた、そういうことでしょう。私の手柄ではありません」
これも勇猛さを謳われていた、まだ三十四歳の劉は、宗棠が正直に感謝の言葉を告げると、羞みながらそう答えたものだ。
「そう謙遜するものではない。君が来てくれなければ、俺は危うかったのだ」
譚鍾麟、劉松山とも、別れてから実に十年近くが経っている。当時、その顔にあどけなささえ残していたはずの劉を、
「よい男になったものだ」
宗棠がつくづくと見上げて言うと、劉はさらに頬を赤くした。幼さは消えても、素直さはそのまま残ったらしい。彼の後ろに控えていた、彼に良く似た若者を押し出して、
「私の甥の錦棠です。覚えておいででしょうか。私と共に、先生の下で戦いたいと申しておりましたので、微力ながら連れ参りました。よろしくご訓育下さい」
「うむ」
言われて、宗棠は錦棠を見やった。
これもまた、まだまだ赤い頬をした、二十歳を出たばかりの青年である。この青年を、
「先生の元でお預かりいただいてよろしいでしょうか。私はこのまま、北京へ向かいたいと思います」
そう告げて、劉松山はそのまま、北京へ向かった。東捻軍救出に向かったはずの西捻軍が、何を思ったか北京方面へ進軍していたからである。
(恐らくは、我らを避けるために迂回したのだろう)
宗棠が考えたように、西捻軍は西安を通ることを避けた。再び西安を通過しようとすれば、今度こそ宗棠自身が出てくるに違いなく、そうなれば捻軍壊滅の危機に陥りかねない。
そうなる前に、
(東のヤツらと合流すれば、態勢を立て直せる)
張宗禹は思い、北京は通過しただけで山西から直隷省に入った。それを追った劉松山も、そこを護っていた李鴻章と共に河南、直隷両省で激戦を繰り広げるのだが、その件はひとまず置く。
とにもかくにも、陝西からは捻軍を追い出せた。次は甘粛である。元はといえば、そちらに「巣食っている」回民が、清国内の捻軍を煽っていたのだから、
「いよいよ、元を断たねばならん」
それを何とかしなければ陝西、甘粛両省を担う陝甘総督としての面目が立たない。
手先だったはずの捻軍が陝西から東へ遠ざかってしまったので、回民軍は甘粛省へやむなく引き上げたのだが、それを追って蘭州へ向かう前に、宗棠はひとまず湖北省へ戻った。傷病兵を故郷へ帰すためである。
「これを討伐するには時間がかかる」
武漢で開いた作戦会議で、宗棠はそう切り出した。その会議には、わざわざ北京からやってきた文祥も加わっている。
「なぜなら、三つの問題があるからだ」
文祥が加わったのは、宗棠の要請による。
文祥は今や、彼になくてはならない盟友である。それに彼がいれば、宗棠が言わんとするところをきちんと理解してくれるし、何より早くかつ直接、朝廷すなわち西太后へ伝わるからだ。
「三つの問題」
「そうだ」
文祥が鸚鵡返しに問うと、宗棠は頷いて三本の指を出す。それを一つずつ繰りながら、
「ひとつ、兵員。ふたつ、食糧、みっつ、運輸。これらだな」
戦場に出たことのある人間なら、誰もが納得行く問題を改めて整理するように口にした。彼の右に座しながら、文祥も深く頷いている。
宗棠が北へ連れていった兵士は、ほとんどが中国大陸南の出身であるし、戦いも湖南省とその周辺に限られていたのだ。よって、寒暖の差が激しい北の気候にはやはり慣れぬ。
その弱点が先ほどの戦いで、
「いざというときに体調を崩してしまって使えない」
という風に、露骨に表れてしまった。
「このまま南へ帰りたいヤツは、大将(曽国藩)のところへ戻ればよい。その上で、戦いを続けるかどうかを決めるがいい。俺が便宜を図ってやろう。兵士は西で新たに募集して補うのがいい。現地の敵と戦うには、やはり現地の人間でなければならん。次に食糧だが、できる限りの食糧を買い付けしておく、ということの他に」
文祥は、目を閉じていちいちに深く頷きながら聞いている。その文祥も、
「現地で屯田しようと思う。田を耕しながら戦うのだ。己の食い扶持は己でまかなわねばならん。大将からは、また兵糧を送ってやると言って寄越しているし、それを聞いている者もあるだろうが、俺は断った。人の援助に頼るな。そんなものがあると思えば、必ず心に甘えが生じる。言うまでもないことながら、現地での略奪などもってのほかだ。略奪したヤツは遠慮なく俺がたたッ切る」
宗棠がそう言い切ったときには、略奪云々はともかく、
(屯田とは、あまりに迂遠ではないか)
遠回りしすぎるのではないか、と、少し驚いて思わずその顔を見直した。
実際に宗棠は、援助を申し出てくれた曽国藩へ、兵士達へ向かって言ったような、
「人の援助に頼るほど甘い人間ではない。俺を見くびってくれるな」
絶縁でもされかねない台詞をそのまま言い送っている。文祥でさえ、
(援助はいくらあっても足りすぎるということはない)
と思っていた。不毛の地へ行くというのに、差し伸べてくれる手を払いのけるとは狂気の沙汰であると思われかねぬ。
しかし宗棠はそ知らぬ風で、
「運輸だが、これは現地までの道の要所要所に駅を設けようと思う。この任務に当たる者は、後ほど選ぶ」
と、会議を締めくくったのである。
出立準備のため、たちまち慌しくなる武漢の庁舎で、
「宗棠殿、少し待ってくれ」
会議が終われば、すぐに北京へ飛んで帰るというようなことを言っていた文祥は、急ぎ足で外へ出て行こうとしている宗棠の袖を掴んで引きとめた。
「率直に言う。蘭州で屯田など、あまりにも時間がかかりすぎるのではないか。無論、私は君を信じているし、今回の君の作戦内容についても、お上へ申しあげて勅許を得る自信もある。だが、政府の中には君を嘲笑って、反対する者も出てくるのではないかと…君の評判が下がりはしないかと、その点で心配なのだ」
「嘲笑うヤツには嘲笑わせておけばよいのさ。だがな」
この穏やかな幕友へ向き直り、宗棠がいつものように少しの揶揄を込めた調子で、
「そうやって嘲笑うヤツの中で、今までに賊の退治に成功したヤツが何人いる?」
言うと、文祥は喉の奥で何かが詰まったような音を立てた。
その肩を叩きながら宗棠は、
「回族と俺達の間には、幾世紀にも渡った不信の根がある。それが今回、見える形で現れたということだ。その根を力ずくで取り除こうとするならば、やはりそれ相応の年月がかかるということさね。そしてその根を取り除くのは」
にゅっと親友の顔へ己の顔を近づけ、
「俺にしか出来んことさ。違うか? だからこそ、君らも俺にこの仕事をさせようとしたのだろうに。俺の価値は俺自身が一番良く知っている」
言いながらニヤリと笑ったのである。
そこで文祥もつい苦笑して、
「その通りだ。良く分かった。私も君がやろうとしていることを、他の人間に邪魔させはしないと約束しよう」
固い握手を交わし、北京へと急ぎ帰っていった。
事実、西域を再び中国側の領土とする、といったこの仕事は、当時清政府にいた人間のうち、左宗棠にしか出来ないことだった。そのことは何よりも後の歴史が証明している。
また、この時のことを、例えば譚鍾麟などは、
「宗棠ハ、事、巨細精粗トナク、根本ヨリナス」
と評している。つまり主戦論をいたずらに振りかざすだけの人物ではない、何事にも綿密で細心な計算をもって当たる、ということで、そんな宗棠の元に残った大陸南部出身者は三千名。これを核として、彼はいよいよ蘭州へ旅立った。
その懐に大事にしまい込まれているのは、かの林則徐が新疆地方へ赴いた時に描いていた西方の地図である。朝廷内に厳重保管されていたのを、文祥が無理を言って借り受けてくれたのだ。
「大軍ノ至ルトコロ、淫略スルナカレ、残殺スルナカレ、王者ノ師ハ時雨ノ如クアレ」
乗った馬に楽しげに揺られながら、宗棠は右の文句を繰り返し歌いさえする。つまり犯すな、略奪するな、現地の非闘民を労われ、ということで、主将がそんな具合であるから、彼に率いられていた兵は毛筋ほどの略奪もしない。
甘粛地方には軍を進めるに適しない曲がりくねった道が大変に多いので、軍隊が時に通れず、進行に難渋した。よって宗棠は、彼の軍隊が通ろうとするところを拡張し、その両脇には涼しげな葉の音を立てる青柳を必ず植えた。
「道はともかく、柳は無駄ではありませんか」
譚鍾麟がある時、ずばりと切り込むと、
「なんの、無駄ではないさ。無駄どころか」
宗棠はからりと乾燥した空を見上げて笑ったものだ。彼は確かに怒りっぽくはあるが、軍事に関する質問を部下がした時には、労わりをこめて諭すように答える。
「覚えておけ。民が喜ぶことをもするのが、政治というものだ。道を整備することで軍隊だけではなくて、住民や旅商人どもも通りやすくなる。砂漠を越えて辛い旅をしてきた者たちは、この柳の青さを見、葉ずれの音へ耳を傾けて心を休めるのだ。そしてこの道を作った者は誰かと考える。それを聞き知って政府へ感謝する。そういったものだ」
「ははあ、なるほど」
素直に二つ頷く「お気に入り」を見て、しかし宗棠は、
(コイツにも、俺の後の海軍建設は任せられない。どこか一味足りない)
寂しい思いで少し笑った。
中国大陸のあちこちにガタが来ているこの折、混乱した事態を収拾するには、素直で、勇猛なだけでは足りないのだ。そういった点で彼が期待しているのは、今、まだ東のほうで捻軍と戦っている劉松山のほうである。
(あれが俺の元へ戻ってきたら、もっと仕込んでやるものを)
兵たちが植えている柳を見やりながら、宗棠は鼻の穴から大きく息を吸い込んで、深呼吸を繰り返す。すると柳の葉のすがすがしい匂いが鼻腔を伝わって喉へ、そして体のすみずみへ行き渡るようで、彼は両目を閉じ、口元をほころばせた。そんな彼を見て微笑みながら、譚鍾麟もまたそれを真似て深呼吸をした。
宗棠が蘭州へ向かって戦っていきながら、その合間に修復も手がけたこの道は、チーリエン山脈の山裾沿いに、西安から蘭州、安西を経て最終的には玉門関の外までの三千七百里に渡って伸び、その後も主要な幹線道路の一つになっている。
蘭州から玉門関までの狭い盆地状の道がシルクロードの一部である河西回廊で、それらの道路脇に彼が二列から八列に渡って植えさせた柳は、彼の名前を取って「左公柳」と呼ばれた。
また、これはずっと後のことになるが、宗棠の後任として陝甘総督となった楊昌濬は、
大将西征シテ人イマダ還ラズ 湖湘ノ子弟、天山ニ満ツ
新タニ楊柳ヲ栽ウル三千里 カチ得タリ春風、玉門ニ渡ルヲ
という詩を作って、宗棠の仕事を称えている。楊もまた、かつては宗棠に従って太平天国討伐に加わった人物だから、多少の贔屓はあるにしても、この称え方は決して大げさではないだろう。
ともかく、こうして宗棠は、一見果てしなく気が長いと思われる方法で、実際にその気の長さを嘲笑われつつも、着々と己の足元を固めていったのである。
回民は回族とも呼ばれる。イスラム教を信仰する、中国において少数の、しかし最大のムスリム民族で、甘粛省や陝西省など、主に中国大陸の西部に居住していた。
漢民族と姿形はさほど変わらず、漢民族となんとなく共に暮らしながら、生活習慣はイスラムの教えにのっとっていた。よって、考え方にも違いが出るのは当たり前で、
「武装した漢人は、勢いに乗ってこちらへも略奪を行いに来るのではないか…」
もともと、略奪したりされたりを繰り返していた両民族であるから、回族がそう勘違いして、武装したのだと考えても不自然ではない。要するに自衛本能が働いたのだろう。
相手が武装したのだから、こちらもいつ攻め込まれるか分からない。両者の間に信頼がそもそもないのだから、清側に回族を攻めるつもりはなくても、回族側にはそう受け取られてしまうし、回族側が武装したのだから清帝国のほうも危険だというわけで、両者は勝手にお互いを誤解したまま、対立の溝を深めたものと見える。
そういった意味で、太平天国の乱は、回民にはまたとない好機だった。彼らが太平天国とほぼ同時期を狙って蜂起したものだから、清帝国が太平天国側の処置にまごまごしている間に、渭水流域の陝西中部にまで一気に進出してきたのである。それに困窮した清帝国内の農民達が加わって、大規模な反乱になってしまったのだ。
今回、左宗棠が北京へ呼び出されたのは、太平天国を滅ぼした曽国藩の片腕だからであり、何よりも、
「わが王朝への忠誠心は類を見ません」
当時、軍機大臣を務めていた文祥が、そう申し述べていたせいもあったかもしれない。
軍機大臣、軍部機密大臣といえばいいだろうか。軍隊に関する仕事のうち、主に皇帝が軍に対して発する命令文などの作成や、情報収集を担当していた役職であり、通常六、七人で構成されている。軍部に所属していながら、直接軍隊を動かすことはなく、どちらかというと文官に近い役割を担っていた。
熱河へ咸豊帝を逃がした際、同僚の桂良と共に、後に残った恭親王を助けて西欧列強と和睦の交渉を行ったのが文祥である。旧満州出身の彼の人となりは清廉潔白で勤勉、その生活は質素そのものであると、なかなかに周囲の評判は良い。
もっとも、文祥はただ清廉潔白なだけの人間ではない。咸豊帝崩御後すぐに起きた、いわゆる辛酉政変では、西太后を助けて反対派を一掃した上でその子の同治帝を立て、
「幼い帝には、母后の助けが必要です。母君が摂政になられるべきです」
と、垂簾聴政を奏上して西太后の機嫌をとっている。こうすることで、彼女の粛清の嵐をちゃっかりと避けて政権に居座り続けたのだから、相当にやり手で食えぬ一面も持っていたと言えよう。
そんな文祥は、曽国藩や宗棠と同じ洋務運動派である。特に宗棠に対しては、まだ会ったこともないのに、
「彼はいい。きっと我らの役に立ってくれる」
噂を聞いてそんな風に大きな期待を抱き続けるうち、政府中枢にいる役人の中で一番の左宗棠贔屓になっていた。
(何よりも、先帝を好きであるところがいい)
それに彼も、若くして死んだ咸豊帝へ限り無い同情を抱いている。得てして、同じような感傷を抱いているというだけで、人の心の天秤はより好意へと傾くものだ。
また、生前は不仲で、その存在を疎ましく思っていた咸豊帝から遠ざけられていた西太后の手前、大きな声ではいえないが、
(左宗棠は清朝廷に忠誠を誓っているのではなく、咸豊帝に限りない恩と義理を感じている、そのために動くのだ)
とも、文は冷静に思っている。
もともと清も、漢民族にとっては野蛮な国の一つだった金の女真族が、明の後を襲って建てた国だ。中華を治める便宜上、制度は明のものを踏襲して、支配階級となった漢民族に親しまれやすいようにはしたが、建国二百年余りが過ぎた今でも、
(漢民族は、心の底から我ら異民族を好きなわけではない)
と、これは瓜爾佳(グワルギャ)氏出身の彼だけではなくて、朝廷中枢にいた異民族出身者全員の、共通の考えである。そんな中で、清の皇帝に好意を抱く漢民族は、まさに稀有な貴重品であり、
「お越しを待ちかねておりました」
よって、宗棠が到着した際の彼を含む政府官僚たちの出迎えは、大変に丁重なものだった。
時に、同治六(一八六六)年十一月、北京ではそろそろ初霜を見ようか、という季節である。皮膚へきりきりと鋭い穴を開けられそうな湿り気のない強い風に吹かれて、節くれだった両手で思わずごしごしと己が頬を擦った宗棠は、
(おやおや、これはこれは)
紫禁城の正面玄関にあたる午門にまで出た百官が、それこそずらりと並んで頭を下げるのを見て、大いに面食らったものだ。
この午門に至るには、後世、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した天安門をくぐって左右に社稷壇及び太妓を見、さらにその次の端門を抜けなければならない。そうして到着したこの門からがやっと宮殿内であり、
(俺はやはり田舎者だった)
それだけでも、宗棠この城の広さに圧倒されている。
「閩浙総督には」
迎えにでた文祥は、前の官職名で彼を呼び、丸い帽子を被った頭を深々と下げた。
「すぐにでも賊の討伐に出かけて頂きたいところですが、まずは旅の汚れを落とされたがよい。これより、皇帝陛下と母后お二人にお引き合わせいたしましょう」
「…よろしくお願い申し上げます」
穏やかな声に、いささかホッとしながら、宗棠もまた彼へ向かって頭を下げ、
(これは懐かしい)
改めて文祥をつくづくと見、ふと首を傾げて目を細めた。
繰り返し述べるが、文祥の先祖は異民族である。大陸北部の満州にいついているうち、漢民族とも交わって、いつしかその血は漢民族の血に凌駕されてしまったのだろうか、
(胡のヤツに似ている)
己自身よりも六歳年下ではあるが、穏やかなその風貌に亡き友の面影を見出して、
(存外、上手くやれるかもしれん)
理解者がいないと己の意思が上手く周囲に伝わらない宗棠は、その点でも胸を撫で下ろしながら、相変わらずの自分に苦笑した。
「初めて拝見するが、まことに壮大なものですな」
「ははは、そもそも、われわれが造ったものではないのだが」
そして彼は、文祥に導かれるまま、乗っていた馬から降りて歩き始める。素直な宗棠の感慨に、文祥は好意的な笑い声を上げ、
「この午門にて、我ら百官、毎朝午前四時に太和殿へ向かいまして、遥拝する慣わしで」
「毎朝ですか」
コの字型に両脇がせり出した、独特の形をしているこの門を見上げながら宗棠が言うと、
「左様、毎朝。その他にも」
文祥は頷いて、
「この門前において、罪人どもへ百叩きなどの軽い刑を執行することもあります」
と、そこで掌を翻して前方の大きな門を指し、
「あちらが太和門。その奥に見えるのが太和殿。それを通り抜けて左手に折れた養心殿にて、皇帝陛下とご母堂殿下は貴殿の到着を待っておられる」
綺麗に敷き詰められた石畳の上をゆるゆると踏みながら、にこやかに宗棠を振り返る。
城内には人工的に作られた小川(御河)が城の内部をぐるりと囲むように流れており、その川には金水橋と呼ばれた橋までかけられている。
ご存知だろうが、と付け加えた上で、
「ご覧のように、太和門の前を東へ横切って、皇太子殿下が暮らす文華殿へと流れていくように設計されています。あいにくと今は戦争のせいで修復中ですが」
文祥がそう説明するのを、宗棠はいちいち頷いて聞いていた。
彼が見た宮殿の内部は、彼が若い頃に勉強し、教養のひとつとして聞き知っている明代の様子とさほど変わらず、
(明代に造られたこの宮殿を、我ら漢民族が野蛮視していた異民族が、かくも丁寧に使っているとは思いもよらなかった)
心の中で、密かに女真族を見直したものだ。
「円明園へも機会があればぜひご案内したいが、あいにくと先だっての戦争で、完膚なきまでに破壊されてしまいまして」
「アア」
話し続ける文祥へ、宗棠も顎を引く。
アロー戦争において北京へ攻め入ってきたイギリス・フランスが、皇帝がいなくなった北京において略奪の限りを尽くしたらしいことは、当然彼も知っていた。特に名高い庭園であった円明園へ押し入った際には、その建物内にあった工芸品や織物などを、
「引き裂き、壊し、可能な限り略奪した」
と、イギリス側のエルギン伯が日記に残しているほどだから、彼らが行った破壊活動は、味方同士でも目に余るものであったに違いない。
帰国後、両者は互いに互いの略奪や破壊行為を非難しあったというが、第三者に言わせればどっちもどっち、というところであろう。その折に欧州へ持ち去られてしまった美術品を民間企業が買い戻すなど、中国が本格的にその修復活動に乗り出したのは、つい最近(二〇〇七年)のことだ。
宗棠が北京を訪れたのは、アロー戦争が終結してからほんの五年後であるから、当時はまだ傷跡も大層生々しかったに違いない。破壊された当時の西洋館などの写真を見ても、いかにイギリスとフランスのやり方が徹底的であったかが用意に分かるのである。
「落ち着けば、ぜひ」
「はい、ぜひ」
二人はそう言って顔を見合わせ、同時ににこりと笑った。
「さても、そのイギリスとフランスですが」
太和門をくぐると、ようやくその先に太和殿が見えてくる。三段重ねの巨大な台座の上に建てられた、幅六十三メートル、奥行き三十三メートル、高さが三十五メートルのこの中国最大の木造建築物は、近づけば近づくほど、ただ巨大なだけではない何かを伴って宗棠の胸に迫った。
(かつて、俺はここを目指していた)
それを見上げながら、
(そして俺は、今、これを護るべくここへ来た)
ごく自然に思い、「イギリスとフランス、ですか」鸚鵡返しにしながら頷く宗棠へ、
「貴殿は、どう思われますか」
文祥は熱を持って問いかけた。
「どう、とは」
「貴殿もご存知だろうが、魏殿が記された海国図志、私も何度も拝読しました」
「…ああ、なるほど」
故林則徐のブレーンだった人物の名が文祥の口から飛び出して、宗棠は再び懐かしい目をした。
彼の若い頃の師、賀長齢とも親交があったと聞いているから、彼らが亡くなってしまった今でも、自分にとっては満更他人でもないような気がするのだ。
「ですから、西洋に学ぶべきところは我が国もくだらん矜持を捨て、貪欲に学ぶべきである。私もまた、亡き林大臣の考えに、深く共鳴するものです」
「ふむ、それは俺…私にも心強い」
「しかし、太平天国の鎮圧にも手を貸してくれながら、一方では呵責のない略奪をする…夷人のすることは良く分かりません」
文祥が微苦笑を漏らすと、宗棠もまた「そうですな」と苦笑して頷く。
太平天国の乱の鎮圧には、宗棠や大将、曽国藩も大いに活躍しているが、最初のうちは太平天国に好感を抱いていたイギリス、フランスが、太平天国側の態度に失望して清帝国側に協力しなければ、
「もっと乱は続いたでしょうから」
(イギリスやフランスの最新式武器やその他もろもろ、彼らの援助はどうしても必要だった。協力を求めざるを得なかった)
その点は、宗棠も悔しがりながら、素直に認めている。すると文祥も深く頷いて、
「お気をつけて。ご承知であろうが、中央部分は皇帝陛下のみが使われる場所です」
と、注意を促した。
太和殿が乗っている白い三つの台座の真正面には、中央の幅の広い階段を挟んで左右に二つ、計三つの長い階段が伸びている。
雲と龍の美しい彫刻を施された、従って雲竜階石と呼ばれたレリーフのある中央階段は、皇帝が輿に乗って上下する所だという。従って、この部分の階段を通った人間は、いかなる理由があろうと死刑にされてしまうのだ。
そう説明しながら一番左の階段へ足をかけようとして、文祥は、そこでぴたりと立ち止まる。
「お聞かせ願いたい」
そして、努めて無難な返事をしようと心がけている宗棠を振り返り、
「貴殿は、わが国にとっての本当の脅威は、何処の国だと思われますか」
ずばりとそう問いただした。
「いや、それは、今この場所では」
「うむ。いや、確かに。これは失敬」
さすがに宗棠がためらうのを見て、文祥も年甲斐もなく熱くなってしまったのが恥じられたらしい。
(私が宗棠へ好意を抱いているほど、宗棠は私へ好意を抱いてはおらぬだろうに)
己が勝手に抱く宗棠贔屓の感情が高じて、つい長年の知己であったかのように遠慮なく談じてしまったが、
「初対面の方に、大変無礼であった、お許しください」
「いや、何…かほどまでされずとも」
文祥が頭を下げて丁重に詫びるのへ、慌てて両手を挙げながら、宗棠は内心、
(これは意外に骨がある)
逆に大いに頼もしく思え、ついで、
(やはり北京における「外国人嫌い病」の根は深い。西洋に学ばねばならぬと理性では分かっているはずの穏やかそうな彼でさえ、やはり頭に血を上らせているではないか)
文祥の態度によって、鋭くそう推察した。同時に、
(初対面の俺に、早速国策を問うとは)
己に好意を寄せてくれている宮廷中枢の役人達の、己に期待するところが、予想外に大きいものであることに気付いたのである。
「このたび、総督におかれましては」
そして文祥は、ゆるゆると石段を上がりながら、
「捻匪討伐をお願いすることになります。太平天国軍掃討で見せられた手腕を、ぜひとも我らにもお示し下さるよう」
言って、正面の大きな扉を開けた。途端、目に飛び込んでくるきらびやかな内装に、思わず息を呑んだ宗棠を見てわずかに微笑みながら、彼は太和殿内部を通り抜ける。
太和殿と変わらぬほどに贅を尽くした養心殿内部へと案内しつつ、
「皇帝陛下、及び両皇太后殿下、お待ちかね。どうぞ失礼のなきよう」
文祥は再び掌を上へ向け、奥を指した。宗棠が目を眇めると、そちらにはさらに光り輝く大きな玉座があり、玉座の左右には、
「…東太后及び西太后殿下におわす」
御簾が下がっている後ろに人の気配を感じて、刹那、怪訝な顔をした宗棠は、文祥が耳元に口を寄せて囁くのへ、すぐに納得して頷いた。
(なるほど。これが噂に聞く垂簾聴政か)
皇帝がまだ幼いか、病気がちなどの理由のため、形式上の摂政としてその母、妻が代わりに政治を執り行うことが垂簾聴政であり、有名な例として漢の高祖の妻呂后と、唐代、一時的に帝位に就いた武則天が挙げられる。その先例があったため、同治帝即位時における文祥の提案も、非常識とはされなかったのだろう。
「お召しにより、湖南の今臥龍左宗棠、参上致しました」
玉座に近づくと、文祥は床へ膝を就き、さらに額を床へつけて上奏した。
臣下は玉座の間において、立ったまま皇帝に物申すことは許されていない。よって、膝をついたまま玉座ににじり寄り、床に叩頭するような形で言上するわけで、
「ご苦労」
それに答える声は、当然ながら正面にちょこなんと座っている幼い皇帝のものではなく、女性のものである。
しかし、その声が一つしか聞こえてこないことに気付き、さらには、
(これが悪女の声か)
その声に張りばかりではなく、意外にも甘い響きが含まれていることに、宗棠は少なからず驚いていた。
「そなたが、今臥龍ですか」
簾の向こうから、その声は続けて響く。宗棠もまた、「はっ」と答えながら、ごく自然に床へ叩頭していた。
叩頭しながらも、
(やはり舞台効果とは大したものだ)
と、心の中では彼一流のひねくれ精神を忘れてはいない。あの大仰な門をくぐり、壮麗な構造物を通った後で、とどめのようにきらびやかな宮殿に案内されたなら、
(たとえ下げるに値せぬ相手でも、なあ)
誰しも頭が自然に下がってしまうかもしれぬ。
ことに、今彼が頭を下げているのは、彼が内心で密かに「女ごときが表の世界に」と軽蔑していた、年齢的には彼の娘ともまごう相手である。それなのに、
「このたび、そなたを陝甘総督に任命する。精出して賊の征伐に勤しまれるよう」
簾越しとは言いながら、女にしては張りのある、よく通る声で言われると、雷に打たれたような畏怖を感じてしまうのは不思議なことだ。
「皇帝陛下の御為、謹んでお受け致します」
言われて、宗棠は再び床に額をつけながら答えた。
陝甘総督は、中国大陸の西北に位置していた陝西、甘粛二省の民事及び軍事を管轄する。その創立は順治元(一六四四)年に遡り、固原市(二〇〇一年現在、寧夏回族自治区の南部に位置する)に総督府があった。
その後、総督府は漢中、西安などを点々としながら、康煕三(一六六四)年に山西省、雍正十三(一七三六)年に四川省、乾隆二十四(一七五九)年に陝西省と、周囲の省を続々と管轄下に加えて、やっと蘭州にその居場所を定めた。異民族と矛を交えあう最前線の土地といえるだろう。治める難しさは南京と変わらない。
中国大陸の歴史は、異民族と中華との戦いの歴史とも言える。今回は、捻匪鎮圧のためにそちらへ赴くわけだが、正確にはその背後にあって、捻匪を煽っている回族討伐を任ぜられたというべきかもしれぬ。
さて、一旦は西安にまでやってきた回族だが、同治二(一八六三)年には、当時陝西将軍であった呼爾拉特(チチハル)氏出身の多隆阿(トルンア)に追い払われて、今は西方に引っ込んでいる。多隆阿は、かつて、宗棠の親友であった胡林翼と共に太平天国とも戦い、湖北省を護りきった人物であるが、同治三(一八六四)年三月の回族との戦いで受けた流れ弾が元で、同年五月十八日、まだ四十七歳という若さで亡くなってしまっていた。
玉座の間を辞した後、
「ぜひ一度なりとお会いして、話を伺いたかったですな」
己の前任者であるから、というだけではなく、胡林翼ともつながりがあり、しかも似たような年で亡くなった人物ということで、宗棠がこの上ない親しみを含んだ声でしみじみと言うと、
「うむ。われわれとしても、実に惜しい人物を亡くしたと思っています」
文祥は、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
(やはり、彼は大丈夫だ)
そう思うと、さいぜんの情熱もまた、心に蘇ってくる。
「イギリス、フランスのことも気になるが、南京でも、捻匪どもの活動はやはり盛んでしょうか」
出発の期日にまで間があるから、ということで、宮中に与えられた部屋へ戻ろうとする宗棠を、「お疲れであろうが」たってと我が部屋へ招きながら、文祥は熱く問いかけた。
「わが同郷(旧満州)人である官文が、湖広総督の任にあること九年余りですが、良い成果を上げたという噂はあまり聞きません」
「ふむ、そうですな」
問いかけられて、宗棠は苦笑した。官文は、かつて彼と彼の上役であった駱秉章とを「それぞれの職の分を越えている」ということで、弾劾したことのある人物である。
腐っても官吏であるから、戦略を立て、それを実戦に生かすという点でも、教養という点でも優秀ではなかったとは言い切れない。
だが、駱と宗棠にしたのと同じような妨害を曽国藩にもしていたところを見ると、人間としての器量には疑問符がつく。曽の方も、たびたび仕事を邪魔されたからということで、官文を「平凡な人物である」の一言で片付けてしまっていた。
(大将も、かなり鬱憤がたまっていたようだから)
遠く離れてしまった恩人の顔を思い浮かべながら、宗棠の胡麻塩髭の中にはこらえきれぬ苦笑が浮かんでは消えた。
宗棠がどんなに恩知らずな言葉を投げつけていても、曽国藩はやはり彼を心配して定期的に兵糧を送ってくるのだ。心の中では感謝しつつも、やはり実際に曽と会うと、(余計なことをしやがって)と、意地っ張りな面と甘えた感情が、つい顔に出てしまうだろう。
曽国藩は、宗棠と違って人間関係にはソツがないはずであるし、教養も深く兵略にも通じている。だから大将として祀り上げられる素質は十分以上にある。
人間関係にソツがないことを示す例として、太平天国が滅亡した後、彼が湘軍を解散させることで清政府から睨まれることを避けたという件の話が挙げられる。後世の人間はそれを「適切な処世術である」と高く評価した。しかし戦いの間、戦況が悪化して追い詰められる都度、自殺を考えたらしいという噂からすると、その処世は実は、かつて宗棠が指摘したように、多分に国藩の小心から来るものだったのではなかろうかと思える。
その癖、一方では、宗棠のような個性の強い人物を容れる太っ腹な度量もあった。そんな「大将」も、その折はかの満州出身の異民族を随分もてあましたらしい。
「実は今、曽侯爵のご舎弟、国荃殿から、弾劾状が届いております」
「なんですと」
文祥が声を潜めて言うのへ、しかし宗棠は言葉ほど驚かなかった。
(あの曽国荃殿なら、それくらいはやるだろう)
曽国荃は、太平天国の拠点である南京(太平天国側は天京と称していた)を攻め落とした際、その兵士が殺戮と略奪を行ったということで非難を浴びた、軍の実質的指揮者である。宗棠にとっては、かつて湖南巡撫だった駱秉章のもとで共に戦った同僚でもある。
駱と宗棠が弾劾されたと聞いた折にも、
「己の無能を棚に挙げ、功績のある人間を謗るのは下衆のやることだ」
湖広総督の地位にいながら、なんら功績を挙げていない人間の妬みである、と、はっきり述べて憚らなかった。
(彼にも俺は、よく怒鳴り散らしたものだ。大将と兄弟二人揃って、よくもまあ、このような俺に我慢強く付き合ってくれたものよ)
曽国藩そっくりの国荃の、濃い眉と口ひげを思い出しながら、
「官文殿に、どういった罪があると?」
宗棠が問い返すと、文祥は「これはまだ上奏していないのだが」と、ますます声を潜め、
「湖広総督の地位にいながら、捻軍との戦いでいっかな成果を上げられないでいる。これを罪と言わずして何と言おう、と」
「いやはや」
宗棠は、思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。それに気付いているのかいないのか、文祥は軽く目を閉じ、鼻の穴から深く息を吸い込んで、
「曽国藩侯爵の力は大きいゆえに、その弟御からの訴えとなると看過出来ない。それが悩みのタネです。ともかく、曽殿を直隷総督に任じることで、なんとかなだめようというのが私の策なのだが、他の者どもが聞き入れてくれぬので、大層難議している」
と、正直なところを打ち明けた。
首都北京もその管轄下に入っているため、地方長官の中で筆頭の地位にあった直隷総督に曽国藩を任じることで、その一族の鬱憤を晴らす、という手が一番妥当だという意見が大半を占めている一方で、これ以上、漢民族である曽に権力を握らせるのは危険だという意見もあるらしい。
「ひとまずは官文を解任する、ということで怒りを静めてもらおうとしたのだが、これだけではなかなか納得してくれないでいますな」
「ははは。何と申しても、あの大将の弟ですからなあ」
「なるほど、あの、ですか」
ついに笑ってしまった宗棠につられて、文祥も苦笑いをした。
結果的には、官文は湖広総督を解任されて、この小さな政変は終わっている。その数年後には、曽国藩は直隷総督に任じられ、清朝に支配されていた当時の漢民族としては例外的に最高の地位に就いた。それで一応は決着がついたように見えるこの事件は、ある意味、漢民族が再び異民族に取って代わるきっかけだったとも言えよう。
中国大陸南部では、太平天国の主力がようやく衰えたと思った時に、その残党が捻匪を後押しする形で、再び十万もの大軍に膨れ上がっていた。戦いに継ぐ戦いで、人々は全く息をつく間もなかったに違いない。
大陸北部でも同治四(一八六五)年、捻軍らはかつて太平天国から北京を護りきった勇将、センゲリンチンの騎馬隊を破って、北京の人々の心胆を大いに寒からしめている。よってここで再び曽国藩、李鴻章の出番となって、東西に別れた捻軍のうち、東捻軍に対することになった。そして宗棠のほうは、陝西省に侵入してきた西捻軍討伐を任せられた、といった具合だったのである。
このような折、味方の足を引っ張る役立たずがいては、
「確かに具合が悪いですからな」
「致し方ありません。解任もやむなし、と我らも思います」
宗棠の言葉に、文祥は大きくため息を着いた。
彼の目から見ても、アヘン戦争から続く一連の戦いにおいて、同胞である「異民族」はあまり役に立っていない。反って漢民族の力に縋る結果になってしまっているから、
(返す言葉も無い。いずれ我らに代わって、漢民族が再びこの地を支配することになったとしても、その力を借りるしかない)
この西太后お気に入りの政治家は、少し俯いてほろ苦く笑った。すると、
「兵は神速を尊ぶ」
少し沈んだ空気を振り払うように宗棠は立ち上がり、
「私にお任せくださったからには、全力で事に当たるつもりでいます。まずは国内で暴れまわる不届き者退治から。明日にでも皇帝陛下の御前で軍議を開きたいと思いますが」
にこりと笑って、文祥へ片手を差し出したのである。
こうして宗棠は、陝甘総督に就任した。北京に滞在したのはわずか一週間あまりでしかないが、この間にかつて彼が目をかけていた部下、譚鍾麟と再会している。
「なぜ君が北京にいるのだ」
と、尋ねる宗棠に、
「貴方をお助けせよということで、文祥殿に呼び出されました。駱殿からも、先生の手足として働くように言い付かっています。どうぞ先生の思うまま、こき使ってください。いや、もう閣下とお呼びせねばなりませんね」
彼より十歳若い譚鍾麟がニヤリと笑って答えたものだから、
「いや、先生で良い。古くからの知り合いなのだから、そんな君に改まって閣下などと呼ばれると、尻がなにやらこそばゆくなる」
文祥の好意に深く感謝しながら、さすがに宗棠も照れて苦笑したものだ。
宗棠と文祥が新たな友情を築きつつある間にも、当然ながら捻軍は決してじっとしていない。東の河南省において、これまた宗棠が目をかけていた武将、劉松山に破れると、彼らは西にある陝西省へ向きを変えてこちらへやってきた。
劉もまた、それを追撃してこちらへ向かっていると聞き、宗棠は奮い立った。
「劉松山を助けねばならん。彼を助けることで、今なら捻軍を挟撃できる」
こう思うと、若かりし時に劣らず行動は早い。早速、文祥へ慌しい別れを告げ、
「西安を護れ」
彼は西捻軍へ対するため、古くから従っている湖南出身の兵を率いて、陝西へ向かった。
陝西には、先に巡撫に任じられていた同僚、劉蓉もいて、こういった面々が続々と宗棠の配下に加わっている。
劉蓉はかつて太平天国と戦った際、湘軍所持の水軍を焼き払った翼王石達開を、四川大渡河の戦いで捕らえるという手柄を立てた。同じ敵と戦っていながら、部署が大きく離れていたため、お互いに会うのはこれが初めてである。
しかし、互いに駱秉章の下で戦ったことがある、こちらへやってくるだろう劉松山とも面識がある、という話で親しみを抱きあった後、
「貴君は数年、ここに住んでいる。よって西安の地理をよくご存知だろう」
戦の最中であるからとその後の挨拶を省き、宗棠は早速、劉蓉に尋ねた。
「このあたりで、最も戦いに適した場所は」
劉蓉も、宗棠の良い噂を駱から飽きるほどに聞かされている。眩しい物がそこにあるかのような目で新しい上役を見つめながら、
「適した、とはいえぬかもしれませんが、重要な場所であると言える区はあります。灞(は)橋区です」
と告げた。
灞橋区は、陝西省西安市にある市轄区のうちの一つである。陝西省という省自体が中国大陸北部の中央付近に位置しているため、灞橋にも紡織城街道、洪慶街道、紅旗街道といった主要街道の九つが通っていた。
他に軍を通せるほどの道がないため、捻軍に限らず、どんな軍隊でもこれら街道のうち、どれかを使って攻めてくるに違いない、よって、
「この区を我等が護れるか否かが、西安の命運を決めましょう」
劉蓉が言い切ると、宗棠は深く頷いて、
「なるほど。では、君がやってくれるか」
と言った。
彼の兵は、湖南、つまり中国大陸南部の温暖な気候に慣れた者たちばかりである。曽国藩が心配したように、寒風吹きぬける中、ほんの一週間ばかりの北京の滞在で、はや体調を崩す者がいた。疲れた兵でもって敵に当たるのは愚の骨頂である。
「俺が連れてきた兵達の中から、今すぐ使えて、特に頑強な者を提供する。その者どもと、陝西の者たちを合わせれば、兵力になるだろう」
「はい、それならば」
劉蓉も頷き、早速それらの兵を率いて向かった。
だが、彼は捻軍を少し甘く見ていたらしい。東からは勇猛で知られた劉松山が来るし、自らが率いている兵は
(あの、今臥龍が育てたのだから)
気候に慣れていないといっても、宗棠が育てた屈強な兵士達ばかりである。だから、多少の損害はあっても破れることはないと思ってしまった。
それに、
(俺にも石達開を捕らえられただけの軍才はある。今臥龍には負けぬ)
劉蓉自身、男の考えることらしく、そういった矜持も無論ある。ただ、石達開を捕らえた折には、もうすでに太平天国の勢いはかなり衰えていた、だから己にも捕らえられたのかもしれない、ということを考えなかったのは彼の不幸だったかもしれない。
陝西省へやってきた張宗禹率いる西捻軍は、彼らを迎え撃つのがやり手の左宗棠ではなくて、その部下だということを知ると、一度彼らの兵の大部分を灞橋それぞれの街道に埋伏させてしまった。そして、劉蓉が通りかかった街道へ、わざとその少数兵を見せて誘ったのである。
敵が少ないのを見て奢った劉蓉の軍隊は、深く考えずにそれらへ襲い掛かり、隠れていた捻軍兵士に叩きのめされた。古くから、あまりにも使い古されてきた単純な手「埋伏」に、わけもなく引っかかってしまったということだ。
そしてこれにより、宗棠は西安市街への撤退を余儀なくされた。その後を追うように、西捻軍は一気に西安まで向かってきたのであるから、
「君には軍隊を率いる才能はまるきりない。何を油断していたのか。なぜ事前に物見を出すなりしない」
西安市の城壁内へ逃げ込みながら報告を受けた宗棠は、劉蓉をいつもの調子で口汚く罵った上で、陝西巡撫の任から解いてしまった。
この中で、譚鍾麟の働きが冷静で目覚しかったのが、唯一の救いだったかもしれない。結局、包囲される形になった西安市城壁での激しい攻防戦は、翌同治六(一八六七)年になっても続いていたが、
「左先生、いえ、総督閣下、お久しぶりです。お助けすると約しておりましたのに、大変に遅れました。申し訳ございません」
西捻軍を追いかけてきた劉松山がようやくやってきて、
「山東省では、李殿が東捻軍を包囲して、散々に打ち破ったようです」
白い歯を見せて笑ったように、劉がやってくるとほどなく、張宗禹は西安の包囲を解いた。これは劉が告げたように、山東省で李鴻章が東捻軍を破ったということも一因である。
張宗禹らがそちらの救出に向かった時期と、劉松山が西安へやってきた時期が一致し、
「結果的に西安の囲みが解けた、そういうことでしょう。私の手柄ではありません」
これも勇猛さを謳われていた、まだ三十四歳の劉は、宗棠が正直に感謝の言葉を告げると、羞みながらそう答えたものだ。
「そう謙遜するものではない。君が来てくれなければ、俺は危うかったのだ」
譚鍾麟、劉松山とも、別れてから実に十年近くが経っている。当時、その顔にあどけなささえ残していたはずの劉を、
「よい男になったものだ」
宗棠がつくづくと見上げて言うと、劉はさらに頬を赤くした。幼さは消えても、素直さはそのまま残ったらしい。彼の後ろに控えていた、彼に良く似た若者を押し出して、
「私の甥の錦棠です。覚えておいででしょうか。私と共に、先生の下で戦いたいと申しておりましたので、微力ながら連れ参りました。よろしくご訓育下さい」
「うむ」
言われて、宗棠は錦棠を見やった。
これもまた、まだまだ赤い頬をした、二十歳を出たばかりの青年である。この青年を、
「先生の元でお預かりいただいてよろしいでしょうか。私はこのまま、北京へ向かいたいと思います」
そう告げて、劉松山はそのまま、北京へ向かった。東捻軍救出に向かったはずの西捻軍が、何を思ったか北京方面へ進軍していたからである。
(恐らくは、我らを避けるために迂回したのだろう)
宗棠が考えたように、西捻軍は西安を通ることを避けた。再び西安を通過しようとすれば、今度こそ宗棠自身が出てくるに違いなく、そうなれば捻軍壊滅の危機に陥りかねない。
そうなる前に、
(東のヤツらと合流すれば、態勢を立て直せる)
張宗禹は思い、北京は通過しただけで山西から直隷省に入った。それを追った劉松山も、そこを護っていた李鴻章と共に河南、直隷両省で激戦を繰り広げるのだが、その件はひとまず置く。
とにもかくにも、陝西からは捻軍を追い出せた。次は甘粛である。元はといえば、そちらに「巣食っている」回民が、清国内の捻軍を煽っていたのだから、
「いよいよ、元を断たねばならん」
それを何とかしなければ陝西、甘粛両省を担う陝甘総督としての面目が立たない。
手先だったはずの捻軍が陝西から東へ遠ざかってしまったので、回民軍は甘粛省へやむなく引き上げたのだが、それを追って蘭州へ向かう前に、宗棠はひとまず湖北省へ戻った。傷病兵を故郷へ帰すためである。
「これを討伐するには時間がかかる」
武漢で開いた作戦会議で、宗棠はそう切り出した。その会議には、わざわざ北京からやってきた文祥も加わっている。
「なぜなら、三つの問題があるからだ」
文祥が加わったのは、宗棠の要請による。
文祥は今や、彼になくてはならない盟友である。それに彼がいれば、宗棠が言わんとするところをきちんと理解してくれるし、何より早くかつ直接、朝廷すなわち西太后へ伝わるからだ。
「三つの問題」
「そうだ」
文祥が鸚鵡返しに問うと、宗棠は頷いて三本の指を出す。それを一つずつ繰りながら、
「ひとつ、兵員。ふたつ、食糧、みっつ、運輸。これらだな」
戦場に出たことのある人間なら、誰もが納得行く問題を改めて整理するように口にした。彼の右に座しながら、文祥も深く頷いている。
宗棠が北へ連れていった兵士は、ほとんどが中国大陸南の出身であるし、戦いも湖南省とその周辺に限られていたのだ。よって、寒暖の差が激しい北の気候にはやはり慣れぬ。
その弱点が先ほどの戦いで、
「いざというときに体調を崩してしまって使えない」
という風に、露骨に表れてしまった。
「このまま南へ帰りたいヤツは、大将(曽国藩)のところへ戻ればよい。その上で、戦いを続けるかどうかを決めるがいい。俺が便宜を図ってやろう。兵士は西で新たに募集して補うのがいい。現地の敵と戦うには、やはり現地の人間でなければならん。次に食糧だが、できる限りの食糧を買い付けしておく、ということの他に」
文祥は、目を閉じていちいちに深く頷きながら聞いている。その文祥も、
「現地で屯田しようと思う。田を耕しながら戦うのだ。己の食い扶持は己でまかなわねばならん。大将からは、また兵糧を送ってやると言って寄越しているし、それを聞いている者もあるだろうが、俺は断った。人の援助に頼るな。そんなものがあると思えば、必ず心に甘えが生じる。言うまでもないことながら、現地での略奪などもってのほかだ。略奪したヤツは遠慮なく俺がたたッ切る」
宗棠がそう言い切ったときには、略奪云々はともかく、
(屯田とは、あまりに迂遠ではないか)
遠回りしすぎるのではないか、と、少し驚いて思わずその顔を見直した。
実際に宗棠は、援助を申し出てくれた曽国藩へ、兵士達へ向かって言ったような、
「人の援助に頼るほど甘い人間ではない。俺を見くびってくれるな」
絶縁でもされかねない台詞をそのまま言い送っている。文祥でさえ、
(援助はいくらあっても足りすぎるということはない)
と思っていた。不毛の地へ行くというのに、差し伸べてくれる手を払いのけるとは狂気の沙汰であると思われかねぬ。
しかし宗棠はそ知らぬ風で、
「運輸だが、これは現地までの道の要所要所に駅を設けようと思う。この任務に当たる者は、後ほど選ぶ」
と、会議を締めくくったのである。
出立準備のため、たちまち慌しくなる武漢の庁舎で、
「宗棠殿、少し待ってくれ」
会議が終われば、すぐに北京へ飛んで帰るというようなことを言っていた文祥は、急ぎ足で外へ出て行こうとしている宗棠の袖を掴んで引きとめた。
「率直に言う。蘭州で屯田など、あまりにも時間がかかりすぎるのではないか。無論、私は君を信じているし、今回の君の作戦内容についても、お上へ申しあげて勅許を得る自信もある。だが、政府の中には君を嘲笑って、反対する者も出てくるのではないかと…君の評判が下がりはしないかと、その点で心配なのだ」
「嘲笑うヤツには嘲笑わせておけばよいのさ。だがな」
この穏やかな幕友へ向き直り、宗棠がいつものように少しの揶揄を込めた調子で、
「そうやって嘲笑うヤツの中で、今までに賊の退治に成功したヤツが何人いる?」
言うと、文祥は喉の奥で何かが詰まったような音を立てた。
その肩を叩きながら宗棠は、
「回族と俺達の間には、幾世紀にも渡った不信の根がある。それが今回、見える形で現れたということだ。その根を力ずくで取り除こうとするならば、やはりそれ相応の年月がかかるということさね。そしてその根を取り除くのは」
にゅっと親友の顔へ己の顔を近づけ、
「俺にしか出来んことさ。違うか? だからこそ、君らも俺にこの仕事をさせようとしたのだろうに。俺の価値は俺自身が一番良く知っている」
言いながらニヤリと笑ったのである。
そこで文祥もつい苦笑して、
「その通りだ。良く分かった。私も君がやろうとしていることを、他の人間に邪魔させはしないと約束しよう」
固い握手を交わし、北京へと急ぎ帰っていった。
事実、西域を再び中国側の領土とする、といったこの仕事は、当時清政府にいた人間のうち、左宗棠にしか出来ないことだった。そのことは何よりも後の歴史が証明している。
また、この時のことを、例えば譚鍾麟などは、
「宗棠ハ、事、巨細精粗トナク、根本ヨリナス」
と評している。つまり主戦論をいたずらに振りかざすだけの人物ではない、何事にも綿密で細心な計算をもって当たる、ということで、そんな宗棠の元に残った大陸南部出身者は三千名。これを核として、彼はいよいよ蘭州へ旅立った。
その懐に大事にしまい込まれているのは、かの林則徐が新疆地方へ赴いた時に描いていた西方の地図である。朝廷内に厳重保管されていたのを、文祥が無理を言って借り受けてくれたのだ。
「大軍ノ至ルトコロ、淫略スルナカレ、残殺スルナカレ、王者ノ師ハ時雨ノ如クアレ」
乗った馬に楽しげに揺られながら、宗棠は右の文句を繰り返し歌いさえする。つまり犯すな、略奪するな、現地の非闘民を労われ、ということで、主将がそんな具合であるから、彼に率いられていた兵は毛筋ほどの略奪もしない。
甘粛地方には軍を進めるに適しない曲がりくねった道が大変に多いので、軍隊が時に通れず、進行に難渋した。よって宗棠は、彼の軍隊が通ろうとするところを拡張し、その両脇には涼しげな葉の音を立てる青柳を必ず植えた。
「道はともかく、柳は無駄ではありませんか」
譚鍾麟がある時、ずばりと切り込むと、
「なんの、無駄ではないさ。無駄どころか」
宗棠はからりと乾燥した空を見上げて笑ったものだ。彼は確かに怒りっぽくはあるが、軍事に関する質問を部下がした時には、労わりをこめて諭すように答える。
「覚えておけ。民が喜ぶことをもするのが、政治というものだ。道を整備することで軍隊だけではなくて、住民や旅商人どもも通りやすくなる。砂漠を越えて辛い旅をしてきた者たちは、この柳の青さを見、葉ずれの音へ耳を傾けて心を休めるのだ。そしてこの道を作った者は誰かと考える。それを聞き知って政府へ感謝する。そういったものだ」
「ははあ、なるほど」
素直に二つ頷く「お気に入り」を見て、しかし宗棠は、
(コイツにも、俺の後の海軍建設は任せられない。どこか一味足りない)
寂しい思いで少し笑った。
中国大陸のあちこちにガタが来ているこの折、混乱した事態を収拾するには、素直で、勇猛なだけでは足りないのだ。そういった点で彼が期待しているのは、今、まだ東のほうで捻軍と戦っている劉松山のほうである。
(あれが俺の元へ戻ってきたら、もっと仕込んでやるものを)
兵たちが植えている柳を見やりながら、宗棠は鼻の穴から大きく息を吸い込んで、深呼吸を繰り返す。すると柳の葉のすがすがしい匂いが鼻腔を伝わって喉へ、そして体のすみずみへ行き渡るようで、彼は両目を閉じ、口元をほころばせた。そんな彼を見て微笑みながら、譚鍾麟もまたそれを真似て深呼吸をした。
宗棠が蘭州へ向かって戦っていきながら、その合間に修復も手がけたこの道は、チーリエン山脈の山裾沿いに、西安から蘭州、安西を経て最終的には玉門関の外までの三千七百里に渡って伸び、その後も主要な幹線道路の一つになっている。
蘭州から玉門関までの狭い盆地状の道がシルクロードの一部である河西回廊で、それらの道路脇に彼が二列から八列に渡って植えさせた柳は、彼の名前を取って「左公柳」と呼ばれた。
また、これはずっと後のことになるが、宗棠の後任として陝甘総督となった楊昌濬は、
大将西征シテ人イマダ還ラズ 湖湘ノ子弟、天山ニ満ツ
新タニ楊柳ヲ栽ウル三千里 カチ得タリ春風、玉門ニ渡ルヲ
という詩を作って、宗棠の仕事を称えている。楊もまた、かつては宗棠に従って太平天国討伐に加わった人物だから、多少の贔屓はあるにしても、この称え方は決して大げさではないだろう。
ともかく、こうして宗棠は、一見果てしなく気が長いと思われる方法で、実際にその気の長さを嘲笑われつつも、着々と己の足元を固めていったのである。
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